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苦手な方はご注意ください。

○△(縦書き用バージョン)

作者: 神代直樹

 これを読んでいるあなたは、今どこにいるのだろうか。

 ソファーに座ってくつろいでいる? それとも通勤通学の電車の中? 布団で寝転がっているか、トイレに持ち込んでいることもあるだろう。学校の休み時間に見ている? 半身浴している最中に(ひま)だから見ている可能性もあるのかもしれない。

 文章を読むという行為は、十五世紀半ばのヨハネス・ゲーテンベルクによる活版(かっぱん)印刷技術の発明によって世の中に本というものが(あふ)れてから、ごく日常的なものになっている。今ではこのように、本という形を取らなくても、文章はありとあらゆるところに存在する。

 かつては個室で、テーブルの上に仰々(ぎょうぎょう)しく開いて読むものだった本の中の文章が、今では他人と肩を接しながら視界に入ってきたものを読み捨てたり読まなかったりするものになった。

 さて、そこでちょっと周りを見回してほしい。不審(ふしん)な動作をしている人はいないだろうか。何も無いはずの虚空(こくう)(にら)み付け、(おび)えて(ふる)える人が。

 彼、あるいは彼女は、幽霊を見ている。猫は時折、似たような動作であらぬ空間を見つめていることがある。猫が何を見ているのか、猫ならぬあなたにはわからないけれど、同じ人間なら何を見ているのか(たず)ねることができる。しかし、相手は決して(こた)えない。自分の見ているものが自分にしか見えないことを理解しているからだ。

 彼、あるいは彼女は、その場から逃げ出す。どこへ逃げても追ってくる。姿が見えなくなったと安心しても、何かのきっかけで再び姿を現す。きっかけとは、記号だ。記号の中に、()まわしいものを呼び出してしまうものがある。まるで悪夢の中で、現れてほしくないものを想像すると実現してしまうように、その記号を見て()まわしい想像をしてしまうと、幽霊が現れてしまうのだ。

 視界にはあらゆるところに文字がある。看板、標識、注意書き、商品ラベル、服にも記号が書かれている。モチーフとなる文字やブランドのロゴ、人物や風景のプリント、丸いボタン、(そで)の折り返し部分、(えり)の形も図形として見ることができる。そもそも洋服は人体を単純な形へ分解するような形をしている。円筒形の首、腕、四角柱の胴体、丸い頭。その組み合わせの中に、(かす)かに()まわしいものの姿を予感して、人のいないところへと逃げ出していく。視野を(せま)くして周囲から記号を()め出し、誰もいない、何も無いところ、一人きりになれる場所。そこはトイレの個室である。

 ここなら他人はいない。宣伝も無い。文字のありそうなところは見なくて済む。(おび)えている自分を見つめ、首をかしげたり怪訝(けげん)な眼を向けてくる、無理解な他者がいない。自分が見ているものは、本当は幽霊では無い。そうではなくて……

 不意に、視線が壁の一角に定まる。薄汚れた壁、その一角にシミがある。意味の無い形、だがそこに()まわしいものを認めてしまう。安心できるはずの個室は、一転して逃げ場の無い牢獄(ろうごく)となった。逃げだそうとして、だが逃げられない。トイレの入り口、そこには記号がある。()まわしい記号が。

 うずくまり、目をつむるその背後に、何者かが立つ。(すさ)まじい臭気(しゅうき)が立ち込めた。肩に手が乗せられる。何本かの指はあらぬ方向へ向いている。手は肩口から上半身を()って胸へと(すべ)っていく。相手の体が背中に引っ付く。(ほお)に頬が寄せられる。血に(まみ)()り切れた肌、(くだ)かれた頭蓋骨(ずかいこつ)、頭髪は頭皮が破れデタラメにあちこちに残っている。その、血液によって固まり(とが)った毛先が肌を刺すのを感じながら、頭蓋(ずがい)()らんばかりの悲鳴を上げる。肺の中の空気を(しぼ)り出しても、恐怖は消えない。抱きつかれたまま二度目の悲鳴が出た。血圧が急上昇する。手足の先が(しび)れ始める。三度目の悲鳴を上げながら、体の中で血管が破れるのを感じる。やがて、()まわしいものに押し倒されるように、床にくずおれる。事切れた遺体(いたい)は、悲鳴を聞きつけた者に発見されるだろう。不可解な死に(おそ)われた、謎の死者として。




 幽霊は怖いだろうか。

 当然、怖いものだとあなたは答えるだろう。幽霊は、不可解なものだ。生者にはわからないロジックで行動している。不意に目の前に現れ、(うら)みに満ちた表情や、死の瞬間のグロテスクな姿で驚かせる。

