69 ああ、悔しい
わたしは、わたしのために、あなたを許すわけにはいかないの。
「外国に行くことはいいだろう。見聞を広めたいのだろう?君らしい。だけど、神官は辞めさせられない。いずれ戻ってきてもらう」
リチャード様が、穏やかな声で言った。
「ダメだ!アリエッティ!」
ヨシュア様がわたしの手を強く握った。
「アギネルズ卿。勝手をおっしゃらないでください。外国などと。それに神官長のお話も。私は彼女を妻にと望んでいるのです!」
「やれやれ。やっとか。まさか、今、初めて言ったんじゃないだろうな?」
ええ?まさかリチャード様、そのことまでご存知?!
「違います!巫女姫巡業が終わるまで、返事を待っていたのです!」
「なんだ、随分遅いな。そして、その返事か。振られてるじゃないか」
あああ、リチャード様、辺境伯になんてことを。こちらの方が心臓がもたないわ。
ヨシュア様なんか、もう顔も向けられないくらい怒り狂ってるのがわかる。
絶対に逃げられないように、きつく握られた手。
ヨシュア様は本気でわたしを妻にする気なんだ。
現実的な考え方をするあなたらしくない。それほどまでに想ってくださっている。そう感じるとわたしの決心がぐらぐらとふらつく。
「なんでそんなに遅いんだ。だから、余計拗らせたんだ。アリエッティのことだから」
「あなた方が!悟られるなと釘を刺したんだろうが!この企みが摘みあげられるまで動くなと!!彼女を巻き込まなければ、こんなに苦しめることもなかったんだ!」
「最初に巻き込んだのはカービングだ。信頼を勝ち取れなかったことを八つ当たりするなど、笑止だ。小童め」
ひい、リチャード様が怖い。
動くな?!もう何がなんだか。頭がついていけない。
「あの、あの、どういうことなんですか?どうしてこんな企みを放置する必要があったのですか?」
勇気を出して振り絞った声が震えていた。
一から説明してあげよう。リチャード様がわたしに言った。
「君は知らないだろう。王都の多くの王宮文官貴族は辺境伯の統括地域を軽視している。それは今に始まったことではない。この統治の形の歪みとして出て来たもの」
軽視?
今でこそ辺境伯の軍事力は王軍と同じくらいだけど、それはこの国が安定しているから。外国からこの国を守ってきたのは辺境伯の力が大きい。それに国力になる生産物は、圧倒的に各統括地域の方が多い。王都は人と物の流通の要であることが富の源泉だ。
国全体のバランスを見れば軽視などできない。統括地域はもともと辺境伯の影響下の国のようなもの。辺境伯が怒って独立など言い出したら、内紛になりかねない。
「歌姫を中央に集め、巫女姫を選出する。その巫女姫が地方に巡業に行くことによって、地の理を治める。巫女姫が他地域から選出されても、結局はこの王都から巡業は出発する。次第に王都は権威が高まる。これが権威と権力が高まった原因の一つではある」
「中央神殿の庇護者が国王陛下だから、他地域よりも権威があると?」
「その通りだ。」
ああ、もしかして。
そんな感じの歪みは、歌姫時代から幾度となく感じた。アリシアたちが辺境伯ヨシュア様と出会った時、辺境など田舎すぎて嫁ぎたくないとバカにしていたが、ああいった風潮は根深くあった。
歌姫同士の中でも、王都周辺の歌姫と統括地域出身の歌姫の間では修行に対する姿勢が違うと感じることもあった。
「国王陛下はこの風潮を危惧しておられた。いつか、辺境伯に対して取り返しのつかない非礼を犯すものが出るのではないか。軍事か、統治機構の改革か。どこにでも芽はあった。だが、王宮文官の筆頭であるキックナーが目をつけたのは、この神殿だった。中央神殿の神官はそのほとんどが王都周辺の出身だ。与しやすかったのだろう。そして、ゲドウォークと結び付いた」
