第一話(β版)
――――夢幻の世界が、そこにあった。
ゆらりゆらりと揺らぐは大気。風の吹き込む水面のごとく、一足ずつに空気が揺れる。
ぐらりぐらりと惑うは町並み。水に浮かべし絵紙のごとく、揺らぎの度に町並み惑う。
ふわりふわりと浮かぶは足元。風に流しし着物のごとく、一吹きごとに地面が浮かぶ。
ゆらりゆらりと世界は揺らぎ、ぐらりぐらりと家並み惑い、ふわりふわりと浮かぶは現実。さながらそれは浮世の夢。一夜限りの夢幻。
かつて、詩人はこういった。
『現世は夢、夜の夢こそ真』
その言葉を体現するこの場はまさに夜の夢。人の意識の一つ一つが世界を揺るがし世界を作り、そしてまた、世界を壊す。
夢幻は無現、そして無現は、無限だ。
故にこそ夢幻の世界は形を持たぬがゆえに形あるものによって簡単に干渉され、形なき世界は簡単にその形を変える。が、形なきがゆえにその形は何かにとらわれることなく、動かされた後も『動かされた後の形』こそを正しい形としてその場に漂い、そしてまた夢幻として機能を果たし始める。
「…………相っ変わらず気味の悪ぃ町だ」
つぶやきながら歩くは一人の青年。着崩し着古しよれよれになった真っ黒のスーツに両手を収め、夢幻の町を闊歩する。
「歩いても歩いてもおんなじ風景……しかもゆらゆら揺れて掴み所がねぇときてる………科学者連れてくりゃ、発狂モノだな」
ぼやくように言いながらも、口元には笑み。
「方向感覚も探知に飛ばした魔力もぜんっぜん関係ねえ方向から反射してきやがるし………まったく、『幻想の主』、本領発揮ってか?」
俺のいたころには、考えられねぇな。
つぶやく言葉を締めくくり、温泉街を思わせる幻想の町並みを歩み続ける。
「とは言っても、」
が、青年は唐突にその歩みを止めた。
「………ここは賽の河原じゃねえんだ。あの世この世そんな縛りは関係ねぇ……現世である以上、歓迎するなら歓迎らしく、もっとわかりやすく歓迎しろ……」
言って青年は己の左、そこに存在する木造二階の古式ゆかしい二本建築の建物、その二階の木製の柵を見上げ、
「いるんだろ、牡丹」
確信に満ちた口調は誰も存在しない方向へと飛ぶ。いくら世界が夢幻であろうとも、そこに存在するものがなければ答えるものはいない、よって青年の声は意味を成さない。
その、はずだった。
「……ふふふ、ごめんごめん」
答えたのは、誰もいなかったはずの柵に腰掛ける和服の少女。肩口で切りそろえられた髪、日本的な造型をした白磁の顔、黒地に色とりどりの睡蓮をあしらった着物など、まさに『人形のような』少女だった。
「久しぶりだったから、ついついね」
スミレの花のような柔らかな笑みで、少女は笑う。
青年は不機嫌に表情をゆがめ、
「……くらだねぇ趣味もかわらねえってか………俺のいなかった4年で一体何やってたんだよ、牡丹」
「それはそっちにもいえることなんじゃなぁい? 四道」
若干間延びした口調で少女、牡丹が言う。
「4年前に分かれてから、何も変わってないじゃない。よれよれのスーツも、ポケットに両手突っ込んで歩く癖も、そのみょ~な口調も、ぜんぜん」
「……服装はともかく、口調でとやかく言われる筋合いはねぇな」
見上げた姿勢のまま、青年は続ける。
「で? 一体なにやらかしたんだ、姫さんよぉ」
「ん? なぁんのこと?」
「とぼけんじゃねぇ。お前、何で4年前から成長してねぇんだ」
断言するかのような青年の口調に、少女はまたも笑う。
「ふふ、ちょぉっとね。悪巧みが、うまくいっちゃったから」
「悪巧み、ねぇ………」
嘆息するように、青年。
「もしかして、その悪巧みとやらの成功例に猫はいなかったか?」
「あ、もうアリちゃんに会ったんだ」
楽しげに、少女が両足をぶらつかせる。
「可愛いでしょ? 私の可愛い仔猫ちゃん」
「可愛い、ねぇ………確かに、手駒としては可愛いだろうな」
「あれ? もしかして、襲われでもした?」
「町に入った瞬間、いきなりだ。俺でなかったら死んでるぞ」
あらららららら、とおどけた風に少女が言う。
「ざぁんねん。四道となら仲良く出来ると思ったんだけどな」
「仲良く、か………」
言って、感慨深げに青年は少女を見上げる。
「…………また、あいつも始める気か――――」
ぴたり、と。
少女の顔の、楽しげな笑みが凍りつく。
変わりに少女の顔に浮かんだのは、悲しげな笑みだった。
「……ええ。そうみたい、ですね」
悲しげな口調で、少女は言う。
「哀れな人――――」
打って変わった口調で、少女は空を見上げる。
夕暮れとも夜明けとも付かぬ群青、この世ならぬ世界とを結ぶそれは、大禍刻の空の色。
「………現世は夢、夜の夢こそ真。
果たして己は蝶の夢を見たのか、あるいは蝶が己の夢を見ていたのか、夢幻とは不確かで、形がない。故にこそ夢幻は無現で、そこには限りがない。
されとて夢幻とて事象。事象であるがゆえに万物流転の法則には逆らうことはできず、明鏡止水はありはしない。
―――夢幻なんて、その程度のもの。
いくら夢幻を追い求めようとも鏡花水月、鑑に映った花で、水面に浮かんだ月に過ぎないのに………」
悲しげに、少女は言う。
幸いであったころを夢見るように。
取り戻せないときを、哀れむように。
「………だから、私がとめなければならない」
ゆらりと、
少女の視線が、青年へと向く。
「………四道、あなたと私が別れてから、四年の月日が流れました。先程も申しましたように、森羅万象は万物流転の法の定めるところに従うことしか出来ません。かつて不変を誓った絆がいともたやすくくず折れるように、時流の前には全てが風の前の塵に過ぎません」
それでも――――
「……それでもあなたは、また私の傍にいてくれますか?」
それは、小さな誓い。
吹けば揺らぎ、触れれば崩れる。そんな砂で出来た城にも似た、とても崩れやすく、とても美しい、そんな小さな誓い。
そんな誓いに返答を求めるその少女の姿は、夢幻の町並みの中でなければ姫と形容されるにふさわしく………
そして青年は、その少女を守ってやりたいと、心から望んだ。
「……いいぜ」
言葉に、笑みを交える。
「どれだけの時間が経とうとも、俺はかわらねぇ。それがあの日の誓いだ。もう一回って望むんなら、聞かせてやる。
どれだけの時間が流れようとも、どれだけの傷を負おうとも、どれだけの命を踏みしめようとも、俺がお前を認識できるその限りにおいて、俺はお前と、お前の妹を守ってやる。
………これが、誓いだ」
言って青年は、少年のように。
四年前、同じ誓いを交わしたその日のように、微笑んだ。
これが、始まり。
これが、始まりの夢。
どれだけの時間を踏みしめようとも、どれだけの事象を体感しようとも、一切の意味を持つことがない。
完璧に意味を持たない泡のような、
そんな、一夜限りの、夢の始まり。
× × × ×
「ぅあ…………」
特進市、小鳥遊町に屋敷。その一室。
いつものごとくうめき声(正し本日間がちょっと多め)をあげながら一人の少年、天詩文一はベッドの中で覚醒する。
「………………」
高所から落下する泥、もしくはダイラタンシー状態にある片栗粉と水の混合物のような挙動、用はもったりとした動きで、ベッドから身を起こす。
寝起き、最悪。
おまけに気分まで、最悪。
………いつものこととは言え、こればっかりは慣れない…
内心でつぶやきながら、ベッドから降りる。
毎日毎日、確実に見る夢。それは悪夢、と言い換えることに何の抵抗も感じないほど、全体的な雰囲気が陰鬱としている。
夢の中で、文一はただ謝っている。誰に謝っているのかも、何を謝っているのかも、何もわからないのにただ謝り続けるだけの夢。
おそらく、と文一は思う。
………これのせいで、早く寝ないと倒れるんだろうなぁ…
文一の持つ特殊な体質、それは『必要とする睡眠時間が極端に長いこと』。悪い事は続けばなれる、というが、恐らくはこの体質の原因にあるであろう、あの悪夢だけは何度見ても慣れそうにない。
思いながら文一は立ち上がり、部屋の壁に据え付けてある洋服ダンスのほうへ
「あ~る~じ「勝手に入んな」痛い痛い痛い!」
向かう途中、毎度のことだがなぜか文一の部屋に侵入している同居人、『茜』の体(?)をベアークローで引っつかむ。
「痛い! 本気で痛いよ! やめて~!」
停止をご所望のようであったので放す。そして落下と同時に全力で踏んづける。
「…………で、お前は何で僕の部屋に入るんだ?」
素人目に見ようとも明瞭過ぎる怒気を滲ませながら、自らの足の下にある『本』に語りかける。
『忘れてるでしょ、同室のこと! 踏まないでよ!』
直接頭の中に響くのは、舌足らずな印象を受ける少女の声。聞き間違えや幻聴の類でなければ、その声は本から発されたものであるはずだ。
――――魔道書、『茜』。
五十年ほど前に執筆され、どういうわけか文一が住み込みで働くこの小鳥遊別邸の一室の中に存在した、正真正銘の魔道書である。
主、という呼び方からもわかるとおり、契約者は文一、その住居も文一と同じ小鳥遊別邸という事になっているが、部屋は別々。
で、『あった』のである。
どうも今回のは、全面的に文一に責任があるらしい。
「……まあ、すまん。ほぼ条件反射だ」
「私って条件反射で迎撃されるほどなのかな!」
とりあえず茜から足をどけ、洋服ダンスへ向かう。そしてそのまま洋服ダンスに手をかけ、
「茜―、着替えるからみたくなきゃ出てけ」
『きゃあ! えっち!』
「よし今日は昼飯抜きだ」
瞬間、床に転がっている本が瞬きの間に『人の形』となる。
140センチほどの小さな身長、夕焼けを映した茜色の髪と瞳。全体的な印象は幼いものの、だからといって『いろいろな部分が』未成熟であるというわけではない、そんな中途半端な体系の、少女。
これが、茜の人間形態である。
この魔道書、様々な能力(本人曰く、「茜ちゃん42の能力」)を有しているのである。
「あああぁぁぁ! ごめんなさいごめんなさいぃ!」
そのまま全力で泣きついてくる茜。体が小さいのでそれほど衝撃はないが、なだめるのにかなりの時間がかかりそ――――
「あれ?」
ふ、と違和感を感じた。
………こんなやり取り、前にもやらなかったか……?
