33 まぼろし?
ケビンを部屋に寝かせて、酒が抜けやすい薬湯を入れてもらうために、厨房に向かう。外の階段を使うと、ふと、月が目に入った。
春の満月。
春の日の祭りまで、あと2日。
ヨシュア様は、すでに城に帰って来ているだろう。
久しぶりにヨシュア様の面影を思い出して、胸が痛んだ。
あの王都での夜会以来、気分が安定しない。
気を抜くとどこかで、重石を乗せられたような苦しい想いに気付く。
ケビンが言うように、お酒の量が多くなったのは、その想いを振り切りたかったから。
歌っても歌っても、心が浮きたたない。
縋るような想いで賛美歌を歌っている。そんな歌い方をするから、想いを忘れることができない。
だけど。
傷口を撫でるように、気づいた心を想い歌うと、その時だけは楽になるような気がして。
部屋にもどり、ギターを抱えて、テラスに出た。
階下ではまだ酒場の喧騒が聞こえるが、上階のこの宿は今夜、私たちが借り切っている。
宿に繋がる階段には、護衛を立たせているので、ここには人は来ないだろう。
ボロン、と弦を弾いて、【アスリーズの実】の劇中歌を歌った。
3回目の春の日の祭りが、もうすぐ来る。
昨年の春の日は、晩餐でヨシュア様とヴァイオリンを弾いた。あれから随分と関係が変わった。
あの時、わたしのリードについて来てくれて、一瞬、心が重なった気がした。
あれ以来、目に見えてヨシュア様の態度は変化して、今ではわたしの名前を気安く呼ぶまでになった。
わたしは名前を呼べない。
高い身分の方という身分の則を犯したくない気持ちもあるが、一瞬だったとしてもこの人と結婚できるのでは、と期待した自分に対する戒めだった。
もう、あんな恥ずかしい、惨めな思いはしたくない。
それなのに。
王都で騎士たちから聞いた、ヨシュア様の態度。
わたしのことを、気に入って下さっているのは分かっていたが、側におきたいと思うくらいに見える、ということなのだろうか。
当代随一の美男子と言われる伯爵に、気に入ってもらえるのは気分がいい。だが、それだけでは済まない期待が生まれてしまう。
ヨシュア様と親しくなるにつれ、ずっと目を背けて、蓋をしていた。
想ってはいけない人だから。
決して手の届かない人だから。
それなのに。
ナーガのエスコートを厳しく窘めた時、夜会の長老様の誘いを冷たくあしらった時、まるで自分のものだというような態度で、わたしを囲い込む。
それが、わたしを苛んでいた。
期待したくない。
心を、ヨシュア様のほうに向けたくない。
あとで惨めな想いをすると分かっているのに。気がつけば、優しくされたことを思い返している。
あの時の惨めさを忘れたわけじゃないのに。
わたしの人生を曲げた、無神経で傲慢な人だと分かってるのに。
わたしは、わたしのために、あなたを許してはいけない。
歌い終わって、細く長い息を吐いた。
「アリエッティ。」
振り向くとヨシュア様がいた。