魔王〈ベルセルク〉
その晩、霜月癒羽は夢を見ていた。
見知らぬ街を歩いている。
どこか見覚えのあるような、建物に囲まれた道をたった一人で歩く。
どこへ向かうのか、何のために歩いているのか分からない。
しかし体は勝手に前へ進んでゆく。
ーーふと、目の前に見慣れた後ろ姿が二つ現れた。
燃え盛る炎を思わせる真っ赤な髪に裏表の無さそうな眩しい笑顔を浮かべる少女と、その隣を歩いているどこにでもいそうないかにも平凡な少年。
そんな二人を見つけた癒羽は声をかけながら追いついた。
少年の手を取ってまた街に足を進める。何をするでもなく、どうでもいいことを話しながらただ歩いた。目的もなければどこへ向かっているのかも分からない。
真っ赤な髪の少女が言ったことに、一言二言で相槌を打つ。どうせ明日には忘れてしまうようなどうだっていい会話だ。
そんな様子を見ていた少年がなんとも締まらない表情でいるのが目に入った。変な顔だ。
「どうかした? ーー◾◾◾◾◾?」
ーー今、自分はなんと言った?
確かに少年の名前を呼んだはずだ。なのにまるでノイズがかかったかのようにその部分だけが聞き取れなかった。
それどころか少年の名前が思い出せない。確かに知っているのに脳が認識しない。赤髪の少女が呼んだ名前は聞こえた。だがその声が何を言っているのか分からない。脳が理解すること拒んでいるかのようにその部分だけを認識しない。
「なん、で……?」
訳も分からず癒羽はその場に立ち止まってしまった。
その瞬間だ、意識だけが身体から抜け出したかのように取り残される。
誰も癒羽が立ち止まったことに気づいていない。それもそのはず、少年と少女の隣には変わらず癒羽が歩いているのだ。
何かがおかしい、そう感じた時にはもう遅く、世界が壊れた。
ーー突如として周囲一帯が更地と化した。
今この一瞬で、街がただの荒野となった。そしてそれと引き換えと言わんばかりの莫大な魔力が溢れ出ると、そこから微かに人影が覗く。
数は六つ。あまりに強大な魔力に遮られ顔しか見えないが、間違いなく魔王だ。
おそらく魔界からこちらに来た直後で、まだ意識がはっきりしていないのだろう。その表情はまるで人形のように生気が感じられない。そしてそのうち二つの人影に癒羽は見覚えがあった。
一つは夜空のように煌めく髪と、純黒の双眸の少女。もう一つはボブカットで前髪の一部に白のメッシュの入った少女。
如月斬華と皐月いろはの二人だ。
なぜ二人がこんなところに出てくるのだろうと考えたのもつかの間、一瞬にして二人はその姿を消す。
それがどこへ行ったのかを考える間もなく、残る四つの人影に向かう姿が目に映った。
燃え盛る炎のように真っ赤な髪を靡かせながら、その手に真紅の篭手を付けた少女が向かう。
見ただけで分かる、とんでもない魔力量だ。しかもただ膨大なだけでなく、その全てが両手に付けた篭手に集約されている。
おそらく、少女の全身全霊の一撃。
ともすれば世界の壁すら破壊しそうな、爆発的な威力を秘めたその拳を叩きつける。
対する四つの人影は、その魔力を一つに束ね強固な壁とした。いくら赤髪の少女の一撃が重かろうと、あの壁を破るのは不可能なことぐらい癒羽でも分かった。
それでも少女は諦めなず、一撃で駄目なら二撃、二撃でも駄目なら三撃と、一歩も退くことなく拳を叩き込み続ける。そしてその全てに彼女の全力が込められている。
気づけばいつしか魔力の壁が軋み始めていた。心做しか壁自体も後退しているように見える。このまま押し切れればーー
「だめ……」
無意識のうちに声が出ていた。
癒羽はこの光景を知っている。その目で実際に見たことがあるのだ。そしてこの後どうなるのかも知っている。
赤髪の少女は魔力の壁を破ることはできるが、その壁自体が罠なのだ。壁を超えた先には四人の魔王が既に完全な状態で待ち受けている。
いくらなんでも四対一では分が悪く少女は手も足も出ず地に膝を着くことになるのだが、赤髪の少女はどうも諦めが悪かったらしい。
本当の本当に最後、どうしてそこまでするのか今の癒羽には理解できないが、彼女は自身の魔力を暴走させて文字通り命懸けの一撃を放った。
その拳は世界の壁を破壊し、空間が硝子のように砕けて大口を開く。
穴の向こうはおそらく魔界、そこから溢れた魔力が渦を巻く。
世界の境界を元へ戻すために莫大な力が働いたのだろう、穴の周囲の空間がぐにゃりと歪み一気に収縮を始める。
少女と四人の魔王は必死に踏ん張るが、ジリジリと穴に引き寄せられていく。それに触れればどうなるか、魔界へ送られるだけで済めば良いが、とてもそうは思えない。
そうしてしばらく耐えたあと空間の収縮は収まり、その場にはほんの一センチにも満たない黒い点が残る。
そして次の瞬間、それは音も光もなく爆発し、全てを飲み込んだ。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ーーはっ……! あ……かはっーー!」
そこで癒羽はベッドから飛び起きた。起きて、情報を整理する。
今いる場所はホテルの一室。隣のベッドでは暴走した自分を救ってくれた楠田士郎が眠っている。
隣の部屋には魔王である如月斬華と皐月いろは。そして士郎の妹の双葉と、その友人の水無月茉莉がいる。
と、そこまで思い出したところで気付く。エアコンは効いているのに、全身汗でびっしょりだ。だがそんなことが一切気にならないほど、今の夢の内容が引っかかっている。
あんな出来事を経験したことは無いはずなのになぜか結末を知っていた。赤髪の少女も知らない、突如現れた魔王のことだって見たことない。斬華といろはだってここのプールが初対面だったはずだ。
なのに今の夢は実際に起きたことだと断言できる。
「……うぅ……なん、で……!」
分からない。分からない。分からない。分からない。分からない。分からない、分からない、分からない、分からない、分からない分からないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからないわからない
「う、ああああああぁぁぁぁ!!」
「っ!? ーー癒羽ちゃん!」
隣のベッドで眠っていた士郎は癒羽の叫び声で叩き起こされた。あまりに突然のことで頭が追いつかないが、とにかく癒羽を落ち着かせないといけないことだけは理解した。
泣きじゃくる癒羽の隣に座って手を握って訊ねる。
「大丈夫か、怖い夢でも見た?」
「っ……!」
『夢』という部分に反応した癒羽は、士郎の胸に顔を埋めるように抱きついた。そこで士郎はようやく、癒羽が恐ろしいほど汗をかいていることに気づく。
「……癒羽ちゃん、汗いっぱいかいてるしお風呂行こっか」
このままでは風邪を引いてしまうと、士郎は癒羽の体を抱き上げてバルコニーの露天風呂へ向かう。
魔王が風邪を引くのかどうかは甚だ疑問ではあるが、そんなことに思考を割く余裕すらなかった。
湯船に浸かっても癒羽は士郎から離れようとせず、士郎と向かい合わせになる形で抱きついている。
温泉に浸かれば少しは気持ちが安らぐだろうと思ったが、癒羽の体は小さく震えたままだった。
「大丈夫、怖くないよ。ゆっくり深呼吸して」
まるで赤ん坊でも宥めるようにその小さな背中をとんとんと叩きながら、できるだけ落ち着いた声音で話し続ける。
事情が分からないので曖昧な言葉しかかけられないが何もしないよりはるかにマシだろう。
「すぅ……はぁ……すぅ……はぁ……ぐすっ……」
「どう? ちょっと落ち着いた?」
「……ちょっと、だけ……」
「じゃあもう少しこうしてよっか」
「うん……」
どれぐらいの時間が経っただろう。ようやく癒羽が鼻をすする音も聞こえなくなり、体の震えも治まった。
「おにぃ……もう、へーき……」
「ん、そっか」
なんとか落ち着いたらしい癒羽は、その場で体の向きを変えると、士郎の体を背もたれのようにして夜空を見上げる。
生憎とここはレジャー施設で、街灯もあれば空気も澄んでいるとは言い難い。明るめの星すら薄らとしか見ることはできないが、それでも真ん丸な満月だけは輝いていた。
「おつきさま……」
「お月様? 好きなのか?」
「ふつう……でも……うづきが、よく……ーーうぅっ!」
激しい頭痛が癒羽を襲う。
それが口から出た言葉のせいだと言うことは分かっている。燃えるような赤髪の少女ーー紅無卯月の顔が浮かんだ。
彼女の笑った顔や怒った顔、独特な話し方やその声も知っている。ところどころ記憶に穴があるが確かに思い出した。彼女とは会ったことがあるどころか生活を共にしていた。でなければ満月を見ながら酒を煽る姿など記憶に残るはずがない。
「癒羽ちゃん! 」
「おにぃ……」
きょとんとした表情で士郎の顔を下から覗き込む。ほんの一瞬前まで苦しそうな顔をしていたのに、そのあまりの豹変ぶりに士郎も困惑した。
「大丈夫? すごく苦しそうだったけど」
「だいじょーぶ……うづきのこと、おもいだしただけ……」
「うづき? もしかして、紅無卯月のことか?」
「しってるの……?」
「顔と名前だけ、ちょっとな」
癒羽の記憶やイメージから作られた夢で見たということは黙っておこう。〈癒綿姫〉のことやら色々と説明することが多くなる。
それより癒羽は紅無卯月や一条京介についての記憶は〈ウィッチ〉に封じられているんじゃなかったのか。気になるが確かめる術がない。昼間は燐が『一条京介』の名を出したのがきっかけで暴走したらしいので安易に訊ねることもできない。
「えっと、それで思い出したって?」
「うづき、癒羽とすんでた……いつもいっしょ……」
「今は一緒じゃないのか?」
「どこにいるか、わかんない……あのひにーー」
「ーーこんばんは」
癒羽が俯きながら話していると、突然空から大きな三角帽を被った少女が現れた。
帽子を目深に被っているせいで顔は見えないが、士郎はこの少女のことを知っている。この姿にこの雰囲気、なにより宙に浮いたまま停止するなど普通の人間にはできないことをやってのける。
この少女は魔王〈ウィッチ〉。なぜか士郎たちによく手を貸してくれる存在だ。突然現れたので驚きはしたが、士郎は警戒していない。
「〈ウィッチ〉……なんでこんなところに?」
「癒羽ちゃんの記憶にかけた封印が解けたみたいだったから、少し様子見に来たの。ーーお詫びも兼ねてね」
「お詫び?」
「そう、昼間は手を貸してあげられなくてごめんなさい。そっちの状況はわかっていたのだけど……」
バルコニーに降りてきた〈ウィッチ〉は申し訳なさそうな声音で言った。相変わらず表情を見ることはできないが、そう思っていることは伝わってくる。
「そりゃ〈ウィッチ〉がいてくれたら楽だったろうけど、俺たちだけで癒羽ちゃんを助けたことにも意味はあると思うから謝るようなことじゃない」
燐の助けも借りたし、いろはは死にかけた。だが結果的には誰一人欠けることなく癒羽を救い出せたのだ。
そして士郎も〈癒綿姫〉と話したことで一条京介という謎の少年や、紅無卯月という新たな魔王のことを知った。
神無月アリスという少女に借りを作ったことを除けばそう悪いことばかりでもなかった。
「ーーありがとう、楠田士郎。それじゃあこの話はここまで。次は癒羽ちゃんの記憶の方、ちょっとごめんね」
癒羽の額に手を当てた〈ウィッチ〉が眉を寄せたような気がした。そしておそらくしかめっ面で呻き声を上げ始める。
「んー? むむむむ……うわぁ……」
「……?」
「どうしたんだ?」
「……これなら一回全部戻した方がいいかな……でもそうなると耐えられるか……」
ぶつぶつと独り言を呟きながら難しい顔をする。そんな〈ウィッチ〉に触られることに耐えかねた癒羽は、首を横に振って〈ウィッチ〉の手を額から外した。
それによって〈ウィッチ〉も自分の世界からこっちに戻ってくる。
「……まあいいか。ーーえいっ」
〈ウィッチ〉が癒羽の額を軽く小突くと、曖昧だった記憶が全て繋がった。
卯月と暮らしていたこと、一緒に出かけたことや、時には喧嘩もしたこと。卯月の好きな食べ物に好きな風景や好きな季節までが記憶として蘇った。
そして三年前ーー卯月が死んだことも。
夢で見たのはちょうどその時の光景だ。
咄嗟に〈癒綿姫〉を呼んで身を守ったのはいいが、それでもあまりの衝撃に気を失ってしまう。
目を覚ませばそこには、巨大なクレーターのようなものが口を開けていた。街だったものは一切残っておらず、本当に
ただ抉れた地面が広がっているだけ。モノクロ写真を撮って、これは月面の写真だと言われれば信じてしまうだろう。
こんな規模の爆発に巻き込まれて無事だったのは、偏に〈癒綿姫〉の防御力の賜物だ。
しかし逆に言えば〈癒綿姫〉ほどの防御力もない状態で、しかも癒羽より至近距離で巻き込まれた卯月と四人の魔王が無事だとは到底思えない。さっきまで痛いほど感じていた魔王たちの魔力を、今は一切感じなくなっているのが何よりの証拠だ。
この爆発こそ、後に『東京消滅』と呼ばれているものであった。
「あ、あぁぁぁぁ……!」
「ーー紅無卯月に関する記憶の封印は解いたけど……」
「かはっーーあ、ぐぅ……!」
「癒羽ちゃん! ーーっ、これ大丈夫なのか!?」
頭を抱えて苦しそうに呻く癒羽の姿が尋常ではなかったので、静観するつもりだった士郎もつい口を出してしまう。
「一度に大量の記憶を思い出してるから。その中には嫌なものも、忘れたいものだってあると思う。ただでさえ膨大な記憶に脳がビックリしてるのに、そこに最低最悪な記憶が蘇っちゃったら……人にもよるけれど、耐えられるかはだいたい五分五分ぐらい」
「ごっ……〈ウィッチ〉お前!」
「話は最後まで聞いて、私はそんな分の悪い賭けはしない。ーー癒羽ちゃん、よく聞いて」
「うぅ……な、に……?」
「ーー紅無卯月は生きてる。あの爆発で彼女は死んでない」
「…………ほん、と……?」
「本当だよ。今も生きてあの場所にいる」
「……よがっ、たぁ……ぐすっ……いぎでだ……うづき、いぎて……」
爆発とかあの場所とか士郎には何のことやら分からないが、それでも癒羽が喜んでいるのが伝わってきた。それと同時に先程まで癒羽を苦しめていた記憶の編纂も終わったのだろう。
今はただ紅無卯月の生存に心から安堵しているようだった。
「それで楠田士郎。ここからはあなたにお願いなのだけど」
「お願い?」
「そう。ーー癒羽ちゃんを紅無卯月のところまで連れて行ってあげて」
「……それは構わないけど、どうして俺に頼むんだ? 〈ウィッチ〉が連れて行ったんじゃ駄目なのか?」
「私は既に警戒されてて話を聞いてもらえないし、彼女には勝てない」
「勝てない……のか?」
その言葉が信じられなかった。紅無卯月という魔王に会ったことはないし〈眷属〉の力も知らない。それでも〈ウィッチ〉が負ける姿が想像できないのだ。
〈ウィッチ〉の戦いぶりを見たのは先月、天前高校の屋上で魔王〈クイーン〉ーー文月燐と対峙した時だけだが、その能力はあまりに異様だった。
巨大な手や壁、それに無数の剣を生み出したり、更にはあの燐が自らの体を焼き切ってまで逃げるような鎖を魔法陣から呼び出していた。
そんな〈ウィッチ〉ですら敵わないと言うなら、最強の魔王を名乗る燐よりも強いのではないだろうか。
「殺さずに無力化するのは難しいって話」
「なんだ、そういう…………それでも大概じゃないか?」
一瞬安堵した士郎だったが、よくよく考えれば〈ウィッチ〉が殺さずに無力化できないような相手を士郎たちがどうこうできるのだろうか。
「大丈夫、私は警戒されてるけど初対面の人のあなた達ならきっと話を聞いてもらえる。癒羽ちゃんもいるし」
「まあ、そういうことなら……で、封印してもいいんだよな?」
「ええ、むしろそのために行ってもらうようなものだし。癒羽ちゃんが話せば少なくともつっぱねられることはないはずだけど」