記憶の中、おぼろげに存在するやり取り。そう、確かに過去、似たようなやり取りをした覚えがある。確かその日付は夏の……
「ん?」
「ごめんなさいごめんなさいぃぃ 許してぇ……」
正面から泣きついてくる茜、その体を一旦引き離し、
「茜、ちょっと聞いていいか?」
「うんうん答える答えるからぁ……ご飯だけはぁ!」
「今の季節って、いつだ?」
え? と泣きついてくる茜の勢いが停止する。
「主~何言ってるの? 今の季節は大絶賛で真な――――」
一瞬、茜の挙動が止まる。勢いだけでなく、動きまで完全に。
「――――つ、と思ったんだけど……まだ、春の終わりぐらいじゃない?」
「……そう、だよな……」
そう、今は春の終わり。もう夏休みに入っていてもおかしくないような夏の真っ只中だと思うなんて、どうかしている。
今は春、まだ高等部に進んで、一月も経っていない。まあ、その一月の間に降りかかったことを考えると到底一月しか経っていないとは考えがたいのだが、それでも一月は一月である。
「茜、本気で着替えるから出て行け」
「きゃあ! エッチ!」
「飯抜き(再び)」
「ああああごめんなさいごめんなさいぃ!」
再び文一に泣きついてくる茜。
………ああ、またか。
内心で嘆息し、茜をなだめにかかる文一。
この分だと、着替えにかかるのはまだ先になりそうだ。
××××
――――小鳥遊別宅でのやり取りより、数時間前。
小鳥遊別宅からそれほど遠くではない神社、黒椿峰大社の朝は早い。
もともと神職の朝はかなり早いものではあるが、この神社は群を抜いて早く、まだ日も昇らない午前の五時だというのにもうすでに神社の主は起床し、禊、朝食、掃除などを済ませ、現在は神社の本殿の中で………なにやらやっていた。
『…なあ、宿主様よぉ……』
「んー? なんですかー?」
『今朝早くから、いってぇ何やってんだ?』
本殿の中、中央に程近い位置に行灯とともに座るは一人の巫女。絵に描いたような白い小袖に緋袴、髪は黒髪のセミロングで『巫女』と呼ばれて一般的にイメージする姿に非常に近い姿とも言えた。服装が少々だぶついているのはとある事情によって大き目のサイズを着用する必要があるからで、室内だというのに帽子を着用しているのもまた同様。むしろそれらの二つは違和感をもたらすどころか、不思議に全体の雰囲気と調和し、むしろ雰囲気を作り上げるのに一役買っているとさえいえる。
ただ、その右目に当てられた海賊を思わせる眼帯と、
床に正座する少女の左側に置かれた、黒塗り鞘の日本刀は、
そんな言葉で片付けられるほど、甘いものではない。
夜明け前という神秘的な時間、行灯の明かりを頼りになにやら細かい作業をやる巫女、という風景の中。あて布ならまだしも、海賊が使っているイメージがまさにぴったりな眼帯と、大の男が持つならまだ納得がいく日本刀と言う存在は、この神秘的かつ荘厳な中にあまりにも…不釣合いだ。
しかも、
「えと、ちょっと夢で見た事をためしてるです。うまくできれば実践でも使えるかな~っておもったので」
『にしたって朝の四時からやりっぱなしになるこたぁねぇだろ?』
「そうなんですけどねー……一度はじめたら、とまらなくなっちゃいましてー」
『まったく……変なとこで凝り性だなわが宿主様はよぉ』
「ほっといてください」
その日本刀と自然に会話しているとなれば、違和感はさらに増すだろう。
強く質素でありながらも美しい、それが日本刀という武器である。それに付きまとう美というのは西洋剣にありがちな不要な飾りを大量に取り付けた装飾美ではなく、必要最低限の情報のみを詰め込んだ機能美である。
が、その声は『日本刀』という存在にあまりにも似合わない、いうなれば湾曲刀の雰囲気をたたえている。
これで雰囲気に調和しようというほうが、無理だろう。
しかし、
それはあくまで第三者から見た場合の話で、
当事者の主観ではないものから見た話で、
その場にいる人物の世界を否定して観測した場合の話で、
当事者にとって見れば、これは日常だったりするのだ。
黒椿峰、湖織。
化け物を殺すために化け物をなす妖刀、誘宵の使用者であり、黒椿峰霊山の頂上に位置する神社、黒椿峰大社を管理する巫女でもある。一応学生であり、ちゃんと通ってもいるのだが……その裏では化け物を殺すために自らを化け物と化し戦う、戦巫女である。
とはいっても、化け物がいなければいくら天下の戦巫女とはいえど一人の少女。それに備えていろいろとやる必要性が残っているとはいえ、基本的にはほかの女学生と変わらなかったりする。
そう、今のように。
『…で、どんなみょーな夢みたんだ?』
「たいした夢じゃないですよー。でも実践で使えそうだったから今こうして作ってるです」
いいながら手元にある金属製の細い棒、朝焼け色の針に磨きをかけ、行灯のすぐふもと、広げた和紙の上におく。すでに和紙の上には針が数百本の単位で置かれており、相当長い間磨きをかけていたものとすぐわかる。
『いま何本目だ?』
「三百四十九本ですよー。針なのですぐなくなると思うので、四百本ぐらい作りおいておきたいところですー」
『四百?』
「はい、四百ですー」
ほんわかした雰囲気のまま、また新しい針を小脇においた枡の中から取り出し、手元の布で磨きをかける。その作業の中にはよどみがなく、そして相当やりなれた感があった。
「でも、ちょっと急ぎたいですねー。誘宵の手入れもありますし、遠出なのでちょっと時間かけますから、始発に間に合わないかも知れませんー」
『おーおー結局いくのかいわが宿主様よー』
軽薄な言葉に、振り向きもせず表情も変えず、湖織はいう。
「ええ。気になるところでもありますから」
話は数日前にさかのぼる――――
それはいつもの日課として、庭掃除をやっていたときのこと。
一匹の白猫が、一枚の手紙を持ってきたのだ。
庭石の上、池のすぐそばにちょこんと座って、その口に古式ゆかしい降り方をされた手紙をくわえて。
つい先ほどまで、そこには何もいなかったはずなのに。
戦巫女であるがため、湖織は気配には敏感である。
ましてや猫、さまざまな妖魔の類へ変貌しやすい性質を持つ猫だったのである。いつもなら無意識下で即座にその接近に気づき、するりと振り向いて…その存在が害をなさないことを確認してからまたもとの作業に戻る、そのはずだったのだ。
だがその日。
湖織は、猫がそこで一鳴きするまでその存在に気づかなかったのだ。
物音はなく、気配すらも存在しない。ゆえに湖織の意識の中に入ってくることもなく、そのため反応することすらできずに掃除を続行していたときにいきなり、くぐもった猫の鳴き声。
思わず飛び上がってみれば、そこにいたのが白猫で、しかも手紙を銜えていたというわけだ。
その内容に曰く、
『前略 黒椿峰 湖織 様
前触れなしに使いのものを送り、このような手紙をお届けするご無礼をお許し下さい。ですが、私めは今現在、所在地を動くことができぬ状況に陥っており、またこの手紙を届けさせていただいた猫以外、使いのものを送ることすらもできません。その事情を鑑みてなお、無礼だとお怒りになるのならば、この手紙を読まなかったことにしていただいても結構です。
ですが、私めのおかれた状況は、無礼を承知でご連絡させていただかなければならないまでに逼迫しております。
歌香多町をご存知でしょうか? 不肖私めの一族が代々管理する、小さいながらもにぎやかな温泉街です。妖が人とともに戯れ、人とともにあり、また人も妖とともにある、そのような町です。
その町で、今少々大規模な問題が生じております。
その問題が何であるかはこの手紙では明かせませんが、その問題如何によっては町に対し、大きな被害が出ることは間違いないでしょう。
本題というのは、ほかでもありません。
妖怪たちの中でも名高い、あなたの力をお借りしたいのです。
もちろん、断っていただいてもかまいません。むしろ、あなた様の安全を鑑みた場合、そうしていただいたほうが良いのは間違いないでしょう。
ですが、もしこの頼みごとを引き受けていただけるのであれば、この手紙を受け取った日より四日後、歌香多町にいらしてください。
無論、それなりのお礼はさせていただきます。
重ね重ねのご無礼をお詫びするとともに、
良い返事を、お待ちしております。
不一
逢瀬際 牡丹』
………と、いうことらしい。
正直なところ、これだけではわざわざ自分の管理する神社を離れて遠い場所にある町にまで赴こうとは思わなかった。
その意思を捻じ曲げて向かうことにした理由は、二つ。
一つは歌香多町がこの町でもそれなりに名前の通った温泉街であるということ。
