48 委ねてしまいたい
「・・・すまなかった、アリエッティ。」
ヨシュア様が苦しそうに呟いて、うつむいた。
「いえ。大丈夫です。あの、慣れておりますから。」
生まれてこのかた、侍女に起こされることなんてない。
身の回りの世話なんて、別に不自由してない。
だけど、ここはなんでも揃うわけではないので、彼女たちの存在は本当にありがたい。
「わたしの服を貸そう。暗いからそこまでわからないだろう。すぐに部屋に行こう。」
え?ちょっと待って!
「あの、それには及びません。私はここで。」
「ダメだと言っているだろう。」
「何故ですか?もう涼しくなりました。ちゃんと眠れます。」
城の部屋にはピアノは置いてない。
ヨシュア様は奥方様の部屋や大広間のを使えばいい。なんだったら、離れのものを移動する、とおっしゃるけどそうではない。
城の中で音楽を奏でないのは、もうわたしの意地なのだ。
だから、城の部屋は不便でしょうがない。練習を遅くまですると、ベルセマムや新しく侍女についたルシータに待っていてもらわないといけなくなる。
城の中に入る以上、侍女もつけずに歩きまわるわけにはいかない。
わたしは招かれざる客
ヨシュア様たちには謝ってもらったけど、巫女姫の降嫁を望んでいるのは変わりないので、勝手知ったるように歩くのは不躾だ。
だから、城で寝ている間は起きて朝食をとり、それから移動する。夕食は基本、侍女と離れでとって、あまり遅くなる前に城の中に入ったが、どうしても練習時間が少なくなる。
それに最近ではヨシュア様がよくお誘いしてくださるから、夕方以降の練習もままならない。
「ここは誰でも入ってこれる。不用心だと言っただろう。ここで寝ることは許さない。これから、ずっとだ。アリエッティ、部屋を移しなさい。ちゃんと侍女の控えの間がある部屋に移るんだ。ここは狭すぎる」
そしたら全然練習できないじゃない!わたしの生計を奪うの⁈
「大丈夫です。ここはお城の中ですよ?今までだって、なにもありませんでした。こんな時間に誰かが来るなんて、初めてです」
「信用し過ぎだと言っただろう。あなたは。」
「ちゃんと鍵をかけて寝ます。今は寝てなかったから窓を開けてましたが、寝るときにはちゃんと閉めています。」
「あの窓には鍵はないじゃないか。それに扉の鍵だって簡単に開けられる。あなたは一人なんだぞ?誰に助けを求めるんだ?」
そ、そんなこと言ったって。
今まで誰もこなかったし。
第一、ここに誰か住んでるなんて、知ってる人いるの?
ベルセマムとルシータしかこないわよ。あとはケビンと、お城の何人かでしょ?
それにカービングの兵たちは信用できる。
「卿、あなたのお城なんですよ?誰が悪いことを企むのですか?ご自分のお城なんですから、信用してください。」
もっと自信持ってください。巫女姫も泊まられるお城なんですよ?
寧ろ安心してくださいって言われたいわ。
ヨシュア様は顔を覆ってため息をついた。
これ、よくやられるのよね。そしてわたしを貶める一言を言うんだわ。
はしたないとか、慎みがないとか、何も分かってないとか。
そんなことないわよ。
偶然、そういうことになっちゃったってだけで。そういうのってあるでしょ⁈
それにここに関してはあなた方が用意したんじゃない。
最初に寝ろって言われた神殿に比べたら、何倍も安心できる。
「では、わたしもここで寝る。」
えええ⁈何言ってるの⁈
なんか、そういうのを脅しに使うの卑怯だわ。
「迷惑です!お帰りください!」
もう、はっきり言ってやる。
わたしはわたしの時間を自由に使いたい。
この城だけでこの先、生きていけるわけではないのだ。
わたしは食いつないでいく必要がある。そのために技術を落とすわけにはいかない。
「変なこと仰らないでください。今更、一人で寝ても寂しくなんかありません。ここはお城の中ですし、こんな庭の片隅に誰が来るというのですか?用心なら十分します。神殿に比べたら、何倍も安全な場所です。」
「そうだ。今更だ!今更だからだ。」
ヨシュア様が低い声で、わたしの話を遮った。
思わず目を背けた。怖い。
この方は怒ると、本当に怖い。
「謝っても、謝りきれない。だけど、このままにしておけない。何かあったら・・・。」
は、とヨシュア様が顔を上げて、わたしを見た。
「何も、なかったよな?」
あるわけないでしょう!!
「あったらとっくの昔に、カービングを出て行ってます!」
なんてこと言うの⁈この人!