その辺りは士郎がどれだけ気に入られるかだが、なるようになるだろう。会う前から気にしても仕方がない。
「じゃあ明日には並風市に帰るし、『デュランダル』で相談してみるよ」
「『デュランダル』……確か『ブレイヴ』の空中艦だっけ」
魔王の力を封印し平穏な生活が送れるようにすることが目的の組織『ブレイヴ』。そこの保有する空中艦『デュランダル』の艦長である皇恭弥に、士郎たちは招集をかけられていた。
封印されたはずの斬華といろははもちろん、士郎までもが〈眷属〉を使えることを秘密にしていたからだ。
「今まで斬華といろは、それに俺も〈眷属〉が使えること黙ってたけど、昼間のことでそれがバレて「一度報告に来て欲しい」だって」
「それで、どうするつもりなの?」
「バレちゃったもんは仕方ないし、正直に話すつもりだけどーー大丈夫、〈ウィッチ〉のことは話さないよ」
「どうも、〈使徒〉については?」
「それも話すつもりは無い。斬華もあれ以来〈斬殺悪鬼〉は完全に眠ってるって言ってたし、無駄な検査とかが増えても困るから」
「うん、その方がいいと思う。『デモニア』より『ブレイヴ』の方が得体が知れないし、切り札は多い方がいい」
「『デモニア』より得体が知れない?」
意外だ。
確かに『ブレイヴ』について知っていることは少ないが、てっきり『デモニア』の方がわかっていないことが多いのだと思っていたからだ。
「そう。『デモニア』は裏向きの名前、表では人工知能やロボットの研究を進め、それを軍隊に売っている組織なの。海外にある本拠地は判明してるし、実質的なトップの顔も割れてる。だけど『ブレイヴ』については何もわからない。どこに拠点があるのか、どれぐらいの人間が関わっていてどれぐらいの技術があるのか、調べても何も出てこない」
「…………」
「それだけセキュリティがしっかりしていると言えばそれまでだけど、どこでどう探っても何一つ情報が出てこないのも事実なの」
「なら、俺もちょっと『ブレイヴ』について探ってみるよ。『デュランダル』でそれとなく話を聞いたりして」
「ありがとう、でも無茶はしないで。最悪、『ブレイヴ』という組織自体の存在が嘘で、その『デュランダル』という艦だけで完結している可能性もあるから」
「……わかった」
さすがにそれはないだろうが〈ウィッチ〉が冗談でそんなことを言うとは思えないので、心の隅に留めておくことにした。
「それじゃ、私はこれで。癒羽ちゃんもおねむみたいだしね」
「……ああ、ほんとだ」
やけに静かだと思ったら、いつにも増して眠たそうな顔をしていた。というかもう目の八割は閉じていて、こくりこくりと船を漕いでいる。
〈ウィッチ〉の声にも反応しなかったのが何よりの証拠だ。
「じゃ、おやすみなさい。ーーそれと紅無卯月のところに行く時は、皐月いろはは連れて行かない方がいいよ」
「え? それってどういうーー」
士郎が言い終わる前に、〈ウィッチ〉の姿と気配がその場から消えた。
いろはは連れて行かない方がいいとはどういうことだろう。
「というか、そもそもどこに行ったら会えるんだ……?」
癒羽を紅無卯月のところまで連れて行けと言ったのに〈ウィッチ〉はその居場所を教えてくれなかった。
『あの場所』にいるとは言っていたから、おそらく癒羽はどこにいるか知っているのだろう。今はかなり眠そうだし、明日の朝にでも聞けばいい。
癒羽の体を拭いて風呂から上がる。半分眠っているせいか、服も大きいサイズのTシャツのみというフリースタイルだ。
そのまま癒羽を抱えて洗面所に行きドライヤーで髪を乾かす。軽くわしゃわしゃと撫でると、くすぐったそうな表情をするのが可愛らしいものだ。
最後にコップ一杯の水を飲み、二人揃って士郎のベッドに入る。癒羽も汗で濡れたベッドには戻りたくないだろう。
昨日のように癒羽を上に乗せる必要もないので、士郎の安眠もおそらく約束されているはずだ。
「おやすみ、癒羽ちゃん」
「ん……すぅ……」
返事もままに、癒羽はすぐに寝息を立て始める。今度は悪夢にうなされることもないだろうと、士郎も目を閉じて眠りに落ちた。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日、士郎、斬華、いろは、癒羽の四人は『デュランダル』の艦長室にいた。
午前中に楠田家へ帰宅した一行は、昼食を食べ終わるとまるで見計らったかのように皇に呼び出された。
『デュランダル』へ向うとすぐに艦長室へ通され問答無用でソファに座らされる。
対面には普段の温厚そうな雰囲気からは想像できないほど厳しい顔の皇と、その後ろに普段通り三徹明けみたいな不健康フェイスの如月が立っていた。
空気が重い。少なくとも士郎はそう感じていた。斬華といろはも皇の様子が普段と異なっていることに戸惑っているようだ。
そんな中でとうとう皇がその重い口を開く。
「ーー士郎くん」
「は、はい」
緊張してきた。
士郎が封印した〈眷属〉の力を使えるということは、おそらく『ブレイヴ』にとっても想定外の出来事だろう。そしてそれを士郎が黙っていたこともまた想定外だったはずだ。
正式なものではないが、一応士郎は『デュランダル』の一員ということになっている。そういう目線から見れば今回の件は同じ『デュランダル』の仲間に対しての裏切り行為ということになる。覚悟はしていたが実際大人に真剣に叱られるとなるとそれなりに怖い。ちょっと泣きそうである。
そんな士郎に向かって、皇は言った。
「ーー怪我は、してない?」
「え? あ、はい。無傷、ですけど……」
「はぁぁぁぁぁ、良かったぁ〜!」
さっきまでの重苦しい雰囲気はどこへやら、皇は両手を上に伸ばして、いつもより明るい声をあげた。
この変わりように、士郎の膝の上で眠たそうにしていた癒羽も目を見開いて驚いている。当然、士郎たちも目が点だ。
「斬華くんといろはくんも、体に異常はないかい? 違和感だったり、魔力の流れの変化だったり」
「あ、ああ、問題ないが……」
「あたしも特に変わったことは……」
「そうかそうか、それならいいんだ。君たち一斉に〈眷属〉の召喚なんてするから見てるこっちも気が気じゃなくて、危うく飛び出すところだったんだよ。いや本当に何もなくて良かった。あ、でも一応検査だけはさせてね? 気づいていないだけで異常があるといけないから」
「あ、はい。ーーじゃなくて! なんで黙ってたとか聞かないんですか?」
士郎が訊くと、皇はなんともバツの悪そうな顔をした。その様子を見た如月が代わりに口を開く。
「士郎が封印した〈眷属〉を召喚できること、そして魔王側も封印された〈眷属〉を召喚できる可能性は考えた。しかし確証は持てず、何より本当に可能だった場合どう対処するか決めかねていたんだ。なのであわよくば気づかずにいてくれればと、こちらもあえて黙っていたんだよ」
「えっと、つまり……」
「お互いに隠し事をしていたわけだし、お相子という形でどうだろう?」
「俺はいいですけど……」
「私も構わん」
「あたしも今のところはそれでいい」
「ありがとう。じゃあ早速で悪いけど、検査だけ受けてもらっていいかな。如月くん、お願いね」
「はい、では行こうか」
如月に連れられ艦長室から出ようとしたところで、皇が何かを思い出したかのように立ち上がった。
「ああ、ごめん、士郎くんだけちょっと残ってくれないか」
「……? はい」
呼び止められた士郎だけが艦長室に残り、またソファへかけ直す。癒羽も士郎と一緒に残ろうと駄々をこねたが斬華に無理やり連れていかれた。なんだかんだで仲良くやれそうだ。
「それでなんですか?」
「昨晩、〈ウィッチ〉と話していただろう? よかったらどんな話をしたのか聞かせてもらいたくてね」
なんとも人当たりの良さそうな顔で訊ねた皇は、いかにも興味津々という感じが隠しきれていない。
語るにしても〈ウィッチ〉本人についてはできる限り話さないと約束した。あと話せることと言えば癒羽の記憶のことや紅無卯月のことぐらいだろうが、癒羽の記憶については本人の許可無しにするようなことでもない。
「ある魔王を封印してほしいと言われました。名前は紅無卯月、真っ赤な髪で俺と同じぐらいの歳の子なんですけど……肝心の居場所を聞き忘れて」
「真っ赤な髪の魔王……? 士郎くん、ちょっとこれを見てくれ」
皇はポケットから取り出した携帯端末を何度か操作し、その画面を士郎に見せた。
そこにいたのは燃え盛る炎のように真っ赤な髪をした女性。その表情は裏表どころか、その感情すら読み取ることはできそうになかった。
「たぶん、彼女だと思います……でも歳は俺と同じぐらいでした。あと表情はもっと明るかったのに……」
「表情の方はわからないが年齢的に言えば彼女が最初に観測されたのは三年前だ。その頃なら士郎くんと同じぐらいの歳だろう」
士郎が紅無卯月を知ったのは癒羽の記憶の中、癒羽の話によるとあれは三年前の出来事らしいので画像の人物は紅無卯月で間違いなさそうだ。
と、そう納得しかけた士郎の脳内にふと疑問が浮かんだ。
「魔王も歳をとるんですか?」
そう、確か記憶の中の癒羽の姿は今と変わらなかった。あれは癒羽の記憶から作られた三年前のイメージのはずだ。紅無卯月だけが昔の姿である理由はない。
「体の構造は僕ら人間と同じだからね。現に斬華くんといろはくんも身長や体重に変化が見られるみたいだし」
「てっきり魔力の影響か何かで成長が止まってるものだと……」
「ははは、まさか。彼女たちも君と同じ、ちゃんと生きているんだから成長するし歳もとるよ」
「そうですよね、あはは……」
「何か気になることでもあったかい?」
「いえ、魔王ってぐらいだからそうなのかなーと思っただけで……」
確信は持てないし、皇がそう言うならきっと士郎の勘違いなのだろう。これ以上追求する必要もない。
「そう言えば士郎くん〈眷属〉の召喚のことだけど、本当に危険なことは無いのかい?」
「魔力が無くなれば俺が死ぬぐらいですかね……生き返りますけど」
「魔力が無くなっても蘇生が可能……?」
「そこは俺も不思議なんですよ。しかも普通に死んだ時より意識が戻るのが早いし」
「……ふむ、士郎くん。少し僕と手合わせしないか?」
「手合わせ、ですか?」
「軽い組手みたいなものだよ。君の〈眷属〉のデータも取っておきたくてね」
「いやでも今は魔力の蓄えが……」
「大丈夫大丈夫、ほら行こう」
強引に連れ出された先は何もないただ広いだけの部屋だった。広さは学校の体育館ぐらいだろう。
「えーっと……設定はこんなものかな」
皇が端末を操作しすると、周囲の景色が一変した。壁と天井が消え、綺麗な青空と見上げるほどのビルが無数に現れる。気づけば床も道路に変わっていた。
「なんですかこれ」
「仮想空間というやつだよ。広さは並風市より少し小さいぐらいだ。この中でならどれだけ暴れても問題ないし、今は設定で空気中に魔力を散布させているから、〈眷属〉も使えるだろう」
そう言って皇はファイティングポーズを取る。こうなれば士郎も覚悟を決めるしかない。
「〈斬殺鬼〉、悪いけど付き合ってくれ」
士郎が呼ぶと、漆黒の日本刀がその手に現れる。
確かにこの空間には魔力が満ちているようで、〈斬殺鬼〉による魔力の消費はかなり落ち着いている。
「ではーーハッ!」
「っ!?」
ガァンッ!と轟音が響いた。
十メートルほどの距離を一瞬で詰めた皇の拳を、なんとか〈斬殺鬼〉の腹でガードする。というか〈斬殺鬼〉が攻撃を防ぐように動いてくれた。
「すごいな、まさか反応できるなんて」
「いや、今のは俺じゃなくーー」
「よし、じゃあ次だ」
士郎から離れて姿を消した皇の声だけが響く。近くにはいると思うが、まるで気配を感じない。いっそ全部〈斬殺鬼〉で更地にしようかと思った瞬間、士郎目掛けて無数の光線が飛来した。
「おっ、と、うわっ!」
一つ二つ三つと、〈斬殺鬼〉で斬り落としたり躱したりして直撃は免れたが、地面に着弾した際の爆発でぶっ飛ばされてしまった。
「なんですか今の!」
「魔力弾、知らない?」
「知らないです!」
「漫画とかアニメでよくあるやつ、エネルギーを飛ばして攻撃するあれだよ」
「普通の人にできる技なんですかそれ」
「僕はできるよ。士郎くんもやってみるかい?」
「いや、できる気しないんでいいです……」
「そうか。それは残念だな……」
あからさまにテンションの下がった皇だが、そんな様子を見せられても士郎の気は変わったりしない。というか不可能なものは不可能だ。
確かに士郎も魔力を持ってはいるが、それを飛ばしたところで攻撃と呼べるものになるかどうか。そもそも魔力をそんな風に飛ばせるかすら怪しい。
今の士郎にできるのは、せいぜい脚や腕に魔力を集中させ、少し人間離れした動きをすることぐらいだ。
「あ、じゃあこっちならどうかな」
そう言った皇は、またしても十メートルほどの距離を瞬く間に詰め、士郎の目の前に現れる。
「一応、目では追えてるみたいだし、練習すればこれぐらいの動きはできるんじゃないかな」
「どういう理屈で人間がそんなスピードで動けるのか、まったくわからないんですけど」
「こっちもよくあるやつだよ。ほら、高速で動く歩法みたいなものだね」
「いやいや、それこそ無理ですよ。確かに魔力があるから、普通の人よりは無茶できますけど……」
「コツがあってね、速度を出すだけなら練習すればすぐなんだけど、止まる方はそうはいかないんだよ」
「聞いてないし……」
そのままノリノリで説明する皇を無視する訳にもいかず、士郎はその練習を始めた。
そしていざ始めてみると、意外と簡単にできるものだった。皇ほど速度も出なければ距離も短く、止まる時だってピタッと綺麗に止まることはできないが、それでもとっくに人間にできる動きを凌駕した。
そんな練習をしてどれぐらいの時間が経っただろう。士郎にも疲れが見え始めた頃、艦内放送で如月の声が聞こえてきた。
『ーー艦長、士郎を連れて至急艦橋までお願いします。繰り返します。艦長、士郎を連れて至急艦橋までお願いします』
「おっと、もうそんな時間か。向こうも検査が終わったみたいだね。基本はできてたから、あとは練習すれば身につくと思うよ」
「……暇な時にやっときます」
さすがに屋内ではできそうにないが、そこらの公園とかでなら練習ぐらいはできるだろう。
どこかいい場所はなかったかと考えながら、皇と並んで艦橋へ向かうために廊下を歩く。
その途中で士郎は、ふと気になっていたことを訊ねた。
「ーーそう言えば、『デュランダル』以外にもこういう空中艦ってあるんですか?」
「これはまた唐突だね。僕も映像でしか見たことはないけど、『アスカロン』と『クラウソラス』っていう『デュランダル』と同型の姉妹艦があったはずだよ。今は海外まで出向いてるらしいけどね」
とりあえず〈ウィッチ〉の心配していた最悪の事態、『ブレイヴ』という組織が『デュランダル』だけで完結しているということは無さそうだ。
それにしても、これだけ魔王が頻繁に確認される場所に、『デュランダル』しか配置されていないのはどうかと思うが。
「……そっちの方でも魔王を見つけて、どうにかやってるんですかね」
「どうだろうね。目の前のことに集中しろって、向こうの情報とかはあまり教えてもらえないから……」
「まあ半分ぐらいはこっちにいますしね」
斬華、いろは、癒羽は言わずもがな、〈ウィッチ〉と燐、そして燐と一緒にいた神無月アリスで六人。以前、燐が魔王は十二人いると言っていたが、それが真実ならその半数が士郎たちの身近にいることになる。
「〈眷属〉を封印できる士郎くんがいるし、近場の方がこちらとしても好都合だが」
「……それは確かに」
実際、魔王が近場にいてくれれば士郎の負担は減る。斬華といろはなんかは士郎の生活圏内にいたので、接触できる回数も一度に過ごせる時間も多かった。