どこかで耳にした覚えがある、と思って手紙の末尾に記されていた名前、『逢瀬際』について調べてみれば手紙に書かれていた通りその町でも名の通った名士であり、町の半分を実質的に管理している大家でもある。
気苦労の多い最近だ、温泉街の、しかも名士に恩を売っておけば後々役に立つかもしれない。
もう一つは、手紙の中にも記されていた町の特徴。
『妖が、人と共にある』。
妖怪とはすなわち人とは違う化け物だ。この街でもその存在は一般人に対して隠匿され、何か害をなすような存在は黒椿峰やその関係者によって討伐されている。
つまり、人と関わることが難しい存在であるということ。
完全に人々との暮らしに融和するには、数年程度の時間では足りないということだ。
十年、二十年、あるいは五十年百年、もしかすると何百年かもしれない。それだけの時間を経た関係を築いていなければ、人と妖怪が一所に住まうことはできない。
それが出来ているという事は、
歌香多町が、それだけ長い妖怪との歴史を持っているということだ。
そして恐らく、その中には妖怪の関係する病などの治療法もあるはずだ。
『やっぱり、何とかしてぇのか?』
いつもと変わらぬ日本刀、誘宵の声に湖織は頭上の帽子を軽くつつき、
「はいー。確かに不便じゃないんですけど、やっぱりちょっときになりますから」
いいながら磨きあがった針を和紙の上へ。
湖織の帽子の下、そこにあるのは『耳』。
人間の、ではない。
魔をもって魔を制する黒椿峰大社東社の狗狐風神たる誘宵、その存在が本来もってしかるべきものである『狐の耳』である。
ついでに言えば、体に不釣合いな大きさを持つ緋袴の下には尻尾もある。
いつ行なったのかは思い出せないが、誘宵との完全憑依を行なった際から続く後遺症のようなものである。
『でもよぉ、そんなとこ行った所で後遺症どうにかできるって保障あんのかい? 宿主様よぉ』
「保障はありませんけど、やれるだけやっても損はないと思いますよー。それにもともと荒事は専門ですし、温泉街って聞いてますからのんびりもちょっとはできそうですしねー」
言いながらも針を磨く手は止めない。
「とりあえず、行くだけ行って見る事にするです。手に得るような段階のお話であればお手伝いするのはやぶさかではありませんし、無理なようならお断りして引き返しますからー」
その言葉に、誘宵は少しばかり下品な笑い声を上げ、
『なら好きにすりゃいいけど、一つだけいえるな』
「? なんですかー?」
『今日は登校できねぇ。だろ?』
「………確かに、そうですねー」
ほんわか口調のまま、湖織は特に感慨を見せずに言った。
××××
――――黒椿峰大社でのやり取りより、数時間後。
「ふぅ………」
天詩文一は数時間の旅路から解放されたことによるため息と共に、電車からやけに日本調な駅のホームへ降り立った。
木造のホーム、木造の天井。時計は普通にアラビア数字金属針のものだが、変わりに駅の天井に存在しているはずの電光掲示板が存在せず、その代わりになぜか木製墨字の札に駅名と出発時間、および到着ホームが全て漢字で書かれて下がっている。
「話には聞いてたけど……確かに変な駅だな、ここ……」
「確かに……私の索引の中にもこんな変な駅ないよ……」
隣、というよりも右斜め下方から聞こえてきたのは茜の声。いつもよりテンションが低いのは、やはりこの町の異様さに圧倒されている、ということだろうか。
「まったく……お嬢様も何考えてるのやら……いくぞ、茜」
「あ、待ってよ主~」
とりあえずホームから町に出るために駅の外へと向かう。手荷物は特にないため足取りは軽いが、やはり町の外でまで燕尾服だと少しばかり目立つ。
「ところで主」
「ん?」
いまどき珍しい友人改札口にいる駅員(なぜか和服)に二人分の切符を手渡しながら、軽く後ろを振り返る。
「何でこんな町にいきなり来ることになったの? 学校は~?」
「ああ、お嬢様からの仕事だから、そっち優先しただけ。なんでも、懇意にしとかないとまずい相手らしいから」
………そもそも、僕も知らなかったし。
そう、それは今朝のこと。部屋から茜を追い出し普段着と化している燕尾服に身を包み、昼食抜きの刑罰に本気でへこんでいる茜をなだめすかしながら自らの使える主である小鳥遊灯夜のための朝食を製作して自分用もそのついでに作り、朝食を済ませた直後に、灯夜の執務室に呼ばれたのだ。
今朝のやり取りにいわく、
『………はい?』
『だから今から歌香多町にいる、俺の小鳥遊としての知り合いであるところの逢瀬際家末女に会ってこい。今日のお前の仕事はそれだけだ』
見目麗しい少女であるにもかかわらず尊大、かつ不釣合いな口調で文一の主、小鳥遊灯夜は言った。
『あの……その役目をどうして執事であるところの僕が?』
灯夜はどこか不機嫌そうな仕草で、文一の眼前にある自分のデスクに頬杖をつき、
『………逢瀬際は結構な影響力のある大家なんだよ、天詩。懇意にしておかなければ小鳥遊全体に関わってくることでもあるからな。それにこれから会いに行かせる逢瀬際牡丹は俺の個人的な知り合いでもあるし、一介のメイド送って終わり、とはいかんだろう』
『確かにそうですが………それならメイド長クラスであれば問題はないのでは?』
『それも考えたんだが………先方からお前を名指しされればお前を送るしかないだろう。俺もお前を送りたくはないが、上の立場にあるものを会いに行かせればそれで終わりな状況じゃないんだ。こうなったからにはお前を行かせん事には終わらない』
『え? 僕を名指し、ですか?』
憎々しげに灯夜が視線をそらす。
『ああ………どこでお前のことを知ったのか、フルネームで名指しだよ。どう知ったのかは俺にもわからんが、少なくとも名指しされた以上、お前を送る以外に収集が付かんからな』
『………わかりました。それで、場所は?』
『ああ――――』
言いながら文一の元へ一枚の書類をスライドさせる。
『逢瀬際牡丹……これから会いに行ってもらう逢瀬際家末女の邸宅は歌香多町にある。お前も名前ぐらいは聞いた事はあるだろう?』
『ええ。確か、このあたりでも有名な温泉街、でしたっけ?』
言いながらスライドさせられた書類を引き上げ、読んでみる。どこかの町の、概略だ。
『その通りだ、天詩。牡丹の邸宅はその町の北の端っこ、こんなに規模がいるのかってほど大きなサイズの旅館をやってる。町の端っこだし、一番でかいだけあって大通りがそのまま通じてる。まず迷う事はないだろう』
『で、そこで僕は何を?』
『知らん』
『え?』
『だから、俺も知らん。ここしばらくは会ってなかったはずなのにいきなり先方から「いろいろと人手の要る自体が発生した」なんて言ってきただけだからな。しかも送る人間はお前名指しで』
『……そんなわけのわからない仕事、請けたんですか?』
『しょうがないだろう。俺にもいろいろとあるんだ。まったく、小鳥遊本家も面倒なことを押し付けてくれる……これだから金持ちの外交は苦手なんだ』
『……わかりましたよ。欠席の知らせはお願いできますか?』
『ああ、やっとくよ。あと、一応茜も連れて行け。まあ、あいつのことだ、言われなくても勝手についていくだろうけどな』
『ええ、そうでしょうね。僕も言われるまでもなく連れて行くつもりでしたから』
『いい心がけだ。あと、最後に一言言っておく』
『何ですか?』
『三日以内に、終わらせて帰って来い』
『…………はい?』
回想終了。
そういうわけで、文一は今ここにいる。
いまどきかなり珍しい有人の切符販売所を横目に見ながら完全木造の駅舎を茜を伴いながら抜け、目的地たる町へ出る。
踏みしめられて固められたむき出し地面の、大通り。
その左右を囲む、木造建築の平屋。
どこからともなく漂ってくる温泉特有のやわらかな硫黄の匂いと、浴衣で町を歩く人々。
紛れもなくここは何かの撮影やジョークの類でなければ温泉街、それも相当歴史ある類の町並みだ。
その町の名を歌香多町という。
文一の普段居住する小鳥遊町でも音に聞こえた、由緒正しい温泉街であり、この国においてはかなり特殊な、財閥などにおいて管理されない完全分権的な自治区だ。
「うっわー、露骨に温泉街だね、主!」
「確かに……話には聞いてたけど、ここまで露骨に温泉街だとは思わなかった」
茜のテンションが高いのはいつものこととして、見慣れぬ風景に思わず文一のテンションも上昇する。
が、
「ささ、主! 長くいたくないから早く用事済ませて帰ろう!」
テンションの上がり方の方向性が、二人の間で若干違うようでもある。
「ん? どうしてだ、茜。長旅だったんだから、ちょっとぐらいのんびりしても――――」
「いやっ! それだけは絶対いーやー!」
断固拒否っ! とでも言うように表情を強張らせる茜。
………あれ? 茜って旅行嫌いだっけ……?