 時には憑依(ひょうい)し、もしくは呪いをかけ、生きている者の意識の主導権をとる。憑依された者は不可解な行動を取って死ぬ。見通しのいいはずの道路で事故を起こしたり、理由も無いのに自死を()げる。そこに正常な思考は無い。傍目(はため)からは何の理屈も無く破滅へ突き進んでいく。何かに呪われているようだった、としか説明がつかない。

 怪談を読んだり聞いたりした限りでは、逃げようがない。それが怖い。

 だが、幽霊なんて本当にいるのだろうか、と疑問に思ったこともあるはずだ。

 少なくとも、何らかの手段で再現できない以上、科学的な調査のできない存在だ。幽霊が起こすとされる現象を、科学で再現することはできる。けれども、幽霊が目撃された時にその現象が起こっていたという説明はできないだろう。科学には限界がある。例えば、山岳遭難(そうなん)が起こった時、何が起こっていたのかを調査するには、その場所その瞬間の科学的データが(とぼ)しい。世界中のどこにでもデータを収集するセンサーがあるわけではない。最寄りの気象観測所や衛星で観測したデータから、遭難時の状況を推測するしかない。同じように、幽霊を見た人が、そのときにどんな状況に置かれているのかは、当人の心理を含めてデータが少ない。

 そもそも、幽霊をいないと証明することはできない。何かがないと証明することはできない。それは「悪魔の証明」と言われている。幽霊がいないと証明するには、この世に現れた全ての幽霊を、一つ残らず科学で解明しなければならない。そこで初めて、幽霊はいないと証明したことになるのだ。

 しかし、幽霊という存在が解明されなくても、人間社会には何の不便も無い。怪談が個人を怖がらせ、心霊スポットと呼ばれる場所へ足を踏み入れられなくなったり、何か特定の行動ができなくなったとしても、社会には害が及ばない。伐採(ばっさい)してはいけない大木や、(つぶ)すことのできない塚のような存在はあるが、そのことで社会が甚大(じんだい)な損害を(こうむ)った例は聞いたことがない。大々的に予算を組んで対策したり、特別な法律を作って対処しなければならない存在とはいえないだろう。

 大げさな話をすれば、幽霊によって核ミサイル管制装置が壊されて核戦争が誘発されるとか、原子力発電所の安全装置が破壊されたりはしないということだ。幽霊はいないものとしても何の問題も無い。

 個人ではどうか。あなたは幽霊を見たことがあるだろうか。見たことのない人がほとんどだと思う。自分は霊能力者だと名乗る人もいる。取り()かれたりしないのであれば、日常生活に支障はないようだ。

 幽霊の目撃(たん)や都市伝説といった怪談を読んでいると、幽霊を怖がるのは基本的に幽霊とは関わりなく過ごしている人間だ。日常が、不意に不可解な存在に(おびや)かされ、恐怖に身を(こう)らせる。その、恐怖する条件を絞っていくと、初めて幽霊を目撃した時、または、いつも同じ人物が幽霊として現れる時だと思われる。

 もう幽霊を目撃してしまった人間、もしくは日常的に幽霊を見ている人間以外の、幽霊など見たことのない人間にとって、幽霊は恐怖の的である。ただ、怪談本や動画などによって目撃譚が求められていることからして、好奇心の的でもあるといえる。怪談を読む人間にとって、幽霊は初体験に対する恐怖を(いだ)きつつ、そこに何らかの(あこが)れをも抱いているのだろう。

 それでは、幽霊によって引き起こされる恐怖とは、どのようなものなのだろう。

 恐怖にも種類がある。幸せの最中に恐怖を感じる人は、その後に来るかもしれない不幸との落差、大きな喪失(そうしつ)を恐れる。怖い人というのは、暴力や権力によって自分の欲求や感情を否定されることへの恐怖を感じさせるのだろう。

 幽霊の場合はどうだろう。具体的に考えてみよう。

 初めは、昔ながらの(うら)(つら)みの念をもって現れる幽霊である。彼らはその、表情だけで人を殺せるような、恐ろしい形相(ぎょうそう)でもって生者を怖がらせる。だが、顔は私たち人間が持っているものだし、日頃みなれているものでもある。それでは何が怖いのか。それは、生きている人間は決してしないその表情だろう。あなたは、憎しみを顔いっぱいに表して他人を見たことがあるだろうか。人間の顔とはコミュニケーション・ツールの一つである。人に顔を向けるときは、その人にメッセージを送っている。話しかける時には合図として相手の目を見る。たしなめる時には眼を細めて鋭い視線を送る。お礼をしたい時は顔を弛緩(しかん)させて笑みを浮かべる。すれ違いざまの見知らぬ他人と目が合った時には、興味の無いことを示すために表情を消して視線をそらす。

