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第二話 (β版)

キャラ崩壊がとんでもなく進行してきました。

………まあ、試験的投稿だからいっか。

   × × × ×


 それは桜舞い散る春の風景。砂利の上に自生した新緑の若葉、その旗に存在する池。池の上にはいくつかの木々がその枝葉を広げ、今の季節上その中の一種、桜だけが花を広げている。

 どこかの屋敷の、和風庭園だろうか。

 これだけ広大な庭ながらも手入れは端々まで行き届き、それでもなお飾りとしておかれた岩石に自生する苔などの、郷愁を味わうための要素に対する気配りも忘れられてはいない。

 その庭の中、池を覗きこんでいるのは一人の小さな少女。桜と同じ薄紅色の着物を纏い、肩口までの髪を揺らしながら、興味津々と言った様子で水面を覗く。

 その庭の中、岩に腰掛け桜を見上げているのは一人の小さな少女。空と同じ水色の着物を纏い、腰までの長髪を風になびかせ何かを考え込むような様子で枝葉を見上げる。

 二人の少女、その顔は同じといっても差し支えないほどよく似ており、しかしその二人の持つ雰囲気は陰と陽、明と暗ともいえるほど対極なものである。故にこそ、対極の雰囲気、対極の性質をその身に持つ二人が同じ庭園に会するその風景はどこか神秘的で、幻想的だった。

「……相変わらず、陽向(ひなた)はおとなしいわね」

 声を上げたのはその庭を一望する縁側、そのふちに正座する一人の少女。年の頃十六、七。庭にいる二人の少女と同様、身に纏うのはやはり群青色のあでやかな和服で、長髪や知的かつ冷涼な美貌といった部分が大和撫子という言葉を真っ先に連想させる。

 ふふ、とその少女は笑い、陽向、岩に腰掛け枝葉を見上げる少女を伺う。

「さっきからあんなふうにして、何を見てるのかしら………わかる? 牡丹」

 その少女はゆったりと笑みながら、己の隣、縁側のふちに腰掛ける茜色の着物の少女に声をかける。

「んー………遠くてわかりにくいけど、多分あれじゃない? 芍夜姉様」

 言って少女、牡丹が指差すのは陽向の見上げる木の上のほう、そこに止まる幾匹かのスズメ。

「陽向、鳥とか好きじゃぁなかった?」

「ふふ、確かにそうだったわね。じゃあ、彼方(かなた)は?」

「あっちは………鯉じゃなぁい? ほら」

 ぽちゃん、と池から一匹の錦鯉が跳ね上がる。

 跳ね上がった錦鯉は体を一度くねらせ、飛沫を少量撒き散らした後………再び池の中へ戻った。

 その間、薄紅色の着物の少女、彼方の目線は外れない。

 確かに牡丹の言うとおり、あの鯉をずっと見つめていない限りあんなことにはならないはずだ。

「……みたいね」

「でしょ?」

 縁側の二人が、顔を見合わせて笑う。その笑みは控えめで、何かがおかしかったというよりは今現在の中に喜びがあった、今の幸いを再認識するかのような色が強い。

「牡丹、何か頂く? こんないい天気で、彼方も陽向ものんびり楽しんでることだし。楽しまないと、もったいないわ」

「そぅね姉様。お団子なんてぴったりじゃない?」

「お茶もどうかしら? 今日青柳のいいやつが入ったって、水灯(みなかり)が喜んでたわよ。彼も飲みたがってたから、みんな集めてのんびりするのはどうかしら?」

「いいわね、それ。じゃあ、早速やる?」

「ええ、そうね。四道? いる?」

 縁側から廊下隔てた一つ向こう、その和室の中に声をかける芍夜。すると内側からするりと障子が開き、

「何でしょうか? 芍夜お嬢様」

 しっかりとした黒のスーツを纏った凛々しい青年が顔を出す。その表情の中に険はなく、むしろ穏やかな様子だった。

「少しみんなでお茶しましょう。お茶と、お団子の用意と、みんな集める役をお願いできる?」

「ええ、言われると思いましたよ。こんないい日に芍夜お嬢様が言い出さないとは思っていませんでしたからね」

 にこやかに、四道と呼ばれた青年は笑みを浮かべてみせる。そしてそのまま障子に手をやり、

「もう使用人たちなら全員、この和室にいますよ」

 一気に開け放った。

「もちろん、お茶と団子の用意も完璧です」

 四道が開け放った和室、そこはどうも居間の一種らしい。こぢんまりとした四角い机と、畳。広さは六畳ほどで、この屋敷の広さを考えるとそれほど大きなほうの部屋ではないだろう。その机の上に置かれていたのは急須が二つと湯飲みが七つ、小脇にずらりと団子の並べられた皿。そして机を囲んでいたのは、

「やれやれ、やっと出番かい」

「貴様、お嬢様の御前であるぞ。少しはその軽口を慎んだらどうだ?」

「はっ。猫かぶりはごめんだってここ来た初日に宣言してお嬢二人から承諾されてんの忘れたか?」

「それとこれとは別だ。職務中とそうでない時の区別ぐらいつけろといっている」

「やなこった」

 軽口を叩く茶髪の男と、その男をたしなめる長髪の男。服装は四道のものと着方以外は一切変わらぬ黒のスーツで、茶髪の男は別の意味で、長髪の男は本来の意味で、極端によく似合っていた。

「まぁまぁ、水灯も彼此寺(かこでら)もその辺にして、みんなでのぉんびりやらない? 青柳のいいやつ入ったんでしょ?」

 言われて長髪の男がはっと顔を上げる。

「失礼しました、牡丹お嬢様。準備まで少々お時間をいただきますが、よろしいでしょうか?」

「ふふ、美味しいお茶に時間がかかるのは当然でしょう、(うしお)

「ご理解いただき、感謝します。ほら、早苗(さなえ)! お嬢様たちへお運びしろ」

 早苗、と呼ばれた茶髪の男がぴくり、と反応する。そのまま立ち上がって団子が満載された大皿を持ち、

「てめぇ何度言わせんだよ。その名前で俺んこと呼ぶんじゃねぇつったろ」

「ふん、女らしいのは名前だけと見えるな、彼此寺早苗」

「うっせ。おめぇがなんと言おうとここじゃ俺は男なんだよ。いつまでも外でのこと引っ張んな」

 言いながらも二人の少女の背後に丁寧な動作で大皿を運び、小脇にだらしなく胡坐をかく。

 そのやり取りに、芍夜はのんびりと微笑み、

「ふふ、いいんじゃない? 早苗。あなた器量はいいし、武道も家事一切も出来るんだから、それなりの格好してその名前名乗ったとしても大丈夫よ」

「そうかも知れねぇし、できることを否定したりはしねぇけど……ここで雇われてる以上、仕事時間ぐらいは男でいさせてくれや。まあ、お嬢が駄目っつーならやめるけどな」

 ぼりぼりと彼此寺が頭をかく。

「いわないわよ、私はね。姉様がなんていうかはわからないけど」

「あら、わたしもよ牡丹。でも夜……お風呂のあとぐらいは女の子でいてくれたほうが楽しいかしら?」

「そぅかもね。四道はどう思う?」

 え? と四道。曇りのない目を見せ、

「そうですね、お嬢様。私個人としては……………その方が、とっても楽しいかと」

「四道、てめぇ今何考えた?」

 剣呑に四道を睨み付ける彼此寺。

「ふん、俺も同感だな、早苗。咲き誇る花は控えめであるにせよそうでないにせよ、あの桜のように誇示するからこそ美しいのだ。それを誇示せぬどころか、あえて汚すような真似をするなど俺には愚の骨頂にしか思えんぞ」

 言いながら急須を縁側まで運び、葉と湯を注ぐ水灯。その手つきは一切無駄がなく、その作業によほど慣れていることを容易にうかがわせた。

「……遠まわしに褒めてんのか汐」

「判断は好きにするがいい。それより四道、湯飲みを頼む。葉の勝手が今までと少し違うようだ、手を離せん」

「了解だ、銀」

 口調をガラリ豹変させ、和室から器用に両手を用い七つ全てを縁側へ運ぶ。

「陽向お嬢様、彼方お嬢様! お茶の時間です! 一時お戻りを!」

 縁側からかけられた四道の声に、くるりと庭にいた二人の少女が縁側を向く。直後に芍夜と牡丹の二人が微笑み、手招き。

 すると、

「うん! わかった!」

 池の傍にいた少女は天真爛漫に笑みを湛えて走りより、

「彼方、はしたない……」

 木の下にいた少女はもう一方をたしなめながら歩み寄る。

 よく似た顔、しかし対極のしぐさを見せる二人を見、縁側の二人の少女の顔にも笑みが浮かんだ。

「ほら、陽向に怒られたでしょぅ? はしゃぐなとは言わないけど、もぅちょっとおとなしくね」

 笑みながらも、自らの元に走りよってきた少女、彼方を牡丹がたしなめ、

「陽向、いらっしゃい。今はいいわよ」

「ん………」

 母を思わせる笑みを浮かべた芍夜の腕の中に、陽向の小さな体が収まる。陽向の表情は母に甘える娘そのもので、その甘えを許す芍夜の表情は甘えん坊な娘をあやす母そのものだった。

「お嬢様方、お茶が入りました」

「団子もあるぜ、お嬢ら」

 丁寧に差し出される茶入りの湯飲みと、普通に近場まで寄せられる団子満載の大皿。

 それらを動かした人物はそれで自らの仕事が終わったとでも言うように立ち上がり――――

「ああ、あなたたちもいただいていきなさい。四道から聞いてないの?」

 芍夜の一言、その一言で顔を見合わせる水灯と彼此寺。

「……聞いたか? 彼此寺」

「いんや、初耳だ」

「おかしいな。確かに俺はあの和室で待機していろ、とだけしか聞いた覚えがないのだが」

「だな。つーことは、あれか。独占……って奴だな」

「そのようだな」

「ってこたぁやる事は………」

「ひとつ、だな」

 そのまま二人の目線は芍夜の隣、そこで困ったような笑みを浮かべる四道に移り、

「《赤紅葉》!」

「《鬼骨》!」

 二人が一声をあげた瞬間、四道の姿が掻き消え………


 ―――― !!!! ――――


 金属質の重低音が、庭に響き渡った。

 発生源は、三人。

 いつの間にかナイフを手にした四道と、

 いつの間にやら槍を担いでいる水灯と、

 いつからか身の丈ほどもある大鉈を担いでいる彼此寺。

「血の気の多い奴らだ……」

「抜かせ! お嬢様、ただいまよりこの庭に血の匂いが立ち込めます。早急に屋敷の中へお戻りを!」

「へっ。てめぇにいわれりゃ終わりだな、四道」

 剣呑な雰囲気のまま、それぞれがそれぞれの愛用する得物を構え…………


 ―――― !!!! ――――


 とてつもない大音が、再び鳴り響いた。

 金属音、擦過音、打撃音、斬撃音、怒号に気合につぶやく一言。

「……すごいね、牡丹ねえさん」

「うん、すごいよね相変わらず。あ、四道かすった」

「あら、ホント。でも……やっぱり、今のわざとよ。彼此寺、危なかったわ」

「………あ、本当だ。ん……水灯さん、危ない」

「あ、避けた」

 庭での激戦とは打って変わって、穏やかに茶をいただきつつ庭の様子を眺める縁側組。

 穏やかな、春の日のこと。

 この先に、まだ苦難を予想できていなかった、そんなときの、記憶。


    × × × ×


「…………なんなんでしょう……」

 広々とした和室の中、突っ伏していた机から身を起こすなり湖織はそうつぶやいた。

 七畳という中途半端、かつそれなりな広さを持つ、和室。部屋の中央には中型の和机と、それに備え付けられた座布団つきの座椅子。部屋の壁には押入れと、シンプルかつ深みを見せる水墨画の掛け軸の飾られた生け花付きの床の間が存在し、出入り口は当然のように、襖だった。

