36 こんな望みさえ
騎士のレオポルドが寄ってきて、ヨシュア様に何事か囁いた。ヨシュア様が、す、と姿勢を正して、遠くを見る。その視線の先に、先ほどの祝福を受ける人々がいた。さっきよりも人が増えて、広場を埋め尽くす勢い。
「疲れてるところ、申し訳ない。アリエッティ。祝福に戻ってあげてくれないか。」
もちろんです。ご挨拶よりそっちの方が何倍も楽しい。
足取りも軽く聖歌隊に戻る途中、レオポルドが囁いた。
「どうしても神官様から祝福を受けたいって。どんどん増えて、収拾がつかなくて。すみません。」
いいえ、こちらこそ光栄です!それでこそ、歌姫。いえ、もう神官でした。
戻って最初に並んだ家族連れは女の子を連れていた。
「お待たせしてごめんなさいね。あなた、お名前は?」
祝福の歌を歌い、名前を聞くと、アリエッティ、と答えた。
「まあ!わたしと同じ名前なのね!」
女の子の目がキラキラと光った。
「アリエッティに女神のご加護がありますように。そして、あなた方、ご家族が健やかでありますように。」
「神官様、あの、あのね。」
少女が思い切ったように話しかけてきた。
ああ、何か聞きたいことがあったから、ずっと待っててくれたのね。
「なあに?小さなアリエッティ。」
「神官様のようになるにはどうすればいいの?どうやったら、そんなにうまく歌えるの?」
あら、嬉しい。小さな歌姫候補だわ。
「心から喜んで、楽しめれば。今のあなたのままでも、十分上手に歌えているわ。お父様たちも、そう思うでしょう?」
後ろの両親にそう笑いかけると、嬉しそうに頷いた。
きっとこの子は、歌が大好きなのだ。お家でもずっと歌っているのだろう。そして、それでは飽き足らず、もっとうまくなりたいと思っている。
「でも、もっと上手になりたいと思うなら、わたしが教えるわ。ここにいる大人たちも、そうやって神殿で練習しているの。」
だけど、ここからおうちは遠いのだと小さなアリエッティが言った。
「それなら、時々、わたしはあなたのところまで行くわね。毎日、わたしが付いていなくても、頑張り屋のあなたなら、一人で練習できるはず。」
そう言って、アリエッティの頭を撫でた。
「もしよければ、ここでみんなと歌っていくといいわ。祝福の歌を覚えたら、村に帰ってみんなを祝福できるでしょう。わたしの代わりに、女神様の代わりに、みんなを祝福してあげてね。」
「いいの?わたし、神官様じゃないのに?」
「幸せを祈ることは、誰にでもできるのよ。あなたのご両親はいつでもあなたの幸せを祈っているわ。あなたは毎日、女神様とご両親の祝福を受けて大きくなってるの。でも、歌にすると、それがはっきりわかるでしょう。あなたも時々、誰かの幸せを祈ってあげてね。」
歌う?と聞くと、アリエッティは後ろのご両親を振り向いた。
ご両親が大きく頷いたので、みんなで舞台に上がってもらう。
わたしの後ろで、聖歌隊と一緒に歌ってもらった。
そうすると、一緒に歌わせてくれ、と少しずつ舞台に人が増えた。
歌い疲れた人は、舞台を降り、歌いたい人たちは上ってくるので、聖歌隊がへとへとになることがない。とてもいいサイクルだ。
わたしも喉を休ませるために、楽隊と交代するのだが、言祝ぎだけはわたしの前に列ができた。
何度かの交代の後、並んだのは小さな赤ちゃん。
こんな行列でも、泣きもせず、我慢強く待ってくれていた赤ちゃんを抱かせてもらった。
「可愛いリヒャルドに祝福を。女神のご加護がありますように。」
言祝ぎを言うと、かわいいあーあーというお返事が返ってきた。
なんて可愛い。
子どもの柔らかさと独特の優しいにおいに、疲れが吹き飛ぶ。思わず、額にキスをした。
その時、ざわ、とざわめきが起こり、人波が揺れた。
「わたしからもその子に祝福を。」
わたしの隣にヨシュア様がいた。
なんて、幸運な子なのかしら。
ヨシュア様に赤ん坊を渡そうと差し出すと、肩を引き寄せられた。
「抱いておいてくれ。子どもを抱いたことはないんだ。」
そのまま、わたしの腕の中の子供にキスをした。
わああ!