 他人を恐怖させるほどの形相というのは、視線の先の相手を本気で殺しにかかる合図ともいえる。だから、恨みの念を表情に出して表れる幽霊を怖がる心というのは、明確な殺意が自分に向けられる時の恐怖とはいえないだろうか。

 もう一つの幽霊の種類は、死の瞬間の身体で現れるものである。恐怖映画の目玉ともいえる存在だろう。あるかなきかの(ほの)暗い(あか)りの下、何かが立っている。近づくまでその姿ははっきりしない。そういえばこの辺りで事故があったなと思いながらそっと目をやると、姿がはっきりしないのはどす黒い血で染められて、全身が闇の中に(まぎ)れているからだと判明する。人のように感じられなかったのは、顔が(つぶ)れて挽肉(ひきにく)(かたまり)のようになっているから。人毛を付けた頭皮が、デタラメに無数に張り付いている。真ん中にポカリと開いた穴からは、うめき声とともに歯をぼろぼろと(こぼ)す。

 この種の幽霊の恐ろしさは、死体としての人体に対するものだろう。普段は気にすることのない人体の裏側。皮膚の下の筋肉、血液、骨。それらがむき出しになった人体模型は、怪談では夜歩き出すのが定番だけれど、本物の人体が筋肉や骨をむき出しにしている姿というのは、その人物が確実に死へと向かっている時にしか見ることはない。人体の裏側は、死と深く(つな)がっている。自らの裏面を目にするとき、その人物は遠からず死ぬのだ。

 恐怖の種類としては、死の恐怖ということができるだろう。人類が古代より恐れていたものだ。様々な宗教が、その恐怖を和らげるために生まれてきた。死後にどのようなことが起こるのかを語り、神が自分の(たましい)をどのように扱うのか、いわば神の予定表のようなものを語って人々を安心させてきた。

 けれども、私たちの文明は、神を拒絶(きょぜつ)した。現代社会では、死は不可知なものだ。その恐怖を取り除くことはできない。死を生きている人間に報告できる者がいないからだ。

 人間の意識というものは、脳が作り出している記憶の堆積(たいせき)、経験の積み重ねを集め、より重要なものを取り出して知識や感情という形に()り上げ、行動に反映できるように形作られたものに他ならない。

 死の瞬間、たちまち意識は失われ、記憶も感情も無くなり、全くの無の世界になる。

 私たちの文明では、そのようになると考えている。

 だが、本当にそうだろうか。

 生きている人間で、死を経験したことのある者はいないのだ。

 だから、私たちの死に対する知識は、死後も意識が続くと書いたグスタフ・フェヒナーや、魂は輪廻転生(りんねてんしょう)すると考えたピタゴラスと、何も変わらない。

 疑似(ぎじ)的な死と呼ばれることのある睡眠や麻酔も、いずれは起床(きしょう)するという点から死の経験の代わりにはならない。私たちが恐れるのは、永遠の起床することのない眠りなのだから。

 そして、幽霊という存在は、その考えを()(こう)から否定するものだ。その存在は、あまり幸福なものには見えない。死の恐怖とともに、幽霊は死後の恐怖をも体現するものなのだ。

 不幸にも幽霊を目撃することは、死の恐怖と死後の恐怖に取り()かれ自らが本当に死を迎えるまで捕らえ続けられることなのかもしれない。

 では、幽霊を怖がらずに済む方法というのは、無いのだろうか。

 個人的な体験を元にいえば、方法はあると思う。

 体験といっても、私には幽霊の目撃体験などはない。私が恐怖したのは、怪談本の挿絵(さしえ)だった。図書館で怪談本を(あさ)る時、挿絵の無い本を選んだ。挿絵の何が怖いのか、じっくりと眺めたことがある。特に怖かったのは、湖から上がってきた溺死体(できしたい)の女の絵だった。