〈ウィッチ〉や燐のようにいつどこに現れるかわからないのは困るが、それ以上に遠い場所だと移動だけで時間を無駄にする。
それを口に出す前に艦橋に到着した。
中へ入れば斬華といろはと癒羽、そして如月が何やら話をしていた。
「待たせたね、全員揃っているかい」
「はい、艦長たちで最後です」
「うん。ーーでは魔王〈ベルセルク〉封印の作戦会議を始めよう。早速だがまずはこの映像を見てほしい」
皇がそう言うと、巨大モニターに紅無卯月の姿が映し出される。
やはり士郎の見た夢よりも成長していて、その眩しかった笑顔も消えてしまっている。だが紅無卯月本人で間違いない。
ただーー
「これ、どこですか?」
士郎が質問をすると、皇はモニターの映像を一時停止させる。
紅無卯月のいる場所は、周囲に何も存在しない開けた場所だった。どこを見ても地平線の向こうまで何も無い、木や花どころか雑草の一本すら生えていない完全に荒廃した土地。
日常生活のほぼ全てが並風市内で完結している士郎にとって、それは見慣れたものではなかった。
「東京だよ。全てが消え去った都市の中心に彼女はいる。ーー三年前からずっとね」
「三年前からずっと……」
「ああ、【東京消滅】と呼ばれるあの災害があったその日から、彼女はあの場所にいる」
「え……?」
そう声をあげたのは癒羽だった。
「何か気になることでもあるかい?」
「なんでも、ない……」
そうは言うものの、癒羽の表情は苦しそうなものだった。
死んだと思っていた彼女が生きていたのだから、きっと喜ぶのだろうと予想していた士郎だったが、どういうわけか癒羽は俯いて暗い顔をしている。
「……では続きを見よう」
皇が映像を再開すると、突然紅無卯月の周囲を無数のレーザーのようなものが襲った。
爆発の衝撃で起こった砂煙のせいで一瞬何も見えなくなる。
「……『デモニア』か」
「だな、上からだ」
斬華といろはが冷静に分析する。
確かに紅無卯月より遥か上空に『デモニア』のドール部隊らしき影がいくつも見える。
クレーターのど真ん中、周囲に遮蔽物も何も無い場所で空から一方的に砲撃されては普通なら手も足も出ないだろう。
しかし狙われているのは魔王という超常の存在だ。彼女たちは〈眷属〉という固有の特殊な武装を持っている。
それは紅無卯月も例外ではない。
土煙の中から紅無卯月が勢いよく真上に発射される。それは瞬く間にドール部隊の滞空する高さまで到達し、その全てを蹂躙した。
ドールの爆発を背に降りてくる彼女の両手には真紅の篭手、そして両足にも同じく真紅のブーツが装着されており、どちらもその排気筒から黒煙を噴き上げる。
「あれが〈ベルセルク〉の力だ。〈眷属〉の能力はおそらく純粋な膂力の強化だと思われるが……癒羽くん、もし知っているなら詳しいことを教えてほしい」
「どういう、こと……?」
「君と〈ベルセルク〉ーー紅無卯月は仲が良かったと聞いたんだけど……」
「ちがう……」
「え?」
モニターに映った紅無卯月を凝視して、癒羽は言葉を漏らす。自分の記憶にある紅無卯月と、画面越しに見ている彼女を比較して一つの結論にたどり着いた。
「ーーあれ、うづきじゃない」
「…………は?」
間抜けな声を出したのは士郎だった。
「癒羽ちゃん、それってどういうこと?」
「うづき、あんなにおとなじゃない。おにぃとおなじぐらい……」
紅無卯月の見た目の話だろう。だがそれはさっき皇との会話の中で解決していた。
「それは三年も前の話だろ? それだけ会ってなかったら大人にもなるよ」
「うづきもまおうだから、おおきくならないよ……?」
「いや、魔王でも成長する……よな?」
士郎は斬華といろはの方へ目を向けるが、二人は首を横に振った。
「知らん。魔界では自分が今どんな姿なのかを知る術がないからな」
「そもそもあたしらはこっちに来てすぐシロ助に封印されてんだ。もしかしたら封印前の魔王は成長しないのかもな」
斬華といろはの発言を聞いて、如月少し考えるような素振りを見せた。
基本的に身体検査やカウセリングなど、魔王については如月に一任されている。健康状態からちょっとした癖まで、もしかしたら本人以上に詳しいかもしれない。
「確かに二人の検査などを始めたのは〈眷属〉を封印してからだった……。魔王として完全であれば、身体の成長は止まる可能性もゼロではないね」
「ーーふむ。つまり何かの理由で、あいつが完全な魔王でなくなっていれば、今の状況にも説明がつくわけだ」
「りゆう……?」
「私や皐月いろはを例にするなら、〈眷属〉の力が弱まっていると考えるのが妥当なのだが……」
「あれで弱まってるとか考えたくねぇな」
いろはが呆れ顔で苦言を呈す。
身体能力の強化に特化していたとしても、弱体化した状態で上空何百メートルまでジャンプして、空中に散開するドールを一瞬で全滅させるなど信じたくない。
信じたくはないが、いろはは真実を知るため癒羽に小声で尋ねる。
「……で、実際どうなんだ。あれ、お前の知ってる〈眷属〉より弱くなってるのか?」
「しらない……」
「知らないって……別に初めて見るわけでもないだろ」
「しらない……あれ、うづきの〈眷属〉じゃないから……」
「え、違うのか?」
「うん……うづきの〈破砕王〉とにてるけど、ちょっとちがう……〈破砕王〉あしはなかった……」
「ーー我々が〈ベルセルク〉を観測したのは三年前、その時から既に〈眷属〉はあの形だった。そして一度たりとも、手だけや足だけの召喚を見たことは無いが……」
如月の言葉を聞き、癒羽は確信を持って頷いた。いくら外見が似ていようと、彼女は紅無卯月ではない。
〈ウィッチ〉が別人を紅無卯月だと勘違いしたのか、それとも東京とは別の場所でちゃんと生きているのか。癒羽にとって大事なのはそこだけだった。
〈ウィッチ〉についての記憶は曖昧だが、こんな勘違いをするようなタイプとは思えない。紅無卯月の所在は不明だが、どこかで生きているのは間違いないはず。そう自分に言い聞かせて、不安の種を無理やり追い出そうとする。
そんな癒羽の様子を見かねたのか、隣にいたいろはが癒羽の頭をわしゃわしゃと撫でる。
「……そう暗い顔すんな。ひとまずあいつのとこまで行って、紅無卯月のこと聞きゃいい。もしかしたら何か知ってるかもしれねぇだろ」
「しらなかったら……?」
「そんときゃ〈ウィッチ〉のやつを問い詰めりゃいいんだよ」
「……うん」
いろはの言葉に、癒羽は力強く頷いた。
まだ不安そうな顔ではあるが、その表情にはさっきまでとは違って希望が見える。
一連のやりとりを見届けた皇は、軽く咳払いをしてからまた話し始めた。
「ーーでは予定通り〈ベルセルク〉を封印することに異論はないね。ーーとはいえ、癒羽くんから情報が得られないとなると、やはり少し不安が残るが……」
「それでも『デュランダル』が観測した三年分の情報はあるんですよね?」
「そうだね。今までと比べれば情報量は桁違いに多い、もちろんそれらは全部教えるつもりだけど……」
「何か心配事でも?」
「ーーまずは我々が持っている情報から話そうか。とは言っても、伝えられることは三つだけだ。一つ目は〈ベルセルク〉本人ではなく東京について、二つ目は〈眷属〉について、そして三つ目は〈ベルセルク〉自身についてだ」
士郎たちは一言も発さず、皇が続きを話すのを待つ。
「初めに東京についてだ。かつて日本の首都だった東京は三年前、大規模な【滅災】によってその半分近くが魔界に呑まれて消滅した」
「……半分?」
士郎が首を傾げる。【東京消滅】では東京の全てが消え去ったはずだ。半分しか消滅していないのなら、もう半分が今も残っていなければおかしい。
「世間で【東京消滅】と呼ばれるあの【滅災】には二段階あってね。一つは【滅災】による東京の半分の消滅。そしてもう一つは、その時にやってきた魔王による大規模な破壊行為だ。実を言うと【滅災】による被害は大きかったが、致命的なものでは無かった。東京の半分が更地になるだけで済んだ」
首都が半分更地になったことを「だけ」と評すことを、普段の士郎であれば何か反論していただろう。だけど今回に限っては皇の言葉が正しいことを知っている。
「その魔王が〈ベルセルク〉なんですか?」
「それはわからない。ただ彼女があのクレーターの中心に倒れていたのは事実だ」
「じゃあ、あのクレーターって……」
「そう。今や衛星写真からでもハッキリ見えるあのクレーターこそあの日現れた魔王による破壊行為の結果だ。しかし問題はそこじゃない。あの日以来、東京には魔力が充満していてね、魔界とまでは呼べないがそれでも擬似的な魔界に相当するレベルで。おかげで普通の人間は近寄ることもできない」
もし普通の人間が魔界へ足を踏み入れれば、膨大な魔力によってその肉体が崩壊してしまう。もし東京もそんな状態なら〈ベルセルク〉にたどり着くことさえ不可能に思えるが。
「でも安心してほしい。さっきも言ったが魔界ほどじゃないんだ。普通の人間でも死にはしない程度だから、今の士郎くんなら問題ないだろう。むしろ周囲の魔力を利用すれば安定して〈眷属〉を召喚できるはずだ」
「ふむ……それはありがたい。士郎が戦えるのなら私の負担も減るからな」
斬華は顎に手を当てて真剣な表情で呟く。
確かに〈ベルセルク〉と戦うとなった場合、まともな戦闘ができるのは斬華だけだ。いろはと癒羽はおよそ戦闘向きとは言い難い。
そして一対一の勝負なら、〈眷属〉を封印されている斬華の方が圧倒的に不利だ。
しかしそこに士郎がいれば、状況が少しはマシになる。いくら弱っていようと、戦闘向きの〈眷属〉二つを相手にすれば隙も見えるだろう。その隙に癒羽が〈癒綿姫〉で身動きを封じれば、少し手荒だが話し合いはできそうだ。
「戦わないのが一番なんだけどな……」
「士郎くんの言う通りだが、物事にはどうしたって避けられないこともある。ーー次は彼女の〈眷属〉について話そうか。見た目はさっきの通り真っ赤な篭手とブーツだね。そして能力はおそらく身体能力の強化だと思われる」
能力自体はいたってシンプルだが、それゆえに強力でもある。〈ベルセルク〉にかかれば道端の石ころですら大砲並みの威力を発揮するだろう。
「確かに強力だがあの程度なら問題ない」
「斬華はそうかもしれないけど、俺には無理だからな?」
「何を言う、見えていたならあとは体を動かすだけで対応できるだろう」
「それとこれとは話が別だと思うけどなぁ……。そもそも戦わずに話し合いで解決できる可能性だってーー」
「残念ながらそれは不可能だよ」
士郎の期待はあっさりと砕かれた。
「最後に〈ベルセルク〉本人についてだが、彼女との戦闘は回避できないと思ってほしい」
「絶対に戦わないといけないってことですか?」
「そういうことだね。彼女は自分のテリトリーであるクレーターの中心から半径五百メートル以内に入ったものに無条件で攻撃を仕掛けてくる。ある程度彼女と戦える力が無ければ話をする前に全滅するだろうね」
「うげ、そんなら今回あたしはパスだ。あんな場所じゃ〈箝替公〉も使えねえし、戦闘にもついていけねえからな」
「妥当だな。私も足手まといを守りながら戦う余裕は無さそうだ」
足手まとい、とはっきり口に出した斬華だったが、いろはからの反論は無い。それが事実であると自分でも認識しているのだろう。
その上で斬華が「余裕は無い」と評した相手だ、いろはは士郎と目を合わせてからチラと癒羽の方へ視線を向けた。
そいつはどうするんだ、と目線で訴えかけてくる。気になるなら自分で聞けばいいのに。
「ーー癒羽ちゃんはどうする?」
「いく」
「いいのか? あいつは紅無卯月とやらではないのだろう? 話なら私たちが聞いておいてやるがーー」
「いく」
「…………そうか」
即答した癒羽に、斬華は複雑な表情をしたが聞き返すことはしなかった。
足手まといが増えたとか、きっとそう思っているのだろう。癒羽の気持ちも汲んで、口に出さなかったことには感心した。
とは言っても癒羽には〈癒綿姫〉の力がそのまま残っているので、身を守る分には問題ないはずだ。
「では、いろはくんだけ留守番ということでいいんだね?」
「本当に来ないのか?」
「なんだよシロ助、そんなにあたしに来てほしいのか?」
別にそういうわけではない。むしろ〈ウィッチ〉の助言だと、いろはは来ない方が良いらしいし、本人も言っていた通り戦闘が想定されるなら、残念ながらやれることはないだろう。
それでもふと、士郎の頭の片隅に何かが引っかかったような気がしたのだ。
「何を心配してるのか知らねえけど、あたしがそっち行っても役に立たねえんだ。それならこっちに残ってやれることやるよ」
「残ってやれることって、何かあるのか?」
「……双葉と茉莉の相手でもしてるよ」
「ーーーーよし、行くか」
いろはの発言を聞かなかったことにして、士郎たちは艦橋を後にした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
どうして、こんな何も無い場所に次から次へと人間はやってくるのだろう。ーーいや、人間が来たのは久しぶりか。いつもやってくるのは人間を模した機械人形だった。
こんなことをいつまで続けることになるのか、この問いの答えは既に得ている。自分の中にいる「誰か」が目を覚ますまでだ。
どれほど前だったか忘れたが、目を覚ました時にはこの何も無い荒野に倒れていた。
その瞬間、その場で理解したことは二つ。
一つはこの体が自分のものではないこと。誰かが自分の中で眠っている、そしてこの身体はその「誰か」のものだとわかった。おそらく自分はその「誰か」が目覚めるまでこの体を守るために生み出されたのだ。
もう一つはこの場所を守らなければならないということ。理由はわからない、ここに何があったのかも知らない。だが誰かがここに帰ってくるような気がするのだ。
そして今日もまた、何者かがここにやってきた。
数は三人。魔力を持っている者が二人と、ただの人間が一人。
いつもやってくる機械人形とは違うが、やることは変わらない。普段は空からやってくるが、今回は地上を歩いてきている。これなら先制して叩き潰せる。
最速で、最短で、まずは魔力の無い一般人からだ。こんな場所までやってこれるくせに魔力を持っていないなど、何か隠し玉があるに違いない。それを使われる前に殺してしまおう。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
東京。
かつての日本の首都であり、数多の人間が生活をしてきた都市。
三年前、【東京消滅】と呼ばれる【滅災】によって文字通り消滅した都市である。
宇宙空間からでも目視で確認できるほど巨大なクレーターと化したその土地は、溢れる魔力の影響か一切の植物が育たず、【東京消滅】から三年経った今も荒れ果てていた。
「ーー本当に魔力が満ちているのだな」
「ん、すごい……」
「確かに、これなら俺もそれなりの時間〈眷属〉が使えそうだ」
クレーターの中心を目指しながら、士郎たちは周囲の魔力の濃さに感嘆していた。
魔界には及ばないと言っても、その量は桁違いだ。普通の人間が浴びても気分を悪くするだけと皇は言っていたが冗談じゃない、どう考えたって一瞬で意識が刈り取られるだろうし、運が悪ければ即死だってありえるレベルの魔力だ。
そして何より中心へ近づけば近づくほど魔力が濃くなっている。おそらく中心部、〈ベルセルク〉のテリトリーだという半径五百メートル以内は本物の魔界と大差ないだろう。
まだあと数キロほど距離はあるはずなのに、既に少し魔力に当てられ始めた士郎にとっては厳しい戦いになるかもしれない。
「士郎、一応周囲の魔力を吸収しておけ。蓄えておけば不足の事態にも対処できーーっ、癒羽防御だッ!!」
「え、あ、アリエーー」
ボッッッッ!!