軍事であれば私軍を持つ辺境伯と対立し文字通りの内紛、統治機構に手をつけて失敗すれば、辺境伯に交易路を絶たれ、民の生活が真っ先に混乱したはず。
王直轄地から外に権力を拡げようとする時に、権力から一番遠いように見える神殿に利用しやすい隙を見つけたということだろうか。
「辺境伯統括地域でも、王都の権威を持ち上げる風潮は広まりつつあった。それが領主を失くして統治の崩れかかったカービング。そして、カービングが統括権をもつ南東地域だった。だが、そうでない地域では、寄付を募りにくい。ゲドウォークたちは外国に目をつけた」
「ですが、外国は境界を接する辺境が交渉の権利を持ちます。辺境伯の頭越しに交渉しても、直ぐに分かって怒りを買ってしまうでしょう」
少しでも自分達で稼ごうと思えば、縄張り争いには気を配るもの。音楽の世界でもそうだもの。
アリシア様の味方だと思っていたカービングなら、うまくいくと思ったのだろうか。
辺境伯を甘くみていた。そうとしか思えない。
いや、きっとうまくいったところもあったのだ。
ロメリア様とローズは西辺境ミヨルデの統括地域出身。ミヨルデ辺境伯は彼女たちを守らず、国外に出したのか。辺境伯と言えども一枚岩ではない。
「みんなが君のように賢かったらいいのにね」
リチャード様が苦笑した。
「現実はそうじゃない。欲に駆られた人間は基本的な事実を見落としがちだ。巫女姫の権威を履き違えた今回の企みのように。宰相が自分の子息を使って、辺境伯を飛び越え直接外国と交渉を始めた。今まで茫洋としていた不遜な風潮がやっと形となってきた」
「この機会を逃すと更に根深い問題となって後世に残す。ここで王宮文官貴族たちの意識を引締められる」
「ゲドウォークたちが自分たちの御し易い御旗として掲げたのがアリシアだ。歌姫として入った時から、社交界で人気の美姫。統治の苦労を知らない、浮ついた王宮文官たちの理想を体現した巫女姫。もうわかるだろう、アリエッティ。ふるいにかけるにはちょうどいい偶像が現れたんだ」
・・・そんなこと、楽しげに言わないでください。背中が薄ら寒いです。
この方、本当に神官長なのかしら。巫女姫の権威を利用してまで、統治者の資質を篩にかけるって、まるで悪魔。
けど、この悪魔に心酔して忠誠を捧げるわたしも相当アレよね・・・。
「君は賢すぎる。中央神殿で神官をさせれば、すぐにゲドウォークたちの動きに気づく。伴侶もいず、君は後ろ盾もない。キリアムなどに目をつけられて、あちらの陣営に取り込まれても困るし、あちらの動きを阻止されても困る。動いてもらっては困るんだ。もう何年も、どうやってこの王宮文官の意識を変えようか、国王陛下も苦慮しておられた。
ここで断罪の形を取るには誰の目にも明らかな罪の形を作る必要があった。放っておけばその形は勝手にできてくる」
国王陛下やそれに並ぶ辺境伯たちはそれを待っていたのか。
権威を盾にプライドだけが高い驕った王宮文官たちを粛清する瞬間を。だからこそあの杜撰な巡業をさせたのか。カービングで人買いの場を設けさせ、証拠を積み上げさせた。
「でも、でもどうしてそんなことをお認めになったんですか?わたしたちは一生懸命、巫女姫を目指したのに。こんなの、馬鹿にしてる。歌姫たちに対する裏切りです」
涙ながらに訴えた。
「うん、ごめんね、アリエッティ」
謝罪が軽っ!もう!なんなのよ!
人を傷つけといて!
