66 わたしは失敗したんだ
あまりのことに、絶句しているヨシュア様の後ろから、バタバタと足音が聞こえた。
「ヨシュア、ヨシュア!待って!あなたが言うのならわたし、行くわ!」
アリシア様が泣きながら、ヨシュア様を追いかけてきた。
ヨシュア様がわたしを胸に抱きすくめた。
痛い!
抵抗するが、腕一本で全く身動きが取れない。
ヨシュア様の弱った声が聞こえた。
「なんで、あなたはこう」
慎みがないんだ。そう言いたいんでしょう⁈
結構よ!
わたしはもう、神官でもこの国の貴族でもないわ!
きゃあ!というアリシア様の可愛い悲鳴が聞こえた。
一瞬、離されたヨシュア様からふわりと上着がかけられて、もう一度、しっかり抱きしめられた。
祭礼服の下は、薄い下着のみ。まだ秋の真ん中あたりのカービングは厚手の祭祀服で十分だったから。
「な、何してるの?ひどい!ひどいわ!この泥棒猫!」
ばっかじゃない?
そんな使い古された悪態、今時、喜劇ぐらいしか聞かないわよ。
「な、何をしている!カービング卿!婚約者の前だぞ!」
「何回も同じこと説明をさせるな、キックナー」
地を這うようなヨシュア様の声。
あ。もう辞めたのね。猫被るの。
「失礼な!私は、宰相の息子だぞ!」
「たかだか王都の伯爵家が、いい加減不愉快だ。神殿に敬意を払っていたがもういいだろう」
腕の中から見ると、キックナー卿の周りには騎士たちが、何重にも取り囲んでいた。ヨシュア様の一言で、すぐにでも取り押さえられる。
「わたし、わたし、あなたを愛してるの!ヨシュア!」
「巫女姫も、最低限の礼儀は守っていただこう。この城の城主は私。巫女姫が国王に並び立つというのは王都での話」
ポカン、とした顔でアリシア様が見ている。
ほんと、頭痛いわ。このバカ。
こんなことも知らないなんて、この国の貴族の端くれでもない。
この国は王を戴くといっても、6つに分割されている。五人の辺境伯がそれぞれ影響力を持って取りまとめる地域、すなわち統括地域と王が治める直轄地に分かれ、女神信仰の紐帯で結ばれた関係。
辺境伯、と名がついていても、普通の貴族ではない。それぞれの統括地域の実質の王だ。
基本でしょ。基本。
だから、国王の直轄地を一歩出たら、辺境伯に最大の敬意を払わなければいけなくなるのだ。
昔ほどの軍事力を維持していないので、どの辺境伯も力を誇示することはないが、他の貴族との立ち位置の違いははっきりしている。
巫女姫を戴く中央神殿の世話人として、国王は権威を保っている。
「婚約の話は、すでに終わった。ここに来てからも何度も告げたはず。お前が理解しようとしまいと、妻に迎えるつもりはない」
「じゃぁ、じゃあ、本当にその女・・・・・・?みんなが言ってたの、本当なの?」
アリシア様が、キリアム様とキックナー卿を見た。キリアム様が頷いた。
「嘘!嘘よ!セシリア様ならわかるわ!嫌よ、そんな女に負けるなんて!」
はあ?飛び蹴りしてやる!このバカ女!
怒りでブルブルと震えて、ヨシュア様の腕から逃れようと身じろぎしたが、ぎゅ、と肩を抱かれた。
「アリエッティと貴様など比べるべくもない。飾り立てられて梯子を登らされているのも分からない馬鹿な女など、この方の目に入れるのも不快だ。本物の歌姫の前で自分の実力を悟れないなど、恥ずかしくないのか?」
ヨシュア様が低い、唸るような声で言った。
「いや。やめてー!」
アリシア様が、発狂したように叫んだ。
「やめろ!アリシア!!」
キリアム様が叫んだのがわかった。
一瞬、見えたのはアリシア様の手にあった、光る剣先。
巫女姫の飾り懐刀。
ヨシュア様は動く様子もなく、寸手のところでちょっとだけわたしを庇った。
ふ、と鼻で嗤うのが聞こえた。
「城主に手を挙げるとは」
捉えろ!とヨシュア様が言う前に、アリシア様は騎士に床に抑えつけられていた。
「何をする!巫女姫は国王と同じ立場だぞ!」
「黙れ、キックナー。それ以上、言う気なら、ザドキエル辺境伯からも叛旗を出すぞ」
コンラッド様がいつのまにか、騎士に混じっていた。
「で?お前たちは国王の代わりに私たちと渡り合うつもりなのか?王軍を率いて?いいだろう。承諾の印として、お前の首を送り返してやろう」
キックナー卿の首には、コンラッド様の剣先。
キリアム様がへなへなと座り込んだ。
「くだらない。だが、今度の議会のいい土産話ができた。礼を言う。コンラッド」
ヨシュア様がわたしを抱き上げながら言った。
あいつらを部屋に連れていけ、それなりに丁重にな。と、冷たい声で騎士に言って、わたしは横抱きにされたまま連れていかれた。
ヨシュア様に抱き抱えられて連れていかれたのは、奥方用の寝室。
落ち着くまでここで、と短く言って、ヨシュア様はすぐに出て行った。
窓の外に領都ギル=ガンゼナの街が広がるのが見えて、駆け寄った。
窓からは祭礼が行われていた広場が見えた。
雨が降ってる。
広場の人々は、祝福に並んでいるように見えなかった。それぞれに帰る方向に、人波が動いている。
熱いものが喉の奥からせり上がってきた。
「っっう」
嗚咽が漏れた。
帰ってしまう。
領土中から集まった人々が、巫女姫の祝福を受けることなく戻って行ってしまう。
どんなにがっかりしただろう。
たった一度しか、歌声も聞かせられなかった。
歌も覚えたのに、一度も共に歌うこともなく。
わたしが悪かったの?
どうすれば良かったの?
あの時、わたしがへりくだっておけば。
もっと上手に、アリシア様をおだてて、ヨシュア様に説得して貰えば戻ってくれてたの?
涙が止まらない。
わたしは、失敗したのだ。
カービングの民が切望していた巫女姫の巡業。
ここまでたどり着いたのに、巫女姫の祝福を授けることができなかった。
咽び泣く背中が、大きな胸に抱かれた。
「巻き込んですまない。泣かないでくれ、アリエッティ」
「ごめんなさい」
大声で泣きながら謝った。
ごめんなさい。
みんなに、祝福を授けられなくて。
わたしが、短気だったから。
きっと巫女姫を怒らせたから、雨が降ってしまったのだ。
「あなたの、せいじゃない。あなたのせいじゃないんだ」
ヨシュア様が苦しそうに言った。
「泣かないで、アリエッティ」
ヨシュア様がきつく抱きしめた。声が震えていた。
ヨシュア様の胸で、子どものように泣いた。
ヨシュア様はずっと抱きしめてくれていた。
わたしが泣き疲れて、眠るまで。