魔王〈ピクシー〉
八月六日。
魔王〈クイーン〉こと文月燐を退けてから一週間が経った。既に並風市全域に発令されていた避難勧告は解除され、破壊された建物なども、対魔王制圧組織『ブレイヴ』の手によって(どうやったのかは不明だが)元通りに直ったため、街の住民は各々の生活へと戻っていた。
その中にはもちろん天前高校に通う少年、楠田士郎やその妹の双葉、居候の如月斬華と水無月茉莉、そして友人の皐月いろはも含まれている。
そして今、絶賛夏休み中の士郎たちは、隣町に新しくできたレジャー施設『わくわくレジャーランド』へ遊びに来ていた。
この施設にはプールや遊園地、ゲームセンターにカラオケやボウリング、その他もろもろのアトラクションが用意されており、さらに敷地内のフードコーナーには和洋中の有名レストランにファストフード店など充実している。
そして宿泊施設もいくつかあり、一番目立つのは地上三十階建ての『ホテルわくわく』だろう。
ネーミングは気の抜けた感じだが、実は一泊最低十万円はするお高めのホテルなのである。最上階のスイートルームともなれば一般人では手を出せる額ではない。
しかし、今回士郎たちはこの『ホテルわくわく』に宿泊していた。
経緯を端的に言えば魔王〈クイーン〉を退けたご褒美として『ブレイヴ』の所有する空中艦『デュランダル』の艦長、皇恭弥が用意してくれた。一泊十万円以上するホテルに実質タダで宿泊できることになるとは、皇に頭が上がらないようになってしまいそうだ。
ーーと、このような経緯で現在、楠田士郎一行は『わくわくレジャーランド』の目玉でもあるプールではしゃぎまくっていた、主に双葉が。
「ひゃっほー!」
「ひゃああああああ!?」
盛大な水飛沫を上げながら双葉と茉莉が着水。国内最大級を謳う二人用ウォータースライダーに挑戦した二人は、水面から勢いよく顔を出して笑う。そしてまたすぐウォータースライダーの列に並ぶ。これをもう既に十回は繰り返していた。
その様子を眺めながら、士郎、斬華、いろはの三人は苦笑する。
「なあ、あれ何回目?」
「十を越えた辺りまでは覚えている」
「何回でもいいんじゃねえの。あいつらが楽しいならそれで。あたしらはあたしらで楽しんどこうぜ」
「……楽しむ気ある?」
士郎の視線は列に並ぶ双葉と茉莉から、いろはの方へ移る。
『デュランダル』から持ってきたらしい大きなテントを広げ、その中で小型扇風機に当たりながら顔だけを覗かせている。
「いいんだよ、あたしはこれで。外に出たら男どもの視線がうぜーし」
「普段とあんまり変わらない格好だけどな」
「普段は人前に出ねえんだよ」
いろはの水着は下がホットパンツタイプで、上はビキニの上から薄手のパーカーを羽織っている。パーカーのファスナーは胸につっかえて半分程しか上がっていないのもいつも通りだ。
高身長で、出るところは出ていて引っ込むところは引っ込んでいる。スタイルで言えばそこらのモデルにも引けを取らないレベルだ。そのせいかまだここへ来て二時間ほどだが、既に五回もナンパされている。
「…………」
「士郎、放っておけ。あいつもあれで楽しんでいるんだろう」
士郎の隣で斬華が呆れたように声をかける。
斬華の水着は上下黒のビキニで、腰に少し紫がかったパレオを巻いている。
いろはほど胸は大きくないが、むしろそれがスラッと伸びた手脚とのバランスを保っている、まさに黄金比と呼ぶに相応しいだろう。
いろははモデル顔負けのスタイルだが、斬華は美しい美術品とでも言おうか。
ちなみに斬華も二度ほどナンパされたが、眼力だけで追い払っている。
「双葉たちはあたしが見とくから、お前ら二人で遊んでこい」
「いいのか?」
「いいから行ってこい。目の前でイチャつかれる方が迷惑だ」
「そうか、じゃあお言葉に甘えるよ 」
「では任せたぞ、皐月いろは。さて、どこへ行こうか」
「俺たちもスライダー滑るか?」
「……いや、別のにしよう」
「ん、いいけど……もしかして怖い?」
「そんな訳あるか。あんな水が流れるだけの滑り台が怖いはずないだろう。暑い中わざわざ並びたくないだけだ。そもそも、ああいうのは子ども用なのだろう。なぜ無駄に高低差を付けたり速度が出るような設計なのだ……」
「じゃああっちにするか」
なんともそれっぽい言い訳をする斬華に合わせて、士郎はすぐ側にあった流れるプールを指差す。ウォータースライダーに並ぶ時間はせいぜい二、三分程度なのだが斬華が嫌だと言うのなら仕方がない。
「ふむ、やはり気持ちがいいな。何もせず流されるというのも悪くない」
「そうだな、このままずっと流れてたい」
ごく自然に手を繋ぎながら、二人は水に浮いて流される。見上げれば雲一つない青空が広がり、照りつける日差しに少し目を細める。
なんてことない平和な時間。双葉も茉莉もいろはも、各々が楽しく過ごして何も心配することがない。ただ二人で互いのことだけを考えることのできる時間。
「そう言えば、二人きりになるこ結構久しぶりだな」
「……家にいる時は双葉や茉莉ちゃんと一緒だからな。まあ今も二人がいないだけで、周りに人はいるんだがな?」
「そうだけど、別に誰も俺たちの話なんか聞いてないし」
「まあ、こういう二人きりも久しぶりなのは事実か。『デュランダル』の検査やらで忙しかったからな」
魔王〈クイーン〉を退けてから今日までの一週間、斬華といろははほぼ毎日『デュランダル』で検査を受けていた。
二人揃って瀕死の状態から奇跡的に蘇ったので、『ブレイヴ』としても調べておく必要があるのだとか。
「本当に必要だったのかは怪しいがな」
「だったら断ればよかったんじゃないか?」
「それも考えたが……あまり亀裂を生むような真似はしたくないだろう。皇や如月は悪い輩ではない」
そんな会話をしながら流されていると、不意に士郎の手が握られる。斬華と繋いでいるのとは逆の手だ。何かと思いそちらへ視線を向けると、そこには幼い少女がいた。