何かあって、そのまま知らない顔で居残れるわけないじゃない。
わ、わたしは生娘なんですからね!
良かった・・・って、深いため息をつきながら言われてもね。疑われたことがショックだわ。
「絶対ダメだ。アリエッティ。頼むから、城の中で暮らしてくれ。」
キッと顔を上げたヨシュア様が、また言い始めた。
もう、と今度はこっちがため息が出た。
「城の中じゃ、練習できない。・・・」
あ、思わず本音が出ちゃった。
「あなたは、本当に。・・・。」
ヨシュア様もため息をついた。
そして少し考えるように遠くに目を眇め、ピアノの上に置いてあったランタンを、ベッドの奥に持って行って、衝立で隠した。
途端に部屋が暗くなる。
ヨシュア様はもう一つの、燭台の灯りも吹き消した。
私が立っている場所は輪郭しか見えなくなった。
戸惑っているわたしをヨシュア様が引き寄せた。
ぎゅ、と強く抱きしめられる。
突然のことで驚いて、動けずにいた。
首筋に軽く体温が押し付けられ、は、と覚醒した。
抱きしめられている。
どうしよう。
委ねてしまいたい。
瞬間、そう思ってしまって、勝手に体がヨシュア様の胸にさらに奥に入ろうとした。
ヨシュア様がさらにきつく抱きしめる。あまりにきつくて身じろぎすると、やっと解放された。
ヨシュア様が、小さく息を吐いたのがわかった。
そしてわたしの両手首を強く掴んで、覗き込んできた。
それは期待したような甘さがあるものではなく、熱を帯びた獰猛な目。
自分のしたことが恥ずかしくて、ヨシュア様の獣を思わせる目が怖くて、顔を背けた。
「・・・助けを呼ぶんだ、アリエッティ。」
冷たい声がひどく大きく部屋に響いた。
「た、たすけ・・・」
「もっと、大きな声で。」
「たす、けて。」
声が出ない。精一杯、出そうとしてるのに。
ふん、とヨシュア様が鼻で嗤った。
急に優しく無くなったヨシュア様に戸惑いながら、俯いた。
「怖さで声も出ないか。」
冷たい、声。
その通りだ。
知っている人なのに。
ヨシュア様がわたしに何かすることなんてない、と分かってるのに、押さえつけられている力の強さと、蔑むような雰囲気に怯んで力が出ない。
「・・・誰もこないなんて、どうして言える?庭の下男も見回りの衛兵も、あなたがここで寝ていることは知っているんだぞ。そいつらが心変わりして忍び混んだら?扉の鍵なんて簡単に開けられる。」
そう言われて、背中に恐怖が這い上がる。ヨシュア様の言うとおりだ。
手首を握る力が、ぐ、と増した。
痛い!だけど、動かそうとしてもビクとも動かせない。
「わたしでさえこんなことをして理性を保つのに難しいんだ。最初から襲おうと思っている相手に、あなたがなにができる。」
ヨシュア様はそう言うと、ふと、力を緩めた。
緩められた手首に思わず緊張が解けて、ふいに涙が出た。
「大人しく、わたしの言うことを聞くんだ。」
黙って、頷いた。
情けなくて涙が出る。
男の人の力に自分はこんなにも非力だ。
襲われたら受け入れるしかないだろう。
手首の拘束が解かれた。
思わず、自分の手で手首をさする。だが、恐怖は解けない。暗闇もそのまま。
また、ヨシュア様が抱きしめた。
今度は、優しく、大事そうに。
解かれた髪に指を差し入れ、ぐ、とわたしの頭を自分の胸に当てた。
「後悔している。あなたにこんな仕打ちをしたことを。」
やめて。
それ以上、言わないで。
わたしは、ヨシュア様の胸を押した。
だが、離れられない。
「だが手離せない。あなたを失ったら、わたしは、生きていけない。」
絞り出すような小さい声なのに、叫んでいるような。
嫌だ。
こんなにもはっきりと。
こんな時に。
酷いわ、ヨシュア様。
ヨシュア様は、自分の上着を脱いでわたしに被せた。
そして、ランタンを持つと、離れを出た。
ヨシュア様の甘い匂いがわたしを包み、頭の芯が、くら、とする。
肩を引き寄せられ足元も覚束無い暗い庭を無言で歩いた。
疲れを感じ、わたしは少しだけヨシュア様の胸にもたれた。
大事にされている。
自分が思う以上に。
だけど。
無言のまま部屋に着き、ヨシュア様がそっと頬を手で撫でた。そして、何も言わず、去っていった。