 逢瀬際牡丹の経営する旅館、架空亭。

 その一室に、湖織はいる。

『イッヒヒヒ、お目覚めかい、宿主様よぉ』

 耳障りな声で笑うのは障子窓の閉ざされた窓際に立てかけられている誘宵。

「………私、寝てました……?」

『あーもうとんでもなくな。いっぺんあの化け猫の譲ちゃんが昼飯に呼びに来たが……気付かなかったかい?』

「みたいですねー………やっぱりあの戦闘でしょうか」

 座椅子にゆったりともたれかかり、いつの間にか手の中にあった四本ほどの針を誘宵の隣へ投げ捨てる。

『ヒッヒッヒ、だろうなぁ。あんだけ始めての技で無理しといていつもどおりだったら我の立つ瀬がねぇってもんだ』

「どれぐらい寝てました? 私」

『おおよそ四時間、ってーとこだな。どうする? 飯でも言ってくるかい? あの化け猫の譲ちゃんに言やぁ、なんか作ってくれるんじゃねぇか?』

 んー、とつぶやきながら手櫛で軽く髪を整える。そしてそのまま軽く右肩を抑え、

「……ご飯よりも、お薬がほしい気分です……。右肩が痛くて……」

『あーそりゃあれだ。《刹那冥道》の勢い。音速寸前で我振るったりなんかすりゃー、そーもなんだろ』

「……ですよねー」

 誘宵は妖刀、狗狐風神の依り代たる存在だ。その使い手に憑依することで風を操る力を与えるものの、本質的にはやはり刀に過ぎず、当然その重量はかなりのものになる。そして湖織は戦巫女と言えど、体格的には普通の少女。骨の強度が人と異なるわけではない。

「あのネコさんに頼みましょうかー……」

『いーや、必要ねぇだろ。あの猫の話だと、獰猛によく聞く湯があるって話だ。温泉街なんだから、入ってくりゃぁいいだろ?』

「………そうしましょうか」

 座椅子から凝り固まった腰を上げ、乱れた小袖と緋袴を適当に調える。そのまま誘宵に手をかけ………かけて、刀なのだから必要ないことを思い出し、その隣の針に持ち物を変更する。必要ないとは思うのだが、いつどこで戦闘に発展しないとも限らない。

「じゃあ、行ってきますですー」

『おう。行って来い』

 どことなく夫婦的なやり取りであるような気もしないでもないやり取りを交わし、襖を開けて部屋を出る。

 出た場所は、長い廊下の端だ。ここまで来た記憶を頼りに幅広く長く手入れの行き届いた廊下を歩き、渡り廊下を渡って温泉館へ。

「どこがいいでしょうかー」

 言いながらくるくると湿っぽい空気の満ちる廊下を歩き、

『薬湯 蓬莱(ホウライ)(注! 獰猛なほどよく効きます!)』

 その看板の掲げられた障子戸を見つけた。

「……これのことでしょうかー」

 獰猛なほど、よく効く。

 そういえば疲労のせいかはっきりとは覚えていないが、軽症であれば簡単に完治してしまうほどよく効く薬湯も存在する、と聞いた覚えがある。確かにそれなら獰猛とも呼べるほどの効果であるし、一般人避けしているのもわかる。

 ………まあ、私は見えないとこ傷だらけですしー

 思いながら障子戸を開け、その先にある男女の境の右、『女』とくっきり書かれている暖簾をくぐり、脱衣所へ。

 脱衣所は、完全に無人だった。

 ………さすがに人払いは済んでるみたいですねー

 牡丹の話によると、今日は完全に自分ともう一人の客人のためにこの旅館を丸ごと開け、普段雇っている従業員全員に有給扱いで休みをやっているらしい。おかげで今日は完全無人状態、人には言えない特徴を持つ湖織も、のびのびとくつろげる。

「さて……と」

 適当に脱衣籠を選び、するりと緋袴の帯を解く。ぱさり、とまったく抵抗なく端々がこげた緋袴が下落し、その下の裾除けと、袴の中に収められていた小袖の裾、そして、

 尾骶骨の辺りから生えた、狐の尾が顔を出した。

「……………」

 いつ使ったのかも思い出せない、狗狐風神完全憑依の代償。耳が獣のものに成り代わられたと同様に、自分のこの体が獣のものと微弱ながら成り代わられてしまった証。

「…………」

 そのまま無言で小袖と裾避け、肌襦袢を脱ぎ去り、その裸身を晒す。他者の目がないので特に隠す事はせず、そのまま風呂場と脱衣所を隔てるガラス戸を開けようとして、

「……あ」

 慣れすぎていて逆にはずすのを忘れていた眼帯に手をかけた。

 後頭部に手を回して、眼帯を取り外す。

「……………」

 獣の目。

 黄土色の瞳、縦に長く伸びた黒の虹彩、放射状の斑紋。それは人というカテゴリーには到底収まりきらぬ、紛れもない獣の目。

 視界の端、脱衣所の鑑に移ったその目を、無言で二秒ほど眺め、

「……よし」

 眼帯を脱衣籠に投げ込み、ガラス戸に手をかけ、

『露天 混浴』

 その立て札を、ようやく見つけた。

「…ろてん……こんよく……?」

 はて、どうするべきだろうか。

「……ま、いいですー」

 どうせ、この旅館で風呂を利用するのは自分ともう一人だけ。これだけ風呂の数も多いのだ、何も好き好んでこんな注意書きのある薬湯を使うはずはあるまい。

 そう思い、湖織はガラス戸を開け放った。


   × × × ×


「………今のは、なんだ…?」

 広々とした和室の中、困惑と共に文一は意識を覚醒させた。

  七畳という中途半端、かつそれなりな広さを持つ、和室。部屋の中央には中型の和机と、それに備え付けられた座布団つきの座椅子。部屋の壁には押入れと、シンプルかつ深みを見せる金箔画の掛け軸の飾られた生け花付きの床の間が存在し、出入り口は当然のように、襖だった。

 逢瀬際牡丹の経営する旅館。その中の一室。

 そこの壁際、窓のすぐ隣に、文一はいる。

「あれ? 主、転寝でもしてたの?」

「ああ、あれだけ派手に戦闘やったから疲れもするだろ」

 脳内で装填数をカウントしてみる。爆穿爆爆断爆強穿爆爆強 穿爆穿穿爆………十七発。

 今までの戦闘でもここまで大量に装填したのは初めてだ。

 魔力というものはほとんど体力と同義である。激しい行動、大量装填を行えばぐったりと疲労して転寝ぐらいはする。

 それに加えて、

「……っ、やっぱり痛いな……」

 壁にもたれた背中、そこからちりちりと肉を焦がすような痛みが這い上がってくる。

「主……やっぱり痛い?」

 心配そうに覗き込んでくる茜。ちなみに現在の服装は街中で見つけて『なんか良さそう!』と言い出し、勝手に自分の能力で作り出した浴衣である。

「まあな。浅いとは言っても、いっぱいあるし」

 燕尾服はボロボロ、その下の肌はメスシリンダーである。深さはまちまちで、皮一枚しか切断していないものから皮膚を突き破りうっすらと肉を切断したもの、皮膚だけを綺麗に破ったものからもうすでにふさがっているものまで、まったくの一貫性がない。

「せめて消毒ぐらいしといたほうがいいんじゃないの……?」

 茜らしくもなく心配そうに文一の隣まで接近してくる。

 そんな茜の頭になんとなく右手を置き、

「大丈夫だ。数が多いだけでそんなに傷自体は深くない。着替えが面倒だけど、ほっとけば治るって」

「でも――――」

「そこまで言うなら、薬湯でも入ってくるか。ここ、確か猛烈によく効くのがあるって言ってたよな?」

「うん。いってたよ」

 四道の話、それによるとここの主、逢瀬際牡丹は今ちょっとしたよう向きで旅館を開けているらしく、詳しい話は夕餉の際、つまり夕食の時に行う、という話だった。また、その間の用向きは全て自分ともう一人とで引き受けること、全ての湯には好きに入ってくれてかまわないことなどをいい、その際に言い置いていったのが傷に対してとんでもなくよく効く薬湯の存在だったのだ。

「よし……ちょっくら行ってくる」

 壁から体を浮かせ、立ち上がり……少しふらついて壁で体を支えた。

「え? お風呂行ってくるの?」

「ああ。好きに入っていいって言われてるからな。それとも……お前も来るか?」

「いやっ! それはいやっ!」

 断固拒否の姿勢で首を激しく横に振る茜。

「ならここで留守番してろ。多分、すぐに戻ってくるから」

「うんうんうん。了解だよ。待ってるから」

 今度はこくこくと激しく縦振り。

「じゃ、よろしく」

 言い置いて文一は部屋を出る。

 出た先にあるのは、広々とした廊下の中ごろだ。記憶を頼りに手入れの行き届いた長い廊下を左に向かって歩き、渡り廊下を渡って温泉館へ。ここはこの旅館の温泉のみを集約した別館で、ほぼ全てが天然だと聞いている。