淡い薄桃の髪に、どこか眠たそうな瞳。茉莉よりも幼く見えるその子は小学校低学年ぐらいだろう。プールの底に足がつかないのか、浮き輪に掴まったまま士郎の手を握っている。
「みつけた……」
「えっとーー」
不思議に思い声をかけようとした士郎の体が、とんでもない勢いで少女から引き剥がされる。斬華に思い切り手を引かれたのだ。
次から次に状況の飲み込めない士郎の前に立ち、少女を睨みつけながら斬華は信じられないことを言った。
「気をつけろ士郎ーーこいつは魔王だ」
「え?」
どこからどう見てもただの子どもだ。魔王特有の威圧感というか、そういったオーラのようなものも一切感じない。
それどころか、プールの流れに沿ってどんどん士郎たちから離れていくではないか。じーっと士郎の方へ視線を向けながら、とうとう少女の姿は見えなくなってしまった。またあと数分もすれば、一周して戻ってくるだろう。
「……本当にあの子、魔王なのか?」
「それは間違いない……が、おそらくとてつもなく弱い。魔力が小さすぎて、あれだけ近づかれるまでまったく気づけなかった」
やはり魔力が強ければ強いほど、離れた場所の魔王がその存在を感じ取れるのだろうか。思えば魔王〈クイーン〉が現れた時、いろはは『デュランダル』からその存在を感じ取っていた。
それに比べると、わずか数メートルの距離まで近づかれないと気づけない魔王とは、確かにとてつもなく弱いようだ。
「〈斬殺鬼〉の用意はしておくか?」
「いや、いい。『デュランダル』からの監視があるからな。それに、そんなに危険な相手でもなさそうだし、無闇に怖がらせない方がいい」
〈眷属〉を封印された魔王であっても、体内に残された残滓を使って一時的に〈眷属〉を召喚することはできる。もちろん元き比べれば弱体化しているが、それでも戦力として期待することぐらいはできる。
そんな〈眷属〉を召喚できるということを、斬華といろはは『デュランダル』に隠している。もし『デュランダル』及び『ブレイヴ』と敵対することになった場合、〈眷属〉は大きな武器になるからという判断だ。
『ブレイヴ』は悪い組織ではないだろうし、『デュランダル』にも世話になっている。だがそれでも手札を全て見せるにはまだ早いと、斬華といろはは話し合って決めたのだ。
「ーーっと、戻ってきた」
「なんというか……大丈夫か、あいつ」
浮き輪に掴まったまま、ぼーっとしながら流されてくる少女を見て斬華が口を零す。
何も考えていなさそうというか、やはりどこか眠たそうな表情なのが絶妙に心配になる。
とりあえず士郎は、流れてくる少女に向かって手を伸ばした。するとそれを見た少女の方も手を伸ばし、士郎の手をしっかりと掴んだ。今度は斬華が引き剥がそうとしても、そう簡単には離れないだろう。
「はじめまして。俺は楠田士郎。君の名前は?」
「……癒羽」
「よろしく、癒羽ちゃん。こっちのお姉ちゃんは如月斬華っていうんだ。悪い人じゃないから、そんなに怖がらなくていいよ」
士郎がそう言うと、癒羽はおそるおそる斬華の方へ視線を向ける。まだどこか警戒しているような雰囲気だ。
しかし、そんなことお構いなしに斬華は癒羽へと詰め寄って訊ねる。
「ーーで、貴様はこんなところで何をしている? 偶然ここに来たなんて言い訳が通用すると思うなよ」
癒羽は初めから士郎との接触するためにこの『わくわくレジャーランド』へやってきた、というのが斬華の見立てだ。
実際そうなのかはわからない。しかし癒羽は誰にも気づかれずに士郎と接触した。その隙に何をしたというわけでもないが、そうしようとしたことに意味があるはずなのだ。それを確かめるためにも、目の前で士郎の手を握り続ける少女の真意を聞き出す必要がある。
「どうした、答えられないのか?」
「………………た」
「ん、なんだ?」
癒羽の発する言葉を聞こうと、士郎と斬華が口を閉じる。そして次に癒羽の口から出たのは、衝撃的なものだった。
「ーーパパ、さがしてた」
パパ。つまり父親。
魔王である癒羽の父親、それがどういう存在なのかはわからない。そもそも魔王に親が存在しているという話は聞いていないし、そんな可能性の話すら誰もしていなかった。
「……あまりふざけたことを言うなよ」
「ひっ……」
斬華から発せられた魔力に、癒羽は怯んで泣きそうな声を出す。直接当てられたわけでもない士郎ですら背中を悪寒が走り抜けたほどだ。こんなものを直接向けられる癒羽の恐怖は想像したくもない。
「斬華、ちょっと落ち着いて」
「なんだ士郎、まさかそいつの肩を持つのか?」
「肩を持つというか、もう少し話を聞いてみてもいいんじゃないか?」
「……好きにしろ」
斬華が威圧するのをやめたので、再び士郎は癒羽の方へと向き直る。
怯えきって今にも泣きだしそうな表情の癒羽だが、士郎と目が合うとどこか安心したような顔を見せる。
「ごめん、怖かったよな。もう大丈夫だから、そのパパについて教えてくれないかな」
「ん……パパ」
そう言いながら癒羽は器用に浮き輪から抜け出して、そのまま士郎の腕に抱きついた。
まだ子どもゆえに体に凹凸は無いが、しかし子ども特有の柔らかさが士郎の腕を包む。
「……パパ、みつけた」
「は?」
「癒羽のパパ、みつけた」
「えっと……パパってもしかして俺のこと?」
癒羽は不思議そうな表情をしてから、こくりと頷いた。まるでそれが当たり前のことであるような反応だ。
しかし当然、士郎に心当たりは無い。そもそも高校二年生、まだ十六歳の士郎にこんな大きな子どもがいるはずがない。そんなことは冷静に考えれば誰だってわかるーーはずなのだが、若干一名この状況を冷静に考えられなくなっている人物がいた。
「し、士郎……お前、子どもがいたのか……?」
「そんな訳あるか!」
「冗談だ。いくらなんでも士郎の歳でその大きさの子どもがいるはずがない。つまりパパというのはそいつが勝手に言ってるだけだ。そうだろう? というかそうでなかったら私はどうしたらいい? いや、子どもがいたとしても士郎のことは好きだが、それはそれとして詳しい話を聞かなければならなーー」
