習作 ししおどしの夜
準備中の和風ファンタジーの習作です
わかりにくい点などございましたらコメントいただけますと幸いです。
参考にさせていただきます
まって。まって。
そう叫ぶことが出来るなら、きっと喉が裂けるほどに叫んだ事だろう。しかしひさきこにはそんな風に叫ぶことは出来なかった。
ひさきこは声を出せない。
まだ赤ん坊の頃からひさきこの声は喉で詰まったようにとまってしまい、泣いても笑っても終始無言だった。そんなだから乳をもらいそびれ、あるいは褓を変えて貰いそびれることも珍しくなく、そのせいか何度も死にかけたほどだ。なんとか育ちはしたものの、目ばかり大きなやせっぽっちのひさきこは、他の子供についてゆくのも大変だった。
すでに五歳。
神無の里ではそろそろ薫餌に使う草木や口噛について教えられ始める頃合いだ。ひさきこも自分よりも大きな子供に連れられて山に鹿威の実を取りに来たのだが、帰り道で遅れていつの間にか一人になってしまった。
鹿威の熟れた実は、つつくとぱんっと弾けて細かな種を四方に飛ばす。その弾ける音で鹿が驚く事から鹿威と呼ばれているのだ。
種を集める時は熟した実に袋を被せてから弾けさせると手間がなく、未熟な実はそのまま摘んで籠に集める。
難しいというほどの作業ではないが、小柄な三歳児のひさきこには簡単な作業でもなかった。くたびれていたひさきこは帰路を急ぐ子供たちについていけなかったのだ。今日は不慣れな子供がひさきこの他にもいて時間を取られたので、帰りの道をいそいでもいた。日が完全に暮れれば山の道は、いかに里に近くとも子供には厳しい。
いつもならそんなひさきこに目を配ってくれる年長の女児たちが二人とも欠けていたのも厳しかった 。
もたもたと必死に追っても、他の子供たちとの間はみるみる開く。呼びかけ、助けを求めようにも声は出ない。見えない子供たちのあとを追い、やがて完全に見失ったひさきこはついにその場に座りこんでしまった。
空がにじむように赤くなってゆく。日が暮れるまであとそんなにはないだろう。日が暮れたら、いったいどうしたらいいのだろうか。
がさりと、音がした。
座ったまま恐る恐る振り返ったひさきこは一頭の若い雄鹿が、自分を伺っているのに気づいた。
まずほっと息をつく。鹿ならきっと襲ってはこない。それからひさきこはふと、いいことを思いついた。
鹿を、寄せられないだろうか。
鹿がいればずいぶんと心強いし、温かい。
口噛を習い始めたばかりのひさきこはもちろんまだ薫餌を持ってはいないが、酒にならない口噛しただけの餌で動物を寄せる方法は習っていた。渡魚師などはその方法で龍魚を飼っているのだ。
鹿が好むのは鹿威の未熟果だ。
ひさきこは持っていた籠から未熟果を一つ口にいれ、ゆっくりと噛んだ。
ひさきこの口の中で噛まれた鹿威は酸っぱい果汁を出し、それがひさきこの唾液と混ざって甘く香る。
鹿の鼻が動いた。香りに反応しているのだ。
ひさきこは口から掌に噛んだ果実を出して差し出した。
おいで おいで
声にならないひさきこの言葉を聞き取るように、鹿の耳が動く。
鹿に差し出しているのと逆の手で、もう一つ鹿威を口に含んだ。
ゆっくり、ゆっくり、噛みながら、鹿を招く。
おいで おいで おいで
甘い香に耐えかねたように鹿が一歩、二歩と踏み出す。
ひさきこの掌を嗅ぎ、ひさきこが口噛みした実を食べた。
食べはするが、後ずさってしまう。
ひさきこは二つめの実を掌に出す。
口に三つめの実を含んで噛む。
鹿は鼻をいっそうひくつかせ、また耐えかねたように寄ってくる。
おいで おいで おいで
鹿が二つめの実を食べる。そっと手を伸ばすと鹿はひさきこに身を寄せて座った。
ひさきこは鹿の首に腕をまわしてぎゅっと抱くと、三つめの実を鹿に与えた。
四つ目を口に含んで噛む。
鹿は三つめの実を食べたがそれ以上ねだることもせずただ大人しくひさきこに寄り添った。