「さて、どこにあるのか……」

 言いながら左右に視線をきょろきょろとさまよわせ、

『薬湯 蓬莱(ホウライ)(注!獰猛なほどよく効きます!)』

 その看板がかけられた障子戸を見つけた。

「……これのこと、か?」

 薬湯、蓬莱。

 確かによく効きそうな名前ではあるし、獰猛なほど、という注意書きまで出していることを考えると、ここ以外には考えられそうにない。

 そのまま三秒ほどその看板を凝視し、

「ま、いいか」

 薬湯なんだから別に傷に効かなくてもいいだろう。

 適当にそう思い障子戸を開け、その先に存在する男女の境の左、青地にくっきりと『男』と書かれている暖簾をくぐり、脱衣所へ入る。

 脱衣所は、完全に無人だった。

 ………ま、そりゃそうか。

 四道の話によると、今現在この旅館には四道と自分と茜、それにもう一人の使用人とその使用人がついている来客以外にいないらしい。従業員がどうなっているのか、同じ労働者として気になるところではあるのだが、まあ、気にしてもしょうがないので考えないことにする。

「さて、と」

 適当に脱衣籠を選び、脱衣を始める。

「……って、逆にボロボロだと脱ぎにくいな……。あー、もうこんなとこまで破れてるし、袖も取れかけ、か……帰ったらお嬢様に怒られそう……」

 苦戦しながら上着とその下のワイシャツを脱ぎ去る。

 あらわになった肌、そこにあるのは縦横に体を刻む赤い傷口。浅いものから深いもの、塞がっているものから縫合の必要性を感じさせるもの、ほとんど出血しなかったものから、いまだ乾かぬほど出血したものまで、無数の傷が、そこには存在する。

「………やっぱり、弱いな……」

 つぶやき、下も完全に脱ぎ去り全裸になる。備え付けのタオルで隠そうか、とも思ったが、よく考えれば今ここはほぼ貸切状態、自分以外の来客は一人で、しかもこれだけの数の風呂がある旅館なのだ。こんな注意書きの出ている薬湯に入ろうとするはずもない。

 そのまま、しかしとりあえずタオルだけはもって浴場との境であるガラス戸に接近し、

『露天 混浴』

 その板を見た。

「露天……混浴……?」

 内心でしばらく、文一は思考をめぐらし、

「ま、いいか」

 どうせこの旅館にいるのは自分ともう一人のみ、そしてこれだけ広い旅館なのだ。それにもう一人の客と言うのが異性とは限らない。

 そう思いガラス戸を一気に全開にして………


「え?」


 瞬間、中から聞こえたのは男声ではありえない響きを持つ声。

 一人であると、他の来客、ましてや異性という存在がそこにいるということはないだろうという前提条件を抱いていたが故に文一は混乱し、

 そして最悪の、あるいはもっともベストなタイミングで一陣の風が吹き抜けて今まで濛々と立ち込めることで文一の視界から湯船の存在を消し去っていた湯気が消え………


 そして湯船の中に白磁の裸身を浸す、獣の耳持つ少女の姿を見た。


「……………」

「……………」

 視線はあらぬ方向をさまよい、結果的に相手の体へと落ち着く。 

 いくら無欲な性質であるといっても文一は男である。

 男である以上、眼前に存在する柔らかな曲線を描く白磁の肌に、乏しいとは言えないもののふくよかともいえない胸の膨らみに、滑らかな括れを描く腰の辺りの曲線に、膝を立てて座っているが故に丸見えになっている柔らかそうな臀部に、視線が釘付けになってしまうのはしょうがないことだと言わざるを得ない。

 そのまま、時間だけが刻々と流れていき、

「…………文一、ですかー?」

 先に口を開いたのは、湯船にその身を沈める少女のほうだった。

 こんな状況であるにも関わらず、ほんわかとした口調。

 その声音から文一はその相手が誰であるのかをゆっくりと認識し、

「……のわっ! 湖織!」

 思わず絶叫して手にしたタオルを用いて『見せてはならない部位』を一瞬で隠匿、『目線を反らす』と言うよりも『体の向きを反転させる』ことを目的としているように体の向きを180度変更し、

「すまん! 誰かいるとは思わなかったんだ!」

「いえーそれはいいんですけどー」

「いや、本気で謝る! もろに見ちゃった!」

「いえいえー私も思わず凝視してしまいましたしー、おあいこですー」

「すぐ忘れる! すぐに忘却するし、ここからも消える! ごゆっくり――――」

「って、さっきから文一、私の話聞いてますかー?」

 ざばぁ、と、背後で大きな水音。

「別に気にしませんよー? 文一は親友ですしー、それに今は小鳥遊町でも黒椿峰町でもない非日常ですから、無礼講ということでー」

「でも………」

「それに――」

 ざばざば、と湯船を何かが進む音。そして文一の背にひたり、と暖かく柔らかな何かが触れ、

「……っ! 痛っ……!」

 びくり、と背中から走った痛みに全身を引きつらせた。

 湯によって温められた湖織の手。それが触れる皮膚の上には四道によってつけられた裂傷がある。

「わかりますかー? 一見するとそれほど深くないかもしれませんけど、結構酷い切り傷いっぱいありますよー? この薬湯、とんでもなく良く効きますから入っていくべきです」

 ほんわかとした中に若干の強さを漂わせ、湖織が言う。

「いいですねー?」

「でも……」

「いいですね?」

 有無を言わせぬ口調で言葉を連ねながら、湖織は文一の背から手を離した。

「さっきの事は別に気にしませんよー。ただ、湯船の中で正面向いて、っていうのはさすがに少し恥ずかしいので、背中合わせでお願いしますー」

「…………はい」

 おもわず敬語になる文一。直後に背後でざばざばという音、その後にちゃぽんと何かが湯船に沈み、

「はい、もう大丈夫ですよー」

 背後から入湯許可が下りた。

 恐る恐る、文一は背後に目をやり、

「って、何でまだこっち向いてるんだよ!」

「いえー、引っかかるかと思いましてー」

「性質悪いことやってないでさっさと向こう向いてくれ!」

「つれないですねー」

 どことなく残念そうに言った後、再び後方で軽く波紋の立つ音がし、

「いいですよー」

「……今度こそ大丈夫だろうな…?」

「はいー。なんなら今すぐ180度反転しましょうか?」

「遠慮しときます」

 いいながら今度は一切の恐れのない動作で振り向き、

「っっっっっ!」

 一瞬で赤面して全力で再び全力で振り返った。

「引っかかりましたねー」

 とどこか満足そうな湖織の声。

「………悪い、湖織。やっぱ僕には混浴なんて無理な話なんだ。一人でのんびりやってくれ。後から入るよ、僕は」

 がらがらがら。

 ガラス戸を開けて、再び男性用脱衣所へ。

「冗談ですよー、他愛のない冗句じゃないですかー。ほら、今度はもう大丈夫ですよ」

「本当か?」

「疑りぶかいですねー。今度は360度回転しましょうか?」

「意味ねぇよ」

 いいながらこっそりと、先程のような事故が起きないように、本当にこっそりと後ろを伺うと、今度はちゃんと背中を向けていてくれている。裸身を隠すものが何もない、と言う点が少し気になったが、接近しなければさほど気にする要素でもないだろう。

 かけ湯は抜きにして、足からゆっくりと、脱衣所のほうを向きながら湯船へ身を沈める。

 湯の温度は適温よりやや高め、香りは源泉でヨモギ湯を作ったかのような少し奇妙なもの。感触は普通の湯と比べて少し滑る感じで、傷口に触れてもまったく痛みを発さない。

 そればかりか……

「うおっ! 何だこの変な感触?」

 思わず大声を上げる文一。

「すごいですよねーこのお湯。あっという間ですから」

 湖織の言葉の示すこと、それはこの湯の効能だった。

 文一の背中に広がる無数の傷、それらは湯の中においてぷくぷくと組織液と血液の混濁物を吐き出し、じくじくとした感触と共に傷口の底辺から再生が始まる。その速度は異様なほど速く、見る見るうちに腕に存在した浅い傷は再生され――――そしてあとも残らなかった。

「……治った」

「どういう仕組みなんでしょうねー。持って帰ってみますー?」

「いや、やめとこう。町の連中が発狂しそうだ」

「ですよねー」

 楽しげに笑い声をもらす湖織。腕でも動かしたのだろうか、ちゃぽんと言う音と共に波紋が湯船に広がる。

「ところで、」

「ん?」

「どうして文一がここにいるですかー?」

「僕?」

「はいー。今日確か平日でしたよねー? そんな文一が、しかも灯夜のところから離れてまでこんな遠くの町に来てるんですから、『ただの慰安旅行』ってわけじゃないのはわかります」

 ちゃぽん、と湯船が揺れる。

「今度はどういう事情なんですかー?」

 ………事情、ね。

 わずかに詰問口調の混じった湖織の問いに、文一はのんびりと湯船のふちに腕を伸ばし、

「単純に仕事だよ。お嬢様から今朝いきなり頼まれて」

「お仕事?」

「ああ。もう何考えてるのか、ここの経営者と知り合いで懇意にしとかなきゃならない関係らしいから、僕が来たってワケ」

「………そういう事情でしたかー」

「そういう湖織は? 平日って言うならそっちもそうだし、神社のほうの仕事はこっちみたいに『お嬢様の意向一つで』とはいかないだろ?」

 言いながら背に手を伸ばし、傷の具合を確認する。

「ああ、私のほうはもっと単純ですよー」

 ざばざば。背後で水音。

「数日前に招待状が来たんです。『大きな問題が生じていて、それ如何によっては大きな被害が出るかもしれない』、だからきてほしいって手紙が。断ろうかとも思ったんですけどねー」

 そしてひたり、と。

 文一の手に、柔らかな手が触れた。

「っっっっ!」

 びくりと震え、思わず身を硬くする文一。そんな文一をよそに、湖織の手は文一の傷をなぞるように動いていく。

「私の耳、わかりますよねー? 完全に獣になっちゃってる、この耳」

「っ~」

 文一は声も出ない。お互い全裸の状態、入浴中という状況、さらに相手は異性で身を隠すものを何一つ纏っておらず、その上距離はほぼゼロ、とどめに部分的にとはいえ接触しているのだ。

