60 懐かない猫と優しい旦那様
レイモンド様が連れてこられたのは、バストマ皇国の正装をされた方。
「ザドキエル領のバストマ公館を預かりますエラッドです。美しい神官様」
わたしも淑女の礼で返す。バストマ皇国を連れてきたということは、彼女は今、彼の地にいるのだろう。
「我が国の行軍演技を取り入れてくださったとか。大変、光栄です」
おっと、そうでした。お礼お礼。
「貴国にくらべたら子供の遊びのようですが。以前、見せていただいて、大変感動したのです。いつかはあのように、凛々しい演奏を我が国でも見てみたいと、ずっと思っていました。明日、祭礼の前に演技させていただきますので、どうぞご覧ください。できればご助言もいただきたいのですが」
「それは是非とも。それにしても」
エラッド様はちょっと息をついて、まじまじと、わたしを見た。
「妻には聞いていましたが、本当にあなたのようなか弱い淑女が、行軍演技などよく指導されましたね。この会場にいる騎士も演者がいるのでしょう?彼らのようなたくましい騎士をよく、あなたが」
大丈夫。わたし、殴ったりしてないわよ。
「あの、奥方様は私のことをご存知で?」
ああ、とエラッド様がおっとりと笑った。なんだか、雰囲気のいい人。バストマ皇国は軍人の国。公館を預かるくらいなのだから、彼もまたそれなりの地位の軍人なのだろうけど、猛々しさの全くない、優しそうな方だ。
「申し遅れました。わたしはローズの夫です」
一瞬、ポカンとなった。
その顔にますます、エラッド様は優しく笑う。
「実は、こちらのご招待にどうしても行きたいと言ってたのですが、もうすぐ子供が生まれますので、なんとか説き伏せて、わたしだけ。妻から預かったものです。こちらを受け取っていただけますか?」
取り出されたのは、青い封筒。裏は見覚えのある筆跡で、ローズ、とだけある。
言葉が出ず涙が溢れた。
それを必死に押しとどめる。
さっ、とわたしの前にジャンが立ちはだかった。
違うのよ、やめて。となんとか言うと、エラッド様から椅子を勧められた。
「彼女は、今、どこに⁈」
「ザドキエル領に。実家から母上に来ていただいています。そろそろいつ産まれてもおかしくないので」
良かった。と呟いた。
「・・・幸せ、なのですね」
エラッド様の顔を見るとなんとなく分かる。
絶対音感と、ピアノに対する天賦の才を持つローズ。
天才肌で、少し気難しくて、だけど情に厚い。アリシア様とその友人たちとよくぶつかって、その調整役によくわたしが立たされた。
それを引き受けて、いつも謝ってくれるのはローズだけだったけど。
「わたしにとっては目に入れても痛くないほど、可愛い妻です」
ああ、なんか、分かる。エラッド様とはお似合いだわ。
気難しいけど、音楽のセンスは間違いない。天才的な分、とても一途で情熱的なのよね。ちょっとわかりにくいけど。
でもエラッド様なら、そんな彼女をちゃんと理解できる気がする。そして、上手に影から助けてあげている。
「良かった。とても心配してたんです。わたしには伝手がなくて」
「あまり大っぴらにはできませんでした。取り返されるのが心配で。でも、ザドキエル領では、のびのびと過ごさせていただいています」
「バストマ皇国ではなく、ザドキエル領に留まっているのですか?」
それでは、わざわざ、我が国から歌姫を迎える意味がないのではないか。
「我が主人、皇帝陛下の御配慮なのです。しばらくは、公館付きとすると。いずれ、近いうちに皇国へは戻りますが、いきなり母国から離れるのは寂しかろうと。女神の使徒である歌姫を悲しませることは、本意ではありませんから」
優しいー!
「アリエッティ様」
エラッド様が、少し膝を寄せて話しかけてきた。先程より真剣な顔だ。
「妻は、あなたを一番心配しています。この先、巫女姫様が代替わりになった時、あなたが悲しまれることがあるのではないか、と。私たちは密かに噂を集めているのです」
ああ、と思わずため息をついた。
みんな知ってるんだわ。わたしが置かれている立場の危うさ。もしかしてヨシュア様の心変わりも。
「もしこの地を去るのなら、ぜひザドキエル領のわたくしどものところへ。ここからなら王都よりも近い。そして国内です。動きやすいでしょう」
なんて心動かされるお誘い。だけどザドキエル領はヨシュア様の懇意の場所。気が抜けないわ。
「もちろんその後、我が国でそれなりの身分でお迎えします。我が妻とあなた様であれば、加護のない長よりも勝る」
おおっと、大胆な。レイモンド様の言うように、アリシア巫女姫の振る舞いは誰の目にも明らかなのね。
「どうぞお気持ちのどこかに。わたしたちは、あなたの才能を尊敬しています。妻も近くに来ていただければ心強いと」
そうよね、外国に一人で嫁ぐのは不安だわ。いくら気丈なローズであっても。
「ローズは気が強いけど、可愛らしいですよね。あなた様にそこまでのことを伝えるなんて、とても信頼されているのですね。よくわかりました」
そういうと、エラッド様は相好をくずした。あらあ、よっぽど惚れてらっしゃるのね。
分かるわー。ローズって懐かない猫なのよ。しかも、すっごく才能のあるね。懐かれると嬉しいから、つい構いたくなっちゃう。
「流石に良くお分かりですね。ですが、あなたは妻から聞いていた印象と少し違う。彼女から聞いていたのは、もっと大きくて覇気の強い方だと思っていました。こんなに華奢でか弱い女性とは思っていなくて。彼女は、あなたとユティア公女殿下にはよく頭を抱えさせられたというものですから」
ええー?!頭を抱えてたのは、わたしとディーバのほうよ!
しょっちゅう、アリシア様たちとぶつかってるんだもの!
「なんてこと!彼女の気難しさに手を焼いていたのは、こちらの方ですのに」
「ふふふ。ですが、わたしにはその気難しさも魅力的なのですよ。ご紹介いただいたキックナー卿には、嫌味を言われましたがね。もう少し積めば巫女姫が手に入るのにと」
す、と血が下がった。決定的な証言。
やはりそうなのか、と地面がぐらついた。
「おかげで彼女には初めさんざん、なじられました。金で買ったのだろうと。もちろんそんなつもりはありません。私たちは正規の手続きだと思って話を通したのですから」
もう一度、エラッド様の笑顔が冷たいものになった。
「だからこそ心配しているのです。あなたを。神殿に残っているのはあなたしかいない。しかもこの短期間で今までにない功績を挙げた。そして後ろ盾もない」
わたし?わたしまでも?
そうか、わたしが一番危ういのかもしれない。
なにせ後ろ盾になる家がないに等しい。
そのためにキリアム様はわたしに接触しようとしているの?!
「今からキックナー卿にご挨拶にいこうと思うのです。改めて妻に出会わせていただいた感謝を申し上げねば」
楽しいお話をありがとう。そう言うと、エラッド様は立ち上がり優雅に礼をした。
わたしも立ち上がる。
「わたくしもご一緒させていただいてよろしいですか?」
エラッド様が、目を見張った。
「大丈夫なのですか?」
「ご挨拶をせねばならないと思っていました。あなた様とご一緒ならば、安心なので」
確かめたい。これが本当のことなのか。
お願いします。と言うと、エラッド様は少し難しい顔をして首肯した。