「斬華、ちょっと落ち着いて」
「私はいつだって冷静だ。それで、そいつは誰との子なんだ?」
呆れるほど動揺している斬華と、腕に抱きついて離れない癒羽を連れた士郎はいろはのいるテントへ戻ることを決意した。
既に一人では手に負えない。想像以上に斬華がおかしくなっているので、癒羽よりも先にこちらをどうにかせねばならない。
「ーーいろは、悪いけどこの子のことちょっと頼む。すぐ戻るからそれまで置いてやってくれ」
「どうした、迷子か? ーーって、こいつ魔王……にしては弱いな。なんだ?」
「おとなしくていい子だから、怖がらせるなよ。俺はちょっとこっちをどうにかしてくる」
「お、おう……」
癒羽をテントの中へ放り込んで、士郎はポンコツと化した斬華の手を引いて双葉たちのいるウォータースライダーの方へ向かう。
そこにはちょうどスライダー滑り終えてまた並ぼうとしている双葉と茉莉の姿があった。
「あ、お兄ちゃんーーって、どうしたの斬華さん!?」
「なんか……やばい薬でもやりました?」
双葉と茉莉が斬華を見てそんな反応をする。
茉莉の言い方はあまりに酷いが、残念なことに今の斬華を表すには的確すぎた。
だから士郎はそれを否定せずに、ウォータースライダーの列に並ぶ。
「まあ、ちょっとあってな……とりあえず斬華を元に戻すためにきたんだ」
「スライダーで元に戻るの、それ」
「わからないけど、スライダーは怖いって言ってたからショック療法だ」
「うわー……先輩ってたまに鬼ですよね」
「で、実際ここのスライダーはどんな感じだ?」
「楽しいよ! いきなりスピードも出るし、途中で急カーブとか一回転とかして最後にほぼ垂直に落ちてからの着水! 何回滑っても飽きないもん!」
「楽しいですけど、何回滑っても慣れないですよ……」
双葉が目を輝かせながら楽しそうに語る隣で、死んだ目をしてそう呟く茉莉。さすがに疲れが見えてきている。
「双葉、あと何回か滑ったら休憩しに戻ってこいよ」
「えー、まだまだ全然疲れてないよ。ね、茉莉ちゃん」
「え、あ、うん。はい」
これは戻ってくるまでもうしばらくかかりそうだな、と苦笑していると士郎と斬華の順番が回ってきた。
ここのスライダーは二人用で、一人が座ったその足の間にもう一人が入って、お腹の前で手を結んだ状態で滑るというものだ。士郎と斬華も当然そのようにする。
士郎の足の間に斬華が入って、斬華のお腹の前で士郎が手を結んで固定する。あとは滑り終えるまで離さないようにするだけだ。
「いってらっしゃーい」
双葉と茉莉に見送られ、士郎と斬華はスライダーへと勢いよく飛び込んだ。
滑り始めた途端、いきなりの急降下で一気に加速し、そのままの速度でほとんどUターンの急カーブへと差し掛かる。外側へ強烈なGがかかって体勢が傾くが、崩れる前に今度は逆方向へのカーブがやってきてそれどころではなくなる。
その後は一旦落ち着いて直線が続くのだが、どうも前方の様子が怪しい。どう見てもスライダーが下に曲がっているのだ。緩やかな勾配なんかではなく、なんというか「落ちる」と表現するのが一番しっくりくるような。
しかしもう士郎たちにはどうすることもできない。ただ流されるままそこに突っ込み急加速、その速さと勢いを活かしてぐるんと一回転したところで、斬華が正気を取り戻した。
「……っ! なっ、え……は? なんだ!?」
「お、よかった。戻ったか」
「し、士郎! これはなんだ、どういうことだ!?」
「話はあとで。ほら、くるぞ!」
「くるって……!? 待て待て待て! なんだあれは!? あの角度はおかしいだろう! あれじゃ滑るというより落ちっーーきゃあああああああああああああああぁぁぁーー!?!?」
さっきよりも更に角度のついたそれに、斬華が暴れて離れないように士郎はその手で力いっぱい抱きしめて最後の落下に突入した。なんとも言えない浮遊感、そして盛大な水しぶきを上げて勢いよくプールに着水。
「ーーぷはっ! はははは! どうだった?」
「はぁ……はぁ……! 士郎、貴様……!」
「悪い悪い、でもあれしか思い浮かばなくてさ」
「嘘だな。絶対に面白そうだとか、そういった理ゆーーっ!」
「おっと、大丈夫か?」
鬼の形相で士郎を睨んだ斬華は、士郎を置いてプールから出ようとするのだが、なぜか前のめりに倒れそうになる。
咄嗟にそれを受け止めた士郎は、斬華の消え入りそうなほどか細い声が辛うじて聴こえた。
「……足が、動かん」
「……へ? そんなに怖かったのか?」
「…………」
斬華は俯いたまま答えない。つまりはそういうことなのだろう。
さすがに少し罪悪感があった士郎は、動けなくなった斬華を抱き上げた。俗に言うお姫様抱っこというやつだ。
「し、士郎? 何を……」
「動けないんだろーーって、泣くほどだったか!?」
「な、泣いてない!」
「ごめんな、ちょっとやりすぎた」
「やめろ! 泣いてないと言ってるだろう!」
「うんうん、泣いてない泣いてない」
「くそっ! 今すぐ下ろせ、自分の足で歩いてやる!」
士郎の腕の中で斬華が暴れるが、上半身しか動いていない。
そんな斬華を抱えたまま、士郎はプールサイドにあるベンチまでやってくるとそこに斬華を座らせた。
「ちょっと待っててくれ」
「あ、おい! ーーはぁ、こんな状態の私を一人にするな……」
士郎の背を見ながら斬華は呟いた。不安な気持ちが少し大きくなっているらしい。
なんて考えながら、ぼうっと空を見上げて士郎が戻ってくるのを待つ。しばらくして試しに立ち上がろうとしてみるが、まだ足に力が入らなくて上手く立てない。なんてことを幾度か繰り返したあたりで、両手にかき氷を持った士郎が戻ってきた。
「おまたせ、斬華……って、何やってんだ?」
「いや、なんでもない。それよりそのかき氷は?」
「ああ、買ってきた。斬華はイチゴとブルーハワイどっちがいい?」
「ぶるー……なんだって?」
「ブルーハワイ。一口食べてみたらどうだ? 口に合わなかったら俺が食べるし」