癒羽が〈癒綿姫〉を呼ぶよりも早く、何かが爆発したような音と共に士郎の姿が消え去った。
実際には目にも止まらぬ速度でぶっ飛ばされただけなのだが、あまりの速さに消えたようにしか見えなかった。
代わりにそこに立ったのは燃え盛る炎を思わせる真っ赤な髪の少女。両手足の武装から伸びる排気筒は真っ黒な煙を噴いていた。
「……まず一人」
「チィッ! 癒羽、あいつを閉じ込めろ!」
「〈癒綿姫〉っ!」
斬華は咄嗟に〈斬殺鬼〉を振り抜き、桜色のパーカーを羽織った癒羽を小脇に抱えて後ろへ跳ぶ。
状況を整理するために時間を稼ぐ必要がある。
〈癒綿姫〉の生み出した綿が少女の全身にまとわりつき、どんどん増殖、膨張してゆく。以前、燐を雪だるまにした時よりも更に巨大な、直径二メートルほどに達したところで綿の増殖は止まった。
「くそっ! 〈ベルセルク〉のテリトリーはまだ先だろう!?」
「……うづき……?」
「なに?」
「うづきの、まりょく……なんで……?」
対峙したのは一瞬だったが、そのほんのひと時で紅無卯月の魔力をはっきりと感じた。
〈癒綿姫〉の綿で閉じ込めた中からも、確かに感じるのだ。これだけは絶対に間違えない。間違えられるはずがない。
しかし〈ベルセルク〉が紅無卯月ならば、その身に纏う〈眷属〉が三年前とは異なっていることの説明をつけなければならない。
だがそんなもの癒羽が知るはずもなく、どうしていいかわからなくなってしまった癒羽に、見かねた斬華が口を出した。
「なんだ癒羽、こいつが紅無卯月ならお前にとっても好都合だろう」
「え……?」
「姿が違おうが〈眷属〉が違おうが、魔力が同じなら本人だろう。さっさと大人しくさせて話を聞けばいい」
「うん……!」
「ーー話は終わったか?」
「なんっ……!?」
〈癒綿姫〉の綿を突き破って〈ベルセルク〉が姿を現す。膂力だけなら魔王最強を名乗る燐よりも上だと言うのか。
予想だにしない光景に、斬華の動きが一瞬止まったがそれを庇うように癒羽が一歩前に出た。
「おい下がれ!」
「だいじょーぶ」
斬華はもちろん、いきなり目の前に立たれた〈ベルセルク〉も困惑を隠せないでいる。
かろうじて魔力は感じるが、あまりにも弱い。それこそ吹けば飛ぶという表現がピッタリなぐらいだ。
しかしそんなことお構いなしに、癒羽は〈ベルセルク〉の顔をじっと見つめていた。
「悪いが、子どもだろうと加減はできんぞ」
それでもせめて苦しませないよう、一撃で上半身を消し飛ばすつもりで蹴り抜いたーーはずだった。
しかしそれは癒羽まで届く前に現れた綿によって止められる。
だがーー
「……ふんっ!」
〈ベルセルク〉の蹴りは〈癒綿姫〉の綿を易々と貫いた。
しかしその一瞬の隙に癒羽は体を横にズラして回避する。
「面倒じゃな……」
そう呟いた〈ベルセルク〉は後方へ跳んで距離をとると、クラウチングスタートのような体勢を取る。
低く低く、癒羽の目線と同じ高さまで下がった〈ベルセルク〉とバッチリ目が合う。
「終いじゃ」
「ありぇーー」
ーーボッッッッ!!
またしても爆発音がして、癒羽の体は一瞬のうちに彼方へと消えた。
心配する余地すらない。あの速度に反応して〈癒綿姫〉を呼ぶことは不可能だ。つまり癒羽は生身で〈ベルセルク〉の一撃を受けたことになる。即死だ。
ふぅ、と一息ついた〈ベルセルク〉の首元を、漆黒の日本刀が恐ろしい速さで薙いだ。
ーーが、〈ベルセルク〉はその場に屈んで紙一重で回避する。
「貴ッ、様ァ!!」
「おー怖い怖い」
首を、頭を、心臓を、薙いで、振り下ろし、突き刺して、〈ベルセルク〉の命を絶つために〈斬殺鬼〉を振るう。
やはり癒羽は連れてくるべきでは無かった。
〈癒綿姫〉の防御力を過信しすぎていた。不完全な〈斬殺鬼〉でも突破できてしまう程度の壁を、完全な魔王である〈ベルセルク〉が破れないはずがなかったのだ。
情に絆されこんな場所に連れてきてしまったのは判断ミスだった。そのせいで癒羽は死んだのだ。
仇討ちのつもりでもなければ、償いにもならないが、それでも〈ベルセルク〉だけは殺そうと、斬華は覚悟を決めた。
「ふむ……怒りは時に力にもなるが、冷静さを欠いては力も無意味じゃな」
「黙れッ!」
「黙らせてみろ」
「ッ……! 〈斬殺鬼〉ァ!!」
その瞬間、斬華の魔力が爆発的に拡散する。
斬華の雰囲気が変わったことに〈ベルセルク〉が気づく。
だが気づいたところでもう遅い。その魔力に触れた〈ベルセルク〉の右腕から鮮血が飛び散る。
「ほう……!」
咄嗟に右手を引いて、さらに後方へ跳び距離を開く。
およそ三十メートル。ひとまず様子見で後退したが、その距離すら斬華の魔力は一瞬で詰めた。
「逃がすものか……!」
そこから何度かの攻防があったが、とうとう斬華の魔力が〈ベルセルク〉に追いついた。
腕と脚の武装を真っ先に捕らえて動きを封じ、そのまま〈ベルセルク〉の全身を魔力で覆った。
「ーーすまない、癒羽。約束は守れそうにないーー〈千斬万別〉」
周囲百メートル以上にまで広がった斬華の魔力が一斉に収縮する。
〈斬殺鬼〉の力が込められた魔力が〈ベルセルク〉の全身を斬り刻む。腕も脚も胴も胸も首も頭も細切れになって、その場に残るのは血の海だけだ。
〈ベルセルク〉が紅無卯月と同一人物だったか、今となっては確かめようもなくなってしまったが、癒羽が死んだのだから斬華がそんなことを気にする理由はない。むしろ遥か彼方までぶっ飛ばされた士郎が戻ってくる前に〈ベルセルク〉を始末できてよかった。
士郎は魔王である〈ベルセルク〉を殺すことを良しとしないだろう。というかこれに関しては『ブレイヴ』の方針とも反発することになるので、今この時この場所で片をつける必要があった。
「はぁ……はぁ……少し、無茶だったか……かはっ」
周囲に魔力が満ちているとはいえ、本来なら十メートルもない射程を無理に拡げた反動で斬華はその場に膝を着く。
魔力の消耗が激しく、手足に力は入らないし視界も霞んできた。〈斬殺鬼〉はなんとか維持しているが、振れるかどうか怪しい。
しばらくは大人しくして、魔力の回復に努めよう。そう思って気を抜いた斬華の耳に、それは届いた。
ーーぶぉんっ
まるでバイクのエンジンのような音がした。
それも一度や二度ではなく何度も何度も、暴走族がアクセルを吹かすように、その音は繰り返される。
「……化け物め」
顔を上げた斬華の目に飛び込んできたのは、まるで入道雲と見紛うほど大量の黒煙。そしてそれを背にまだ手足の武装から排煙し続ける魔王〈ベルセルク〉の姿だった。
「至近距離なら危なかったが、離れてしまえばこんなものかの」
全身に傷を負って夥しい量の血を流しながら、しかし切り傷のみで斬華の攻撃を耐えきった〈ベルセルク〉が、その日初めて〈眷属〉の名を呼んだ。
「認めよう、おぬしは強敵じゃ。だから全力で叩き潰すぞーー〈 破砕怪王〉」
その声に呼応するように、排気筒から黒煙を巻き上げる。とめどなく、湧き出る湯水のように溢れるそれとは反比例して、〈ベルセルク〉の雰囲気が落ち着いてゆく。
「どうだ、これが"儂"の力じゃ」
「…………なるほど、そういうことか」
斬華は呆れたような顔で〈ベルセルク〉の方を見て乾いた笑いを出す。
やっと全ての謎が解けた。
紅無卯月のいるはずの場所に〈ベルセルク〉がいる理由、紅無卯月の〈眷属〉と〈ベルセルク〉の〈 破砕怪王〉が似ている理由、癒羽が〈ベルセルク〉から感じた紅無卯月の魔力の正体も、その全てに説明がつく。
「貴様ーー紅無卯月の〈使徒〉だな?」
「〈使徒〉……というのが何かは知らんが、儂がこの体の持ち主でないことは確かじゃ。この体の主は眠っていてな、儂はこいつが目を覚ますまでこの体を守らねばならん」
「なるほどな……では、こうしよう」
斬華は〈斬殺鬼〉をその場に置いて、両手を上に挙げる。そしてさっきまでとは違い、一欠片の敵意もない声音で言った。
「降参だ、これ以上貴様に危害は加えない」
「信じろと?」
「このまま続けても貴様には勝てん。どうやらあっちも無事のようだし、それにもし〈使徒〉なら少し話がしたくてな」
「?……まあよい、まずはその〈使徒〉とやらについて聞かせてもらおうかの」
〈 破砕怪王〉からしていたエンジンのような音が止まり、溢れ出ていた黒煙もどんどん小さくなってゆく。
ひとまずこれで無意味な争いをする必要は無い。
「〈使徒〉について話す前に、魔王と〈眷属〉のことはわかるか?」
「……〈眷属〉とやらは知らんが、機械人形どもが儂のことを魔王とか呼んでおったの」
「正確には貴様ではなくその体の持ち主である紅無卯月のことだが、まあいいとしよう。私や紅無卯月、あと貴様がさっき蹴飛ばした癒羽も魔王だ」
「ほうほう……なら〈眷属〉とはおぬしの刀やあのちびっ子の綿のことか?」
「ああ、その通りだ。そして貴様はさっきの力を『儂の力』と言った、それでピンときた。貴様の本体はそっちの武装の方なのだろう?」
「ーー確かにこの体は借りとるだけじゃが、それなら儂は〈眷属〉ではないのか?」
「紅無卯月の〈眷属〉はどうも貴様とは意匠が違うらしくてな。それに貴様が〈眷属〉なら少なくとも主である紅無卯月のことを知っていなくてはおかしい。だが〈使徒〉であれば、例えば紅無卯月が眠りについている間、その体を守るために生まれたのなら一応の説明はつく」
「そう、なのか……」
当の本人はあまり納得できていないようだが、これ以上のことは斬華にもわからないので納得してもらうしかない。もしくは斬華よりも詳しい者に訊ねるかだ。
「それで〈使徒〉についてだが……私にもよくわかっていない。〈眷属〉よりも強力だということ、そして〈眷属〉と違って明確な意思があるということぐらいだ。その点からしても、貴様は〈眷属〉ではなく〈使徒〉なのだろう。私も一度、自分の〈使徒〉にこの体を奪われた」
「体を……その時はどうやって元に戻ったんじゃ?」
「私の〈使徒〉ーー〈斬殺悪鬼〉と言うのだが、こいつが消されかけてな、奥に引っ込んだから私が戻ってこれた」
「そうか……」
〈ベルセルク〉は明らかに落胆した表情を見せた。
「どうした? 何か気がかりなことでもあるのか?」
「気がかりとは少し違うが、儂はこの体を早く返したいだけじゃ。正確な日にちなぞ数えるのはやめたが、それでも長い時間借り続けておる。この体の主、紅無卯月が目覚めるまで守るのが儂の使命じゃが一向に目覚める気配が無い」
「眠っている、と言っていたが、これまでに少しでも起きる兆候のようなものはあったか?」
「うーむ……そういえばさっき、あのちびっ子の綿を蹴った時に何か……」
「癒羽は紅無卯月と親しかったらしい、おそらくその関係だろう」
「そうか……儂はそんな相手を殺してしまったか……申し訳ないことをしたのぅ……」
ショックを受けたとまではいかないが、それでも目に見えて〈ベルセルク〉の気持ちが下がった。
「……それについては問題無いだろう。かなり弱っているが癒羽の魔力は感じるからな」
「本当か? 儂には何もーー」
癒羽の魔力を感じると言うよりは、魔力の残滓が点々と残っているようなイメージだ。
蹴り飛ばされる瞬間にギリギリ〈癒綿姫〉の召喚が間に合ったのだろう。
その後も地面を転がる衝撃を〈癒綿姫〉で殺していたらしい。
「……癒羽と話すのも手だが、それ以外にも一つ、これは可能性の話だが紅無卯月を目覚めさせることができるかもしれない」
「本当か?」
「あくまで可能性の話だ」
「それでも構わん、教えてくれ」
斬華は〈斬殺悪鬼〉によって体を乗っ取られた時のことを思い出していた。
「さっきも言ったが、私は自分の〈使徒〉に体を奪われたことがある」
「〈使徒〉が引っ込んだから体を取り戻せたんじゃろ、それがどうかしたのか」
「厳密に言えば、『取り戻せた』と言うより、『勝手に戻った』という方が近い」
「勝手に……?」
「確かに体を奪われはしたが、私にそういった自覚は無かったんだ。そうだな……夢を見ているような感覚だった。私の姿をした私ではない誰かを、ただ何となく眺めているだけで、そこになんの違和感も無かった。しかし〈斬殺悪鬼〉が奥に戻った途端、私の意識がハッキリと覚醒したんだ。つい先ほどまで見ていた夢も、〈斬殺悪鬼〉の行動だったと一瞬で理解できた。ーーと、長ったらしくなったが簡単に言うとだな、一度奥へ引っ込んでみろ。もしかすれば、紅無卯月が表に叩き出されるかもしれん」
「なるほど。よくわからんが、やってみよう……」
ぐっ、と目を瞑った〈ベルセルク〉はそのまま数秒動かずに力を入れる。
「…………」
「…………」
「…………ぐ、むぅ……!」
「どうだ、いけそうか?」
「……ぬ、ん……ぷはっ! 無理じゃ!」
力を込めて、息まで止めていた〈ベルセルク〉は限界に達したようだ。