「だけど、こんなことで本物の歌姫の力は失われない。巫女姫という権威の頂点に立って、チヤホヤされたかったわけじゃないだろう?君たちの祈りの本質はそこじゃない。わたしが育てた歌姫たちの使命はそこじゃない」
唇を噛んだ。ああ、悔しい。
そうだ、巫女姫を目指すことは実力を磨くためのレース。歌姫の力は自己研鑽だけに使われるものじゃない。
わたしたちの力は、土地と民の安寧を導くためにある。
本質を違えるな、未熟者。そう言われた気がした。
わたしはいつの間に、歌姫の使命を巫女姫の権威を守ることに書き換えていたのだろう。
分かっていたはずなのに。アリシアには歌姫としての資質がないって。彼女が歌っても加護など得られないって。頭のどこかで分かっていたのに、巫女姫に固執してしまった。
わたしは間違えた。いつの間にか、自分の使命を履き違えていた。
「アリシアがカービングに君を神官として寄越してほしいと言ったとき、随分迷った。なにせ、一度は君を勧め、断られたところだ」
わたしとヨシュア様が身動ぎした。
何ですって⁈わたしを向かわせたのは、あの女だったの⁈
あの女!完全に舐めてたわね、わたしのこと。
わたしだったらヨシュア様が心を向けるはずない、そう思ったのね。しかも巫女姫巡業を誰よりも熟知している。
そして、そうか。キックナーが言っていた。
わたしをロメリア様のつなぎに使えると思ったのね。
全く、小狡さだけはあるのね。
そして、そのほとんどが当てが外れた。
しかも、あの女が一番欲しがったヨシュア様を味方につけた。女として、格下だと思い込んでいたわたしへの寵愛を見せつけられて、醜く顔を歪ませたアリシアを思い出した。
ざまぁみろ。
そう思うと同時に、心の中の楔が音を立てて軋んだ。
この楔はあの日の戒め。顔を見ることなく、縁談を断られた日の、惨めな思い。
幸せを夢見て頑張ってきた自分を、見る価値もないと切り捨てられた。
あの可哀想な自分は、わたしだけが慰めてあげられる。
だからお願い。この楔は抜けないで。
それなのに、ヨシュア様はそっと握りしめた手をこすった。
離さない。その決意と後悔が大きな手から流れ込んでくる気がした 。
苦しい。
心が揺れる。
「君を王都には居させられない。そして君なら必ず巡業を成功させる。巡業までいなくても、女神の加護のない土地と言われたカービングに祝福を授けて帰ってくるだろう。そこまででいいと思っていた。巡業も一年以内にしたいという希望だったし、一年くらいなら我慢強い君は待てるだろう。あとは、民が判断する。本物の祝福を授ける歌姫か、貴族の権威を保つための巫女姫か。それを守る領主がどんな人なのか。アリシアを送り込めばそんなものは一目瞭然だ」
「・・・それ、全然、私を守ってないです!人を踊らすだけ踊らせておいて。あなたのように念だけで物事は動いていかないんです!私がどんな思いで巡業を待っていたか」
リチャード様はクスクス笑って、ごめん、と謝った。
「私だって誤算はあるさ。それが今回はあなただ。カービング卿。まさか、本当にアリエッティを選んでくるとは。あのアリシアを選んだあなただ。見た目だけで選ぶ男が、アリエッティの才能を認められるわけない。すぐに送り返してくるだろうと踏んでいた。アリーがあんな仕打ちをされてすぐに許すはずもないしな。ところが、あの天覧演技の誇らしげな顔ときたら」
そう、あの頃から関係が変わった。態度だけはわたしに近づいて、でも何も言ってくれなかった。
止められてたの?わたしにあの企みを悟られないように?
「そのあと、すぐに巫女姫降嫁の願い出を正式に取り下げてきたから、すぐに動くのかと思えば。随分のんびりしたものだ。まあ、当代一の色男も、本気の時は普通の男だってことか。落ちなかっただろう?この賢い姫は」
リチャード様が楽しげに笑った。
やめて。心が苦しい。
落ちなかった?いいえ、落ちていたわ。完全に。
だからこんなに苦しいの。