 固まらないほうが、どうかしている。

「妖怪と人間が共存する町、って聞いてきたんで、もしかすると治す手段もあるかと思いましてー。で、今朝始発に乗ってやってきたんですー」

「へ? 始発?」

 背を這う指の感触に若干身をよじりつつ、後ろを振り向き、かけて視線を前に固定する。

「はいー。善は急げ、ともいいますからー」

 でも変なんですよねー、と湖織は言う。そのまま文一の背からゆるゆると指を離し、

「変?」

「はいー。あ、傷は大筋完治してましたからもう開いたりもしないと思いますー」

 文一に、背中を預けてきた。

「っ!」

 体温一気に上昇、筋肉完全硬直。表情は初めて体感する『異性の素肌』と言う感触に硬直し言いがたいものとなり、そしてそれ以上動かなくなる。

「………? どうかしましたかー?」

「っ、湖織! くっつきすぎだ!」

「そうでしょうかー。下手に離れてたりするほうが、緊張しません? お互いに相手がどこにいるのか音でしかわかりませんしー、それに背中同士なら気にもなりませんしー」

「だけど……」

「それとも文一は嫌なんですか?」

「……………」

 いやかと言われれば、そうでないに決まってる。

「……わかった」

「……♪」

「でも、さっきみたいな悪戯はやめてくれ。それと認めるのは背中合わせまで」

「わかりましたー」

 喜色満面、と言った声で湖織が言う。二人の関係性は親友以外の何者でもないので、ただ単に『異性と露天風呂』という状況が楽しいのだろう。

「……それで、変って何が変なんだ?」

「はい?」

 背後で湖織がわずかに身じろきし、わずかに体を文一から離す。

「だから、さっきの話。変って言ってたけど、どこが変だったんだ?」

「ああ、そのことですかー。簡単なことですー」

 言って湖織が腰を浮かせ、

「この町、妖怪と人間の共存を語ってるんですけどですねー。今朝から一人の妖怪も見かけないんですよー」

「え?」

「見かけたのは、ここの旅館で従業員やってる白猫さんぐらいですねー」

「……………」

「どう思います?」

 ………そりゃ、

 考えられる事は二つ。

 一つはたまたまあっていないだけ。時間帯が合わず、一人の妖怪も見かけることなく到着してしまったという話。

 もう一つは、湖織を呼び出すために本当はそんな町ではないにもかかわらず、共存の町を語ったという話。

 前者なら話は『単なる偶然』で片付くが、後者だと話はもっと複雑になる。何しろその話が真実だとすると、湖織をだましてまでこの町にやって来させたかった、と言うことになるのだ。何か大きな理由がないわけがない。

 ………そういえば、

 思い返す。今朝の出来事を。

 逢瀬際牡丹が、天詩文一を指名してきた。

 人手が足りないと言うのなら、それなりの誠意を見せなければならないと言う状況なら、執事を選ぶ必要など皆無であるにもかかわらず。

 天詩、文一を。

 魔道書の契約者であるところの、文一を指名してきた。

 この状況が、普通であるはずがないのだ。

 ………何する気かは、知らないけど。

「キナ臭いことになりそうなのは、間違いないか」

「でしょうねー」

 会話の内容とは裏腹に、緊張感のまったくない表情で湖織は言う。

「まあ、この旅館のなかぐらいは大丈夫ですよー。私のほうに付きっ切りになってくれてる白猫さんもかなり強いですしー、もう一人のほうも只者じゃありませんよねー」

「ああ……たぶん本気でやられたら、敵わない」

「あとはここのお嬢様が何するかー、なんですけど……そのあたりは夕食のとき次第ですから、しばらくはのんびりしましょうか」

「そうなるんだよなぁ………ああ、お嬢様に連絡入れないと」

 ため息を漏らす文一。本来は日帰りで終わらせるつもりであったため、自らの主であるところの灯夜に対しても、これと言った連絡を入れていないのだ。

「こっちも黒椿峰大社に連絡入れたいですねー。文一、あとで電話貸して貰えます? 持ってないんですよー」

「りょーかい。上がった後にでも連絡入れるか……」

「あ、ところで戦闘やったってことは、茜も一緒ですかー?」

「そういうそっちも誘宵と一緒?」

「はいー。荒事になりそうだったのでー。そっちはどうでしょうー?」


 ―――― ぃ~ゃ~ ――――


「……聞いてのとおりだよ、湖織」

「納得です」


 ―――― 「ちょっと、おろして~! わたし本だよ?」

 ―――― 「うん、知ってるよ」

 ―――― どてどてどてどて

 ―――― 「だったらお風呂は駄目ぇー! 崩れる滲む!」

 ―――― 「だいじょぶだいじょぶ」


 少し遠くから届く、当事者からすれば必死、傍観者から見れば楽しげなやり取り。片方は間違いなく文一の契約する魔道書でもう片方は………誰だろう。


 ―――― 「やめて離して解いてぇ! 主ぃ!」

 ―――― 「聞こえない聞こえない。あきらめて行こ行こ」

 ―――― 「やだやだやだぁ!」


「随分叫んでますねー、茜」

 楽しげに笑みを漏らし、湖織が背を丸める。


 ―――― 「はい、もう手遅れ。さあ、脱いで脱いで」

 ―――― 「いぃーやぁー!」

 ―――― 「諦める諦める。旅館なんだし、楽しんで楽しんで」

 ―――― 「無理無理無理ぃ!」

 ―――― がらがらがら


 文一の背後湖織の正面、そこに存在する垣根の向こうから、扉の開く音。

 そして、

「いやーっ! いやーっ!」

「到着到着。さあ、一思いに!」

「できないやらないしたくない! 解いてぇ! って、ああ! もう湯気が、湯気が………っ!」

 幼女と思われる年齢層の声が、二人分。

「諦めて諦めて。うん、じゃあいちにのさんで行くよぉ?」

「いぃーやぁー! やめて解いて戻してぇ! 主ぃ!」

「呼んだか?」

 なんとなしに反応してみる。

「助けて主ぃ! お湯はいやぁ!」

「いや、いい機会なんじゃないか? お前本って言っても性質的には人型のときは人だし、温泉街なんだから」

「裏切り! まさかの裏切り!?」

「まあ、楽しんで来い」

「酷い! 酷いよ主ぃ!」

「じゃいくよ~? いち、にの、さん!」

「―――――――っ!」


 ―――― どっぽーん ――――


 重量物を温泉に叩き込んだような大音が、垣根の向こうから届いた。


    × × × ×


 それは木々が蒼葉を広げる夏の風景。山の中、だろうか。ともすれば視界を遮りかねないほどの緑が溢れかえり、自然と踏み固められて出来た天然の道を心地よい木陰に隠してくれる。

 どこかの山の、中腹だろうか。

 荒れているとは言いがたく、だからといって人の手が入っていると言うわけではない、自然によって形成され、人と共に合った象徴のような穏やかな山の風景が、そこにはある。

 聞こえるのは風にざわめく木々の葉鳴り、感じるのは木陰が作り出す心地よい涼気。水気に富んだ葉のみが発する清涼感のある香りが鼻腔をくすぐり、真夏だと言うのに心地よい気分を演出してくれる。

 そんな環境、だからこそ。


 ―――― ガインッ! ――――


 断続的に響く、その金属音は異様に聞こえるのだ。

 木陰によって半ば以上その姿を覆い隠されている山道、それをしばらく登った先に、一つの竹林がある。

 その竹林の中から、その音は響いていた。

「はぁっ!」

 裂帛の気合と共に斬撃を放つのは紅の少女。年の頃十五、六。肩口の辺りで切りそろえられた髪が一挙動ごとに小さく揺れ、身に纏った着物が竹林の中を舞踏する。

「ふんっ!」

 小さな呼気と共に斬撃を受け止めるは蒼の少女。年の頃十六、七。腰の辺りまで伸びた髪が一挙動ごとに大きくなびき、身に纏った着物が竹林の中を演舞する。

「えぇいっ!」

 蒼の少女が反撃として手の内の得物、静型の刃を持つ長刀を振るえば、

「っ!」

 紅の少女が一手で飛びのき、同時に下方から手にした得物、長巻で逆袈裟に切り上げて蒼の少女の長刀を跳ね上げ、

「せいっ!」

 回転動作で長刀の柄のうちに入り込み、遠心力を乗せた横一閃を放つ。

「よっ! はいっ!」

 しゃがんで蒼の少女が回避し、下側から跳ね上げるように切り上げる。

「くっ」

 つぶやきと共に身を反らして回避し、後方に二度跳躍して間合いを取る。くるくると二メートルほどもある長巻を旋廻させ、右脇に構えなおし、

「………さぁすがは姉様。一閃でどうにかなるかと思ったんだけど……」

 相対する蒼の少女の目の中に笑みが浮かぶ。長刀を腕に絡めるような形に持ち替え、

「ふふ、そう簡単には決まらないわよ、牡丹。反撃ぐらいは覚悟しておきなさい」

「次からはそぅするわ。で、まだ続けるの? 姉様」

 牡丹、と呼ばれた少女がにやりと笑う。

「そろそろ、私ばっかりじゃなくて彼方も練習させたいんだぁけど……どぅ?」

「ふふふ、奇遇ね。私もよ。ねぇ、陽向」

『…………うん』

 おとなしげな声が、蒼の少女の手にする長刀から漏れる。

「ここ最近はおとなしく旅館の中だったし……たまには全力って言うのも悪くないわ」

『……芍夜ねえさん、好戦的だね』

 もう一つ、天真爛漫な少女の声。

「そぅいうわけじゃないんだけどね、彼方。でも、私も同感だから。準備はいぃ?」

『いいよ、ねえさん』

 言葉と同時、牡丹が頭上で長巻を旋廻させる。ぐるんぐるんと、長巻は殺劇の円を描き続け、

「じゃぁ、はじめよっか、姉様」

 刀で言うところの青眼、それにかなり似かよった形で構える。

「ふふ、いい心意気ね。こっちも行くわよ、陽向」

『……わかった』

 くるりと蒼の少女、芍夜が長刀を一回転させ脇に構えた。

 静かに流れるは冷涼かつ辛辣な空気。夏の涼気は日本刀の如き冷たさをもって突き刺さり、穏やかな空気をいきなり命のやり取りの場へと代えてしまう。

「入魂、(マボロシ)×(マボロシ)×(マボロシ)×(メッシ)

「練気、(ユメ)×(ユメ)×(ユメ)×(メッシ)

 発された二人の言葉、それに呼応するようにそれぞれの得物に変化が現れる。

 牡丹の手にする長巻、その刀身に存在する九字を刻んだ刀印それぞれに輝きが宿り、

 芍夜の手にする長刀、その鎬から垂れ下がる飾り紐の一本一本に光が宿る。

 光の宿った武器を手に、双方は大きく身を沈め、

 疾駆した。

 速度は疾風、気迫は裂帛。静かなるは林の如く、知り難きことは影の如し。

 そのまま二人の間にあった数メートルの間合いは瞬く間に互いの殺劇の舞台上と化し、互いがそれを認識した瞬間、姉妹は互いの武器を横合いに振りかぶって、

「発魂、幻技《現崩(ウツツクズシ)》!」

「発気、夢想技《一夜夢(イチヤノユメ)》」

 姉妹の手にする得物、それぞれから放たれる一撃必殺の一閃。肉で受け止めれば肉が裂け、骨で受け止めれば骨が割れる。命で受け止めれば命を分かたれ、魂で受け止めればその輪廻を停止させられる。そんな斬撃が、