 絵自体は写実的な普通の女の絵で、水死体に特有の損壊(そんかい)が描かれることもなく、今から思えば穏当(おんとう)な絵だった。本文と組み合わせて示されたから、話者を呪うためにやってきた女性の水死者なのだとわかるのだ。絵それだけならば、背景となる水死、呪いなどの物語は決して読み取ることができない。だが、その絵は怖かった。怖さの理由は、その女の表情だった。捉えどころの無い、茫洋(ぼうよう)とした表情でこちらをみている女。半ば開いた口。死体のような無表情さ。視線はこちらを向いている。焦点は読者だ。暗い色調が女の死を強調している。この絵は、死体に見つめられるという経験をもたらしていたのだ。そのように感じさせるテクニックで描かれていたのだ。

 そのように考えたとき、その挿絵から恐怖が取り除かれ、人体を描くテクニックという非常に生者の(にお)いのするものが残された。それ以降、怪談本の挿絵に対する恐怖はなくなった。挿絵から死者という属性が()がされ、人間の技法という生者のものが残されたのだ。

 挿絵ではなく幽霊そのものの場合、その姿は間違いなく死者そのものなのだが、私たちの方で恐ろしさの属性を剥がしてやることはできるのではないか。例えば、あがり症の人が舞台に立つとき、緊張をほぐすために観客を人間ではなくカボチャや大根だと思うという知恵がある。自分の一挙手(きょしゅ)投足(とうそく)に注目し、批評し、失敗を探し出して(あざけ)り笑う観客から、主観、自我といったものを剥がすことによって、自分の対する注視を意識しないようにするという方法だ。あがり症というのは、自分があがってしまうのではないかという恐れから生じる。一種の自己催眠(さいみん)である。それを、自己催眠で打ち消してしまえばいい。目の前の存在は自分を緊張させない。自分はあがり症ではない。本番は練習と何もかわりはない。というようにいくつもの自己催眠で上塗りしてしまう。

 幽霊を怖がらずにするためには、何か別のものを連想するという方法がいいのではないか。挿絵を例に取れば、怪談本の挿絵は、せんじつめればただの絵だ。インクの線や濃淡(のうたん)が作り出すただの図形の集合である。人体も同じように、図形の集合だ。頭、胴、腕、足。可視光の反射によって見える図形の集合に過ぎないのである。それならば、幽霊もただの図形の集合だと考えて、死体という属性を消し去るという方法を試してみよう。

 先ほどの幽霊を使って考えよう。死の瞬間の姿で現れた幽霊。顔面が完全に破壊されている。皮膚は(あご)の下に()れ下がっていて、顔面のほとんどは赤黒い筋肉組織が()き出しになっている。それも、組織だった表情筋は残っていない。寸断され()(つぶ)され、挽肉の(かたまり)にしか見えない。頬骨(ほおぼね)が折れて突き出している。眼窩(がんか)には眼球が残っていない。ただ穴が開いている。頭皮はいくつもに千切れ、頭髪の生えたいくつもの破片がデタラメにあちこちに付着している。口中には歯が生えていない。(くだ)けた歯が、ふざけてトウモロコシを吐き出すように零れ落ちていく。

 体の方は顔面ほどには破壊の跡が見られない。摩擦(まさつ)で焼け焦げた服が張り付いてはいるものの、上半身も下半身も形は(うしな)われていない。ただ、手足の指先は砕けていてあらぬ方向を向いている。

 このような幽霊に感じる恐怖の大本(おおもと)は、そのディテールにある。表面に現れているその情報が恐ろしいのだ。死を感じさせる情報を消し去れば、基本的には生きている人間のものと変わらなくなるだろう。そのために、人体を簡単な図形の組み合わせであると考えると、私が怪談本の挿絵を怖がらなくなったように、幽霊を恐れなくなるのではないか。

 幽霊と出会う、または幽霊を思い起こしてしまう瞬間は不意に訪れる。その時に怖がらなくて済むように、人体をより簡単な図形に当てはめることにしたい。

 例えば、こんな風に……。




   ○△




 顔から表情を消し、胴体を簡潔(かんけつ)な三角形とする。人間の体は、こんな図形にまで単純化できるのだ。生きているか、死んでいるかに関係なく。

 人間の体は非常に複雑な仕組みでできている。様々な種類の組織、骨、内臓、血液、髄液(ずいえき)、リンパ液、筋肉、脂肪、表皮などが細胞で作られている。けれども、私たちは人体を非常に簡潔な形として認識している。顔、胴体、着ている服の種類、色。

 ならば、もっと単純化してみようという試みなのである。




   ○△




 さて、人間にはなぜ、幽霊が見えるのだろうか。

 そもそも、見えているものは本当に幽霊なのだろうか。

 幽霊は存在しない、と証明できないように、目撃された幽霊が全て本物であるとも言うことはできない。いくらかは科学的にも証明できる幻覚である可能性がある、と言えるのだ。