一瞬脳内で茜らしからぬ強硬な反対姿勢の理由について思案し、
………あ、そうか。
そして一瞬で思い至った。
茜は今でこそ人の形をしているものの、その本質は魔道『書』、つまりは『紙』である。そのせいなのか、普段でも液体状のものを嫌う場面が多く――――当然ながら風呂も嫌っている。何度か嫌がらせもかねて勧めてみたことも、風呂に入らないことを気にして灯夜が衛生検査のようなものを受けさせたりもしたのだが、どうも本の形態に戻れば全ての汚れが下落するらしく、つまりは入浴の必要性がないらしい。
そんな人物(?)が温泉街で、喜ぶはずがないだろう。
「わかったわかった。僕も長居する予定はないから、さっさと終わらせるぞ、茜」
「うん!」
一変して喜色満面の茜。
「でも、頼まれた仕事終わらせる間はおとなしくしてること」
「うん!」
「あとむやみやたらに騒がないこと」
「うん! りょーかいだよ!」
「よし出発」
言いながら茜を隣に伴い、歩き出す。
………確かに、温泉街だ…
一歩ごとに、その実感がどんどん広がっていく。
まず足元、歩いた感触からして小鳥遊町とは違う。
コンクリート舗装路にはない砂利道特有の感触が歩いても歩いてもなくならないというのは普段舗装路の上しか歩いていない文一にとって見ればかなり新鮮な感触で、そしてそれ故にかなり楽しい。
「ん~長居はしないけど、一泊ぐらいならしてもいいかも」
「ひゃぃ!」
奇妙な声を上げ、前身をびくりと振るわせる茜。
「ちょ、ちょちょちょ主! 一体どういう気の迷いなの? さっきは長居しないって言ってたよね一泊するなんてどういうつもりなの!」
「いや、だっていい街だろ? それにお嬢様公認だし、一拍ぐらいなら問題にならないって」
ついでに言えば、あの灯夜がわざわざ『三日で終わらせて来い』なんていい置く仕事が半日足らずで終わるとは思えない、というのもある。
「やだやだやだ! それだけはぜっっっっったいにやだ!」
「まあまあ」
「いーやーだっ!」
完全にごね始める茜。
………いかん、ちょっと楽しいかも。
普段からいろいろやられているが、こちらから積極的に行動することはなきに等しかった関係だ。たまの非日常、弄ってみるのも楽しいかも…………
黒い考えが文一の中で浮上する。
「いやちょっと待てよ………確か逢瀬際 牡丹さんって旅館経営だっけ」
「うっ」
「あんまり気難しい人じゃないと思うけど、仕事の長さによってはそのまま現地宿泊だな」
「うううっ」
「魔法云々には精通してないはずだし、普通に入浴しとかないと怪しまれるかも……」
「だったら私本でいい! 本のままじっとしてる!」
「お嬢様の話だと茜の話も通したらしいけど?」
「ふぐっ………」
逃げ場、なし。
言い逃れ、出来ず。
沈黙のまま、機械的に体だけが前に進み、
「……どうする?」
「…………」
返事はない。ただの魔道書のようだ。
………うん……まずい。弄りすぎたかも……
「ま、多分そうはならないと思うぞ。僕もなるだけ早く戻りたいし、仕事自体もお嬢様の口ぶりだとそんなに大きな仕事じゃないだろうし、泊まりにはならないだろうから」
「本当っ?」
一気に元気を取り戻す茜。
文一はうなずき、
「そうなるように努力はさせてもらう」
けど、と前置きしてから、
「泊まりになる可能性も無きにしもあらずだから、手伝えるものなら手伝うこと。OK?」
「うん! おっけーだよ!」
満面の笑みを浮かべ、全力でうなずく茜。
やはり街が変わろうとも風景が変わろうとも、役割が変わろうとも染み付いたやり取りはそう簡単に変わらないらしい。
いつもと違う場所という非日常、街から離れての仕事という非日常、その中に唯一存在する日常。
それから外れた現実というものを認識した人間であれば、こう願うだろう。
こんな時間が、いつまでも続けばいいと。
しかし、往々にして、
「………へぇ…みょーな気配がするから出てきてみれば……よりにもよって『師走』か……手当たり次第に呼び寄せたもんだな、あいつも」
その願いは、いとも簡単に壊されてしまうものなのだ。
「!」
正面、右側に立ち並ぶ平屋のうちの一つ、茶屋の店先に一気に全神経が集中する。
自分に向けられたかどうかも定かではないその言葉、それにまぎれた単語は間違いなくあの町の関係者、しかも裏側を知るものでなければ知ることも、さも忌々しいものであるかのように形容することも出来ないはずのもの。
そしてその名前を発するものは文一にとっては十中八九、敵である。
………今のは、
ただの独り言だろうか。
あるいは、文一が『師走』であったことを認識してでの言葉だろうか。
どちらにせよ、自分がその存在を気取ってしまったことを気付かれるわけには行かない。
思いなおし、茜を引き寄せてそのまま歩きだ――――
「逃げんなよ、師走の。んなちっせぇガキ連れて逃げられるわけもねぇし――――第一、俺は逃がさねぇよ」
「!」
判断に要した時間はわずかに一瞬、あるいはその半分。それだけの時間を持って茜の手を引いて全力で走りだす。
が、向こうの対応も、
こちらが思うよりも、
早かったらしい。
「《隔てろ》」
距離があるはずなのに、不思議と大きく聞こえたその言葉と同時、
世界が、隔離された。
××××
――――文一の歌香多町到着より、数時間前。
「……なんなんでしょうねー、この空」
夜明けと朝の境目程度の時間、黒椿峰湖織は歌香多町の大通りに降り立った。
降り立った、はずなのだが………
その、空。
夜は、とうに明けたはずなのに。
天気は、快晴のはずなのに。
湖織は、起きているはずなのに。
町は、『夢幻』に染まっていた。
夜明けと夜の入りに見られる群青色、それはこの世とあの世とのつながりを示す時間帯、すなわち大禍刻の空。まだ夜が明けてそれほどの時間が経っていないとはいえ、夜が明けきってしまっている以上、天候が悪化していないかぎり空がこの時間、大禍刻の色に染まるはずはないのだ。
そして、町並み。
ゆらりゆらりと揺らぐは大気。風の吹き込む水面のごとく、一足ずつに空気が揺れる。
ぐらりぐらりと惑うは町並み。水に浮かべし絵紙のごとく、揺らぎの度に町並み惑う。
ふわりふわりと浮かぶは足元。風に流しし着物のごとく、一吹きごとに地面が浮かぶ。
さながらそれは起きながらにしてみる夢幻。眠りの中にのみ存在しているはずの現実でありながらも現実ではない、一夜限りの世界の風景。
『気ぃつけとけよぉ宿主様? たぶんこりゃ妖術か、そうでなきゃ魔術だぜぇ?』
「魔術?」
『あぁ間違いねぇ。妖術なんてそんな便利なもんでもねぇし、こんなに現実ぐちゃぐちゃにしちまうよーな代物があるわきゃねーだろ?』
耳障りな声で、湖織の帯に手挟まれた誘宵が笑う。
『ま、どっちにしろ素直にお迎えーなんて自体にゃならねぇだろうよ』
言葉を耳にしながら、湖織は数歩大通りを歩き、
「……ですね」
その雰囲気を、がらりと変えた。
雰囲気の、変貌。まるで日に干したての布団の中から鋭利な日本刀が顔を出したかのように、その表情が、雰囲気が、気配が、心構えが、全て変わる。
ただの職業巫女、神社の掃除や小さな神事、参拝客の相手を行う柔らかな女性から、
その身をもって魔に変じ、魔を討つために力を振るう戦巫女へと。
静謐極まりない、抜き身の日本刀のような雰囲気を湛えながら、一言。
「そこの茶店の中。敵意がないならそれを証明してください。その場合はただの悪戯で済ませましょう。しかし…………」
一歩、左斜め前方にある土産物屋と茶店を融合させたような店に歩み寄る。そして己が腰にある誘宵に手をかけ、
「敵意があると判断した場合には、容赦はしません」
居合い抜きのような構えを取った。
瞬間、
「………さすが…黒椿……気付いた…」
ぽつりと、つぶやくような言葉と同時、
一人の少女が、大通りにその姿を現した。
ともすれば小学生に見えそうな小さな体躯、腰ほどまで伸びた銀髪。子供サイズの着物を洋服と足して2で割ったような奇妙な衣服を身に纏い、身の丈に不釣合いなほど落ち着いた表情でゆっくりと湖織を見ている。
それだけ見れば、あるいは普通の少女だっただろう。
だが、今の町の様子と、その気配。
戦いになれたものが見せる特有の気構え、こちらに対して常に一定の敵意と警戒心を見せるその姿勢、そのくせそれらの中に年相応の少女の無邪気さのようなものを織り交ぜたそれは、もはや『ただの少女』で片付けられるようなものではない。
湖織は居合いの構えを解かぬまま、少女に相対し言う。
「何者…ですか……」
「……もう、会ってる……私たち…」
「会っている?」
怪訝に眉をひそめる湖織と、