「だいたい、意識を引っ込めるってなんじゃ、そんなことできるわけがないじゃろ!」
「……やはり無理か」
「ダメ元とはいえ、やはり失敗すると少しヘコむのぅ」
「あとは……あれだ、眠っている紅無卯月にひたすら声でもかけてみてはどうだ」
「……そんなことでも、やらんよりはマシか」
「見込みは薄いがな」
「それでもやるさ、主が目を覚ますためならの」
「主思いの〈使徒〉だな……。私の〈斬殺悪鬼〉も少しは見習ってほしいぐらいだ」
再度目を閉じた〈ベルセルク〉の姿を見て、斬華は自分の中の〈使徒〉に語りかける。返事こそ返ってこないが、ほんの一瞬〈斬殺悪鬼〉が反応したような気がした。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ーーなさい。起きなさい。起きなさい、楠田士郎」
「…………癒羽、ちゃん?」
誰かに頬を叩かれて、士郎は意識を取り戻した。倒れる士郎のことを覗き込んでいたのは薄桃のパーカーを着込んだ癒羽だったが、なんだか少しモコモコしているような……。
「当たりですが外れです」
「……〈癒綿姫〉か?」
「はい、〈癒綿姫〉です」
「えっと……なんで?」
「『なんで』とは、どちらについてでしょう」
なんでここにいるのか、なんで〈癒綿姫〉が表に出てきているのか。士郎が訊ねたいのは主にこの二つで間違いないのだが。
「わかってるならちゃんと両方説明してくれ……」
「貴方と同じように魔王〈ベルセルク〉に蹴飛ばされて癒羽が気を失ったので私が出てきました」
「大丈夫、だったのか?」
「大丈夫なわけないでしょう。咄嗟に私が防御したので死なずに済みましたが、それでも全身を綿で補強していなければ立つこともできません」
「……ありがとな、〈癒綿姫〉。癒羽ちゃんを守ってくれて」
「何様ですか、私はこの子の〈眷属〉です。守るのは当然でしょう」
「それでもありがとう。本当なら俺が守ってやるべきなのに……」
士郎の発言に、〈癒綿姫〉は小さく舌打ちをした……ような気がした。
「自惚れですね。自分の身も守れないのによく言う」
「……返す言葉もないな」
「しかし、今回に限っては相手が相手でしたので大目に見ましょう」
「結局〈ベルセルク〉はーー」
「紅無卯月で間違いありません。姿は変わり、記憶も失い、〈眷属〉も違っていましたが、魔力が紅無卯月のものでした」
「そうか、それはよかった……よかったのか?」
〈ベルセルク〉が紅無卯月であることはわかったが、問題は何一つ解決していない。
むしろ対処しなければならない案件が増えてしまった。
「ーーどうあれ、今やるべきは彼女に私たちは敵ではないと伝えることです。私でもあの攻撃を受け続けるのは不可能なので……」
「……そういえば斬華は?」
「…………」
それまで士郎の質問にちゃんと答えてくれていた〈癒綿姫〉が、初めて口を開かなかった。
「〈癒綿姫〉?」
「……事実だけを伝えます。癒羽が蹴飛ばされた直後、如月斬華の魔力が増大しました。おそらく本気の戦闘に入ったと思われます。さらにその後、如月斬華の魔力が拡散し、一瞬で収縮したのを確認。何らかの攻撃行動だと推定しました。それで……」
〈癒綿姫〉が口ごもる。早く続きを聞きたい士郎だが、〈癒綿姫〉が何か躊躇っている理由も気になる。
「それで、どうしたんだ……?」
「〈ベルセルク〉の魔力が爆発的に増加して、如月斬華の放っていた膨大な魔力が霧散しました。おそらくもう……きゃっ」
「悪い、ちょっとじっとしててくれ」
士郎は〈癒綿姫〉を小脇に抱えて駆け出していた。すぐ隣で〈癒綿姫〉が呼び止める声も聞こえない。
ただ必死に走る。自分の中の魔力を脚に回し、周囲に満ちた魔力もどんどん取り込みながら全力疾走を続けていると、すぐに斬華と〈ベルセルク〉らしき人影が見え始めた。
ひとまずは無事なようで安心した士郎だったが、次の瞬間その視界が真っ白に染まる。
ボッッッッ!
一拍遅れて爆発音がした。士郎の目の前に現れた真っ白な塊の向こう側からだ。
どうも〈ベルセルク〉が士郎の頭を蹴飛ばそうとしたらしいが、間一髪〈癒綿姫〉の生み出した綿がそれを防いだ。
「……ぼさっとしないでください。私がいないと死んでーーいや、死なないんでしたね」
「それでも死ぬほど痛いから助かったよ、ありがとな〈癒綿姫〉」
「おぬし、なぜ生きている?」
姿を見るやいきなり士郎に蹴りかかった〈ベルセルク〉が怪訝な表情で言う。
癒羽が生きていたのは百歩譲って良しとしても、ただの人間であるはずの士郎が生きているのは理解出来ていない。
しかしさっきまでと違って、話してる間は襲ってこないようだ。
「俺死なないんだよ」
「ふざけろ」
ボッッッッ!
前言撤回。
容赦なく繰り出された〈ベルセルク〉の右足が士郎の左半身を消し飛ばした。最初から射程圏内に立っていた今度は、〈癒綿姫〉も反応することができない。
ハッとして〈ベルセルク〉はバツの悪そうな顔で斬華の方へ視線をやる。
「くそっ……悪いな、おぬしのツレ殺してしまった」
「うむ、まあ……次から気をつけてくれ。そっちのは殺さないようにな」
斬華は額に手を当ててため息をついた。
仲間が殺されたというのに、随分と余裕があるように見える。さすがに〈ベルセルク〉も違和感を覚えた。
「本当に死なないのか……?」
「じきにわかる。それより癒羽、お前はどうやったんだ? 即死だと思ったが」
「…………」
斬華に訊ねられるが、〈癒綿姫〉は黙ったままだった。
どうやって〈ベルセルク〉の攻撃を凌いだかは簡単に答えられるのだが、それ以前に〈癒綿姫〉が体の主導権を握っていることを知られたくない。
斬華のことを信用していないわけではないが、士郎が話していないことを〈癒綿姫〉が話すのも気が引ける。それに秘密というのは共有する人数が多ければ、それだけ漏れる可能性も上がるものだ。
もし巡り巡って『ブレイヴ』の耳に入れば、間違いなく士郎に封印するよう指示が下りることだろう。それだけは何があっても避けなければいけない。
そのために〈癒綿姫〉が導き出した方法。
本当はすぐにでも癒羽に体を返せばよいのだが、今の癒羽は気を失っているので体を返してもその場に倒れるだけだ。
つまり今できるのはーー
「あ、〈癒綿姫〉が、上手くやってくれた、から」
癒羽のフリをしようとした〈癒綿姫〉だが、なんだかとてもたどたどしい話し方になってしまった。
「……封印されているのにか?」
「あ……えっと、それは……」
「ふむ……〈癒綿姫〉は私たちの〈眷属〉とは少し違っていたのだから、そういうこともあるのかもしれんが……」
墓穴を掘った〈癒綿姫〉だったが、斬華が勝手に都合の良い解釈をしてくれたので便乗して頷いておいた。
どうやら癒羽と〈癒綿姫〉が入れ替わっていることは気づかれていないようだ。
「まあ生きていたのならそれでいい。お前がいれば紅無卯月が目を覚ますかもしれん」
「目を、覚ます……?」
「そうだ。紅無卯月という人格は眠っていて、代わりにこいつーー〈 破砕怪王〉が出てきている」
「〈 破砕怪王〉? 〈破砕王〉ではなくて?」
「ん? ああ、〈 破砕怪王〉は〈眷属〉ではなく〈使徒〉だ」
斬華はそこで一通り〈使徒〉について説明する。
これを聞いたのが癒羽なら難しくて理解できなかっただろうが、今は〈癒綿姫〉が話を聞いていた。
「〈使徒〉……そんなものが……」
「現状ではわかっていないことが多すぎるがな。誰か親切なやつが少しでも教えてくれると助かるのだが……」
斬華は囁くようにそう言ったが、残念ながら彼女の中にいる〈斬殺悪鬼〉は答えてくれなかった。
「そういうわけで、今は紅無卯月ではなく〈使徒〉の〈 破砕怪王〉ということだ」
「なるほど……」
「それでだ。癒羽と紅無卯月は親しかったのだろう、何か紅無卯月を目覚めさせるような心当たりはないか?」
〈癒綿姫〉は首を横に振る。癒羽と記憶は共有されているが、思い当たる節は特に無い。
「そうか、ならやはり気長に待つしかないな……」
「むぅ……」
「な、なに……?」
〈 破砕怪王〉が訝しげな目線で〈癒綿姫〉を見つめる。
「なあ、おぬし本当に癒羽か?」
「どういう意味……?」
「なんと言うか、儂じゃなく主ーーこの体が違うと言ってるような、言ってないような……?」
「ふむ……癒羽、そうなのか?」
「それは……、その……」
「シッーー」
斬華が恐ろしい速さで〈斬殺鬼〉を抜く。
首筋目がけて振るわれたそれを、〈癒綿姫〉はすんでのところで綿を生み出して防ぐ。
「……なるほど、〈癒綿姫〉か、お前」
「なんの、こと……?」
「とぼけなくていい、私の〈斬殺鬼〉は斬ったものの考えていることがわかる。本来なら〈癒綿姫〉の綿を斬っても何も起こらないが、今はお前の気持ちがハッキリ伝わってきたよ」
「ーーちっ、なんでそんな能力まで備わっているのですか……ええそうですよ、私は〈癒綿姫〉です」
バレてしまっては仕方がない。隠し通せるならそれに越したことはないが、バレたものを無理やり誤魔化す理由もない。
「ーーなぜ封印されたはずのお前がまだ癒羽の中にいるのかは、後で士郎に聞くことにする。それより〈眷属〉のお前でも紅無卯月を目覚めさせる方法はわからないか?」
「そうですね……〈 破砕怪王〉、あなたの中に〈破砕王〉はまだいるのですか?」
「〈破砕王〉ーー主の〈眷属〉か。むぅ……いるような、いないような……ただいても眠っておるぞ」
「曖昧ですね……〈破砕王〉がいるなら力を借りようと思ったのですが、無理なら無理で試してみたいことはあります」
「本当か!?」
「上手くいくかはわかりませんが、ものは試しと言いますので。じっとしていてください」
「ん……」
「ーーふッ!」
〈癒綿姫〉が力を込めると、大量の綿が現れて〈 破砕怪王〉にまとわりつく。
「おわっ!?」
「しばらくその中でじっとしていてください」
〈 破砕怪王〉を拘束した綿は、あっという間に直径二メートル程度の球体になった。
それを横で見ていた斬華は思わず口を開いた。
「これは、昨日の……」
「見た目は同じですが、強度と密閉性は桁違いですよ」
〈癒綿姫〉は球体に顔を近づけて、中の〈 破砕怪王〉に声をかける。
「〈 破砕怪王〉、聴こえますか」
「聴こえるが……儂はどうしたらいい?」
「何もしなくて結構ですよ、そこでじっとしていてください。一応、中の様子は把握できていますのでご安心を」
「そうか……ん、なんじゃこれ……ぐっ、か、は……! おい、アリえ……!!」
「おやすみなさい〈 破砕怪王〉。良い夢を」
「く、そ……」
中から聞こえていた〈 破砕怪王〉の声が途絶えた。
「何をした?」
「気絶させただけですよ、今頃彼女は夢の中かと」
「……それに何の意味があるのかは知らないが今はお前に任せる。それよりなぜ〈眷属〉であるお前がまだ癒羽の中にいるのかだ。明確な意思があり主である癒羽の肉体の主導権も握っている。まさかこれで〈癒綿姫〉を封印しただなんて馬鹿なことは言わないだろうな。ーーなあ、士郎?」
斬華の冷たい言葉が、実はとっくに蘇生してことの経緯を見守っていた士郎へと向けられる。
「なんと言うか、色々あって……」
「ほう、色々か。そうかそうか、私にも言えないようなことがあったんだな」
「いやそういうわけじゃ……」
「私から楠田士郎に頼んだんです。封印しないでくれと」
「ーーで、士郎はそれを素直に受け入れたと」
「〈癒綿姫〉と話して、そうするのが癒羽ちゃんにとって一番安全だと判断した。それに元から〈癒綿姫〉の封印は見送る予定だったし……」
士郎の返答に斬華は目を細めたかと思うと、大きなため息をついた。
そしてどこか吹っ切れたような清々しい表情で、やれやれと首を横に振る。
「ーー封印を見送るのは〈癒綿姫〉にたいした力も無く、癒羽自身も誰かを害さないことが前提条件だったはずだが……まあ、私は話し合いの場にいなかったからな、きっとその判断が最善手だったんだろう。それに関して今更どうこう言っても仕方がない。士郎を信じよう」
「斬華……」
「だがそれはそれとして、私と皐月いろはには一言あってもよかったんじゃないか?」
「言おうとは思ってたんだけどタイミングが無くて……ごめん」
「うむ、次からはすぐに言うように。ーーそれで〈癒綿姫〉、癒羽と紅無卯月はどういった関係なんだ?」
斬華の問いかけに〈癒綿姫〉は顎に手を当てて少し考えてから、しっかりと言い切った。
「どんな関係と言われると、友人……では足りませんね。碌でもない人ではありましたが、それでもこの子にとっては家族と呼ぶべき大切な相手の一人でした」
「……その言い方だと紅無卯月の他にもそういう相手がいたのか?」
「ーーええ、一条恭介という正真正銘ただの人間がいました。彼と共に過ごした時間は癒羽にとって、そして紅無卯月にとってもかけがえのないものだったでしょう。ですが……」