 幻覚というものは希有(けう)なものでも異常なものでもない。人間の脳は、日常的に幻覚を産み出しているとも考えられる。一例としてシミュラクラ現象を上げてみよう。壁のシミが、上に二つ下に一つの三角形の頂点状に並んでいると、人間の顔に見えるというもの。

 人間の顔のように見えるシミ、という場合には、幻覚ではない。顔そのものには見えていないからだ。ところが、これが写真の上の話になると、途端(とたん)に幻覚じみてくる。いわゆる心霊写真だ。木の葉が作り出す影、岩場の模様の組み合わせ、海岸の波が作り出す陰影、そこに人間の顔や腕、亡者(もうじゃ)の群れが見えるという。

 今は下火になっているが、かつて心霊写真を扱った本が大量に出版された。世の中に無数の心霊写真が出回っていたのだ。

 しかし、中には解説する霊能力者にさえ偽物だといわれる写真もある。写真を一目見てそこに幽霊を見いだしていた人は、霊能力者の説明によってたちまち単なる光線の具合へと変貌(へんぼう)してしまう。人の顔のように見えていたのは、幻覚だったのだ。

 人間の脳は、何かの図形を見た時、その図形が何かを意味するものではないかと無意識に様々な情報を頭の中で検索し、過去に見た物の形と比べていく。風景の中に、何か自分にとって意味のある形がないかどうか探す仕組みがあるのだ。この仕組みは、動物が周囲の環境に天敵や獲物を見つけ出すためのもので、人間だけが持っている能力ではない。しかし、人間は鳥類などに比べて色覚(しきかく)が弱い、つまり色を感知する視細胞が少なく(鳥類は四種類、哺乳類の大部分は二種類、人間は一~三種類)能力が低い。そのため、色よりも図形に特化した視覚情報の分析能力を持っている。鳥類が紫外線なども感知して色で世界を見分けているのに対し、人間は図形で世界を見分けている。

 そして、人間が社会を形成して生き延びていくためには、他人とのコミュニケーションが最重要だ。視覚においては、相手の顔の表情を分析する能力である。この能力が過剰(かじょう)に働く時、木の葉の影を人の顔だと錯覚してしまうのだ。

 かつて、森の中に隠れた動物を狩り、必要な種類の薬草を見つけ出し、自然現象の中に危険な予兆を見出した能力が、居もしない人間を見てしまうということだ。

 幽霊は何も、視覚に限ったものではない。

 一時期、深夜のラジオ放送などで流行った、歌の中に紛れ込んでいる幽霊の声というものがあった。そのほとんどは錯覚や思い違いだそうだが、中には説明のつかないものもあるという。

 これは、録音されたものなので誰でも聞けるし、解析もできる、現代文明の申し子のような幽霊の形である。

 それとは別に、目の前に幽霊が現れて、うめき声や何か意味のある言葉を発したとしよう。もしその幽霊が幻覚なら、聞こえたものは聴覚の上での幻覚、幻聴(げんちょう)だ。

 幻聴の起きる理由は、未だによくわかっていない。しかし、人間の心が産み出すものであるということはできる。病気としての幻聴には、他人が自分の悪口を言っているのが聞こえるというものがある。これは、思考の中に含まれる自己否定的なものが、まるで聴覚を通じて外界から受け止めたかのように脳の中で処理されるのである。だから、脳の中での情報処理システムの不具合が原因であると、少なくとも原因の一つであるということができる。

 更に、幻覚によって幽霊を見ている最中に、幻聴によって声を聞くことによって、幻覚のはずの幽霊の存在感を増してしまっている可能性が高い。

 幻聴とはいわないまでも、人間は生活の中で聞き間違いをすることは多々ある。意味の無い音を意味があるように受け取ってしまったり、誰かの声を全く違った意味の言葉として聞き取ってしまう。日常茶飯事である。

 脳というものは、周辺の情報から意味を読み取ろうとするあまり、全く無意味なところに意味があるかのように錯覚してしまうものなのだ。その点、視覚と聴覚が幻覚を起こす仕組みは同じなのだと考えることができる。

 そしてそれは、五感の他のものにも言えることなのだろう。味覚、嗅覚(きゅうかく)、触覚の内、幽霊に深く関わるのは触覚だろう。

 幽霊に抱きつかれた、髪を洗っている時に別の手が頭を触っていた、金縛り中に首を()められた、という体験が多い。

 触覚にも幻覚はある。代表的なものは、幻肢(げんし)である。これは、怪我などで失った手足がまだ存在するかのように感じるもので、痛みを(ともな)うこともある。脳の一部が、すでになくしている体の部分を充分に認識できず、体があるかのように振る舞っているのだ。実際に痛みを生じる部位があるわけではないので、痛みを取り除くことができない。