『なーるほどな』
納得したような声音をあげる誘宵。
「……誘宵、どういうこと?」
『簡単な話だよ。なあ譲ちゃん? 前に神社に来た猫、アンタだろぉ?』
「………正解」
特に表情を変えることなく、ぽつぽつとその少女は言う。
「……私、化け猫だから」
化け猫。
猫が十数年、人間に換算すればおよそ100年の時を経て力を持ち、その身を妖魔に変じた妖怪。恩義に報いるために主に仇を成した人間を食い殺すとも人に殺された猫がその恨みを晴らすために妖怪化するとも言われており、また人を食らうことによってその人間に成り代わるとも言われている。
要は、猫の妖怪だ。
そして、人の姿をしているからには恐らく………
「………食らったのですか? 人を…」
誘宵を強く握り締め、腰を低く落とす。
「……だとしたら………?」
言葉と同時、少女がくるりと舞い踊るようにその身を回転させる。銀の長髪が動きにあわせてくるりと回り、着物のすそが柔らかに広がる。
年相応の少女の無邪気な仕草、その中から確かに見え隠れするのは、殺気。
一瞬でも気を抜けば首を切り裂かれ、一拍でも反応が遅れれば胴をぶち抜かれ、一挙動でも行動を間違えれば足を切り落とされる。そんな死と生のぎりぎりの境目を相手に幾度も強要させるような、それは紛れもない殺意。
「……だとしたら………どうするの……?」
「っ」
疑問を持って肯定となす、その少女の物言いに湖織は小さく舌打ちし、
「…………誘宵」
『わーってるよ』
ゆらりと、湖織の周りの大気が不自然に揺らぐ。壁を作るかのようにゆったりと気だるい速度で湖織の頬を、袴を袖口を、髪を撫で、そしてその風に誘われるように帽子がゆっくりと宙に舞い、
その下から、狐の耳が顔を出した。
いつ使ったか思い出せない、狗狐風神との完全憑依の証であり、そして黒椿峰湖織、その役割が何であるかを照明する証でもあるそれは、狐の妖魔である狗狐風神のもつ耳。
それを表に現すとき、それは。
「知れたこと、です。人食いの獣であれば、生かしておく道理はありません。たとえ共存の街であろうとも、私はあなたを……」
黒椿峰湖織、その全力戦闘のときのみである。
「切ります」
言葉と同時、
湖織は己に憑依する狗狐風神、その依り代である刀を抜刀した。
× × × ×
着古しよれよれになった黒のスーツ、ボサボサの髪、ひょろりとした縦に長い体格。両手はよれよれスーツのジャケットの中に突っ込まれ、目線はやけに長い前髪の中に埋もれてうかがうことは出来ない。
だらしない、その一言に尽きる風貌のはずなのに。
不思議と、文一はその人物から『弱さ』を感じなかった。
逆に感じたのは、得体の知れない恐怖。
わけのわからないもの、先の見通せない通路、どこに通じているかわからない道。そこには先があるはずなのにどうなっているか見通せず、一度入り込めばどうなるかわからないものに付きまとう『未知への恐怖』の感触を、その人物は孕んでいた。
ゆらりゆらりと揺らぐは大気。風の吹き込む水面のごとく、一足ずつに空気が揺れる。
ぐらりぐらりと惑うは町並み。水に浮かべし絵紙のごとく、揺らぎの度に町並み惑う。
ふわりふわりと浮かぶは足元。風に流しし着物のごとく、一吹きごとに地面が浮かぶ。
空は向こうの世界、大禍刻のものを映した群青色で、先程存在したはずの町並みは夢幻へと移り、辺りに散在したはずの人はいまや一人もいない。この町にいる人物は文一とその背後に付き従う茜、そして眼前、大通りの中央に屹立するよれよれスーツの人物だけ。
「………へぇ。これ見て逃げるのをやめるってこたぁ、ある程度場数は踏んでんだな……ま、でなけりゃうちのお嬢がわざわざ呼びつけるわけもない、か……」
口の端をゆがめ、さも楽しそうに青年は言う。
「うちのお嬢ってことは……お前……」
「ああ、その認識であってるぜ、少年A」
眼前の青年は気取ったように恭しい仕草で両手をポケットから出し、その場で貼り付けたような仕草で頭を下げる。
「どうも、お初お目にかかります。小鳥遊町管理家『小鳥遊』次女、小鳥遊灯夜お嬢様付き執事、天詩文一殿。不肖私め、歌香多町最大自治権限者、逢瀬際牡丹お嬢様付き下男、巡原四道と申します。此度はわがお嬢様のお招きに応じていただき、恐悦至極でございます。して、早速ですが…………」
気取った口調、気取った態度、その全てが急速にもとの色を取り戻し………
「うちのお嬢が勝手に呼んだ『師走』、その力、試させてもらう」
「! 茜!」
青年の言葉が途絶える途絶えない程度の時間を用い、茜の姿が人のそれから本のそれへと転じる。
「『剣為せ』!」
言葉と同時、青年の手がポケットに伸び、その内側から銀弧が、冗談ではすまない切れ味を有していることが遠めにも見抜けるナイフが取り出され、
「『幻在』――」
『刃在れ!』
茜の言葉と同時、手の中の魔道書が散らばりその形を変える。が、それと同時に青年がナイフを右手に姿勢を低くし、そして手の中の本が収束しきるその寸前、
「――《水走》」
青年の姿が掻き消えた。
「な………」
驚愕するも一瞬、手の中に再び収束した武器に走った衝撃に弾き飛ばされるように後方へ飛びずさる。
「ぐっ………!」
「おらおら、どうした?」
先程までそこに確かに存在していなかったはずの青年、いまや互いの殺傷圏に入った青年がゆらりと距離をつめ、手の中の銀弧を振るう。
「……舐めるな!」
斜め一閃から遊ぶように振るわれた青年のナイフを、己の手の内にある茜の変じた武器ではじき返す。そしてがら空きになった胴にその切先を向け、
「装填、展開、『爆』!」
全身を軽度の虚脱感が走ると同時、切先から小さな爆発が起こり、
「……おっと」
青年が軽快なバックステップで一気に五メートルほども距離をとった。
明らかに人間では不可能な、跳躍。たった一度のバックステップで五メートル以上も距離をとり、あまつさえまったく体制を崩さないそれは、紛れもなく超能力か、もしくは魔術の類の挙動。
「ほぅ………やっぱそれぐらいはやってもらわないとな」
『主! 今の――――』
「まだなんともいえない」
言いながら距離を測るように右手の中の茜を構えなおす。
文一の右手に収まった茜、その姿はいまや剣。両刃の刀身、東洋風の柄、柄頭からは四本の紐が伸び、その先端には宝珠とでも言うべき四つの珠がぶら下がっている。
魔道書『茜』、武器形態『暮言刃』。
それが、この武器の名である。
暮言刃を手にしたまま、文一は再び姿勢を整える。
………今の、剣戟……
構えながら思考は先程の攻撃、その対策の思考へ移動する。
先程の移動法、『こちらに対して一切の姿を見せぬ超高速での移動』を孕んだ攻撃は十中八九魔術の産物か、そうでなければ何かの超能力だ。が、この空間、辺りの空間からの隔離を行った以上、起こせる現象が一方向しか存在しない超能力では不可能だ。
つまり、あの攻撃は魔術。
………だとしたら、詠唱は、
『幻在』。その言葉だろう。
どこから仕入れたのかまるでわからない知識から告げられるのは魔術のシステム。全ての魔術はその行使の前に今から起こす現象を一言に要約した一言を入れる、少なくともその必要がある。
………となると、
必要となる詠唱を丸ごとなくし、わずか一言において魔術を行う眼前の青年、その腕はいかほどのものだろうか。
………勝てるかどうか、わからない。けど、やれるだけは……
「やれるだけやるぞ、茜」
『そうじゃなくて、主、今の攻撃多分………』
「悠長におしゃべりしてる場合か? さっきは得物狙いだったが……今度は全力で行かせてもらうぜ?」
「!」
文一が緊張を全身にみなぎらせると同時に、四道はその身を低く沈める。
そしてその手が土を蹴るための『脚』となるのを視認し、
「『幻在』」
「装填、展開! 『つよ―――』」
「《水走》」
き、と文一が言い切る、その寸前。
四道のナイフが、暮言刃に叩きつけられた。
「な、に………」
「へぇ、運のいい奴……っとぉ!」
言葉と同時に四道から渾身の蹴り。
ギリギリで剣を用いて受け止めるが、再び四道との距離が開く。
『やっぱり! 主、今の攻撃魔術じゃないよ!』
「嘘だろ……」
魔術ではない、つまりそれはこの剣戟が百パーセント四道の身体能力の賜物であるということである。イコールで、魔術の背景が背後にないということ。
四道の身体能力が、人外魔境の領域に存在するということだ。
「もいっちょいくぞ。『幻在――――《水走》』!」
「ぬぅ……っ!」
驚愕のすきもなく、再び『不可視の剣戟』を叩き込む四道。手の中の暮言刃が強く振動し、腕全体に痺れが広がる。
………! そういうことか……!