「死んだのか」
「都市一つが無くなる規模の【滅災】でしたから……ただの人間なんて何をどう間違えても助かりませんよ」
「そうか……」
「もっとも、癒羽は一条恭介という人間のことを忘れていますが」
〈癒綿姫〉の表情が一瞬だけ曇ったのだが、士郎と斬華はそれに気づけなかった。
「忘れている? 癒羽にとって大切な相手だったのにか?」
「……正確に言えば〈ウィッチ〉によって封じられているのですが、同じようなものです」
まだ幼い癒羽では紅無卯月と一条恭介の二人を同時に失ったことに心が耐えきれなかったのだろう。
「ーーまあ、癒羽の記憶を封じてくれたことに関しては〈ウィッチ〉に感謝しています。そうでもしなければ暴走したこの子が消えていたかも知れませんから」
「記憶を取り戻すだけで暴走に繋がるのも考えものだな」
「それについては紅無卯月がいればおそらく大丈夫です。ろくでなしではありますが、癒羽は彼女のことを家族同然に思っていましたから。ひとまず彼女が生きていると分かればいきなり暴走することはないはずです」
〈癒綿姫〉がはっきりと言い切った。そういうことなら尚更紅無卯月を元に戻す必要がある。
「そういえば〈 破砕怪王〉の様子は?」
「まだ目を覚ましていません。一旦外に出してみますか……」
「いや待て、もう少しそのままにしていろ」
斬華の声色が一瞬で冷たいものになった。
いまいち状況が分かっていないが、とにかく緊急事態だということだけは察した士郎は咄嗟に〈斬殺鬼〉を呼ぶ。
そして漆黒の日本刀を握った右腕が肩口で弾けて地面に落ちた。
「なッーー」
「士郎さがれッ!!」
斬華に引っ張られてバランスを崩した士郎の頬を何かが掠め、そのまま地面を穿った。
だが地面には何も残っておらず、何かが当たった痕跡しかない。
「上か!」
士郎たちの遥か上空。遠すぎてよく見えないが、間違いなくそこには人影があった。
得体の知れない人影から目を逸らさずに斬華は〈癒綿姫〉に訊ねる。
「〈癒綿姫〉、あいつは癒羽や紅無卯月の知り合いではないんだな?」
「遠くて姿は見えませんが、少なくともあんな距離からいきなり仕掛けてくる知り合いはいませんよ」
「斬華、どういうことだ?」
「済まない士郎、ここら一帯の魔力が濃すぎて気づくのが遅れた。ーーあいつも魔王だ」
空を見上げながら、斬華はそんなことを口走った。
「ま、魔王? でもなんで、こんないきなり……」
「分からないが、少なくとも悠長に考え事をしている暇は無さそうだ」
「え?」
斬華に聞き返すと同時に、士郎の視界の左半分が真っ暗になった。というか左半身が丸ごと消し飛んでいた。
「〈癒綿姫〉、士郎を頼む」
右半身だけとなった士郎を受け取った〈癒綿姫〉は〈 破砕怪王〉を閉じ込めた球体の影に身を潜める。
「ーー〈斬殺鬼〉」
斬華が振り抜いたその手には漆黒の日本刀。
いくら〈眷属〉が封印されているとはいえ、そもそも使い手としての技量が斬華と士郎で段違いなのだ。
「何者かは知らないが、安全圏から一方的に攻撃したいのならその高さじゃ足りない」
一閃。
斬華が〈斬殺鬼〉で薙ぐと同時に遥か上空で火花が散った。
おそらく何かで〈斬殺鬼〉の斬撃を防いだのだろう。
「チッ……!」
「如月斬華、あなた魔力が……」
「ああ、とっくに限界だ。〈 破砕怪王〉相手に無茶をしすぎた……」
この場に満ちている魔力を使ってなんとか誤魔化してはいるが、どうしても〈斬殺鬼〉の出力は下がる。
おそらく今の状態では何度〈斬殺鬼〉を振ろうと簡単に防がれてしまうだろう。
「お手上げですね……今の私たちでは太刀打ちできません」
「ーーそもそもあいつはなぜいきなり襲ってきた?」
その時ふと斬華の脳裏に違和感が過ぎった。
士郎の左半身を吹き飛ばしてから攻撃が飛んでこない。
「士郎を殺すことが目的……? いや、だとしたら今もあそこに留まる理由がない」
「監視……というわけでも無さそうですね」
「せめて話ができればいいのだが、声も届かんし撃ち落とすこともできんしな。ーーと、おい士郎、そろそろ起きろ」
〈癒綿姫〉と共に綿の球体の影に隠れた斬華が士郎の頬を叩く。
「ーーん、いてっ、斬華痛い」
「おはよう士郎、状況は分かっているか?」
「魔王が空にいて俺が撃たれた、以上」
「その通り。で、その後だがあいつは攻撃の手を止めた。どうやら奴の標的は士郎だけらしい」
「なるほど……なんで?」
士郎がゆっくりと顔を出すと同時に何かが高速でその耳を吹っ飛ばした。また地面には何かが当たった痕跡しか残っていない。
二撃目が来る前にすぐ頭を引っ込める。
「問答無用って感じだけど……」
今度はヒラヒラと手だけを出してみるが攻撃は来ない。
「俺だって確証がなければ撃ってこないみたいだな」
「何か恨みでも買ったのですか?」
「そうなのか士郎」
「会ったことない魔王の恨みをどうやって買うんだ」
とは言ったものの魔王からすれば〈眷属〉を封印して回っている士郎のことを敵視していてもおかしくはない。
それなら同じ魔王を攻撃しない理由も納得がいく。封印された魔王を狙わない分、燐よりはマシだが話し合いができない上に遠距離から一方的に攻撃されては対処できない。
「せめて降りてきてくれればな……」
「ここでずっと隠れているわけにもいきま……伏せてくださいっ!!」
〈癒綿姫〉が叫ぶ。
士郎は咄嗟に斬華と〈癒綿姫〉を抱き寄せて地面に伏せた。
その上から〈癒綿姫〉の綿が三人を覆うように展開され、少し遅れて強烈な爆風が全身を叩いた。
「ーーふぅ……久々すぎて加減を間違えたかの。怪我はしとらんか、癒羽?」
爆炎を背に燃えるような赤髪を靡かせた女性が笑う。
その手には真紅の篭手が嵌められていた。
「な、何が……」
「〈癒綿姫〉どうなっている……!?」
「荒療治でしたがなんとかなったようです。安心してください、敵ではありません」
ゆっくりと立ち上がった〈癒綿姫〉は穏やかな表情で一歩前に出た。
「久しぶりですね、紅無卯月」
「おぉ癒羽ーーじゃないな、おぬし〈癒綿姫〉か?」
「!……わかるのですか?」
「雰囲気でなんとなくの、癒羽に何かあったのか?」
「ご心配なく、今は眠っていますが命に別状はありません」
「ーーもしかして儂が原因か?」
「……半分ほどですが」
「そうか……それは済まんのぅ、癒羽にも後で謝らんとな」
ふぅ、とため息をついた紅無卯月の目線が〈癒綿姫〉から士郎たちへ移る。
「士郎に斬華じゃったか、色々と迷惑をかけたな。ゆっくり話をしたいが、そういう状況でもなさそうじゃな……」
「紅無卯月、なのか?」
「卯月でいいぞ、士郎」
「ーー貴様は我々の味方という認識でいいのか?」
「安心せい。癒羽が悲しむようなことはせん……よっ、と!」
卯月が何かを握り潰した。
おそらく士郎を狙った魔王の攻撃だろう。
「おぬしらが癒羽の友人である限り、儂はおぬしらの味方じゃよ」
「ーーそうか。ならば何も言うことは無い」
「かかっ、士郎、おぬしも大変じゃの」
「おいどういう意味だ」
「さてと、まずはあやつをどうにかせんとな」
卯月は遥か上空を見上げながら屈伸運動を始める。まさかあそこまで跳ぶつもりなのだろうか。
「よし、じゃあちょっくら行ってくる」
「行ってくるって……」
「貴様、本気か?」
「せー……のっ!!!」
ゴッッッ!!!!
と地面を抉って卯月が跳ぶーーいや、射出と言った方が正しいかもしれない。
立っていられないほどの音と衝撃と共に一瞬で卯月の姿が消えた。
「なあ、〈 破砕怪王〉の時より出力上がってないか?」
「当たり前です。〈 破砕怪王〉はどうか知りませんが、紅無卯月の〈破砕王〉は彼女の感情が昂れば昂るだけ出力が上がります。例えそれがどんな感情であっても」
「感情か……そこまで昂っているようには見えなかったが」
「上手く隠していましたが、元々感情の起伏が激しい人です。内心では舞い上がっていると思いますよ」
そうは見えなかったが〈癒綿姫〉が言うならきっとそうなのだろう。
そんな話をしている士郎たちの遥か上空。
紅無卯月は高く高く昇っていく。
「さすがに遠いのぅ……というか儂のこと見えとらんのか?」
これだけの速度で近づいているというのに一切の反応を見せない。
舐められているとかではなく、そもそも卯月の方を見てすらいないようだった。
「ーーん? おいおいおい、マジかあやつ……」
卯月の目ははっきりとその魔王の姿を捉えた。その信じられない風体に関して卯月の持つ知識では仮説すら立てることができなかった。
ただただおぞましいそれを、卯月はとうとうその手で掴んだ。
「おいおぬし! なんじゃこの体は!?」
「ーー識別名〈ベルセルク〉、排除対象外。速やかに当機から距離を置いてください」
「儂の質問に答えんか、これはなんじゃと聞いておる」
「警告します。五秒以内に当機から離れない場合、識別名〈ベルセルク〉を排除対象に登録。ーー五、四、三……」
「埒が明かんな、仕方あるまい……少し乱暴になるが我慢せい」
魔王の無機質な脚を掴んだ卯月は全力で下に向かって投げつけた。
もちろん卯月自身はそのまま自由落下だ。
下にいる士郎たちからも魔王が落下してきているのが見えた。初めは小さな点でしかなかったそれは、段々と大きくなり人型になる。
そしてとうとう士郎たちもはっきりとその姿を視認することができた。
「……え?」
「なんだよ、これ……」
「ーーっ、そういうことか……」
地面に勢いよく叩きつけられた魔王の姿を見て、三人は目を疑った。
緑髪の女性だった。パイロットスーツのような服装だが、全身の至る所が機械のパーツのようなものに装飾されている。しかしそんなことより三人の目を引いたのはその両足と右腕だ。
両足はその膝より下がエネルギーの噴出口のようになっており、その右腕は巨大な銃と化していた。
そして、士郎と斬華の二人はこの魔王とよく似た存在を知っていた。
「ドール……なのか?」
「信じたくは無いが、そういうことだろうな……忌々しい」
「ドール、ですか?」
「『デモニア』って魔王を狙ってる組織の兵器なんだけど……少なくとも俺の知ってるドールは完全に機械だった」
「ーー士郎、私が以前に話した内容を覚えているか? 生身の人間を使ったドールの話だ」
「ああ……覚えてる」
それはまだ士郎が〈斬殺鬼〉を封印する前のことだ。
斬華を狙って暗躍していた『デモニア』は通常とは異なる、人間を素体としたドールをけしかけてきたことがあった。
彼らは元の人格を保ったまま、無理やり体を操られ『デモニア』の兵器として斬華に襲いかかった。
今そんな話をするということは、おそらくこの魔王もそうなのだろう。
「そういうことだ。『デモニア』は我々の知らぬところで魔王を捕獲し、自分たちの兵器に改造した」
「っーー! そんなのって……」
「ーー排除対象確認。楠田士郎、抹殺します」
ドールと化した魔王がいきなり立ち上がり、右腕と一体化した銃を士郎に向けて野球ボールサイズの光弾を放つ。
「分かっていれば止めるのは容易い」
士郎に迫る光弾を斬華は〈斬殺鬼〉で真っ二つに斬り捨てた。
「識別名〈ムラマサ〉〈ベルセルク〉を排除対象に登録。ーー〈穿崩卿〉」
〈眷属〉の名を呼んだ。
ドール魔王の右腕が形を変える。巨大な大砲のような、およそ片腕で支えられるような質量とは思えないそれを天高く掲げた。
「ーー排除対象。楠田士郎、識別名〈ムラマサ〉、識別名〈ベルセルク〉、標的固定ーー発射」
どどどっ!!
鈍い音を立てて身の丈を超える巨大光弾が三発放たれる。
それぞれが士郎、斬華、卯月の方へと進行方向を変え、徐々に加速を始めた。
「確かにこれだけの魔力の圧縮体、まともに喰らえば怪我では済まないだろうがーー」
刹那。
巨大な光弾はせいぜいが角砂糖サイズにまで細切れになった。
「士郎、すぐにそっちもーー」
「目を離すな阿呆!!」
「斬華後ろ!」
「なんっーー」
士郎と卯月には見えていた。
細切れにされた無数の光弾が消えることなくその場に留まり続けていた。
そしてそれは次々と斬華の背中に突き刺さる。
「識別名〈ムラマサ〉、損傷甚大、脅威度低下。優先目標を識別名〈ベルセルク〉へ変更」
「お前っーー!!」
〈斬殺鬼〉を召喚した士郎はドール魔王に斬りかかった。
しかしそれはドール魔王の〈眷属〉によっていとも容易く弾かれてしまう。
「ーー理解不能、なぜ手加減を……?」
「ふざけやがって!〈箝替公〉ァ!」
右手で〈斬殺鬼〉を握りながら、左手で〈箝替公〉を振るう。
士郎を追尾していた巨大な光弾の軌道をドール魔王へ向ける。
「〈箝替公〉ーー識別名〈トリックスター〉の〈眷属〉ですね。確かに効果的ではありますがーー」
パンパンっ!