 幻肢自体は普通の人でも経験することができるという。スウェーデンのカロリンスカ研究所の研究者によると、手を隠した状態で、目の前の空間にその手に加えた筆の刺激と同じように筆を動かすと、被験者はその何もないはずの空間にあたかも自分の腕があるように錯覚するそうだ。

 その場所にナイフを刺す仕草をすると、被験者に発汗など緊張の反応が見られ、自分の手のある場所を指すよう指示すると、その幻肢を感じた空間の方を指さすという。(https://www.afpbb.com/articles/-/2938487)

 このことから、脳が処理する情報の中に、虚偽(きょぎ)の情報を(まぎ)れ込ませると、脳が(だま)されることがあるということが言える。もしある人物が「自分は幽霊を見ている」と錯覚した場合、その錯覚に従って虚偽の感覚を五感に感じる可能性がある。その錯覚によって、幽霊に抱きつかれたように感じたり、髪を洗うもう一つの手を触ったり、金縛りのように体が動かない時に首を()める手を産み出してしまう。幽霊が、そうした幻覚の引き起こしたものではない、と言い切ることはできない。

 先ほど、あなたに思い起こしてもらった幽霊、顔面が挽肉のようになり、髪がでたらめに張り付き、トウモロコシのような砕けた歯をぼろぼろ零しているような幽霊は、条件がそろえばあなた自身の五感で感じられたはずだ。

 幽霊が、自分自身によって産み出されることもあると知って、恐ろしく感じただろうか。でも、心配はいらない。本物の幽霊でも、幻覚によって生まれた幽霊でも、そこから細部を引き剥がし幽霊という属性を消してやろう。




   ○△




 さて、この小文中には、テーマの方向性から、やたらと「幽」「霊」「恐」「怖」「幻」「亡」などの文字が頻繁(ひんぱん)に現れる。このような漢字に、そこはかとなく忌まわしさを感じてしまうのではないだろうか(もちろん、この「忌」という字にも)。

 霊という漢字に接する時は、怪談や恐怖映像など幽霊に関わる場合が多いだろう。その時の感情が、この漢字の本来の意味の他に加えられているのだ。辞書に書かれている内容に加えて、恐ろしい表情、損壊した死体のような人体、現実ではあり得ないような大きく(ゆが)んだ体、のようなイメージが、個人の記憶として書き加えられている。

 このように、文字には(おおやけ)に認められる本来の意味に加え、その文字に対する印象や感情が与えられている。ごく個人的なものから、霊の文字のように、同じ言語圏にほとんど共通認識のように広まっているものまである。霊という漢字は他にも、ホラー映画や怪談が好きな人間にとっては魅力(みりょく)的な印象をも持っていることも書いておきたい。

 これら、辞書的な意味と、個人的な意味は、公的意味、と、私的意味、とでも名づけられようか。

 これら公的意味と私的意味は、何も漢字だけに与えられているものではない。

 例としてマンガに出てくる女性の絵を上げてみよう。顔のパーツを現実の人間と比較してみると、眼の大きさは現実のものよりはるかに大きく、鼻はずっと小さい。単純にパーツの大きさでみると、同じ生物を描いているとは思えない。しかし、マンガを読む人間には、この絵が「美少女を表すもの」と認識できる。大きな眼、鼻の穴が描かれない小さな鼻、細い線で描かれた口などが、「美少女を表すもの」という共通認識を与えられているからだ。かつてこれは、少女マンガなどを読む一部の読者が持つ私的意味だったが、マンガが広く読まれるようになることで、今では企業の広告に同じルールで描かれた美少女の絵が使われるなどして、公的意味をも持つようになった。

 ちなみに、特定の作者の絵が特別に好みであるというような感情は、私的意味といえる。

 シミュラクラ現象において、顔のように見える三つの点は、人間の意識が意味を与えているのではなく、脳が勝手に意味を作るということなので、公的意味、または本能的意味とでも言えるのだろうか。

 この小文の。




   ○△




 も、私的意味を与えることによって発動するものになる。

 幽霊を怖いものと感じられなくなるよう、はっきりと定義づけをしていこう。

 これは、幽霊を表す記号である。

 あなたが、幽霊を見た時、あるいは幽霊のことを考えてしまった時に思い浮かべる記号である。

 一瞬の忌まわしい感情を振り払うために、この記号を思いだそう。幽霊といえど、人体の一種。人体はこの記号のように単純化できる。あなたが垣間(かいま)見た、あるいは頭の中に浮かべてしまったものは、このような単純な形へ回帰(かいき)させることができるのだ。