鹿を寄せた頃にはすでに日はほとんど落ちていた。ひやりと足下から冷気が上ってくるが、鹿に身を寄せれば寒くはなかった。
ひさきこ、と呼ばれているがそれは名ではない。
陽咲というのは母の名で、その子だからひさきこと呼ばれているというだけの事だ。子は七つを超えるまで名をつけられることはない。
七つまではまだ神の子のうち。
だから七つになるまでは母がなくても社のもとで育てられる。ひさきこもそうやって育てられた。
乳離れした子は親があっても社に集められ、口噛や薫餌、動物を寄せる技などを仕込まれるのが里の習いだ。ただ親のある子は夕べには家に戻るが、ひさきこは記憶にある限り社で暮らしているというだけで。
陽咲はよい薫餌師だったのだそうだが、産の難で死んだ。だからひさきこは自分の母の事を聞いた話でしか知らない。顔は良く似ているとか、目の色はひさきこのように薄くはなかったとか。
陽咲は通わせていた男の名を誰にも明かしていなかったので、ひさきこは父の事は何も知らなかった。
ひさきこの口噛の実を食べた鹿は、ひさきこを守るように寄り添って、時々ひさきこの頬を舐めた。鹿威の実を口に含んだまま鹿のなめらかな毛皮にもたれているうちに、ひさきこは何度かうとうとした。口噛んだ実の甘い香りがいくらか空腹をなだめてくれていたせいもあったかもしれない。
社を預かっているのは里の大刀自とその妹だが、二人はひさきこが帰らないのを心配しているだろうか。それとも声も出ないひさきこの事など、たいして気にしてもいないだろうか。
ひさきこと同じように母を亡くし社に引き取られた子は他にももう一人いたが、五つの今まで生きているのはひさきこだけだ。もう一人はひさきこよりもよほど頑丈で活発な子供だったのだが、去年の夏に木から落ちて死んだ。
七つまでに死んだ子に墓はない。ただ山に埋められる。埋めるのは籤にあたった男衆だけなので、子の亡骸の在り処などたちまちわからなくなってしまう。
もしもひさきこが里に帰らなかったなら、きっとあの子と同じように忘れられてしまうだろう。
とくとくという心地良い鹿の鼓動と、鹿の温かさはひさきこを落ち着かせた。こうして鹿と寄り添っていれば、なんとか朝までしのげるかもしれない。朝になれば誰か探しにきてくれるかも。
とくん。
鹿の鼓動が強く打った。
うとうとしていたひさきこが顔を上げる。
何かがいる。
鹿は身を固くして、ぴんと耳を跳ね上げている。
鹿ではない。鹿が恐れるような何か。
ひさきこは闇に目を凝らし、鹿を抱く腕に力をいれた。
それは大きかった。
そして威を備えていた。
月明かりに大きな鱗が光る。
龍だ。
どうやらひさきこは子供たちを追っているつもりで道をそれていたらしい。龍渡りの池と呼ばれる池から木立一つのところにまで近づいていたらしかった。
龍渡りの池がそう呼ばれるのは、そこが本当に龍の渡り道に当たっているからだ。
渡魚師は船を引かせるのに龍魚を飼うが、龍魚は年古れば龍に変じる。普通は龍に変じるほどの龍魚は薫餌師が引き取って龍に育てるのだが、中には普通に渡魚師に飼われたままの龍魚や野生の龍魚でも、龍に変じる事はあった。
龍魚は龍に変じる時、川を上る。川を上り、登龍門と呼ばれる岩戸を潜った先の滝を上りきることが出来た龍魚だけが、龍に変じる事が出来るのだ。龍に変じると山を下り、池伝いに淡海に戻ってくる。
この龍もそのようにして淡海に戻る途中の、野生の龍だった。
もっとも、ひさきこにそんな事情がわかったわけではない。
ただ、龍だと思い、恐ろしいと思った。
霊地である登龍門の気を浴びて変じた龍は、龍魚と違い霊性を帯びる。霊性を帯びた生き物を扱う事は難しい。口噛を覚え始めたばかりの幼子などの及ぶところではない。
龍が吠えた。
鹿がびくんと立ち上がり、ひさきこの腕が振りほどかれる。振りほどかれたはずみにひさきこは頬の内側を噛んだ。血の味が混ざった事で、自分がまだ口中に鹿威の実を含んでいた事を思い出した。
この実でもう一度鹿を寄せる?