「う、うむ……では、いただきます」
ゆっくりかき氷を口に運ぶ斬華と、その様子を固唾を飲んで見守る士郎。果たして名前すら聞いたことのないブルーハワイ味を斬華はどう感じるのか。
魔王の味覚も人間と変わらないので、流石に不味いということはないだろうが、どうせなら美味しいものを食べてほしい。そんな期待を込めながら斬華の感想を待つ。
「…………これは、ソーダのような……いや、フルーツのような気も……不思議な味だな」
「イチゴにしとくか?」
「いや、これはこれで美味しい。ブルーハワイが何味なのかわからないが、私は好きだ」
「ならよかった。ーーあ、ブルーハワイと言えば。斬華、ちょっと舌出してみて」
「舌? 別に構わんが……」
べっ、と士郎の意図は理解できていないがとりあえず出した斬華の舌は、ブルーハワイシロップのせいで見事に真っ青に染まっていた。
「ははは、やっぱり青くなってる」
「青……? ああ、そういうことか。随分と子どもっぽいな」
「そうか? まあ自分でも結構はしゃいでるとは思うけど……」
「そうだな、いつもよりおかしなことをする。ーー私がいない間に何かあったか?」
「んー……特に何もなかったけど。たぶんあれだ、斬華に会えなかった分の反動が一気に来てるんだ」
「ほぉー、そうかそうか」
士郎の言葉を聞いた斬華は急にニヤニヤとし始めた。挑発的というか、今からイタズラしますと言わんばかりの笑みだ。
さすがの士郎もこれに気づいて無意識に身構える。
「な、なんだよ……」
「そう言えば前に話したことは覚えているか? 私が魔界で傷を癒していた間のことだ」
「たまにこっちの世界の様子が見えたんだっけ?」
「そう、それだ。実は意外とそれの頻度は多くてな、私はそこでずっと士郎のことばかり見ていたんだ」
話のオチが見えない。斬華のあの笑みの後だ、まさか士郎のことを見ていたというだけで終わるはずがない。となれば、そこから更に発展するわけだが。
「なあ、士郎」
斬華が士郎の耳元で囁く。呼吸一つすら聴こえてくるほど近い。そんな距離で斬華は吐息を吹きかけながら言う。
「お前の声、ちゃんと聞こえていたぞ」
「………………見てたのか?」
「ああ、お前の恥ずかしい告白もな」
「……え?」
「ん? 言っただろう。ずっと士郎のことばかり見ていたと。毎日毎日、飽きもせず私の名前を呼んでくれていたじゃないか」
「ーー斬華、かき氷溶けるぞ」
「話を逸らすな」
「あー、そろそろ戻らないと、いろはに怒られる」
士郎は空になったかき氷の容器をゴミ箱に捨てて、軽く背伸びをする。
癒羽をいろはに預けてから三十分ほど経っていた。癒羽はあれでも歴とした魔王、もしものことも考えれば長時間いろはと二人きりにするのは危険かもしれない。
斬華もそんなことは百も承知なので、怪訝な表情ながらもかき氷を食べ終えて立ち上がる。
「さて、いつまでもいろはに任せるわけにもいかないからな」
「はぁ……とは言っても、あいつなら上手くやっているだろうが」
意外にも斬華の中でいろはの評価は高い。
そもそもいろははやる気がないだけで、大抵のことはそつなくこなせるポテンシャルはあるのだ。それでいて妙なところで面倒見が良かったりするので、結果的に双葉が懐いたり斬華の中でもそれなりに高く評価されていたりする。
だから士郎も癒羽をいろはに問答無用で放り投げたのだ。いろはなら癒羽と上手くやってくれるだろうと、そう信じてーー。
「ーーで、どういう状況?」
いろはのテントに戻った士郎と斬華は、中の状況を一目では飲み込めなかった。
まずいろはだが、こちらはなんの問題もない。テントの中で本を読みながら、たまにウォータースライダーを滑っては並ぶ双葉と茉莉の方を見ている。
問題なのは癒羽の方だ。テントの奥の方で目を回してぶっ倒れている。適切な表現をするならば『気絶』と言い表すべきだ。
「『パパのとこに行く』とか訳のわかんねえこと抜かして出ていこうとしたから小突いたら気絶した」
「皐月いろは、お前……」
「不可抗力だ。いっちょ前に魔力まで籠めてきたんだぞ」
呆れたように言った斬華にいろはは反論する。確かに癒羽は斬華やいろはと違って〈眷属〉を封印されていない完全な魔王だ。そんな相手が魔力を籠めて襲ってきたら反撃してしまうのも頷ける。
「しかしそうなると、こいつ本当に弱いな……」
「いやほんとだよ。あたしもまさか気を失うなんて思わなかった」
「……目を覚ますまで待つか。いろは、悪いけど『デュランダル』に連絡しといてくれるか?」
「はいはい。目を覚ました時にあたしがいたら暴れだすかもしれないからな」
暴れるかどうかはともかく、目の前に自分を気絶させた存在がいれば怖がるだろう。
いかに癒羽が弱そうだと言っても、魔王であることに変わりはない。無闇に怖がらせる意味はないだろう。
「んじゃ、あたしは一回『デュランダル』に行ってくる。如月斬華、お前はどうする? 一緒に来るか?」
「いや、私は残る。こいつが安全と決まったわけじゃないからな」
「そうか、なら一人で行ってくる」
いろははテントを出ると携帯を取り出した。人目につかない場所で『デュランダル』に回収してもらうためだ。
その姿を見送ると、斬華はおもむろに口を開いた。
「士郎、二人きりだな」
「状況わかってるか?」
「わかっているとも。この狭いテントの中に私と士郎。あとは皐月いろはにすら勝てずに気を失った弱小魔王が一人。二人きりだろう」
「今三人いたよな?」
「大丈夫だ。そいつが目を覚ましたところで何もできやしない。魔力量が少なすぎる、魔王としてまだまだ未熟だ」
「ならわざわざこっちに残らず、いろはと一緒に行ってもよかったんじゃないか?」
「面倒だから嫌だ」
ふん、と鼻を鳴らしながら自慢げに言う。実際そうなのだろうが、新たに魔王が現れたというのにそんな理由でこの場に留まった斬華は、やはり感覚的に士郎とは少し異なるのだろう。
「それより士郎、そいつはまだ目を覚まさないんだから置いておけ」