文一の中に理解が広がる。
四道の攻撃、それは不可視の剣戟ではない。
ただ単に、文一が『見えた』と判断できていないだけなのだ。
確かに四道の姿は見えている。確かに剣戟の存在も見えている。ただそれがあまりにも速すぎて、脳が『見えた』と判断を下せない。見えているのに脳が見えたと理解することが出来ない。
つまり、視認不能ではなく判断不能、光でなく相手の脳の判断速度を振り切る移動法。
………だけど、それならそれで………
「もう一発………」
「装填、穿×爆×爆」
文一の言葉につき従うように、柄から垂れ下がる宝珠三つに光が灯り、
「『幻在《水走》』!」
言葉に応じ、四道が判断不能の高速移動を行い、
その瞬間、暮言刃が正面へ閃き、
「《爆壊 日没》!」
言葉と同時、切先から一寸の光が飛び出し、
そして正面、横一線の構えにあった四道の体に直撃する。
いくら速度が高速であろうとも、
攻撃方向が正面から存在しないのであれば、対応は容易である。
剣先から飛翔した光弾、それが生み出した爆風に大きくあおられ、四道の体が宙に舞う。
その瞬間に大きく踏み込み、四道の下に移動し、
「装填、展開。『断』!」
言葉と共に暮言刃を一閃した。
刃から放たれるは形を成した無形。本来は形を持たないはずの『斬撃』という概念に『魔力』という形を強制的に付加した、文字通り飛来する斬撃。
空中で姿勢を崩した状態であればその一閃は避けようがない。そのまま斬撃は掠めるように四道の肩先を切り裂――――
「『幻在――《空弾》』」
く、その直前。
四道の体が、横に『跳ねた』。
「二段ジャンプ、だと……」
『出来る人、いたんだ!』
「いるわけねぇだろっ…! ……くっ!」
ゆらりと落下の勢いをのせた斬撃。重い衝撃が一気に暮言刃を伝い、腕に痺れが走る。
「展開、『爆』!」
「《空弾》」
剣先を無理やりに跳ね上げ、爆発を放つ。が、それもまた四道が空中で跳躍し、いとも簡単にかわされる。
「装填展開『強』!」
直後に身体能力強化、一歩踏み込み跳躍し、普段からでは考えられない速度で下側からの一閃。
「甘ぇ」
簡単にナイフで刃先を反らされ、
「んで…………」
四道が着地し、
「幻在できねぇのに、宙に身ぃさらす馬鹿があるか」
文一の落下予測地点から一歩身を引き、ナイフを逆刃に返し、
「『幻在《影葉》』
ぐらりと、四道の姿が二人になった。
「!」
『強』によって加速された神経、それが見せるのはスローモーションの世界。落下する自分の体、ブレたまま跳躍し、こちらにナイフを振りかぶる四道、間に合わないであろう防御、それでも動く腕。二人となったままの四道の姿はやがてこちらを確実に殺害できる位置まで接近し、
―――― ガイン! ――――
「がっ………は……」
たまたま暮言刃にぶち当たり、衝撃から地面に叩きつけられ、地をすべる。衝撃からか、呼吸が上手くできなくなり、脳にも衝撃が入ったのかうっすらと脳に鈍痛が響く。
『主! 大丈………』
「夫、に決まってんだろ。こっちとら手加減してんだ」
ザッ、と。四道が一歩、接近する。
その姿に疲れはない。爆撃の影響か、もともとボロボロであった服装が更にボロボロになってはいるが、ただそれだけ。目立つ出血もなければ疲労も見えず、ダメージはまったくないように見える。
………ありえ、ないだろ……
確実に一撃入ったのに。
あれだけ高速で移動していたのに。
何度もこちらは命を賭けたのに。
向こうには、まだ余裕がある。
人外魔境の体術に、
底なしの体力。
「……化け物、か……?」
四道の表情に、笑みが浮かぶ。
「い~や、残念ながら人間だ。さっきの二段ジャンプのこと言ってんなら、あれもただの体術だぜ?」
からからと、軽薄な表情のまま四道は言う。
「発勁。全身の筋肉の伸縮、重心の移動、物体を押し付ける力。そういう力を一点に向けて全解放し、接触しながらにして全力打撃に匹敵する打撃を放つ武術の一種だ。単純に便利な技術だが……仮に、仮にその力を『空中で一方向めがけて全力解放したら』…どうなると思う?」
つまりそれは『空気を殴って』跳躍するようなもの。
人の判断速度を超過するような高速を可能とするだけの身体能力を、ただ空中を移動するためだけに全力使用する技。
「ま、二段ジャンプも五十センチぐらいならできるが………役にもたたねぇことやってもしょうがねぇだろ?」
ま、役に立つ事はたしかだが。
そういって、四道は更に一歩、文一に歩み寄った。
「……ほら、立てよ師走の。俺様を待たせるなんて、何考えてやがんだ。こっちとらてめぇを待って朝っぱらから茶店で張り込みやらされたんだ……そん時に溜まったもんの解消ぐらい、てめぇで手伝え」
「くっ………」
ぐるりと体を半回転、ひねりあげるようにして再び立ち上がる。
………まだ、いける……
内心で思いながら、暮言刃を握り締める。
「………そうこなくちゃな……」
満足げに四道が微笑み、順手に返して腰を低く落とす。
「さて………そろそろ本気一発、行くぜ? お嬢からは試すだけにしとけって言われてることだし………全力一発、止めてみろ」
言って四道は膝を深く折り、左手の爪を深く地に着き刺す。
「言っとくが今度のはさっきの『幻在』とは違げぇぞ。正真正銘、一時は冠位十二ヶ月の化け物どもとタメ張ったことさえもあるこの俺、巡原四道の本気、『死在法』だ。生半可な覚悟だと、死ぬぜ?」
死。
緊張が、一気に文一の中に湧き上がる。
そのまま四道はにやりと笑みを見せ、
「《滅せよ。語るは法則、望むは消失、掴むは自由。一身縛る法則、その《色》消し去りて自由を科せ》」
………魔術……!