乾いた音が二つ。ドール魔王の右手に握られている拳銃から放たれた魔力弾がそれぞれ光弾の中心と士郎の心臓を撃ち抜く。
光弾は跡形もなく霧散し、士郎はその場に膝を着いた。
「ぐっ、くそ……!」
「手数など無くとも核となる部分を撃てば無力化できるのは人間も当機の弾丸も変わりません」
「ーーほう、それはいいことを聞いたの」
ドール魔王の背後で卯月が光弾を霧散させた。
卯月の方を見ていなかったドール魔王はもちろんだが、視界に捉えていたはずの士郎にも何が起きたか見えなかった。正確には目で追えなかったというのが正しいだろう。
「さて、タネが割れてしまえば恐るるに足らんと言いたいところじゃが……」
「ーー識別名〈ベルセルク〉の脅威度を上方修正、排除します」
「ぬぉっ!?」
ドール魔王は一足で卯月との距離を詰めた。
突っ込んでくるとは露ほども思っていなかった卯月の隙をつき、ドール魔王はその無機質な右脚で卯月の顎を蹴り上げる。
しかし間一髪、卯月の両手が滑り込んで顎への直撃だけは防ぐ。それでも卯月の身体は一瞬宙に浮き、さらに両手は顎を守ったために胴体はガラ空きだ。それを見逃すほどドール魔王も甘くはない。
右手に握った拳銃を卯月の腹に押し当て躊躇うことなく引鉄を引いた。
「づぁッ! ーーこのっ!」
攻撃を受けながらも卯月は反撃しようとするが、ドール魔王は後ろへ跳んで距離をとった。
「ーー驚きました。貫通させるつもりで撃ったのですが、まさか無傷とは」
「頑丈さだけが取り柄じゃからな」
「ーー〈穿崩卿〉」
ドール魔王が〈眷属〉の名を呼ぶと、その手にしていた拳銃が右腕と一体化したスナイパーライフルへと変わる。
次の動きを警戒する卯月に銃口を向けたままドール魔王は上空へ飛んだ。
「ーー標的固定、魔力収束、充填……」
「なんじゃ……?」
「八五……九〇……九五……充填完了。ーー〈穿離滅裂〉」
『そこまでだ』
発射の直前、ドール魔王の右腕が勢いよく真上を向いた。放たれた弾丸は一瞬のうちに空の彼方へ消えて行き何も起こらない。
『ーー私が抹殺を命じたのは楠田士郎だけだったはずだが?』
何者かの声がした。
ノイズがかっていて性別すら分からない声が、士郎の背後から聴こえた。
「なんだ、お前……?」
振り返った士郎の目に映ったのは不気味な何かだった。
人のシルエットに白いモヤがかかっているような、少なくともまともな人間でないことだけは分かる。
そんな何かの隣にドール魔王は降りて来て頭を下げる。
『君の行動は重大な命令違反だ。それも取り返しのつかない事態を招きかねないね』
「ーー申し訳ありません、マスター」
『構わないよ、初の実戦で魔王を相手にしたんだ。命令通りの戦い方ばかりでは負けていただろう』
「まだ終わっとらんぞ」
目にも止まらぬ速さで何かに殴りかかった卯月だったが、その拳は虚しく空を切った。
何かに命中はしたのだが、そのまますり抜けたのだ。
『無駄だよ。ここに来ているのは思念体のようなものだからね、物理的な攻撃は当たらない』
「チッ……打つ手なしか」
『理解してもらえたようでなによりだ。ではリナ、今回はここまでにして戻っていいよ』
「了解、これより帰投します」
「逃がすと思うか?」
リナと呼ばれたドール魔王が飛び去ろうとするのを、大人しく見守っていられるほど卯月は優しくない。
しかし駆け出そうとした卯月の視界を真っ白な綿が塞いでしまった。
「ッ!ーー〈癒綿姫〉! どういうつもりじゃ!」
「……ごめんなさい。でも、その何かは危険すぎます……!」
「何を言ってーー」
何かはさっき自分で思念体のようなものだと言っていた。そんな存在の何が危険なのか理解ができない卯月だったが、そんなことを考えていると何かから腕のようなものが伸びて〈癒綿姫〉の綿に触れる。
『ーー確かに私に物理的な攻撃は当たらないが……私が君たちに触れられるかどうかは別の話だ』
何かが触れた場所から、〈癒綿姫〉の綿が塵となって風に飛ばされ消えて行く。
触れたそばから綿は塵になり、いとも容易くその手は卯月に届いた。
『ーーこれで君は一度死んだ訳だが、今回だけ特別だ。リナも戻ったことだし見逃してあげよう、それではまた』
何かの姿が煙のように消え去った。
リナと呼ばれた魔王にも、突如として現れた何かの正体も分からないまま逃げられてしまった。
分かったことはリナと呼ばれた魔王が『デモニア』に改造されてしまったこと。そして彼女があの何かのことをマスターと呼んでいたことだ。
「ーー〈癒綿姫〉、士郎と斬華は無事か?」
「俺は大丈夫、まだ体は動かないけど……」
「如月斬華も気を失っているだけです。怪我はしていますが命に別状はないでしょう」
「それはよかった。ではおぬしらは帰って傷を癒せ」
「紅無卯月、何をーー」
「達者でな、儂はまだここを離れるわけにはいかん」
卯月は士郎と斬華と〈癒綿姫〉をひとまとめにしてぶん投げた。
士郎は斬華と〈癒綿姫〉の体を抱き寄せて着地の衝撃に備えるが、既に士郎の体一枚を挟んだぐらいでは落下の衝撃を殺せないほどの距離を飛んでいた。
「ーー〈癒綿姫〉、着地任せた!」
「分かっています!」
三人の周りを囲むように綿が生成される。
〈癒綿姫〉の綿が落下の衝撃を吸収してくれたおかげで生還することができた。
士郎たちが周囲を見渡すと、そこは東京にできたクレーターの外だった。
まだ中心には到達していなかったとはいえ、それでもかなりの距離を投げ飛ばされたようだ。
「急にどうしたんだ……とりあえず一旦『デュランダル』に戻るか?」
「はい、貴方と如月斬華は戻ってください」
「ん? 〈癒綿姫〉は戻らないのか」
「私はもう一度紅無卯月の所へ行きます」
「また投げ飛ばされるかもしれないぞ」
「分かっています」
「何か理由があるのか?」
「この子がーー癒羽がまだ紅無卯月に会えていません。癒羽は癒羽なりに頑張って、あの頃の紅無卯月に会えると信じて戦いました。それなのに目を覚ました時に彼女がいないなんて……」
〈癒綿姫〉が苦しそうに目を伏せる。
「そんなの、あんまりじゃないですか……だから私はまたここまで投げ飛ばされようとも、何度だって紅無卯月のところへ戻りますよ」
強い信念のこもった言葉だった。
〈眷属〉と呼ばれるだけあって、自身の主のことを第一に考えて行動するのだ。
それはきっと〈癒綿姫〉に限った話ではないのだろう。思い返せば〈斬殺鬼〉も斬華の命令に背いてまで士郎と一緒に〈斬殺悪鬼〉を討とうとした。
どこまで行っても〈眷属〉が主である魔王を想う気持ちは真っ直ぐで嘘の無いものなのだ。
「ーー分かった、でも俺も一緒に行く」
「如月斬華はどうするのですか」
「この怪我じゃ連れて行けないからな、斬華は『デュランダル』に送り届けるよ」
「それを待っていろと?」
「『デュランダル』からも俺たちの様子は見えてるし治療の準備もとっくにできてるだろうから五分もかからないと思うけど、それすら待てないって言うなら先に向かっててくれ。すぐに追いつくから」
〈癒綿姫〉がいくら全力で走ろうと、士郎が肉体の損傷を度外視すればその何倍もの速度が出る。
そんなことは〈癒綿姫〉だって百も承知だ。
「ーー分かりました。ここで待っていますので早く行ってきてください」
〈癒綿姫〉に見送られながら士郎と斬華は『デュランダル』に戻り、そして数分後に士郎だけがまた地上に降りてきた。
残念ながら五分を過ぎてしまっていたが。
「悪い、待たせたな」
「いえ、大丈夫です。一人になったおかげで冷静になれました」
「ならいいんだけど」
「では早速行きましょう、貴方の脚に期待してもいいんですよね?」
「おう、任せてくれ」
そう言って士郎は〈癒綿姫〉を抱きかかえ大地を蹴る。
一歩目から人間とは思えない速度が出たことに驚いたが、今の自分の魔力量を考えればそれも当たり前だった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
昔のことを思い出していた。
とは言っても懐かしむほど過去のことでもない、体感で言えば一瞬眠ってしまったぐらいの感覚だ。しかしその一瞬で三年が過ぎていた。
慣れ親しんだ街は魔力に汚染され、今でも荒野のままだ。人間はおろか植物すら生きることのできない死の大地の果てから、二人の人間がやってくる。
卯月は走ってくる二人の方へ向き直り、大きなため息をついた。
「どうしたんじゃ、忘れ物か?」
「ーーええ、とても大切なことを忘れているみたいなので」
「その言い方じゃと儂が何か忘れとるみたいじゃな」
「その通りです。貴方にとってはどうでもいいことかもしれませんが、癒羽にとって一番大切なことを忘れています」
「……心当たりが無いのぅ、〈癒綿姫〉の勘違いではないか?」
ちっ! と大きな舌打ちをした〈癒綿姫〉は卯月を睨みつける。
「高いですね。少ししゃがみなさい」
「なんじゃ急に」
「いいからしゃがむ!」
「何を怒っとるんじゃ……」
あまりの剣幕に負けてしぶしぶ腰を落とした卯月の横っ面目掛けて〈癒綿姫〉は全力で拳を振り抜いた。
ゴッ、と鈍い音がしたが卯月にダメージは見られない。
「心当たりが無いだの、私の勘違いだの、どの口で言ってるのですか。ーーあなたはまだ癒羽と会っていないでしょうが!!」
「…………」
「三年前のあの日にこの子がどんな思いをしたか、あなたと一条京介の記憶を封じられたこの子がたった一人で過ごした三年間の辛さが、そして何より危険と分かっていながら姿の変わってしまったあなたを紅無卯月と信じてここまで来たこの子の気持ちが……あなたには分からないのですか!!」
〈癒綿姫〉の叫びを聞いた卯月は天を仰ぎ、ゆっくりとそれを理解する。
そして申し訳なさそうに〈癒綿姫〉に笑いかける。
「ーー儂には三年前のあの日以降の記憶は無い。あの爆発の瞬間までは覚えておるが、気がつけば〈癒綿姫〉の綿の中じゃったよ。〈 破砕怪王〉が入れ替わる前に説明してくれなければ今の状況など一切理解できんかった、今もまだ混乱しとる」
「だから許せと?」
「いや、〈癒綿姫〉が怒るのも当然のことじゃ。現に儂は癒羽を避けとるしな」
「……なぜですか? そこまでしてこの子と顔を合わせたくない理由があるのですか」
「合わせたくないと言うより合わせる顔が無いと言うのが正直なところじゃよ。東京をこんな風にして、癒羽の大切なものも全部壊したのにのうのうと眠っていたんじゃからな。平気な顔をしとったが〈癒綿姫〉が表に出ていると分かった時は心底ホッとしたんじゃ」
情けないじゃろ、と自虐的な笑みを浮かべながら卯月は言った。
癒羽のことを大切に思っているからこそ、尚更顔を合わせづらいのだ。当事者ではない士郎でもそれぐらいは分かる。
しかし〈癒綿姫〉は違ったようだ。
「言いたいことはそれだけですか……?」
「え?」
「合わせる顔が無い? そんなのはそっちの都合でしょう。それっぽい理由を並べて……要は気まずいから会いたくないだけなんじゃないんですか?」
「いや、儂は……」
「貴方が本当に癒羽のことを想っているなら下手な理由を並べるよりも先にやるべきことがあるんじゃないんですか?」
「でも儂にはーー」
「だからそれをやめろって言ってるんです! あー、もう! 楠田士郎、後は頼みました。私もうこいつと話したくありません」
「は、え?」
かくん、と癒羽の体が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
咄嗟に抱きとめた卯月の腕の中で、癒羽は完全に意識を失っていた。どうやら〈癒綿姫〉が引っ込んだらしい。
「儂も嫌われたもんじゃな……。士郎、済まんがーー」
「断る」
「まだ何も言っとらんじゃろ」
「どうせ癒羽ちゃんを頼むとかそんなのだろ、悪いけど俺も〈癒綿姫〉の意見に賛成だ。卯月の気持ちも分からないわけじゃないけど、それでも癒羽ちゃんに会ってあげてほしい」
「……年貢の納め時かの」
ふっ、と諦めたように笑った卯月はその場に胡座をかいてそこに気を失っている癒羽を乗せた。
「軽いな、少し痩せた…… いや、儂が成長しとるのか」
「……ん? そう言えば癒羽ちゃんが言ってたけど魔王は成長しないんじゃないのか?」
「そのはずじゃが……気を失っとったから儂にも分からん。儂も〈破砕王〉も眠っとったし、たぶんその辺りが関係しとるんじゃろ」
膝の上に乗せた癒羽の頭を撫でながら卯月は首を傾げた。
「ーーまあよいか、たまには成長することもあるじゃろ。それより士郎、癒羽が目を覚ますまでおぬしの話を聞かせてくれ」
「俺の話?」
「うむ、正確には今のおぬしらを取り囲んどる状況じゃな。癒羽やおぬしらを守るにも、さっきのあやつらと戦うにも最低限知っとくべきことはあるじゃろう」
「そうだな、癒羽ちゃんもまだ起きそうにないしーー」
士郎は卯月にこれまでのことを話した。
『ブレイヴ』や『デモニア』のこと。
封印した〈眷属〉の力を行使できるということも、包み隠さず全てを話した。そうすることが卯月への信頼の証明になると分かっていたからだ。
そうして一通り話し終えたところで、卯月がなんとも言えない表情で呟いた。
「ーー文月燐、文月燐か……おぬし、面倒なやつに目を付けられたのぅ」
「知り合いなのか?」
「知り合いというか……腐れ縁みたいなもんじゃな。大昔に一瞬だけ共に居た時期があるだけじゃ」
「仲が良かったのか?」
「はっ、まさか。利害が一致していただけで最後は殺し合いじゃよ」
かかか、と笑い飛ばした卯月だったが目が笑っていなかった。きっと二人を会わせない方が良いのだろう。
「ーーまあ、それは無しにしてもじゃ、アレとはあんまり関わらん方がいい。刹那主義で頭のネジが何本かぶっ飛んどるようなやつじゃ、話をしとるだけで頭痛がしてくるぞ」
「そこまでだったか……?」
卯月がやけに実感のこもった話し方をするので士郎も息を飲んで聞いてしまった。
しかし士郎が燐と接した時は、少なくとも発言に関しては問題なかったと記憶している。
「俺が話した時は卯月が言うほど無茶苦茶な感じじゃなかったけどな」
「そうなのか。ーーふむ、最後に話したのはかなり前じゃし、儂と同じで少しは大人になったということかの」
「まあ、いずれは燐の〈燼滅妃〉も封印しなくちゃいけないからな。関わるなってのは無理な話だよ」
「そうか、なら封印は諦めるんじゃな」
「卯月?」
卯月の声のトーンが下がる。今の今まで明るく話していたのにいつの間にか表情が暗くなっていた。
「〈燼滅妃〉の封印をあやつが許すはずがない。仮に約束通り〈燼滅妃〉以外の〈眷属〉を封印したとしてもじゃ」
「それでも俺は燐を信じるよ」
「信じる信じないの話ではない。そもそも……」
「ん……うづき?」
「ーーゆ、癒羽……ひ、久しぶりじゃな」
卯月の膝の上で気を失っていた癒羽が目を覚ました。心の準備ができていなかったのか卯月は言葉に詰まり、その声は上ずっていた。
だが癒羽にはそんなこと関係なかった。
ずっと死んだと思っていた相手が今目の前にいる。容姿こそ少し変わってしまったがそれ以外は何も変わらない。