そう言いながら斬華が士郎に身を寄せる。幸いなことにテントの出入口を閉めてしまえば、外から中の様子は伺えない。
「……士郎」
「斬華……?」
斬華との距離が近い。何か柔らかいものが腕を包んでいる。心做しかいい匂いもするし、斬華の吐息も聞こえてくるような気がする。
「大丈夫、心配するな。私に身を任せてくれ」
「え、ちょ、斬華さん……?」
つうと士郎の背筋が撫でられ、斬華が妖艶な笑みを浮かべる。慌てふためく士郎を見て楽しんでいるような、そんな表情だ。
「ふふ、そんな顔を見せられると私も楽しくなってしまうじゃないか」
「あっ、ちょ……!」
士郎の内腿に斬華の手が伸びる。これ以上はさすがにまずい。
士郎も嫌だというわけではないが今はまずい。すぐ後ろで癒羽が寝ているし、双葉と茉莉といろはもいつ戻ってくるかわからない。さすがにそんな状況で過度なスキンシップをとるわけにもいかない。
「斬華、一旦ストップ!」
斬華を無理やり引き剥がす。驚くほど不満げな表情をされるが、今回に限っては士郎の方が正しかった。
しかし、そんな理由で斬華が止まるかと言えばまた別の話だ。
士郎から引き剥がされた斬華は、頬を膨らませながら士郎へ向かって飛びついて押し倒した。
「いってぇ……」
「士郎、私とじゃ嫌か……?」
士郎に馬乗りになった斬華が訊ねる。その瞳には、うっすらと涙が浮かんでいるように見えた。だから士郎は一度落ち着いてから、冷静な気持ちで口を開く。
「嫌じゃない……けど、時と場所を考えようって話だ」
「……それさえ弁えれば、ヤっていいということか?」
「言い方……」
苦笑しつつ頬を掻く士郎に、斬華はなぜか、背中で結ばれた水着の紐に指をかけて問う。
「答えてくれ、士郎。時と場所が許せばいいのか……?」
「それは、まあ……俺も斬華のこと好きだから……」
「そうか、そうかそうか!」
ぱあっと顔を輝かせた斬華は、勢いよく指にかけた水着の紐を引いた。すると当然、背中の結び目で留められていた水着が落ちる。
「!? なにしてーー」
露わとなった斬華の乳房から慌てて目を逸らす。それでも一瞬視界に入ってしまった。
斬華の意図は一切読めないが、きっと士郎には思いもよらないぶっ飛んだ何かがあるのだろう。
「おっと済まない、水着がはだけてしまった。このままでは見えてしまうな」
わざとらしくそんなことを言いながら、斬華は体を倒す。士郎に馬乗りになっている状態から、まるで抱き合うかのように重なった。
「士郎、心臓の音がすごいぞ」
「こ、こちとら健全な男子高校生だぞ!? むしろ俺の強靭な精神力を褒めろ!」
「安心しろ、ご褒美は用意してある」
テンションがおかしくなった士郎を見ながら微笑む斬華は、ゆっくりと士郎に顔を寄せーー
「ーーんっ」
「んむっ……!?」
士郎の唇が塞がれた。
柔らかくて、瑞々しい感触。塞いだのは斬華の唇だ。
しかし、士郎の意識は唇ではなく別の場所へ向けられている。斬華の瞳、吸い込まれそうなほど深い純黒の双眸から目が離せない。目と目が触れそうな距離まで近づいて、士郎はそれに魅了された。もう目が離せない、他のものが視界に入らないのだ。
テントの隅で眠る癒羽も、テントの入口で石のように固まっている双葉も、その後ろで顔を真っ赤にしている茉莉の姿も今の士郎には見えていない。
そして斬華はそれがわかった上で続ける。決して士郎の瞳から目を逸らさず、その唇を離すこともない。それどころか斬華の舌はまるで生物のように士郎の唇を掻き分け、その口内へ侵入する。ほのかに広がるブルーハワイの風味が、相手が斬華であることを士郎に再認識させた。
水音のようなものがテントの中に満ち初めた、その時だ。
「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!!!!!」
「は、え? 双……ばッッッ!?」
斬華の唇が離れた瞬間、士郎は周囲の状況をやっと認識した。が時すでに遅し。
双葉が叫びながら士郎の脇腹に蹴りを入れた。人間に本来かかっているはずのリミッターすら取払ったんじゃないかと思えるほどの威力で、双葉のつま先が突き刺さる。
「信っっっじらんない!!」
「まっ、双葉! 落ち着いて!」
激昴する双葉をなんとか宥めようとする士郎だったが、ここでさらに追い打ちをかける存在が現れた。そいつは背後から士郎に近づき、その腕に抱きついてこう言ったのだ。
「ーーパパ、どーしたの?」
「……癒羽ちゃん、タイミング悪すぎ……」
何が起こっているのか理解できていない癒羽は、首を傾げて士郎の顔を見上げる。
ただでさえ動揺しているのに、兄のことをパパと呼ぶ子どもまで現れた。双葉の許容範囲を大きく上回る情報が供給され、手に負えなくなる。そんな状態の双葉が導き出した正解は、士郎の所有権を取り戻すことだ。
そうと決まれば双葉の行動は早かった。一瞬で士郎へ飛びついて押し倒し、先ほどの斬華のようにその唇を奪おうと顔を近づける。唯一違ったのは、双葉は士郎の妹だということだ。
「落ち着け双葉! 倫理的にまずい!」
「うるさいっ! こんなちっちゃい子の前でヤろうとしてた癖に今更でしょ!?」
「いや俺は斬華に、時と場所を弁えろって話をだな……」
「弁えてるのにあんなことしたの!?」
「ははは、確かにその通りだ。一本取られたな、士郎」
上半身の水着を着け直した斬華は楽しそうに笑う。元はと言えば原因は斬華なのに、士郎だけが責められるのはおかしい気がする。
なんて思っていた士郎だったが、双葉はそこまで甘くなかった。
「斬華さん、笑ってられるのも今のうちだから」
恐ろしいほど冷たい声で呟かれたそれを聞いた斬華がフリーズした。
「……すまない。ちょっとした悪ふざけのつもりだったんだ」
「悪ふざけであんなことするんだ」
「いや、本当にするつもりはなかったんだ。ただ士郎があまりに良い反応をするから調子に乗ってしまって……」
「で?」
「反省している。今後は気をつける」
「はぁ……次はないからね?」