今日一番の歓声が上がった。
感激で涙を流すご両親に赤ちゃんを返し、ヨシュア様を見ると、湧き上がる歓声を満足そうに見ていた。
ああ、この人は、この土地の光なのだ。
若くても、王都に育ってこの土地を離れていても、ここの領民は彼をずっと待っていた。
彼が自分たちを、導いてくれると信じて。
そして、わずかな時間なのに、こんなにも尊敬を集めている。
それは、賛美歌を広めるために領内を回ったことで、身を以て感じた。
ここで生きる人びとが、どうやったら安定して生きていけるか。何をすればもっと豊かで、安らかな人生を作れるのか。
彼は視線の先に、その未来を見ようとしている。
隣国ゴールに侵食されていたように、カービングの土地土地の盟主は、自己本位で頼りにならないことが多い。
領主が不在の時期があまりにも長かったせいなのか、ヨシュア様が視察に巡回してきても、傲岸不遜な態度が隠しきれてない。
わたしが初めに体験した、神官を見下す態度も、領主が一緒でなければ改められることはなかっただろう。
彼らの中では頑固に巫女姫を奉る考えがあり、それ以外の神殿に連なるものは全く見えていない。
歌姫、という存在もあってないようなものだ。巫女姫にならなかった歌姫など、その辺の吟遊詩人と同じくらいの考えが蔓延して、辟易した。
初め、民を緊張させないように、となるべく薄い警護で行こうとしていたわたしは、それでは神殿自体が軽く見られるからダメだ、と厳しく諌められた。
不満だったけど盟主たちに面会するたびに、そういうことかと分かった。
女神の加護のない土地。
古くは建国より前からあるエチュア神殿を領内に持ちながら、たった20年の領主不在と、役に立たない領主代理のせいで、女神信仰自体が廃れてしまっていた。
だというのに、巫女姫さえこの地に迎えれば、その存在だけで悩まされている地震が抑えられると思っていたことが、わかった。
そんなわけがない。
民を歌わせるどころか、自然に発生する感情のこもった歌を禁じ、民が手に入れることも、練習することもできない室内管弦楽を押し付けて、女神の加護など得られるわけがない。
ヨシュア様は王宮内でお育ちになったので、その辺の意義はよくわかっていたようで、わたしの領内を回る旅を賛成してくれた。
本心は、こちらもあちらも事情が分からないままカービングに送り込まれてきた神官を警戒していたに違いない。
彼が辺境伯にふさわしいかどうかまるで試験でも課せられているかのように、彼の周りには人材がいない。王宮で育ったのなら、国王や他の辺境伯から協力があってもおかしくないのに。
最初に受けた仕打ちが無かったことになるわけないが、自己本位に要望だけを押し付ける盟主の狸どもを、般若の顔で追い返す姿を見て同情してしまった。
そして。
少しでも民に希望を。
とくに荒廃に巻き込まれた子どもたちを、これ以上さすらわせないように、と目を配っている。
ヨシュア様のそんな姿勢が、部下の官吏たちにも伝わっている。
変化への期待。
そんな重圧を感じさせないように、ヨシュア様は領民の中に入っていく。
若く美しい、力強い領主。
鬱屈したカービングの雰囲気を切り開く、鮮烈なヨシュア様の印象。
それだけで、領民の心は浮き立つ。
そのことを、彼は熟知している。
この人はきっと素晴らしい領主になる。
誇らしいとともに、また、心の中に重石が落ちた。
こんな人と生きていけたら、幸せなのに。
奥方なんて望まない。ただ、彼の領民として、近くで生きていけるだけでも幸せなのに。
そんな簡単な望みさえも、今のわたしには叶えられない。
それが悲しかった。