「うづき、ほんとにうづきだ……よかった、あいだがっだぁ……!」
ぽろぽろと涙が溢れる。癒羽の中で何かが満たされていく、魔王としても人としても大切な何かが欠けたピースを埋めたような感覚だ。
喜びと安堵、その二つだけでいっぱいになった。
「ずっと……ずっと一人にして済まなかった。一刻も早く、何よりも先に癒羽を探すべきじゃったのに……儂はーー」
「ううん、いいよ……」
卯月の言葉を遮った癒羽はゆっくりと立ち上がる。そうしてその小さな身体をめいっぱい使って卯月を抱きしめた。
「うづき、ずっとここをまもってくれてた。癒羽と、うづきと、きょーすけ、みんなのすきだったところ」
「っーー分かるんじゃな、この場所が……」
「うん……ぜんぶなくなったけど、そらがいっしょだから」
真っ直ぐに空を見上げて癒羽は笑った。
いつか見た景色を思い出しながら。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ーーというわけで改めて、儂の名前は紅無卯月。これから世話になる、よろしく頼むぞ」
『デュランダル』の艦橋で卯月は朗らかに挨拶を始めた。
士郎と癒羽、目を覚ました斬華に皇と如月、なんやかんやで『デュランダル』から様子を見ていたいろはに囲まれた卯月だったが物怖じする様子もない。
「そう警戒せんでもいい、事を構えるつもりはありゃせんよ。今のところはな」
「ーー紅無卯月くん、君が味方だと言うのは今この状況が証明している。僕たちもそれを疑っている訳じゃないが……」
皇の言いたいことを察した卯月はその手に〈破砕王〉を纏った。
「おぬしらの気持ちは分かるが、今はまだ〈破砕王〉を封印させてやる訳にはいかん。理由はーー」
卯月は真剣な表情で士郎と斬華を交互に見る。それに対して士郎は首を傾げるが、斬華は何かを察したのか苦虫を噛み潰したような顔をした。
「うむ、その顔はちゃんと自分で分かっとるみたいじゃな」
「ーーああ、嫌というほど思い知った」
「それが分かっとるならおぬしの方はこれからどうとでもなる。問題は何も理解しとらん士郎じゃ」
「悪い卯月、話についていけてないんだけど……」
「んなこと顔見りゃ分かる。ーーまあこれも良い機会じゃ、おぬしらちょっと横一列に並べ」
卯月の意図は分からないが、とりあえず言われた通りに士郎たちは横一列になった。
その様子を不思議そうに眺める皇と如月に卯月は訊ねた。
「皇、この中で一番強いのは誰じゃ」
「ーー状況にもよるとは思うが、戦闘力という面で見たら斬華くんじゃないかな」
「正解じゃ。じゃあ如月、二番目に強いのは?」
「ふむ……私は士郎だと思うがーー」
「違う」
卯月の一言に全員が意外そうな顔をする。
その様子を見た卯月は呆れた様子で額に手を当てた。
「おぬしら勘違いしとるようじゃが、〈眷属〉を封印できるだけで士郎はただの人間じゃぞ。魔王に勝てるわけないじゃろ」
「…………」
「揃いも揃って楽観的に見すぎじゃ。普通に考えて、なんの訓練も受けておらんガキが〈眷属〉を封印したぐらいで魔王と同じ土俵に立てるわけないじゃろ」
「ーー卯月くんの言い分も分かるが」
「分かっとらんよ。身体能力が上がろうが不死身になろうが、元がただの人間では全身魔力の塊である魔王には勝てん」
「だが彼は暴走した〈癒綿姫〉を破って癒羽を救い出している」
如月の咄嗟の反論に卯月は肩を竦める。
卯月自身がその場面を見たわけではないが、その時の光景は〈癒綿姫〉の綿に閉じ込められていた時に流れ込んできた癒羽と〈癒綿姫〉の記憶で顛末は知っている。
「斬華といろは、それに文月燐の力を借りてようやくたどり着いた〈癒綿姫〉の繭をこじ開けたところで電池切れじゃろ。もし癒羽と〈癒綿姫〉がその気ならアリスとかいうのが来る前に全員死んどったがの」
「うづき……癒羽も〈癒綿姫〉も、そんなことしない……」
「分かっとる分かっとる、例えばの話じゃよ」
不服そうな癒羽の頭に手を置いたまま、卯月は全員を見渡す。
「端的に言うとじゃ、今のおぬしらじゃ束になっても魔王には勝てん。そのうち誰か死ぬぞ」
『…………』
卯月と癒羽を除く全員が言葉に詰まる。
それもそのはずで、実際に斬華といろはは二人とも一度死にかけている。
いろはは燐と真っ向からぶつかったからだが、斬華の方はいろはとの戦いの末に一体のドールによる不意打ちが原因だ。
油断していたとはいえ魔王ですらない相手に殺されかけたのだから、卯月の言葉に反論なんてできるはずもなかった。
「辛気臭い顔をするな、そのために儂がおるんじゃ」
「ーーつまり、君が魔王との戦闘は担ってくれるから〈眷属〉の封印は待ってほしいと」
「まあ……そんなところじゃ。自分で言うのもなんじゃが、そこらの魔王よりは儂のが強いしな」
「ーー士郎くんはどう思う?」
「俺は……卯月を信じます」
もう二度とあんな思いはしたくないと、士郎の目がそう言っていた。
守らないといけないものは増えたが、士郎の手が届く範囲は変わらない。そのせいで取りこぼすようなことになるぐらいなら自分以外の誰かに守ってもらった方がいいに決まっている。
たとえそれが本来守るべき相手であったとしても。
「分かった。我々『デュランダル』は君と魔王の意見を最大限に尊重する」
「! 、ありがとうございます」
「よし、じゃあこの話は終わりじゃ。さっさと本題に入ってくれ」
「そうだね。佐久間くん、モニターに映像を」
皇に言われるまま搭乗員の佐久間がコンソールを操作すると、艦橋の巨大モニターにリナと呼ばれたドール魔王とモヤがかかった人影のような何かが映された。
その映像を見ながら皇は話を続ける。
「ーーまず突如として現れた魔王を〈アルテミス〉。そしてマスターと呼ばれる何かを〈シャドウ〉と呼称することにした。彼女らの目的は不明だが〈アルテミス〉の容姿を見るに『デモニア』に所属していると思われる」
「目下の敵は『デモニア』というとこかのぅ、〈シャドウ〉とかいう方は得体が知れんが……」
「それもそうだが、問題は〈アルテミス〉だ」
「確かに……話をできる雰囲気じゃなかったな」
「『デモニア』に改造されてるんだろ? こんなこと言いたかねえけど、もし頭ん中まで弄られてたら封印なんか不可能だろ」
「『ブレイヴ』とやらの技術で何とかならんのか?」
「ふむ、洗脳や暗示……もしくは何らかの装置を埋め込まれている程度なら何とかできなくもないが……」
如月が唸るように返答する。
士郎からすればそれだけできれば十分だと思ったが、如月からすればまだ十全とは言えないらしい。
「ーーなら〈アルテミス〉に関してはひとまず捕縛するという方向で構わないな」
「今のあたしらにそれができるかって話にはなるけどな」
「安心せい、さっきも言うたがそのために儂がおる」
「大層なご自信で。さっきから大口叩いてるけど、同じフルパワーの魔王同士だろ。〈眷属〉の相性も向こうの方が良さそうだけど本当に勝てんのか?」
いろはが口にした言葉で場の空気がピリついた。至極真っ当な疑問ではあるが、卯月の機嫌を損ねかねない質問だ。それをあろうことか『デュランダル』の艦橋内で口にしてしまったのだから。
まさかいきなり卯月がブチ切れて全てを破壊するなんてことは無いと信じているが、まだ会って数時間だ。どこに地雷があるのかなんて分かりやしない。
少し間を置いてから、卯月がゆっくりと口を開く。
「そうじゃな……あれだけ自由に空を飛べる相手だと少々厄介かものぅ」
「それでも負けねえって言い方だな」
「まあおぬしらもおるしな。特にいろは、〈アルテミス〉に対してはおぬしが鍵じゃ」
「は? あたしか!?」
「何を驚いとる。〈アルテミス〉にとっておぬしの〈箝替公〉は天敵じゃろ」
確かに〈アルテミス〉が一方的に攻撃できるほどの距離であれば、〈箝替公〉の能力で余裕を持って対応できる。
いくら銃弾が速くとも魔王の動体視力を超えようとするのなら、それなりの距離まで接近する必要があるはずだ。
そこまで近づけさせれば卯月と斬華が攻勢に出られる。
「そうは言っても今のあたしじゃ防げて数発だぞ」
「それはおぬしの魔力の使い方じゃよ。何も考えず〈眷属〉を振り回してもすぐにぶっ倒れて終いじゃ」
「…………返す言葉もねえな」
「そう落ち込むな、魔力の扱いなら儂が教えてやる」
「そりゃどーも」
卯月が自信満々に胸を張る。
あまりにも堂々としているので一瞬安心感を抱いてしまったが、〈眷属〉を封印されていない卯月といろはでは感覚が異なるだろうに指導などできるのだろうか。
そう思ったがいろははそれを口には出さなかった。
「ーー〈アルテミス〉の捕縛については光明が見えたとして、〈シャドウ〉はどうする? なにやら士郎の命を狙っているようなことも言っていたが……」
「自分のことを思念体とか言っておったな。どこかに本体がおるんじゃろうが……」
「あたしは映像でしか見てねえけど実際どうだったんだ? 声とか雰囲気とか」
「目の前にいたけど何も分からなかったな」
「儂も同感じゃ、あのモヤの向こうに何がおるのか……」
「そうだね、〈シャドウ〉についてはこちらでも調べておこう。『ブレイヴ』の情報網なら何か分かるかもしれない」
「ふむ、では〈シャドウ〉についても一旦保留ということじゃな」
「〈アルテミス〉も〈シャドウ〉も相手にするのはしばらくは待ちって感じだな」
「まあこっちとしても猶予が欲しいところじゃ、それならそれでいいじゃろ。ーーそれより皇よ」
「なんだい?」
「すまんが儂の住むとこを探してくれんか?」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
翌日。
士郎と卯月は茉莉が親戚に管理人を任されているアパートにやってきていた。
目的は卯月がここに住むための内見だ。
最初は『ブレイヴ』が家を用意してくれる手筈だったが、どうしても楠田家から距離が離れてしまうのと、そもそも候補となる家がどれも卯月の琴線に触れなかったのだ。
そこでふと士郎は茉莉が親戚からアパートの管理を任されていたことを思い出したので、ダメ元で提案したところ卯月が気に入ってしまった。なんでも昔住んでいたところに似ているのだとか。
そうした経緯で今二人はアパートの前にいるが、昨日のうちに業者が来て諸々の作業をしてくれたようで、なんとか人が住める状態にはなっている。
「にしても一日でここまでになるんだな……このアパート俺が産まれる前からあるけど今が一番綺麗だぞ」
「もう何年も誰も住んでおらんならそれも仕方ないがの。これからは茉莉と儂がおるし、そのうちマンションにでも建て替えるかもな」
「ーーあはは、さすがにそれは無理ですよ」
士郎と卯月が綺麗になったアパートを眺めながら駄弁っていると、後ろから聞き慣れた声が聞こえた。
振り返るとそこにはこのアパートの管理人をである茉莉と、その隣になぜか癒羽が立っていた。
「やっと来たか茉莉……と、癒羽? なんでおぬしも来とるんじゃ」
「どうしても一緒に来たいって言うから連れてきちゃったんですけど……」
「ここ、まえにすんでたとこににてる……癒羽と、うづきと、きょーすけ。さんにんのすんでたとこ」
「あ!」
急に士郎が大声を上げた。
「なんじゃ急に。癒羽が変なことでも言ったか?」
「言ったんだよ! 癒羽ちゃん、いまきょーすけって言ったよな? 頭痛くなったりしてないか?」
「ん、だいじょーぶ……ちゃんとぜんぶ、おもいだしたから」
「そっか……良かった」
「おい士郎、ちゃんと説明せんか」
「ああ、悪い。癒羽ちゃんの記憶の話なんだけどーー」
『いいわ、楠田士郎。私が説明する』
士郎の言葉を遮って、どこからともなく声が聞こえた。士郎にとっては何度も聞いた声だが、卯月と茉莉は初めての出来事に戸惑っているようだ。
「え、なに……声だけ聞こえる」
「何者じゃ、姿は見えんが気配でだいたいの位置は分かる。早めに顔を出した方が身のためじゃぞ」
あたふたする茉莉を他所に、卯月はいたって冷静な声色で忠告する。
卯月の言葉を聞いた声の主は大人しくその姿を現した。
目深に被った三角帽で顔は見えないが、士郎と癒羽はこの魔女に見覚えがあった。
「ーー〈ウィッチ〉、どうしてこんなところに?」
「おぬしも魔王か」
「ええ、〈ウィッチ〉って呼んで」
「……士郎、こいつと知り合いか?」
「知り合いというか、まあ何回も助けられてる」
「少なくとも敵では無いか……それで何用じゃ? 癒羽の記憶がどうとか言っておったが……」
「そうだった。〈ウィッチ〉、癒羽ちゃんの記憶は封じてたんじゃないのか?」
士郎の問いに〈ウィッチ〉は肩を竦めて首を横に振る。呆れているというよりは〈ウィッチ〉自身も分かっていないようだ。
「一条京介に関する記憶については封印してるつもりだったけど……仮定の話でいいなら、紅無卯月との再会で記憶が喚び起こされたとか?」
「記憶の封印? どういうことじゃ」
「癒羽ちゃんの中にあった紅無卯月と一条京介に関する記憶を封じていたの。霜月癒羽という女の子にとって紅無卯月と一条京介の二人を同時に失った記憶は、それだけで癒羽ちゃん自身を殺しかねなかったから」
〈ウィッチ〉の言葉の意味を理解した卯月は咄嗟に癒羽の方へ振り返り、その眠たげな表情を見てため息をつく。
「……その封印が解けて、癒羽は大丈夫なのか?」
「そればっかりは本人にしか分からないけど、少なくともあなたがいる間は大丈夫なんじゃない?」
「儂か?」
「ええ、あなたが生きていて今一緒にいられるだけで一条京介の死を乗り越えられるかもしれない。だけどもしあなたがもう一度癒羽ちゃんの前から姿を消したらーー」
「縁起でもないこと言わんでくれ、さすがに二度も死ぬつもりはない」
「そ、なら応援してるわ」
「なんじゃ、愛想の悪いやつじゃのぅ」
「ーーところで楠田士郎」
〈ウィッチ〉は卯月を無視して士郎の方を見る。相変わらず表情は伺えないがどことなく微笑んでいるような気がした。
「今回の件、成り行きとはいえ私のお願いを聞いてくれたんだからお礼はしないとね」
「いやそんな、俺は自分のやりたいことをやっただけだからお礼なんてーー」
「そう? あなたたちの知らない魔王のこと教えてあげようと思ったんだけど」
「……それだと話は変わってくるな。ありがたく受け取ることにするよ」
「素直でよろしい」
士郎の返答に満足したのか〈ウィッチ〉は得意げに語り始める。
「魔王の名前は紫堂院弥生、私は彼女のこと〈ドクター〉って呼んでる」
「紫堂院……?」
その名前が士郎の頭の片隅に引っかかった。
どこかで聞いたことがあるような気がするが、それがどこで誰が口にしていたのかまったく思い出せない。
その様子を見た〈ウィッチ〉は楽しそうな声色で続ける。
「私も魔王だから他の魔王の〈眷属〉の能力まで教えるわけにはいかないけど、彼女の居場所だけなら教えてあげる」
「それだけでも十分な情報だよ、聞かせてくれ」
「うんうん、あなたならそう言ってくれると思ってたよ」
「そりゃどうも。それでその魔王の居場所は?」
「天前高校ーー楠田士郎、あなたの通ってる学校に魔王がいる」