   ○△




 この記号の中には、細部の情報は一切(ふく)まれていない。見た目の通り、ただの丸と三角だ。

 しかし、文字や記号には、個人が持っている感情や印象が私的意味として付け加えられる。あなたが幽霊を見たり思い浮かべたりするたびに、この記号を思い浮かべる。すると少しずつ、この記号に「幽霊」という意味が付け加えられていく。この記号が幽霊を打ち破る護符(ごふ)の役割を果たすのは、時間制限がある。個人差もあるだろうが、無意識のレベルでこの記号が繰り返されると、やがて意識の上にもこの記号の存在が現れ始める。何度も記号を想起することで、私的意味は短期記憶から長期記憶へと脳の深い部分にすり込まれていく。




   ○△




 逃げられない。

 もしあなたが、怪奇小説や実話怪談などに興味が無く、幽霊や死後というものに触れる機会が無ければ、記号の私的意味化はごくゆっくりと進行する。不幸にも若くして死んでしまう場合には、私的意味は発動しないままかもしれない。

 しかし、あなたが怖いもの好きで、怪談や心霊といったものが大好きだとしたら、この記号は呪いのごとく、あなたを悩ませることになるだろう。

 今までに読んだり見たりした幽霊、本物か偽物かに関わりなく、そのディテールが徐々に記号に書き加えられていく。そして、幻肢に感じる痛みのように、あなたの五感に訴えるようになる。幻肢にナイフを突き立てられたときのように、体の器官が勝手に反応するようになる。初めは背筋が少し震える程度かもしれない。だがあるとき、背筋をそっと触れるものが現れるだろう。

 それは紛れもない幻覚だ。あなたの脳が産み出した幻だ。本物の幽霊などではない。しかし、幻覚は意識して消すことができない。一部が誤作動した脳は、あなたの五感に続けて訴える。

 暗闇の中で、人影のようなものを見た、と思った刹那(せつな)、幽霊や通り魔といったイメージに加えてこの記号が思い起こされる。その瞬間、肩や腕にそっと触れられる感触を覚える。人影のようなものが、実は人影ではなく、錯覚なのだとわかっても、背後の者は消えない。挽肉のように潰された顔面、デタラメにカツラを貼り付けたような頭髪、口から零れるトウモロコシのような歯、あなたがそんな幽霊の姿を脳裏に浮かべた瞬間、その幽霊はあなたの前に現れる。


 ここから先には、あなたの迎える最期(さいご)が書かれている。

 自らの末期(まつご)を読む勇気のある者は読むがいい。


 あなたは、記号のことを忘れようとするだろう。

 記号を思い出さなければ、忌まわしいイメージが思い起こされることはない。脳の中で繰り返し思い起こさなければ、長期記憶として残ることはない。

 あなたは一時的に安堵(あんど)する。進んで忌まわしいものに触れなければ、幽霊の幻覚は現れないのだ、と誤解する。

 そう、誤解なのだ。

 あの記号は、特殊な図形の組み合わせではない。ごくありふれた円と三角形だ。すぐに思い出せるように作った記号なのだから、簡単なのは当然だ。

 円と三角形の組み合わせは、あらゆるところに存在する。

 街を見回してみるといい。

 電球の形は? 信号機は? 案内板の矢印に、三角形の使われているものがあるのでは? 車のヘッドライトは? 看板のロゴは?

 あなたは安心して街を歩けなくなる。風景の中に、幽霊の頭や胴体があちこちに転がっている。足下を見つめ、やり過ごすしかない。視線を低くし、足早に歩いて去るしかない。

 だが、記号は街の風景だけにあるわけではない。スーパーやコンビニに入ってみよう。商品の包装紙、そのデザインやロゴを見てみよう。パッケージの形はどうだろうか。商品名には何と書かれているだろう。数字のゼロやアルファベットのエイ、オーは危険だ。オーエイ機器などという文字が縦書きで書いているのを見た途端、昼日中にも関わらず忌まわしい存在が背中に貼り付いてしまう。

 あなたは看板や値札が読めなくなった。

 日常生活に支障を来す。だが助けは呼べない。あなたが五感で感じる幽霊は、他ならぬあなたの脳が産み出した幻覚なのだから。他人にその幽霊を追い払うことはできない。霊能力者も、カウンセラーも無力だ。