「死在」
認識すると同時、
「『酷死《空渡》』」
瞬間、
四道の姿は、宙に舞い上がった。
× × × ×
二陣の疾風が、町を蹂躙していた。
和やかに頬を撫でるそよ風とは完全に対極の立場にある、暴風。一陣でも存在すれば老朽化の進んだ建物や、たまたま崩れやすい場所が存在していた建物などひとたまりもなく崩壊し……そしてそれが二陣同時に存在していた場合その被害は計り知れない。
そしてさらに、
この二陣の暴風には、容赦というものが存在しない。
「刀式・風神閃!」
暴風の片割れ、その体躯にはあまりにも不釣合いな日本刀を振るう、狐耳の巫女がその刀身から爆風を放ち、
「………危ない……」
暴風の片割れ、和服とも洋服とも取れる奇妙な服装をした、銀髪の少女が、軽やかに二メートルほども跳躍し、回避する。
そして空中で銀髪の少女が両手を広げ、
「《獣肢・鋼爪》」
一瞬、瞬きの間に少女の両手が人のそれから獣のそれ、人の骨格をしながらも表面に薄っすらと体毛を生やし、鋼のごとき爪をその指の先端に持つものへと変じる。
「《獅子の構 四の型――――」
その姿勢のまま巫女の正面まで下落し、
「――――東狩》」
押し包むように、その爪を振るう。
「ふっ………」
掛け声と共に、巫女は後転のように身を浮かせてその一撃を回避し、
「帯式・周風!」
袖口から放った無数の糸、裁縫にでも使えそうな糸が突然発生したつむじ風によって舞い上がり、少女を包み込むように広がる。
高速回転する風、それに巻き込まれた糸。それらが産むのは衝撃の壁である。触れるものをはじき返し巻き込み踊り狂わせる壁は一切のものを通さず、結果その壁の中に存在するものを押しつぶす。
その、はずだった。
「《獣肢・速駆》」
言葉と同時、疾風の壁が裂けた。
「え……っ!」
驚愕するもまもなく、巫女の眼前に迫ったのは獣の四肢もつ銀髪の少女。その爪は振りかぶられ、それが振り下ろされるまでに残されたときは、
瞬きもない。
爪と鋼の触れ合いは鉄の響きを持ち、夢幻の町に鐘を鳴らす。
弾けた暴風の音を超えるその音の響き。
それをもたらした二つの金属のふれあいの力は、いかほどのものだろうか。
「……っ、重……」
「………続く」
距離をとろうと跳躍した巫女、それに続くように高速で少女が前へ出、
―――― !! ――――
もはや金属音は響きではなく連なり。
一つ一つの音を数えることも出来ぬほどの高速で、金属の音は響く。
二人が疾風を超える速度を持つというのならば、
その眼にもとらぬ剣戟は迅雷のそれであろう。
押すことなく押されることなく、攻め入られることなく攻め入ることなく、互いに互いの命を取り合うやり取りを行い、針の穴を通すが如き死線を幾度もくぐり、二人の剣戟は続く。
が、そこにもやはり限界というものもある。
「………くっ――」
先に苦悶の声を漏らしたのは巫女、湖織の側だった。
敵である少女、その両手に閃く得物は爪、己の手足の先に存在するものである。
対して湖織が扱うのは日本刀、手足の延長線上に存在するものでありながら、決して手足にはなりえない武器だ。当然ながら、どれだけ扱いなれていようともその一振りで消費される体力は手足を動かすのとは比べ物にならないほど大きく、結果として限界時間は徒手空拳で戦うのと比べて速く訪れる。
獣そのものと、
獣にその身を窶したもの。
その二つでは、条件があまりにも違いすぎる。
「帯式・阻壁!」
全身を軽量化させるために滞留させている風を衝撃として一気に外側へ打ち放つ。
「………あっ」
小細工も何もない、ただの補強材として糸を用いただけの爆風にまともにあおられ、少女の体が幅遠く、宙高くに舞い上がった。
「誘宵、アレ、行きます」
『アレってーと………あれか? 初戦で大丈夫かよ?』
「だからフォローを」
言って誘宵を握らぬ左手、それを懐に収め、その指の間にそれらを挟みこむ。
朝早くより磨きをかけ、対妖怪戦闘用に強化した針。
金色の輝きを持ち、何かの意図があるのか後端には穴が開けられたそれは、裁縫用というにはあまりにも大きすぎる、また不要にもきわまる、武器という形のみを持つ戦闘用の飛針。
「針式・射手穿」
言葉と共に、湖織はその針を投じた。
突風によって作られた高速の本流、それに乗り上下に放射しながら針は広がる。縦に広がった針はそのまま落下を行う少女のもとへと飛来し、
「………んっ!」
少女の一声と共に、左の爪にてはじかれた。
はじいてなお姿勢を崩さぬ少女は猫の挙動そのままに地面へ着地する、
その寸前、
「針式・松葉一布施」
湖織の手によって、直進する高速の針が放たれる。
落下の寸前、着地姿勢。その状況ではいかに素早かろうともはじき返すなどという芸当は出来ようはずもなく………
「危ない」
跳躍のためにこめた力はまさしく一瞬。しかしその一瞬の間に少女は後方へ回転しながら跳躍し、針の流れを飛び越えた。
「誘宵! アレ、行きます!」
『あれって……あれもかよ! お盛んだねぇ』
「軽口結構」
言いながらも湖織は己の手の内にある日本刀、それを帯びに手挟んだ鞘に戻した。そして腰を低く落とし、足を適度に開き、己の中へと神経を集中させ、
「刀式――――」
巻き起こるのは風。前方の空気自体がそこから離れていくことを欲するかのように渦を巻き、一切の風も空気の流れも起こらぬ空間を作り出す。
それはまさしく真空の通り道。入り口を塞ぐは居合いの構えを取る獣憑きの少女、そして出口を塞ぐは十メートルほど先、今まさに着地しようとしている獣そのものの少女。
その少女の姿を見据え、湖織はより深く腰を落とし、
「――――刹那冥道!」
一声と同時、後方から叩きつけられるような暴風を受け一気に加速し、
そして一刹那の後、十メートル存在したはずの距離を一気にゼロにして、抜き放たれた刀が少女の爪を捕らえた。
「………あっ……」
声と同時、振りぬいた方向に従って少女の軽量な体が右へと飛翔し、その先にあった土産物店の扉へ激突、そのまま扉を突き破り、内側へとその身を叩きつけられた。
「…………」
ちりちりと、白色の小袖の袖口が焦げる。
ちりちりと、緋袴の裾が焼け付く。
一気に加熱するは全身。極端に無理な運動をした後のように全身が一気に紅潮し、しかし心拍数や呼吸数は一切上昇せず、全身の温度だけが激しく上昇する感覚が襲ってくる。
『大丈夫か、宿主様よぉ!』
「―――っ、平気というには、無理があります」
ふらりと、全身が右に傾き、
「っ」
睨み付けるようにして右の土産物店、少女を叩き込んだ店の中へ視線をやりながら踏みとどまった。
刀式・刹那冥道。その刀身の一振りは瞬きの間に冥府への道を駆け抜けされるだけの速度を持ち、これを一度受けたものは何をされたのかわからぬうちに両断される。
その正体は非常に単純、ただ『後方からの爆風によって加速した』だけのことだ。
が、その加速中の道、疾駆する空間が違う。
湖織が疾駆した十メートルもの道筋、その全ては『真空』だったのだ。
空間内を直進する物体、その加速に対してもっとも大きなブレーキをかけるのは空気抵抗である。空気は粒子、粒子は目には見えずとも無数の群れを持って直進する物体にぶつかり、その速度にブレーキをかける。
が、もしこの空気が存在しなかったら? もし一切の空気が存在しない真空という筒の中を加速していたとすれば?
その物体は、通常では考えられない速度で移動することが可能となる。
無論、現実にはそう簡単にはいかない。人体を構成するのは細胞であり、その表面を構成する細胞膜は半透性、つまり水分を通してしまう。真空中であれば浸透圧はとてつもない力でかかることになり、下手をすれば全身がミイラとなってしまう。また呼吸のために肺の中に存在する空気も出口を求めて肺の中で膨張し、内臓を破裂させる危険性を抱えている上、停止の祭は今まで存在しなかった空気抵抗が一気にかかり、膨大な熱量によってその身は焼かれることになる。
故にこそ、この技は湖織にしか、『風を操ることの出来る』ものしか使用することが出来ない。
膨張しようとする気体を能力によって押しとどめ、空気中に出た際の摩擦熱を緩和することの出来る、それこそ湖織のような能力者だからこそ使用できる、危険技なのだ。
「………………」
ふらつく身を押しながら、湖織は土産物店のほうへと歩を進める。
体温上昇のせいか、思考は上手くまとまらず足取りは安定しない。それでも手の中の誘宵だけは手放さず、表情だけは油断を見せることなく土産物店へと歩み寄る。
物音はなく、動くものの気配はない。店内にはただ粉砕された商品や棚の残骸などで死角も多く、少女の姿をうかがう事はできなかった。
「……………」
油断なく、店内へと足を踏み入れる。
右手に番台のような会計場、左手に水墨画の飾られた壁、正面に粉砕された棚。奥のほうでかなりの量の瓦礫が崩れており、先ほどの刀式がどれほどの威力を持つものであったのかを物語っている。
瓦礫の中なのか、少女の姿は見えなかった。
「………誘宵」
「イーッヒヒヒヒ。好きにやりゃいいぜ、宿主様よぉ」
「…………」
無言で誘宵を横一線の構えに持ってくる。そして震える体を押して無理やりに刀身を安定させ、
「……刀式、」
刀身に風が集い、
「風神―――」
そのときだった。
――――― パチ、パチ、パチ ――――
湖織の背後から、その音が響いたのは。
小さな乾いた、しかしどことなく温かみを感じさせる連音。
端的に表現するなら、拍手といったところだろうか。