 突如として、狂った。

 左からの横一閃を放ったはずの牡丹、その手が描く挙動は縦の振り下ろし、右斜めからの袈裟懸け、直下からの切り上げと正面からの地獄突き。

 左からの逆袈裟を放ったはずの芍夜、その手が描く挙動は下からの切り上げ、左斜めからの袈裟懸け、直上からの振り下ろしと情け容赦のない横薙ぎ一撃。

 それらは全て、まるで二人の腕が無数に増えたかのごとくに同時に放たれる。

 夜迷いの山野に見える妖魔の幻、あるいは酔狂の果てに揺らぐ夢の如き世界。

 それらを現に体現したかのように、二人の腕は夢幻をさまよう。

 右から来たものは上から振り落ち、

 上から落ちたものは下から跳ね上がる。

 そんな動きのまるで読めない、現実ではありえるはずのない夢幻の挙動が、二人の間で展開されていた。

 夢幻の中では束縛はなく、そこにおいて体現されるは己の願望の真意そのものである。故、夢の中においては空を己の足で駆け回ることも、海中を一切の制限なく活動することも、死者と対話することも、過去を顧みることもできる。

 また、幻であってもそれは変わらない。

 幻においては全てが不現、不現であるが故にそこには一切現実の法則に縛られぬものが闊歩できる。神話に描かれている幻獣と自在に関わることも、妖魔の類と見えることも、死者の姿を目に移すことも、幻の前においては世迷いごとではない。

 それであるが故に、夢幻を宿した二人の得物はこの世の法則に縛られることはない。

 二人の手にした得物、そのうちに宿した輝きが尽きぬ限り、二人の得物はこの世に縛られぬ夢幻の存在となる。それ故に現実において支配されるべき法則は二人の手の内に存在する得物それぞれにおいてのみ、限定的にこの世から逸脱し、『夢幻の類と変わらぬ気ままな挙動を取ることができる』ようになる。

 現実から逸脱しているが故の気ままな八方軌道、世界にとらわれぬが故のあり得ぬ動き。

 片方だけがそれを有していればまたたきのうちに雌雄が決するようなそれも、

「………っく!」

「………ふっ!」


 ―――― ッッッッッッッ! ――――


 夢と幻、双方がそろっているが故に雌雄が決さない。

 葉鳴りの中に紛れていた金属音は今やその姿をかくすことはなく葉鳴りこそが金属音の背景へと転じ、裂帛の気合や苦悶の吐息、視線の端によぎる紅と蒼、手にされた銀の弧などの要素が穏やかな竹林を羅刹の舞踏会場へと変える。

 が、その舞踏も踊り手の体力の限界が来れば、

「っ………! 発魂、(メッシ)!」

「発気! (フウジ)!」

 自然と、舞踏も停止する。

 牡丹が手にする長巻、そこから放たれた不可視の破壊が芍夜の長巻から発された不可視の障壁によって阻まれる。阻むために停止させた挙動の隙を突き、牡丹は後方へ大跳躍して距離を稼ぎ、

「彼方! 行くよ!」

『うん! ねえさん』

 手にする得物と一声会話し、更に後方へ跳躍、着地と同時に長巻を右下方へ振りかぶり、

「玄武《神隠し》!」

 回転と同時にその姿が掻き消えた。

「あらあら」

 楽しむように長刀を旋廻させる芍夜。余裕を見せるような態度の中、ゆるゆると前方へ長刀を構えなおし、

 その動作の途中で下側から長巻の一閃が叩き込まれ、

 身を回転させることで威力を流すその途中で回転を停止させようとするかのような横一閃が長刀を殴り、

 踏みとどまって横に振りかぶった長刀が前へと叩き戻され、

「……っ」

 呼気と同時に長刀を一回転させる芍夜の上方に、一閃が振り下ろされた。

「危ないわね、牡丹」

 楽しむようにいい、くるりと前方に回転して避ける芍夜。

『姉さま………そろそろ――』

「わかってるわよ、陽向。行きましょうか」

 得物と端的に言葉を交わし、ふわりとその身を宙に浮かせ、

「練気、(ユメ)×(フウジ)×(フウジ)×(メッシ)。《惑え現実、彷徨え真実。一夜の酔夢、夢想の語り、現に成して力と成せ》」

 流れる言葉と同時、世界が変わる。ゆらりゆらりと景色が揺らぎ、ふわりふわりと大地が浮かび、するりするりと大気が逃げる。

 そんな、自らが変質させて作り上げた世界を満足げに見渡し、

「行くわよ、陽向」

『うん……ねえさま』

 何かを確認するように武器と言葉を交わして、芍夜は長刀を上に向けて構えた。

「夢想術式《封魔法陣(フウマホウジン)》」

 言葉に呼応するように長刀の刀身に『見えない何か』が纏わり付き、それらを振り払うように長刀を一閃し、


「ああっ!」


 声と同時、芍夜の斜め上方から突然牡丹が前方へとすっ飛んだ。

 まるで何かに殴り飛ばされたかのようにその体は二メートルほど宙をかけ、腐葉土の上へと叩きつけられる。

「うぐぅ………」

『ねえさん! 大丈夫?』

「うん………平気……」

 己の武器を握りなおし、地に手を突いて身を起こし、

「……これで私の勝ちね、牡丹」

 眼前に長刀が突きつけられた。

「………みたいね、姉様」

 それ以上は無駄だと認識したのだろうか、長巻から手を離し、半身を起こして地面へ座り込む。

「相変わらず不器用なのね、あなたって。四道に稽古つけてもらってるのに、魔法は使わないの?」

「使う暇がなかったの」

 牡丹も立ち上がり、着物に付着した腐葉土を払う。そして芍夜と同じように長巻を近場の竹に刃を上にして立てかける。

「それに、使ったとしても姉様なら落とせるでしょぅ?」

「ふふ、確かにね。……陽向、もう戻ってもいいわよ」

『ん………』

「彼方もね」

『うん』

 竹に立てかけられた二つの武器、その二つが分解される。細かい粒子になるかの如くそれぞれのパーツが紙片へと転じ、本来の位置に収まるように重なり合い束ねられ、そして元の形へと戻っていく。二人の武器は完全に武器としての形を失い、その後に残ったのは二冊の本。

 黒ずんだ緋色の表紙、羊皮紙を思わせる丈夫で黄ばんだ紙。露出した角の部分の色は岩を思わせる硬質な白色で、流暢な草書体で文字が描かれた西洋装丁のその本はかなり歪な姿に見える。

「……じゃあ、帰りましょうか」

「そぅね、姉様。帰ってお茶でもする?」

「ふふ、いいわね。彼此寺も混ぜてみる? 最近は落ち着いてるから、仕事はないはずだし」

 竹に立てかけられている本を拾い上げる芍夜。その際に安堵の吐息のようなものが本から漏れ、芍夜は微笑みと共に胸に抱きこんだ。

「ほら、彼方も連れて行ってあげなさい。頑張ってくれてるんだから、これぐらいは、ね」

「えぇ? けど自分で歩けるんじゃぁない?」

「だからこそ、よ。ふふ」

 意味ありげな微笑みを見せ、山道を降りていく芍夜。

 なんだろう、と牡丹は考える。大抵あんな微笑みを見せるときは、私に何かを言いたいときだ。この場で言いたいことって何なんだろう。

 と、そこまで考えて、思い至る。

 ………なんだ。

 ただ単に、『忘れるな』と言いたかっただけなのだと。

 彼方も陽向も、『此方(こなた)』なんだということを忘れるなと、言いたかっただけなのだ。

「……ふふふふ」

 思わず自らの姉に似た笑みをこぼす牡丹。

 確かにそうだ。活発で、明るくて、天真爛漫だった此方もさびしがり屋で、甘えん坊で、泣き虫だった。

 だったら、彼方も同じかもしれない。そういえば案外布団の中にもぐりこまれることも多かった。

「……行こぅか、彼方」

 本を拾い上げ、己の胸に抱きかかえる牡丹。

『あ………』

 本の中から驚いたような、しかしその中に満足さを滲ませた言葉が漏れる。

「ん? どうかした?」

『ううん、ねえさん。なんでもない』

「そっか」

 どこか慌てたような否定の声に、牡丹は笑みを濃くする。

「じゃ、行こぅか」

『……うん』

 今ここをかみ締めるような声。

 その声にどことなく懐かしい感慨を覚えながら、牡丹は軽い足取りで姉の後に続いた。



    × × × ×


「主ぃ~聞いてるのぉ~?」

「……え?」

 恨み節のような怨嗟の声で、文一は再び意識を現実へと引き戻した。

「……すまん、聞いてない」

「酷っ! 私の扱いひどすぎると思うんだよ、主!」

「悪い悪い」

 そうだ、今は夕食時。薬湯で体の傷を完治させたあと、部屋に戻って一休みして、お嬢様に連絡とろうとして通じなくて、仕方ないから湖織と話して時間潰してたらいい時間になって、その直後に四道に呼ばれたのだ。

 いわく、夕食の準備ができた、と。

 いわく、お嬢様が帰還した、と。

 そのまま案内されるがままに旅館の中を歩き回り、その末にたどり着いたのがこの部屋。普段は経営者として誰かに会う必要があるときや、身内だけの宴会などに使っているらしい奥座敷だと言う、この部屋だった。

 二十畳ほどの広々とした部屋の中央に、膳がちょこんと三つ。

 見ようによってはいい待遇だと喜べる風景なのだろうが、あいにく文一は一般庶民。上流階級の作法に慣れているほうではあるが、その中身は庶民なのだ。こんな待遇に慣れているわけがない。

 そんなわけで文一の気分は酷く落ち着かず――――それ故にぼんやりと横から飛んでくる茜の恨み節(風呂場で見捨てたことを根にもたれているらしい)をぼんやりと聞き流しているうちにまた白昼夢を見たのだ。

 ………なんだったんだ…?