双葉の言葉に斬華は頷いて答える。封印されているとはいえ、魔王相手にこんな態度を取れるのは双葉ぐらいのものだろう。
そんなふうに思いながらそれを眺めていた士郎だったが、今度は矛先が士郎の方へと向いた。
「で、お兄ちゃん。その子は誰? なんでパパなんて呼ばせてるの?」
「この子は癒羽ちゃん。パパってのは俺が呼ばせてるんじゃなくて、勝手にそう呼んでるだけなんだよ」
「迷子なの?」
「迷子というか……まあ、見ての通りなんだが」
「……? どういうこと? 本当にお兄ちゃんの子どもなの?」
「そんなわけないだろ、もっとよく見ろ」
うーん、と唸りながら双葉は、士郎の腕に抱きついて離れない癒羽へ顔を近づけて観察する。そこまでして、双葉はようやく気づいた。
「ーーえ、まさか魔王じゃないよね?」
信じられないといった表情で顔を上げ、士郎と斬華を交互に見る。
双葉の目には癒羽の魔力が映っていた。しかしそれは癒羽を凝視してようやく気がつける程度のものだ。
斬華といろはの影響でテント内に魔力が充満していたのもあるが、それでも面と向かうだけでなく目を凝らして見なければ魔王であることに気づけないとなれば、それは双葉ではなく癒羽の問題だ。
「そのまさかだ。癒羽ちゃんは魔王だよ」
「見ての通り、驚くほど弱いがな」
「こんな小さい子が、魔王……」
「あ、あのー……」
三者三様に癒羽を見つめる後ろで、おずおずと手を挙げる人影があった。予想外の出来事の連続で、士郎たちの記憶から完全に抜け落ちていた存在。ただの一般人である水無月茉莉だ。
「その、魔王って何……?」
茉莉の言葉にいち早く反応したのは斬華だった。茉莉の目の前に立って、じっとその目を見つめる。
「あ、の……? 斬華先輩?」
「魔王について知りたいのだろう?」
「そ、そうですけど……え、何されるの?」
斬華は無言で茉莉の頭に向かって手を伸ばす。一体何をするつもりなのか。それは斬華にしかわからない。
「……やっぱりいいです! 世の中には知らない方がいいことも多そうなので!」
「そうか、残念だ」
「ちなみに、それ何をするつもりだったんですか……?」
「ああ、私の知識を魔力に変換して直接頭の中に送り込むつもりだったんだがーー」
「えー……よくわからないけど、断って正解っぽいですね」
茉莉が苦笑しながら一歩後ずさった。突然記憶を送り込むなどと言われれば、誰だってこういう反応になる。
「それでどうするつもりだ、士郎。魔王が現れた以上、封印すべきだろうが……」
「ああ、もちろん癒羽ちゃんも例外じゃない」
士郎は自信満々に答える。というのも、癒羽に関して言えば〈眷属〉の封印は簡単に終わると踏んでいるからだ。
理由はどうあれ、癒羽は士郎のことをパパと慕っている。ならば士郎の話を信じてくれるだろうし、上手くいけばそのまま〈眷属〉を渡してくれる可能性だってある。
問題はそれよりも、癒羽が士郎のことを父親だと思い込んでいることだ。何度も言うが、心当たりは一切無い。考えられるのは、癒羽が何か勘違いをしている可能性。
これはあくまで士郎本人の推測だが、今士郎の中には〈斬殺鬼〉と〈箝替公〉、そして一応〈燼滅妃〉が封印されている。つまり複数の〈眷属〉を持っている状態だ。
それを感じ取った癒羽が、自分より多くの〈眷属〉を持っている士郎を父親だと勘違いしたのではないか。
であれば癒羽を封印することで、士郎の中に複数の〈眷属〉がいることの説明をすれば誤解がとけるかもしれない。
「ーー癒羽ちゃん、〈眷属〉は呼べる?」
「……〈癒綿姫〉」
名を呼ぶと、癒羽の着ている水着の上に桜色のパーカーが現れた。このパーカーが癒羽の〈眷属〉なのだろう、それを纏った癒羽の雰囲気が少しだけ変わったような気がする。
「よし、さっさと封印してしまおう」
〈癒綿姫〉を癒羽から引き剥がそうと手を伸ばした斬華だったが、それが癒羽に届くことはなかった。斬華の手との間に、真っ白な綿毛が出現する。
「なんだこれは? これが貴様の〈眷属〉の能力か?」
「ん……」
こくりと頷く癒羽に、斬華は綿毛をつつきながら訊ねる。
「ーーこいつは何ができる?」
「……癒羽を、まもってくれる」
「ほう、それで?」
「けが、なおせる……」
「ーー士郎、悪いことは言わん。こいつを封印するのは後にしておけ」
斬華は癒羽から視線を外して士郎の方を向く。呆れたような諦めたような、そんな表情をしながら、もう癒羽の方を見ることはなかった。
「こいつ程度の魔力なら『デモニア』に感知されることもない。それに〈眷属〉の力で誰かを傷つけることもできないんだ。急ぐこともないだろう」
「…………」
「どうした、士郎?」
「いや、なんでもない。……斬華の言う通り、癒羽ちゃんの封印は少し待とう」
この決断はきっと正しい。
斬華の言う通り、癒羽の魔力は微弱で『デモニア』に感知される可能性は低い。そして〈眷属〉も、およそ他人に危害を加えられるものではないを
そのうえ魔王〈クイーン〉、文月燐の言ったことも士郎の決断を後押しした。〈眷属〉を封印したことで、魔王が身を守る手段を失うということ。現に斬華といろははそのせいで死にかけた。もし同じようなことが癒羽にも起こってしまったら、また運良く〈ウィッチ〉が助けてくれるとは限らない。
「……パパ?」
「パパじゃなくて、士郎って呼んで。し、ろ、う」
「しろう」
「そうそう」
「パパ」
「あちゃー」
なんて茶番をしていると、急に双葉が癒羽との距離を詰めた。そのまま癒羽の両頬を手で挟んで顔を近づけ、そして不機嫌度マックスの声色で訊ねる。
「癒羽ちゃんだっけ。なんで私のお兄ちゃんのことパパって呼ぶの?」
「……パパは、パパだから……?」
さもそれが当然であるかのように、質問の意味がわからないという風に首を傾げる。そしてそれが双葉には気に食わない。
だが、だからと言って子ども相手に激昴する双葉ではなかった。今度はまるで聖母のような慈愛の心を持って優しく癒羽に接する。
