57 あの日が懐かしい
祈りの時間。
今までにないくらい神殿に人が溢れていた。
女神の神殿は飾り気がない。
天への吹き抜けと対になるむき出しの地面部分。あとは、火と水。
それだけの単純な場所。
屋根付きの部分は人を収容するためにそれなりに広いが、祭祀を行う場所はたったそれだけのことなのだ。
今は平素の祈りの時間なので、特別な祭祀服ではなく、歌姫は歌姫用の制服、神官は神官服で集まっている。
天への吹き抜けを挟むわたしの向かい側には、巫女姫アリシア様。
彼女を筆頭に、吹き抜けを囲むように、ぐるりと歌姫たちが並んだ。
その後ろに楽隊が何人か並ぶ。
わたしの横に、影が立った。
ヨシュア様だ。
間に合ったな、と息をついた。
巫女姫様のために、急いで駆けつけたのだろう。
「ゲドウォーク神官。」
ヨシュア様がわたしの耳に口を寄せて、呟いた。
キリアム様?何か?
意味が分からず、ちらりとヨシュア様を見ると、探るようにわたしを横目で見返された。
?
「親しいのか?名前で呼び合うくらい。」
ああ。なんだ。
「神殿では名前で呼び合うのが、普通です。家柄を伏せるために。」
ヨシュア様の耳元に寄せて答える。
密集して人がいるので、大きな声では話せない。
女神の前では身分の則は問われない。
むしろ公平を期すために、名前で呼び合う習慣。
ふん、とヨシュア様が鼻を鳴らした。
「アリーなど、随分親しいんだな。」
あら、やきもち?
自分だって、アリシア様を呼び捨てにしてるくせに。
けど、キリアム様の様子はちょっと異常だわ。
「初めて呼ばれました。」
そういうと、ヨシュア様が眉を顰めた。
「なぜ?」
そんなこと、わたしにはわかりません。
いや、なんとなくわかりますけど、そんなこと今言ったらややこしくなるでしょ?
だから、首を傾けるだけにしておいた。
お願いですから、キリアム様。大人しくしておいて。
祈りの歌が始まった。
アリシア様の声の透明感が薄れている。
残念だわ。
でも、あの透明感を維持するのは難しそうよね。年齢とともに変化する子どもの声のようだもの。
ほかの歌姫の遠慮がちなこと。
気持ちよく歌っているのは、アリシア様だけね。
長旅で練習時間がないから、喉が閉まってしまってる。
そうだ、神殿を練習場所にすればいいんだわ。ここだったら思い切り声が出せる。
あとで、レイモンド様に相談してみよう。
祈りの歌はすぐに終わる。
たったこれだけの儀式だけど、とても大事。
だけど、その大事なことを失くしているような儀式だった。
他の神官様たちがこんなことを咎めないことがすごく不思議。
レイモンド様と調整して、希望の歌姫は神殿で練習してもらうことになった。
ここは広いし、お城は来客が多いから、ちょうどいい。
予想通り、アリシア様は帰っちゃったけど。
あまりの責任感のなさに鼻で笑った。だけど、わたしは歌姫と歌えて嬉しい。
音楽を聞いて、祝福を受けに来る人たちが現れた。
神官たちが対応していたが、歌姫がやらせてくださいと言い出した。有難い。
結局、日が暮れるまで人波が途切れることはなかった。
暗くなってきたので、護衛の騎士が参拝者を制限してくれた。
だけど、最後の人はもう日が暮れかかっていた。
帰り道が危ないので、祭祀用に用意してあった、手燭に火をつけて渡す。
坂道を下っていく揺らめく火、その向こうにあるお城の灯。
神殿から眺めた。
懐かしい。
あれからもう3年たつのだな、と改めて思う。
初めてカービングに来て、置いていかれた神殿の夜。こうやってお城の灯りを見た。
情けなくて、惨めで、怒りも湧かなかったあの日。
火を熾すこともできず、水を汲んでも、淀んだ井戸水。
冬の空気だったから、ありったけの衣服を着込み、床に転がって疲れ果てて眠った。水を飲むことも諦めて、翌朝、坂道の下の家まで歩いた。
昨日のことのように思い出し、ふと、唇が緩む。
今、そんなことをすればこの地では罪になってしまう。ヨシュア様が変えたのだろう。
だけど、遅いのだ。
わたしは、すでにその仕打ちを受けた。
受けた辛さはもう、覆せない。
知らなかったでは済まない罪。
今では、全てが変わってしまった。
わたしは何も変わってないはずなのに。
歌うことで、地の理を治める気持ちも、そのことを民に広める女神の使徒である矜持も。
それだけのためにここに来たから、あんな流刑の罪人にするような仕打ちに怒りも湧かなかった。
ここは、女神の祝福を忘れた土地なのだな、と改めて思っただけで。哀れだ、と思った。
歌も好きに歌えない人生なんて。
歌姫たちを城に戻す最後の馬車が出た。
「アリエッティ様。」
暗闇に動かないわたしを心配して、ベルセマムが声をかけた。
「もう少しだけ。待って。」
お城の喧騒が、今のわたしには辛い。
明日は歓迎の晩餐会が開かれる。
ヨシュア様とアリシア様が寄り添う姿を見なければいけない。
逃げたい気持ちが渦巻いて、思わずため息が出た。とても勝てるとは思えない。アリシア様のあの様子では、まだヨシュア様は自分のものだと思っている。
そんな彼女に、わたしはどんな態度をとればいいのか分からず、なるべく鉢合わせしないように動いていてしまう。
「明日は離れで寝ようかしら。」
うるさい噂から離れて、のんびり暮らしていたあの頃が懐かしかった。
「また、叱られてしまいます。」
苦笑まじりにベルセマムが言った。
「そうね。最近、叱られてばかりだわ。悪いことしてないのに。」
思わずため息が出た。
この場所は原点。
カービングでの始まりの場所。
あの時、わたしは受け入れたのだ。
ここでの立ち位置。自分の運命。
そしてここでその運命を覆すことを諦めた。
ここはわたしの仮の居場所。
わたしを2番手から抜け出させる場所は、ここじゃないどこかにある。
そう決意して使命だけを果たそうと決めた。
その決意は今でも変わらない。
カービングに祝福を授ける巡業。
やっとここまで来た。
歌姫の幸せの歌が、この地を、ここの民を幸せに導く。
今はその使命に集中しなければ。
だから、変えない。変えられない。
ヨシュア様の想いに応えようとすると、わたしの根本から変わってしまう。
わたしは最後まで、歌姫を守る存在でいたい。