 考えながら、なんとなく視線をあたりへ彷徨わせる。

「………どうかしたですかー? 文一」

『イッヒッヒ、もうじきお偉方がこようかって時にぼんやりと転寝たぁー度胸据わってるじゃねぇか』

 正面から飛んできたのは湖織の怪訝な声と、誘宵の少し耳障りな嘲笑。

「いや、ちょっと白昼夢。気にすんなよ」

「……そうですかー」

 ポツリ呟くように言い、目線を自らの正面の膳へ落とす湖織。

『どうしたよ、宿主様。何か気になんのかい?』

「いえー、そういうわけじゃあないんですけど………偶然でしょうかねー」

「偶然って、何が?」

 たずねたのは文一ではなく、その隣の膳につく茜だった。

「別にたいしたことじゃありませんよー」

「なら隠さなくてもいいだろ、湖織。偶然ならそれでよし、偶然じゃないなら留意、だ」

「………そうすればいいというのはわかってるんですけどそれとはまた別のことで気になるといいますかー………」

 歯切れ悪く言葉を濁す湖織。

『気になんのかい? 宿主さまよぉ』

「わかりますー?」

『我だって気になってんだから、そりゃとーぜんだ』

 眼前で交わされる、状況を把握しているもの同士の会話。

 当然そんな会話に文一が付いていけるはずもなく、

「ちょっと待て、何のことなんだ?」

『ん?』

 声を上げたのは湖織の右脇に置かれた誘宵だった。

『そりゃあ簡単なことだ、文一。わからねぇか?』

「全然」

「主って案外鈍いよね…」

 隣にいる魔道書の頭を引っぱたいた。

「痛っ」

「そういうお前はわかってるのか? 湖織が何を言いたいのか」

「全然」

「なら言うなよ。…………で、気になるって、何についてなんだ?」

「ええー。単純なことなんですけどねー。逢瀬際牡丹の手紙の食い違いについて、です」

「食い違い?」

「もっと具体的に言えば、呼ばれた動機の食い違いについて、ですねー」

 動機の、食い違い。

 言われて思い出したのは湖織のこの町にきた動機。場合によっては大きな被害を生むかもしれない問題が発生したので解決に手を貸してほしい、という内容。自分のものと合わせても、特に食い違いはないだろう。わざわざ自分を名指ししてきた、と言う一点だけは気にかかるものの、それ以外は酷似しているように思える。

「……食い違ってるか? 僕と、湖織ので」

「食い違ってますよー、全然」

「具体的に、どの辺が?」

「んー、そういわれても理由全てが、としかいい用がないのが辛いところですー」

 言って考え込むように顎に手をやる湖織。

「普通、大きな被害が出るかもしれない問題となると、私のような実力者を呼びますよねー? 呼び出すのが簡単で、しかも実力もある」

「ああ、確かに」

「懇意にしてる企業ってだけで、実力者を送ってくる人がいます?」

「あ」

 言われて見れば、その点はあまりにも奇妙かもしれない。互いの信用をやり取りする上層でのやり取りの場、そこに実力者を混ぜる事は、ともすれば敵意とも取られかねない危険な行為だ。

「それに文一試されたって言いましたよねー? それに自分を名指しされたって」

「ああ。町に入ったら、いきなり」

「どこで知ったんでしょう? 文一がそれなりの実力者だ、って」

「……………」

 わけがわからないが故に、文一は黙殺する。

 魔道書と契約しているが故に、文一は戦える。魔術師や超能力者などの人を超越した存在に対抗できるだけの力を、手にしている。

 だが、言い換えれば文一の実力と言えば『その部分』しかない。つまり、魔道書と契約していると言うことがわからなければただの一般人以上の何者でもない、と言うことだ。

 小鳥遊の執事をやっている、というのもあるかもしれない。

 小鳥遊の執事なのだからそれなりに腕が立つ、と言う考えもあるのかもしれない。

 だが、それにしては試すために出してきた実力者が強すぎる。魔道書を用いた全力戦闘で手加減していた向こうと互角、向こうが全力であれば秒殺、それほどの実力者だ。あそこで魔道書がなかったとすれば、今頃文一はここにはいない。

 しかし文一が魔道書の持ち主であることを見越していたとしたら? それなりの実力者と遣り合っても死ぬ事はないと確信していたのだとしたら?

 だとすれば、あのレベルの実力者が待ち構えていたのだとしても納得がいく。

 が、それはつまるところ――――

「私が主のものだってことがばれてた、ってこと?」

「そうなりますねー。でも、そうだとしたらどこで知ったんでしょうかー?」

 基本的に文一は小鳥遊町に篭りっきりだ。外に出る事は特別な用事でもない限りまずないし、それに茜が魔道書であることを知っている人間も多くはない。

 知るルートは、極端に少ないはずだ。

「……確かに気になるな、それ」

『だろ?』

 楽しげに、誘宵は言う。

「まあ、目下のところ一番気になるのは後ろの襖の向こうで聞き耳を立てている覗き魔さんがいることなんですけどねー」

「!」

「っ」

 一瞬で視線が湖織の背後、廊下に続く大振りな襖へと集中した。

「誰なんですー? 上手く誤魔化してますけど、気配自体は消えてないんでバレバレですよー」

 かちゃり、と湖織の手元で金属音。

 ………茜、

 茜に送った目線、それに答えるように茜が小さく頷き、つまむ程度に文一の指先を握る。

 にわかに満ちる緊迫した空気、それを壊したのは、


「あーあ、ばれちゃったばれちゃった。ねえさん、失敗失敗」

「わかってますよ、彼方。ばれてしまったなら、賞がありませんね。もう少し皆さんの会話を聞いていたかったんですけど……」

「嬢、場をわきまえろって何遍言ったと思ってんだ? 嬢がどんだけ不審人物扱いされてっか、今のでわかったろ」

「…………にっ」


 楽しげにがっかりする少女の声と、それよりは大人びている落ち着いた少女の声、それらを叱責する男の声と、猫の鳴き声だった。

 前者(後)と後者(後)はわからないが、前者(前)と後者(前)はわかる。後者の方は巡原四道、そして前者のほうは茜が風呂に叩き込まれていた時に一緒に響いていた、幼女と少女の中間のような声だ。

「申し訳ありません、お客様方。お招きしておいてこのような真似をいたしたことを、深くお詫びいたします」

 しっとりと流れ出た、先程の楽しむ様子がまるでなくなった少女の声。それに呼応するように、音もなく襖が開き――――


「ご招待に応じていただき、ありがとうございます。

 私はこの旅館の全ての責任を負うものにして『幻』の魔術師、逢瀬(おうせの)(ぎわ) 牡丹(ぼたん)と申すものでございます。お三方がよろしければ、ご夕食の席でご招待の際にお話させていただいた依頼の詳細について、ご説明させていただきたく存じます」


 凛とした表情、和人形を思わせる造形美、よどみのない口調と、只者ではないと思わせる雰囲気。

 それらが織り成すのはあたりの全てを背景へと変えてしまうほどの、異様な存在感だった。

「では、遅ればせながらご夕食の用意を。四道、アリス、任せましたよ」

「おう」

「――うん」


    × × × ×


 雰囲気に気圧され一切の反応を返すことが出来ず、湖織は夕食の乗った膳が運ばれてくるのを黙ってみていた。

 和服とも洋服ともつかぬあの格好のまま、あの化け猫が目の前の空の膳を上に夕食が乗った膳に取り替える。一応警戒はしていたのだが、さすがに主の前で何かしようと言う気はないらしい。特に何もおきることなく夕食の準備が完了し、完成したのは旅館の主と来客三人、それぞれが夕食を前にしての会談の準備だった。

 絢爛豪華、ではないものの、良質の素材と手間を惜しまずにかけたことが伺える懐石料理。

 季節に合わせたのか、メインは初夏のものが多かった。

「……頂いても?」

 膳の前に姿勢を正して座りなおした文一が、湖織の右隣で茜の正面、文一にとっては左隣に当たる位置に座った牡丹に緊張した様子でたずねる。

「ええ。どうぞ頂いてください。季節の魚介と、山の幸をふんだんに使用させていただきました」

 先程の威圧感をまったく感じさせない、朗らかな様子で牡丹が言った。許可が出たなら別に自分に向かって言われなくてもいいだろう。そう思い、湖織も箸に手を伸ばし、料理に舌鼓を打つ。

「……………」

 懐石料理らしい、淡い上品な味。

 普段ではまず味わうことの出来ない上質な感覚に舌を楽しませながらも、部屋の中をうかがう事は忘れない。文一に料理を運んだよれよれスーツの使用人は湖織の背後、湖織のほうについていたあの化け猫は牡丹の背後で丸まっていて、そして牡丹にくっついてきた小さな少女は、その隣に行儀よく正座している。

「…………」

 文一は緊張、茜は困惑、と言ったところだろうか。慣れない和懐石ということもあるのだろうが、恐らくこんな待遇は予想していなかったのだろう。それは茜も同じなのだろうか、ちらちらと牡丹のほうへ目線を送ってはすぐさま戻す、と言うことを繰り返している。

「……………」

 牡丹は、無言だった。

 自らの前にすえられた膳に手をつけるでも、その脇にすえられた茶に手をつけるでもなく、ただただ悠然と微笑みながら広場を見渡している。

「……………あのーすみません」

「何でしょうか? 湖織さん」

 笑みを浮かべたまま、牡丹の目が湖織を捕らえる。

「まだ私たち従業員さんの名前とか、全然知らないんですけど、紹介とか、してくれません?」

「ああ、すみません。本当に至らないことばかりで……」

 ゆるゆるとした仕草で、牡丹は湖織の背後を指し示す。

「こちらは当旅館一番の古株で、従業員の総纏め役と私の護衛役を兼任させております、巡原 四道。文一さんは、もうお会いになられましたね?」

「ええ、まあ。酷い出会いでしたけど」

「……………」

 文一の嫌味とも取れる言葉に、牡丹は笑みで、四道は無言で答えた。

「そしてこちらが、当旅館の非常勤従業員で、私の身辺の世話と飼い猫を兼任させております化け猫、逢瀬際 アリス。湖織さんは、ご存知でしょう」

「………牡丹、化け猫……いや」

「あらら、ごめんごめん」

 抗議の声を上げた化け猫少女、アリスをあやすように後ろに手を伸ばす牡丹。それに満足するかのように、アリスは喉の奥から声を出し、おとなしくなる。

「………化け猫……?」

 聞きなれぬ単語に、文一が疑問の声を上げた。

「はい。化け猫です。妖怪に関しては、湖織さんのご専門でしたよね?」

「ええ、そうでなければ、呼ばれてませんよ」

 言いながら温野菜に舌鼓を打つ。

「でも、普通の化け猫さんじゃありませんよね、アリスさん」

「へ?」

 今度は困惑の声。それに対し、牡丹は簡単とも取れる表情を浮かべた。

「……よくお分かりになられましたね。そう、その通り。アリスは少し特殊な境遇から生まれた……いえ、『作られた』化け猫で、普通の化け猫とはちょっと違うんですよ。もしかしたら、茜さんならわかるかもしれませんね」