でも、寄せてどうするというのだろう。
龍は戦に使われる事もある獰猛な生き物だ。まして野生の龍となると、鹿もひさきこも食われてしまっても不思議はない。龍を前に鹿がいてもいなくても、危険であることに変わりはないだろう。
でも、それでも。
ひさきこは震える指で口中の実を摘み出した。そのまま鹿に差し出す。鹿の鼻が動き、口を開く。ひさきこが震える指で押しこんだ実を、鹿が飲み下した。
龍が再び吠えた。
明らかにひさきこを見据えて口を開ける。
助けて。
声にならない叫びを上げて、ひさきこは目をつぶった。
目をつぶって、しばらくして目を開けて、ひさきこは信じられないものを見た。
鹿が龍に立ち向かっていた。
まだ大きくない角をふりたてて、龍のほうに突っ込んでゆく。
龍はめんどくさそうに首を振り、鹿はそのまま払い飛ばされた。折れた鹿の角がひさきこの腕をかすめて一直線の痛みを走らせる。
龍の鼻面がひさきこに迫り、しかし直前でとまった。生臭い息がかかり、ザラリとした湿ったものが、傷ついたひさきこの腕を舐める。しみるような痛みがじわりと腕に広がった。
お願い、あっちへ行って。
長い間、ひさきこは目をつぶっていた。
目を開けたとき、すでに龍はいなかった。
夜が明けて、はぐれたひさきこを探しに山へ入った里人は、角が折れ、全身を打ち据えて死んでいる鹿と、その鹿のそばで気を失ったひさきこを見つけた。
場所が龍渡りの池のすぐそばであったのと、ところどころに痕跡もあったので、龍に遭遇したのかと思われた。そのわりにひさきこが腕に切り傷を負っている以外無傷であった事は不思議だった。登龍したばかりの龍は腹をすかせている。鹿共々ひさきこが食われてもなんの不思議もないものを、龍は死んだ鹿さえも食っていなかった。
首を傾げつつも里人はひさきこを背負い、社に届けた。
ひさきこがはっきりと目を覚ましたのは三日日後だ。社につく頃には発熱していたひさきこは、まずそのまま寝込んだのだった。
しかも声の出ないひさきこの話をくみ取るのは難しい。ひさきこの世話に慣れている大刀自の姉妹でさえ細かな状況を知ることはできなかったが、それでもひさきこが口噛で鹿を寄せたこと、龍は鹿を払い飛ばしただけで去った事、龍がひさきこの傷を舐めたらしい事はわかった。
顛末をなんとかひき出した大刀自はひさきこの髪を撫でてため息をついた。
「そうか。お前が今まで生き残ったのは、命が強いということなのかもしれんな。」
それから大刀自はひさきこに血には強い力が含まれる事を教えた。
「ただの薫餌で寄せられぬものも、血を用いれば寄せられる事がある。もっとも普通は血だけで龍を従えられるものではない。強いものを従えるには様々な術が必要じゃ。強すぎる血は扱いが難しい。ひさきこの血は強すぎるのかもしれん。薫餌の技を覚えるまでは血を用いてはならん。」
血が強すぎる。
その言葉にひさきこが思い浮かべたのは、ひさきこの血を含んだ口噛の実を食べて、龍へ向かっていった鹿の姿だった。
あんなに怯えていたのに龍に向かったのは、ひさきこの血のせいだったのだろうか。
こわい。
夜の山で龍に出くわした時よりも、ずっと強い恐怖を感じる。
だって、それではまるで毒だ。
意思も感情も無視して従える力など、毒としか思えない。
自分には、毒の血が流れている。あの夜、自分を温めてくれた鹿を死なせてしまった毒が。
その事実はひさきこの胸の中に深く深く沈んでいった。
ひさきこが名を得て里を出る、二年前の話である。