「癒羽ちゃんとお兄ちゃんは本当の親子じゃないよね。なのにどうしてパパって呼んでるの?」
「パパは、癒羽とおなじ……でも癒羽よりおとな、だからパパ」
「同じ? こいつと士郎がか?」
「癒羽ちゃん、お兄ちゃんと同じってどういうこと?」
「……わからない、〈癒綿姫〉がそうゆってるから」
「ーー貴様、〈眷属〉の声が聞こえるのか」
斬華が訊ねると、癒羽は頷いた。
〈眷属〉にも意思は存在しているが、それを正確に知ることは魔王であってもできない。
斬華もいろはも、自身の〈眷属〉の機嫌が良いか悪いかぐらいしかわかっていない。言ってしまえば〈眷属〉のイエスとノーぐらいしか判断できていないのだ。
「パパは癒羽とおなじだってゆってる……」
「えっと、俺と癒羽ちゃんのどこが同じなのか訊いてもらえる?」
「ん……。ーーえ? ……パパのなかにも、〈|《・》癒綿姫《アリエス|》《・》〉がいるの……?」
「なんだと……?」
「癒羽ちゃん、それ本当?」
「ん、よわいけど……パパのなかに、〈癒綿姫〉がいるって……」
「そんなこと……!」
ありえない、とは言いきれなかった。
会ったこともない魔王の〈眷属〉が既に封印されているという、本来ならありえないことだが如何せん前例があった。
魔王〈クイーン〉の持つ〈燼滅妃〉もまた、知らぬ間に士郎の中に存在していた。そして〈クイーン〉はその気配を頼りに士郎に接触してきたのだ。流れを見れば今回の癒羽となんら変わりない。
「斬華、少し頼みたいんだけど……」
「その〈癒綿姫〉を探すのか?」
「ああ、〈燼滅妃〉の時にいろはがやってくれたんだけど……」
「言わなくてもやり方はわかる。私の魔力で士郎の中にいる〈眷属〉を見つければいいのだろう」
「じゃあ頼むよ」
「……では、じっとしていろよ」
斬華が士郎の胸の中心に手を添える。すると、斬華の魔力が士郎の中へ入り込んできた。それは霧のように薄く広がり、奥へ奥へと広がってゆく。いろはが魔力を一本の糸のように伸ばして正確に一つ一つ調べたのに対し、斬華は大雑把ながらも見落とすことがないように魔力を広げて全体を探す。
いろはのようにどれがどれかはわからないが、一体いくつの〈眷属〉が士郎の中にいるのかはわかる。
現在判明しているのが斬華の〈斬殺鬼〉、いろはの〈箝替公〉、そして燐の〈燼滅妃〉、この三つだ。これに癒羽の〈癒綿姫〉もいると仮定して四つの〈眷属〉が士郎の中で見つかれば、癒羽の言っていることは真実となる。
「ーーーー見つけた。一つ、二つ、三つ……四つ。ん、確かに士郎の中にいる」
「てことは癒羽ちゃんの言ってることは事実か……。なんでかはわからないけど、俺の中にも〈癒綿姫〉がいる」
「……癒羽のゆったとーりでしょ……?」
腕に抱きついたまま、士郎の顔を見上げて自慢げに言う。確かに言った通りなのだが、残念ながらそれを言ったのは癒羽ではなく、その〈眷属〉である〈癒綿姫〉だった。
「うーん……でもなぁ」
「どうした、士郎?」
「〈癒綿姫〉が俺の中にもいるのはわかったし、癒羽ちゃんが親近感を持つのも理解できるよ。でもなんでパパなんだろうって……」
知らん、と斬華は呆れたようにため息をついた。同意を得られなかった士郎は双葉と茉莉の方へ顔を向ける。双葉はうんうんと頷き士郎の考えに賛同してくれるようだが、茉莉の方は斬華と同じような表情をしていた。
「双葉、なんとか言ってやってくれ」
「癒羽ちゃん。この人の呼び方ってパパじゃないとダメ? 私みたいにお兄ちゃんって呼んだりとか……」
「ーーおにぃちゃん?」
「そうそう、お兄ちゃん」
「んー、ながい……」
癒羽が不機嫌そうな顔で文句を言う。
そりゃパパと比べれば三音ほど長いが、そんなことを言っていればまともな意思疎通もできなくなる。と、そんな言葉が出そうになるのを飲み込んで、士郎は癒羽に告げる。
「じゃあ、お兄で区切ってみるとか」
「おにぃ……?」
「そうそう。それなら長くないだろ?」
「んー……パパが、いいなら」
「パパって呼ばれるよりはそっちの方がいいかな」
「じゃあ、そうする……おにぃ」
癒羽はそう言ってどこか嬉しそうに笑う。本当の兄妹でないことは一目瞭然だが、パパと呼ばれるよりは幾分マシだろう。世間体的に。
その様子を見ていた双葉は、なぜか目を輝かせて癒羽に詰め寄る。
「じゃあ癒羽ちゃん、私のこともおねぇって呼んでみようか」
「……なんで?」
「私はお兄ちゃんの妹。癒羽ちゃんもお兄ちゃんの妹。つまり癒羽ちゃんは私の妹だからだよ!」
「…………なんで?」
士郎には双葉の言いたいことがわかるが、残念ながら癒羽には理解できないらしい。双葉は助けを求めようと斬華と茉莉の方を見るが、二人もどこか困ったような表情をしている。
「そんなぁ……せっかく妹ができたと思ったのに……」
「なんだ双葉、妹が欲しかったのか?」
「そういうわけじゃないけど……ほら、私一番年下だから、妹とか弟がいたらどんな感じなのかなって」
「へぇー……」
「ふむ……」
「あぁー……」
士郎、斬華、茉莉が同じタイミングで反応する。ニヤニヤしたり、感心したり、納得したりと三者三様だが、三人ともそれは双葉に向けてのものだった。
「え、なに? どうしたのみんな」
「そういうとこ妹っぽいなーって」
「嘘!?」
「やはり生まれつきの妹は違うな……」
「そんなに!?」
「妹が滲み出てるよね」
「茉莉ちゃんまで……」
「ーー戻ったぞ。……って何やってんだ? お前ら」
「いろはちゃーんっ!」
「なんだぁ!?」
『デュランダル』から戻ってきたいろはは、早々に半泣きの双葉に泣きつかれる。それを咄嗟に受け止めて、その涙を指で優しく拭った。
「泣くな泣くな。大方残酷な真実を突きつけられたんだろうけど、あたしは味方だ」
「ぐすっ……じゃあ、いろはちゃんは私のことどう思ってる……?」
「なんだよその面倒な彼女みたいな質問は」
「いいから答えて!」
「まあ、なんだ、友達……だよな、たぶん」
「ほんと!?」
「ああ……こんな答えで満足なのか」