 どうでしょう? と軽く首をかしげ、茜へと視線を送る。

 茜は、無言だった。牡丹の隣、そこに位置する少女に目線を送ったまま、固まっている。

「……茜?」

 怪訝な声を上げながら文一が茜の肩に手を伸ばし、

「ひゃっ! え、あ、主? どうかしたの?」

 触れた瞬間、身を震わせて現実へ回帰した。

「どうかしたのはお前のほうだ。どうかしたのか? 茜」

「ううん。別に――――ちょっと慣れないから、かな。細かいことが気になっちゃうんだよ」

 誤魔化すように眉尻を下げる茜。

「それで………ああ、あのネコさんのこと? わかりにくいけど………アレ、多分魔術だと思うよ」

「お見事。正解ですよ、茜さん」

 満足げに言う牡丹。

「そう、アリスは私が町で捨てられていたところを拾い、自らの魔術で持って『人』の形を与えた、言ってみれば人造の妖怪なんです。もともと若い猫だった時に強引に妖怪化させたんで、かなり人間時にも猫の性質が残ってますけど――――いろいろと役には立ってくれます」

 かわいらしいですし、と牡丹は付け加える。

「……でも、そんなことってできるの?」

 怪訝そうな表情を浮かべながら、茜。

「……どういうことだ? 茜」

「だって、さっき牡丹さん言ったよね? 『幻の魔術師』って」

「それがどうかしたのか?」

「うん。一応索引引いてみたんだけど、幻の魔術ってそんなに器用なこと出来ないんだよ」

「え?」

「幻の魔術で出来ることって言ったら、上級でも魔術師の魔法に干渉したり、幻見せたりする程度なんだよ。だから猫を妖怪に変える、なんてこと、普通なら出来ないよ」

「なら、どうやって………」

「たぶん魔道書だよ、主。だって………


 さっきから、そこにいるし」


 茜の指し示す『そこ』。

 そこにいるのは、牡丹の隣に座る少女だった。風呂場で茜を絶叫させていた人物で、今は付き人のような位置に落ち着いて一切の言葉を発していない人物。

 その人物が、魔道書。

 ………ありえない話じゃ、

 ない。何も魔道書の契約者は文一だけの専売特許ではないし、そしてまた魔道書であるという事実も茜だけの専売特許ではないのだから。

 牡丹は、今度こそ満足そうに口の端をゆがめた。

「お見事」

 つぶやき、隣の少女へ目をやる。

「そう、その通りなんです。アリスは私の持つ魔術で製作したのではなく、私の契約する魔道書の保有する能力によって作り上げた、言うなれば魔道書から生まれた化け猫なんですよ。

 そして私の契約する魔道書、私と同じ《幻》の魔術に恵まれた魔道書こそが…………」

「………この娘、というわけですか」

 白米を咀嚼しつつ、湖織は得心した風に言った。

「随分と、変わった従業員をお雇いですね、牡丹さん」

「ええ。しかしお二方とも承知の通り、かなり腕は立ちますよ」

「………確かに」

「ですねー……」

 憎々しげに、文一は笑った。

「で、少しお尋ねしたいんですけど」

「何でしょうか?」

 笑みを収めた牡丹が、文一に目をやる。

「わざわざこんな風に呼びつけて、わざわざ町の入り口で試したりして、今この場でもこうしてのらりくらりと話を先延ばしにしているこの状況で、僕たちに頼みたい仕事って何なんですか?」

 思わず白米を咀嚼する動きが止まった。

 文一の吐き出した問い、それは自分たちがここに呼ばれた意義そのものを問うもの。真にどうにかしたいものであれば、ここへ自分たちが到着した瞬間に話されていなければおかしい類の内容を問うものだ。

 無論、その内容を知ることを望んでいるのは文一ばかりではない。湖織も自然とその問いに対する返答を耳にするべく、意識が牡丹の元へと向き、自らの行動がおろそかになる。

「ああ、またすみませんですね。真っ先にお話しするべきだとはわかっていたんですけど、ついつい先延ばしにしてしまいました」

 ポツリつぶやき、自らの前に置かれた膳の箸を取る。

「では、お話しましょうか。どうしてお二方をこの町に呼んだのか。それを話すには少しばかりややこしいお話になりますが………ご了承くださいますよね?」

 にこやかに手を合わせる牡丹に、文一は、

「……かまいませんよ」

 どこか楽しそうに、そういった。


    × × × ×


「お二方は、この町がどういう町であると耳にしておいででしょうか?」

 白米を口に運びながら、牡丹が言う。会話しながら食事を行うのは行儀がいいとはいえないのだが、それほど厳しく考える必要はないだろう。

 ………僕も、そうだし。

 思いながら、文一は言う。

「それほど多くはありませんが………特進市からも結構な観光客が出向いている温泉街、程度の認識です」

「私の方は、手紙にあったこと程度ですね。妖怪と人間が共存する町である、と。あとは、今ちょっと大きな問題が起きている、と言った程度です」

「なるほど………」

 つぶやくように牡丹はいい、横に座る魔道書を手招きする。

「では、お話しましょう。まず大前提条件を」

「前提条件、ですか?」

「ええ」

 言いながらあやすように魔道書の頭を撫で、膳の上からいくつかの食品を選び、より分ける。

「最初にはっきりさせましょう。文一さんにとってこの町は、お二方の地元でもかなりの人気がある温泉街。湖織さんにとっては、妖怪と人間が共存する、地元から離れた町。この町はお二方にとってはそんな姿で、そんな存在で認識されている。

 ですが、前提条件としてはっきり言わせていただきましょう。


 それは、嘘です」


「え?」

「はい?」

「……?」

 文一は呆然とした表情で目を見開いた。

 湖織は愕然とした表情で箸を取り落とした。

 茜は何がわからないのかわからない、と言った風に文一を見上げた。

 三者三様、それぞれの表現でもって驚愕を表現する。中でも一番大きかったのは湖織の反応、だろうか。

「ちょ、ちょっと待ってください! この町の前提条件が全部嘘って、どういうことなんですか?」

 普段では絶対に見せないような、慌てた表情。

 そんな表情で、軽く身を乗り出して、湖織は牡丹に詰め掛ける。そんな湖織を笑みを持って見つめ、

「そのままの解釈で、間違いはありません。この町は『特進市から観光客が多く向かう温泉街』でもなければ『妖怪と人間が共存する町』でもありません。そればかりか、この町は地図にはおろか、『今現在この町の中にいるもの』と、『かつてこの町にいたことのあるもの』以外の人物の記憶にも、存在しないんです」

「っ!」

 予想外の方向性を持った断言により、湖織の勢いがぴたりと停止する。それを読みきっていたのか、のんびりとした様子で牡丹はあらかじめ用意していたかのような言葉を連ねる。

「お二方ももうすでに体感したと思われます。あの《夢幻境》を。大禍刻の空に彩られ、形なく大地が彷徨いたゆたう、あの現実から乖離した空間を。

 この町は、いうなれば《夢幻境》と言う海に浮かんだ浮島。

 夢幻によって無現と成された空間の中央に浮かぶことで、その存在すらも《夢幻(ゆめまぼろし)》とした、朧霞の存在です。

 夢と現、その境に浮かぶ幻惑の町こそが、この町の正しい認識にして、前提条件。ご理解いただけましたでしょうか?」

「…………すみません。無理です」

 話が、いきなりすぎる。

 確かに試された時点で普通ではない仕事をやらされる事は覚悟していた。確かに魔術がらみの何かに関わる羽目になるとは予想していた。

 しかし、町そのものが夢幻となると………

 話のスケールが大きすぎて、ついていけない。

 ははは、と牡丹は穏やかに笑った。

「すぐに理解していただかなくても結構ですよ。お二方もおいおい理解していただけると思いますし、今は『この町が「夢幻」の存在である』、その事実だけを、頭にとどめて置いてください」

「………わかりました」

「………はい」

 再び箸を取りながら、湖織も頷く。表情の中に困惑と混乱が見て取れるが、恐らくすぐに立ち直るだろう。

 そう楽観し、文一は魔道書に自らの膳から料理を与える牡丹に再び問いかける。

「それで……それが、僕たちが呼ばれたこととどう関係が?」

「それを説明するためには『この町のこと』よりもまず先に、『この娘』のことを説明しなければなりません」

 この娘、と指し示すのは牡丹の隣におとなしく正座する魔道書の姿。

「この娘は『逢瀬(おうせの)(ぎわ) 彼方(かなた)』。私の契約する魔道書にして、私の大切な妹のような娘です。彼方、自己紹介して」

「うん」

 元気よく、しかし少し控えめに魔道書、彼方は頷く。そして文一たちのほうへと向き直り、

「はじめまして。牡丹ねえさんに契約する魔道書、『彼方』です」

 ぺこり、と軽く頭を下げた。

「彼方ちゃん……でいいの?」

 茜が興味深そうに身を乗り出す。彼方は笑みを湛えて頷き、

「うん。お風呂、楽しかったね」

「うっ…………」

 茜の体が完全に硬直した。

「………茜、お前、何されたんだ?」

「うぅ……よくわからないので動けなくされて無理やりお風呂に入れられたんだよ~……主呼んでも助けてくれないし………」

 なるほど、と内心で文一は納得する。牡丹も彼方の言葉に満足げに頷いて、

「彼方、お風呂入れてあげたの?」

「うん。苦手って言ってたけど、戦った後なら入らないといけないと思ったから、《封》かけて」

「………魔術まで使われてたのか」

 道理で解いて解いてとうるさかったはずだ。縄で拘束されていたのだとすれば本になって逃げればそれでいいはずだし。

「……それで、彼方がこの町とどういう関係が?」

 もくもくと食事を続けながら湖織が言う。混乱からは脱したのか、表情はいつもの如く落ち着きに満ちている。

 牡丹は表情の中に喜色を滲ませ、

「ああ、はい。実は彼方もかなり特殊な生まれ方をした魔道書なんです。細かい部分の説明は省略しますが……彼方は《双子》の魔道書で、彼方と同じ姿をした魔道書がもう一冊存在し、なおかつその魔道書も彼方と酷似した魔術、《夢》を持っています。が、重要なのはそこではなく――――むしろその能力のほうです」

「能力?」

 はい、と牡丹は頷く。

「二冊の魔道書に宿った、《夢》と《幻》の力。

 それぞれはそれ単体ではただの幻惑の力ですが、二つそろえばどんなものであろうとも夢幻の中にたゆたわせることができる。あらゆるものを惑わせることが出来る。それに加え、二つの魔道書は共に茜さんに使ったような、《物事を封じる》力を兼ね備えています。