 そして、あなたは気づいてしまう。そうなるともういけない。

 服だ。服には様々な図形が含まれている。ブランドのロゴばかりではない。ボタン、(そで)(えり)、ポケットの形。そして、洋服は人間の体を部位ごとに分解して見せる。腕、足、胴体、そして丸い頭。大勢の人々の顔、そしてガラスに映った自分の顔を見た瞬間、その後ろに忌まわしい影を見つけてしまう。

 あなたは逃げ場を見つけられない。この世は丸や三角形が(あふ)れている。丸い形はどこにでもある。ボール、植木鉢、時計、信号機。三角形も、屋根や牛乳パック、アラビア数字、アルファベット、矢印などとして使われている。どこを見ても、丸がある、三角形がある。背中に触れる手が現れる。首筋を()でる手の感触がする。濃い血の(にお)いや内臓の放つ汚臭(おしゅう)が鼻の奥に広がる。あなたを囲む何人もの存在が感じられる。正面にいる者を押しのけると、指先が(つぶ)れた筋肉の中に沈み、()れた肉の感触が伝わる。嘔吐(おうと)してしまっても誰も責められない。だがそこで倒れるわけにはいかない。救急車が呼ばれて病院に運ばれてしまう。あなたの幻覚を共有していない他人から見れば、あなたの行動は理解できない。あなたは何とか丸や三角を病室から取り除こうとするが、医療機器をも取り除こうとするところを取り押さえられ、ベッドに(しば)り付けられてしまう。幽霊があなたの体を触り、のぞき込み、(おお)い被さる。ボロボロと零れ落ちる歯が自分の口中(こうちゅう)に入ってしまったら、と思うと身震いがする。あなたは気力を振り絞って立ち上がり、避難できる場所、何も視界に入らない、風景の無い(せま)い場所を思い浮かべようとする。トイレだ。

 デパート、駅、公園、近くに公衆トイレのある場所はどこか。あなたは必死に考え、走り出し、飛び込む。扉を閉めると、安堵のあまり床に座り込んでしまうだろう。

 他人とも世界とも、あなたは安心して接することはできなくなった。人と会い、街中を歩き、仕事をして、生活をしている間、あなたは常に幽霊につきまとわれることになった。不意に触れられ、抱きつかれて、会話している相手との間に入り込まれて口の中に指先を入れられるかもしれない。あなたはそんな日々に耐えながら生きていかねばならなくなったのだ。

 あなたはこの文章を読んだことを後悔(こうかい)する。書いた私を呪うだろう。もし亡霊となったら、私を呪い殺したいと思うだろう。

 そんなことを考えてから、数分、あるいは間を置かずに数十秒ほどで気がつくかもしれない。トイレの入り口、その女子トイレの方には、女性を簡素化したデザインの、そう、丸と三角形で描かれたマークがあることが多い。ここのトイレはどうなのか。ふと目の前に影が差す。個室の上から(のぞ)かれているのだ。ドアを押さえ、記号のイメージを振り払うために特定の物体を眼に入れようとする。安全なものはないかと、視線を巡らせる。便器、トイレットペーパー、パイプ、壁のしみ。そのしみに視線が止まる。シミュラクラ現象だ。人間は本来は無意味なものの中に意味のあるものを見出してしまう。今、あなたが思い浮かべてしまうものは、人の顔などではなく、あの記号だ。

 あなたの背中に幽霊が覆い(かぶ)さる。あなたは悲鳴を上げる。閉じ込められてしまった。この狭い空間に。どこにも逃げ場は無い。もう終わりだ。悲鳴を上げ続け酸欠気味になった頭でそう(さと)る。幽霊の冷たい手が肩を、胸を這い、頬に崩れ落ちた皮膚の感触を覚える。まるで一つに溶け合おうとしているかのように、きつく抱きしめられる。心臓が痛み始める。鼓動の一つ一つが痛みを伴い、激しくなっていく。全身の血管が破れていくのがわかる。後頭部の血管が切れる、鈍い感触がした時、あなたは死を予感するだろう。全身の力が抜ける。視界が狭まり意識が途切れる瞬間、静かになる。全ての感覚が消える死の直前になって、あなたには平穏が訪れる。幻覚は脳が産み出す。ならば、脳が活動を停止すれば、幻覚はなくなる。幽霊はいなくなるのだ。

 こうしてあなたは、死者特有の、どこか安堵しているような、疲れた表情をして死ぬ。そして、それから先のことは、わたしにはわからない。


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