「……誰です?」
首だけを動かし、後ろを見る。
「いやいや、お見事といわせていただきますよ、黒椿峰湖織さん。狗狐風神憑きと聞いていたので高速戦闘に慣れていらっしゃると推測させていただき、アリスを向かわせたのですが……まさかこんなにすぐにやられてしまうとは予想外でした」
面白がるように言うのは通りの向かい側、その二階に腰掛ける一人の少女だった。
肩口で切りそろえられた髪、黒地に色とりどりの睡蓮をあしらった着物、白磁の肌に日本的な造型の顔。
夢幻の町においてあまりにも似合いすぎる、そして似合いすぎるが故に逆に違和感をもたらす、そんな姿の少女が、そこにいた。
「……誰だと、聞いている」
剣呑に、湖織の目が細まる。
「お噂より、少し剣呑な方ですね。一応敵意は持っていないので、もう少し落ち着いてもらえればこちらとしてもお話しやすいのですが…………」
問答無用で振りぬいた。
刀身から放たれた爆風はそのまま衝撃となって飛翔し、少女の腰掛ける張り出しを撃砕する。
『おいおい、宿主様……今のはさすがにダウトだろ――』
「敵の可能性を、否定できない………」
言いながら湖織は誘宵を鞘へ戻し………
「……失礼、つい遊びが過ぎてしまったようですね」
「!」
頭上から響いた声に、再び抜刀した。
屋根の上、そこに座っていたのは先ほど向かいの家の張り出しの上にいたあの少女。着物も乱れず髪も汚れず、表情に歪み一つなくそこに座り、微笑んでいる。
「下男からもよく言われているんです。もう少し時と場合を選べ、と。今回の事は完全に私の過失ですね、先ほどの無礼を、お許しください………」
「貴方……何者………」
とん、と。
非常に軽やかな仕草で、少女が屋根から跳躍した。
重さを感じさせぬ仕草、気負いを感じさせぬ表情。
そのまま少女は着地し、
そして湖織に向かって、一礼した。
「ようこそ、黒椿峰大社東社の管理人、狗狐風神をその身に窶す戦巫女、黒椿峰湖織様。此度は不肖私めのお招きに応じてくださり、真にありがとうございます。お招きしておきながら、その実力を試すような無礼、どうかお許しください」
一気に態度を豹変させ、打って変わった恭しい言葉を並べ立てる少女。
その様子に、湖織は一瞬面くらい、
「………貴方が、招いた……?」
はい、と少女はうなずく。
「申し遅れました。私、名を逢瀬際牡丹、この町の最大権力者にして旅館経営を行っております、この『夢幻境』を製作した魔術師です。よろしければ、このまま依頼したいお仕事の説明に参りたいと思いますので、私めの旅館までご足労お願いできますでしょうか?」
その少女、逢瀬際牡丹の問いかけに従うように、湖織は抜き身のままであった誘宵を鞘に収め、
「………そのまえに、やすませていただけませんかー?」
いつものほんわかした雰囲気に戻り、言った。
× × × ×
「ほらほら、どうした師走の」
「甘ぇぞ、全力ならもう死んでるぜ?」
「下ががら空きだ」
「だから跳躍は控えろ」
四方八方、縦横無尽に、四道は文一の周囲を旋廻する。
正面から斬撃を振り上げる四道が迫り、
「……せいっ!」
迫られる前に縦一閃を放つも、ふわりと空中で横に回転し回避され、
「うらぁ!」
横一線で追撃しようともそのままふわりと宙に浮いたまま回転され回避されて、
「でぇぃ!」
気合と共に袈裟に切り落とそうとも地に一切足をつけることなくくるくるともてあそぶように上昇して避けられ、
「装填展開、爆!」
爆風を放とうともその攻撃は、届かない。
一切地に足をつけることなく、文一の周囲を弄ぶように浮遊し続ける、四道。挙動の中に重さはなくとも叩きつけられる斬撃は本物の重さを持ち、挙動の中に気負いはなくともその動きの中には速さがある。こちらの攻撃は一切当たらず、向こうの攻撃は理不尽なまでに大量に通り、反撃を試みようとも挙動が不規則すぎて捕らえきれず、警戒しようともその不規則縦横無尽の行動の前には砂上の楼閣に過ぎない。
強にて行った身体強化、それによる神経加速をもってしても捕らえきれない不規則挙動。
それこそが、「死在『酷死《空渡》』」の真髄。
目を持って捕らえることも、動きを持って蹂躙することも出来ず、ただ一方的に遊ぶように体を刻まれ、殺される。
その行動の全ては、まさに『酷死』の名にふさわしい残忍さといえるだろう。
今まで文一が立っていられるのも、四道が遊んでいるからに過ぎない。攻撃を行ってきはするのだが、その攻撃のどれもが文一によって軽く防御できるものか、燕尾服のみを切り裂くもの、皮膚一枚からもう少し深いところまで斬りはするが、行動にまったく支障のないものといった、完全にこちらのことを試す構えのものばかりだからだ。
………厄介にも、ほどがある……っ!
斜め下方からの切り上げを暮言刃で受けとめ、反撃の横一線。
「よっと」
ぐりん、とその場で体を上下反転させ、回避される。そしてそのまま反撃の突き込み。
「どうした? 師走の。もっと強いはずだぜ?」
言いながらも空中で飛び上がり、背後から一閃。燕尾服の生地がわずかに裂け、その下から薄っすらと血の滲んだ肌があらわになる。
「またかよ!」
もうこの燕尾服は使えまい。袖は付け根から外れかけ、正面のボタンもいくつか弾け飛んでいる。袖自体も外れかけているばかりでなく、何箇所も切れ、裂け、破れがあり、他の部分も似たり寄ったりの損傷具合でもう服と呼ぶには無理がある。
「やりたくはっ! なかったけど………」
首狙いの激甘な一閃を受け止め、斜め一閃。そのまま暮言刃を逆刃に持ち替え、
「器用に行くぞ、茜! 装填、穿×爆×爆! 空きの一箇所、強!」
『え? 主そんなのできな――――』
「だったら撃った直後!」
言いながらも両手で暮言刃を逆刃に振り上げ、その切先を地面めがけて突き刺し、
「……ほらよっ……と」
四道の攻撃のタイミング、それに合わせ、
「展開! 《爆壊 日没》!」
地面の内側めがけ、光弾を打ちはなった。
瞬間、
「……っ舐めるな!」
文一の屹立する地面、その足元が爆散した。
地面の中で炸裂した爆風。が、それすらも回避しきり、結果として文一のみが宙を舞う。
高さ、およそ目算で十メートル。
「展開、強!」
そのままの位置で文一は空中で装填した《強》を展開、身体能力を強化しなおし、
「装填、穿×爆×穿」
暮言刃に再び魔力を装填する。
「何やってるかは知らねぇが……」
下方から四道が空中を木の葉落しの挙動で上昇し、
「………空中じゃやり用がねえだろうが」
その言葉に、にやりと。
文一は、口の端をゆがめた。
「いや…………」
そして、
その手にある暮言刃、その切先が四道を捕らえる。
「これだけ離れれば、僕のところへ来ざるを得ない、だろ?」
「!」
落下している文一、上昇している四道。
狙いを定めるのは困難だが、それでも空中を自在に行き来できるものが相手で、その人物が自分のほうへ移動してくれるのなら、
………難易度は、格段に下がる……!
四道の顔に焦りが浮かぶが、もう遅い。切先を胴体のど真ん中に向け、
「ぶち抜け! 《弾壊 日没》!」
そして光弾を打ち出した。
今までとは比べ物にならないサイズ、速度。
そのまま光弾は回避挙動をとったことによって左側に移動した四道、その右腕に――――
直撃した。
「がっ…………」
空中で姿勢を崩す四道。が、こちらももうのんびりしている暇はない。空中で強引に姿勢をひねり、もう五メートル近くまで来た地面に暮言刃を向け、
「装填展開爆!」
地面めがけて爆風を放ち、寸でのところで衝撃をほとんど軽減する。それでも落下は止まらず――――
「あだっ!」
爆風の勢いで縦に九十度反転し、思い切り尻餅をついた。
『主、格好つかないねぇ~』
「ほっとけ。それより……」
警戒動作のまま、背後を振り返る。
瞬間、
「ぐふっ!」
背中から、四道が地面へと落下してきた。
―――― カラン ――――
次いで落下してきたのは四道のナイフ。文一からも四道からも遠く、恐らくもう届くことはないだろう。
「装填、穿」
魔力装填を行いながら、四道に接近し、
「……僕の勝ち……で、いいのか?」
切先を、スーツの右腕部分を失い火傷でも追ったかのように爛れた右腕を庇うように肘だけで身を起こしている四道へと突きつけた。
四道はそのまま、口の端をゆがめ、
「………ああ。お嬢の目に叶うには、十分だ」
お手上げ、とでも言うように首を振った。
その挙動を見、敵意がもうないことを確信した文一は暮言刃を引き、
「……そっか」
剣先を空へと向け、
「展開」
蓄積されていた穿を、放出した。
そのまま、地面へ暮言刃を投げ捨てるように突き刺し、
『酷っ! 私の扱い、酷いよ!』
「気のせいだ」
言いながらも四道へ目をやる。
「……で? 僕らはどこへ行けばいい? 逢瀬際牡丹さんに会えるんだろ?」
「……ああ、そのつもりだ」
痛ってて……、と痛そうに右腕を庇いながら四道が立ち上がる。立ち上がり、そしてそのまま恭しく頭を下げた。
「御見それしました、天詩文一殿。一介の下男の身分ながら、お嬢様のお客であるあなたに手を上げた無礼をお許しください。
これより、我々はこの町でも最大規模の旅館、『架空亭』へ向かいます。そこでお嬢様と妹君様が――――」
ゆらりと、四道が顔を上げ、
「――――昼餉とお部屋、温泉の用意をして、お待ちです」
どこか楽しそうな様子で、言った。
瞬間、
「いーやーだー!!!!」
背後で、小学生程度のミニマム少女のものと思われる絶叫が、炸裂した。