 つまるところ、この二冊の魔道書は《夢幻の世界をこの世に湯繰り上げることが出来る》。そしてこの町は、夢幻です。つまり………」

「………この町は、二冊の魔道書で夢幻になっている?」

「……その通りです」

 湖織の言葉に、牡丹は満足そうに頷いた。

「魔道書『彼方』と対を成す魔道書、『陽向』。『彼方』と『陽向』によってこの町は夢幻の中に存在し、夢幻の中にとらわれず、夢幻の中を彷徨える。どちらかがかけていても、どちらかが強すぎても、どちらかが弱すぎても、この町の存在は夢幻の中に掻き消え、二度と他者を招くことも、自らが外へ出ることも叶わなくなるでしょう。

 そして、今、この町ではもう一つの魔道書が危険な状態にあります」

 町を夢幻の中に存続させる二冊の魔道書、『彼方』『陽向』。そしてその使い手は、『牡丹』と、もう一人。

 ………まさか、な。

 昼間から頭をよぎる白昼夢。

 その中に登場した名前も、それと同じではなかっただろうか。

 再び膳から箸を取り上げ、湯引きを摘み上げる牡丹。

「もう一冊の魔道書は、町の南の端。この旅館から見てちょうど町の真逆の方向に隠れるようにして存在している邸宅の長であり、逢瀬際家長女――つまり私の姉にして《夢》の魔術師である、逢瀬(おうせの)(ぎわ) (しゃく)()が契約しています。ところが今現在、私の姉であるところのその人物は『とある事情』から彼方を付け狙い……その末にこの町の存在する《夢幻》の拡大を目論んでいます」

「夢幻の拡大?」

 疑問の声を上げる湖織。

「はい。夢幻が拡大されれば、それだけ多くの『外』が夢の中に巻き込まれることになるでしょう。そしてその場合、この町と同じ、《知る者しか知らず、知らぬものには見えもしない》存在へと落ち込みます。そうなれば、外部が混乱する事は必死です。故にこそ、それは我々の手で止めねばならない―――」

 一瞬、

 牡丹の目の中に、寂寥の色がよぎったような気がした。

 気丈な中に見え隠れする、寂寥の色。離別を嘆いているのか、あるいは死別を悲しんでいるのか、孤独に怯えているのか、牡丹の目はゆらゆらと寂寥に揺らぎ、気丈の色が消え隠れする。

「…………それで、私たちは何をすれば?」

 はい、と気丈な声音で牡丹は言う。

「あなた方に依頼したいのは、『魔道書《陽向》の奪取』です。彼女の手の内から魔道書が消えた場合、彼女にはもはや夢幻に干渉する術はありません。故にこそ、彼女を殺害するよりは陽向を奪取するほうが、遥かに容易に事は運ぶでしょう。

 我々は彼女の注意を引く必要があります。それに、わたしたちが接近すればどれだけ慎重にやろうとも彼女にばれるのは必至ですから、あなた方に頼るしかないのです。

 無論、それなりのお礼はさせていただきます。

 どうか、この依頼を受けていただけないでしょうか?」


 言われて、文一は考える。

 夢幻、止めなければとらわれる幾多もの町。必要な事は奪取、戦闘は確実に行われるはずだ。陽動は向こうの仕事、実際に奪取するのは自分たち。それだけ。簡単な話だ。

 だからこそ、

 文一の答えは、わずかに数秒で確定する。

「……牡丹さん、僕はこの仕事を――――」

 と、言いかけたその瞬間、


「文一、」


 湖織の声によって、言葉が止められた。

「………嬢」

「牡丹」

 警戒の色を色濃く滲ませる、二人の従者の声。

 それに呼応するように、牡丹が彼方を抱き寄せる。

「………どうかしたのか?」

「……障子戸の向こう側……庭園の方……誰かいる」

 先程までの真面目な様子から一点、抜き身の日本刀のような、飢えを見せる獣のような、剣呑な空気を身に纏った湖織が誘宵を引き寄せ、立ち上がる。

「……茜」

「……うん」

 茜と共に文一も立ち上がり、いつでも動けるように警戒を強めた。

 にわかに緊迫感の満ちる室内。四道はスーツからナイフを取り出し、アリスは両手を左右に広げ、爪を立てるような構えを取る。牡丹は彼方の手を握り締め、襖のほうへと移動を始めた。

「…………誰だ!」

 鋭く飛んだ、四道の声。その声は障子戸を貫いて庭のほうへと響き…………


「ふん、腐っても四道は四道、か」

「へぇ、鈍ってはねぇってわけか、四道」


 二人の男の声が、それに答えた。

 いぶし銀を思わせる、深い声。片方は巌の如く重厚ながらも心を忘れず、もう片方は獅子の如く軽快ながらも腰を下ろすことを忘れない、そんな印象を聞くものに抱かせる、それは男の声。

「ばれてしまったものはしょうがない。早苗、計画を変える。このまま強襲し、彼方を奪取するぞ」

「言われなくてもわかってるっつっただろ。突撃はてめぇに任せる。とっととかましてやれ」

「ふん、賢明な判断だな」

「うっせ」

「行くぞ四道。聞こえているのなら……準備を怠るな……!」


 言葉と同時、剣呑な空気が障子の向こうに広がり、

「――っ! アリス!」

「《獣肢・鋼爪》………」

「茜!」

「うんっ!」

「誘宵! 行きます!」

『わーってるよ!』

 障子の内側、室内にはにわかに戦闘のための怒号が同時に満ちる。その空気の中、障子の向こうの剣呑な空気は広がりを続け、


「赤紅葉・(あぶみ)(くち)


 言葉と同時、障子が丸ごと撃砕され………

「《水走》!」

「《西枯葉(にしかれは)》!」

 突撃したのは、二人の従者。判断不能の高速と視認困難な高速をもって、粉塵舞い散る障子戸へ突撃し、

「ぬんっ……!」

「はっ、仔猫かよ」

 そこに屹立する、二つの影によって阻まれた。

 ぎちぎちと、四道のナイフが長髪の男の槍と拮抗する。

 ギンッ! と、アリスの爪が茶髪の男の大鉈と音を奏でる。

「……ふん、久しいな四道。四年ぶり、か。戻ったとは聞いていたが、よもやこのようにして再び斧が武器を交えることになるとは思わなかったな」

「……っ、大きなお世話だ……水灯……っ!」

 怒号を表すように、四道のナイフが横一線に閃く。

「ぬぅっ………」

 己の得物には遠く及ばぬ長さからの斬撃、それを受け止めた水灯の身が庭のほうへと後退する。

「相も変らぬ馬鹿力………相も変らぬ技の冴え………まったく持って厄介な壁を持ち出してきたものだ」

 腰を低く沈め、槍を後方に流す水灯。

 その、脇で。

「………へぇ」

 楽しむように、茶髪の男が大鉈を振るう。

「…………にっ」

 猫のような息と共にアリスが突撃するも、

「軽い」

 その一撃はその男が片手で繰る大鉈によって軽くはじかれ、矮躯もろとも宙を舞う。

「なんだてめ。妙に軽いかと思ったら猫かよつまらねぇ」

「《猫の構・三の型――――」

 はじかれた勢いを利用し、アリスが天井を蹴って茶髪の男に迫ろうとも、

「――南流(みなみながれ)》!」

「だから軽い、つっただろ」

 大鉈の横面で殴りつけるようにして、はじかれる。

 その様子を、四道は一瞥し、

「アリス! お前は嬢につけ! 師走の! お前はこっちだ! 手伝え! 巫女! 嬢を頼む!」

「ん」

「……! 《剣成せ》!」

「最善ですね」

『だな』

 本と化した茜を握り締め武器を作り出す文一、天井を上手く利用し牡丹の元へと飛ぶ獣肢獣足のアリス、誘宵を抜刀する湖織。茜の声が答える前に文一は前へ移動、湖織は抜刀後に牡丹の隣へ。

 それらの動きを見、茶髪の男は鼻で笑い声を上げた。

 大鉈を担ぐように持ち上げ、

「……はっ。いいぜいいぜ最高だ。師走の野郎がいるってなら容赦する理由もねぇ。全力やらせてもらう。《解体バラけろせよ。わが力は分割、わが意思は離別、わが本能は分断。形は刃、《(ただきるだけのもの)》。形に沿いし力成して己が意義を示せ》」

 ………魔術!

 認識すると同時、手の中に確かな武器の感触を感じる。それが何なのか、一瞥すらすることなく慣れ親しんだその感触を右手に前へと駆け出し、

「《愚物バラバラだ分解ゴミども)》」

 言葉と共に床めがけて振り下ろされた大鉈が、建物を《分解》した。

「なっ………」

 崩壊は振動、破壊は分解。茶髪の男が手にした大鉈、その強烈な破壊力によって建物はそれぞれのパーツへと姿を変え、分解される。挿入されていた梁が柱より抜け、固定されていた壁が重力に従い、下より支えていた縁が根元から抜けて床を保持することを放棄する。

 さながらそれは、《分解》。

 力によって『一を無数に変える』のではなく、

 ただ、『無数によってなっていた一を元の無数に戻す』。

 その力によって『歓迎のための和室』であった部屋は『柱であった木と、床であった畳と、梁であった木と、壁であった土の塊』に分解され、

 そして下落した梁と柱によって障子側と襖側の二つに、部屋の内装も分かたれ、結果。

「………文一!」

「アリス! 嬢は任せた!」

「ん……」

「湖織!」

 障子の側、二人の侵入者が屹立する側には、文一と四道のみが残される。

 部屋の崩落によって照明すら落ち、足元すら不確かとなり、天井さえも危うくなった部屋の中、その破壊を行った張本人である茶髪の男は鉈を担いで不適に笑う。

「へっ、これで二対二だ邪魔は入らねぇ。水灯、師走はもらうぞ。とっとと突破して嬢かっぱらう」

「ふん、俺とて長居はするつもりはない。……四道、貴様との決着はつけさせてもらう」

 大鉈を担ぎ上げる茶髪の男と、槍を正面へと構える長髪の男、水灯。その立ち姿の中に一切の油断はなく、一切の隙はなく、一切の無駄もない。その事実が二人の実力を暗示し、そしてまた相対する己の弱所を無理やりに痛感させる。

 それでもなお、

「……はっ。口ばっかりは一人前じゃねぇか、水灯。後で泣き言言っても許してやらねぇからな」

「……茜、やるぞ。やらなきゃ、帰れない」

『うん、了解だよ!』

 四道と文一は、引き下がらない。

 暮言刃を握り締め、右半身で文一は茶髪の男に相対し、

 ナイフを軽く握り、身を沈めて四道は水灯に相対する。

 そしてそのままギリギリと締め付けるような数刹那が流れ――


「……上等だ!」


 茶髪の男の突撃と共に、闘争は幕を開けた。


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