「うん! 私のことわかってくれるのはいろはちゃんだけだよ!」
苦笑するいろはに、双葉は満面の笑みを見せて頷いた。そしてそのまま自信満々の顔で振り返る。
「これでも私のこと妹っぽいって言う?」
「いや、誰が何と言おうと俺の妹だけど」
「皐月いろは一人の証言で覆るようなものでもないしな」
「そもそもこれ私たちの主観の話だから」
「……いいもん。どうせ私なんか妹ですよーだ!」
「双葉ちゃん!?」
叫びながらテントを飛び出した双葉を追って茉莉が駆け出した。士郎も追いかけようとしたが、双葉の向かう先がウォータースライダーだったのでテントの入口で引き返す。
「追っかけなくていいのか?」
「スライダーに行っただけだし大丈夫だ。それより今のうち、『デュランダル』は癒羽ちゃんのことどうするって?」
「……ああ、如月が言うには『〈ピクシー〉が士郎に懐いているなら、そのまましばらく行動を共にして封印できるだろう。ホテルの方も子ども一人ぐらいならこちらでどうにかしておこう』だとよ」
「その〈ピクシー〉って癒羽ちゃんのことか?」
「ああ、ちっこくて弱いから〈ピクシー〉」
なんのことだか理解できていない癒羽は、士郎の腕を掴んだまま首を傾げる。まあ妖精と言われればそんな気がしなくもないなと、士郎は不思議そうにする癒羽に笑いかける。
そんな士郎とは打って変わって斬華は至って真面目な顔で口を開いた。
「皐月いろは。悪いがこいつの封印はしばらく見送ることになった」
「そりゃまたどうしてだよ?」
「理由は二つ。まず癒羽ちゃんの〈眷属〉が、凡そ人に危害を加えられるようなものじゃないこと」
「もう一つは、私やお前のような者を生まないためだ」
斬華の言葉に少し思案するいろはだったが、何かに気づいてその表情はさらに険しくなった。腕を組んで唸りながら癒羽の方をチラチラと見る。
「うーん……まあ、そうだな。そういうことならあたしは何も言わねえよ」
「よし、じゃあこの話は終わりだ。俺たちはやるべきことをやろう」
「やるべきこと?」
「ああ、せっかくプールに来てるんだ。難しいことは全部忘れて楽しまなきゃな!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
それから数時間、士郎たちはこれでもかと言うほどプールを満喫して、ホテルへとやってきていた。
部屋は二部屋で予約されており、皇の想定では士郎とそれ以外で部屋を分けると踏んでいたのだろう。
部屋には大きなテレビと冷蔵庫そしてダブルベッドが二つ、そして部屋にあるユニットバスとは別に、バルコニーに小さな露天風呂がある。しかし露天風呂は大人二人ぐらいしか入れない大きさなので、今回は大浴場は行くことになるだろう。
ベッドはダブルベッドなので、斬華、双葉、いろは、茉莉が二人ずつに別れれば問題なかった。
しかし、あろうことか人数が一人増えてしまった。プールで出会った癒羽も一緒に宿泊することになったのだ。
ここで二つの派閥が生まれた。一つは斬華、双葉、茉莉の「誰か一人が士郎の部屋で寝るしかない派」。もう一つが士郎といろはの「子ども一人分ぐらい詰めれば寝られる派」だ。
そして今、「誰か一人が士郎の部屋で寝るしかない派」の中で一体誰が士郎の部屋に行くかの言い争いが白熱し始めていた。
「だーかーらー! 斬華さんはテントでの前科があるからダメ!」
「前科で言えば双葉ちゃんもあるんだけどね……」
「私のは未遂だからセーフ。というか茉莉ちゃん、しれっと参加してるけどなに? そういうことなの?」
「いやいや、私は公平なレフェリーとしてね。見届け人みたいなものだよ」
「なるほどな、そうやって自分は無害だとアピールすることで士郎に選ばせようという魂胆か。なかなか小賢しいな茉莉ちゃん」
「やっぱりそうなんだ。茉莉ちゃんもやっぱりお兄ちゃんのこと……!」
「違うからね!? 斬華先輩も変なこと言わないでください!」
一向に終わる気配のしない話合いに、士郎といろはは大きなため息をつく。なぜ茉莉が斬華たちの側なのかはわからないが、生半可な気持ちで足を踏み入れたせいでとばっちりを受けている。
その様子を見兼ねたいろはは、士郎の膝の上でウトウトし始めた癒羽を指しながら斬華たちには聞こえないように言う。
「シロ助、もうこいつと寝るって言った方がいいんじゃねえか。あれたぶん終わらねえぞ」
「……だな。ーー二人とも、癒羽ちゃんを俺の方で寝かせるから」
「……チッ、やはりそうなるか」
「まあ、仕方ないよね」
「やけに素直なんだな」
「心配ではあるが、落としどころとしては悪くないからな」
「そうなんだよね。癒羽ちゃんは私たちの中で唯一、お兄ちゃんが間違いを犯さないだろうから……」
「誰が相手でもそんな間違い起きないからな?」
「斬華さんでも?」
「………………」
答えられなかった。
プールでの一件もあるし、なにより「起こらない」と断言してしまうと斬華に対して失礼な気がしてしまったのだ。
「お兄ちゃん、なんで黙るの?」
「士郎……!」
「斬華さんも嬉しそうな顔しない!」
まったく、とため息をつく双葉は軽く咳払いをして話を続ける。
「ーーお兄ちゃんの部屋に行く人は決まったけど、こっちのグループ分けがまだだからね」
「んなもん適当でいいだろ……」
「いや、そうとも言いきれない」
「さすが斬華さん。そう、これは戦争なんだよ」
「は? おいシロ助、こいつら浮かれすぎてちょっとおかしくなってるぞ」
「じゃあいろはちゃん不参加でいい? 余った場所で寝ることになるけど」
「ベッドで寝れるんなら別にどうだっていいよ」
疲れきったようにいろはが手をヒラヒラと振る。というか、実際に疲れきっているのだろう。プールでも初めこそテントに引きこもっていたが、癒羽が加わってからは何かと理由をつけて連れ回されていた。普段からあまり運動をしないいろはにとっては地獄だったかもしれない。
むしろいろはの何倍もはしゃいでいたのに、今も元気にしている斬華や双葉や茉莉の方がおかしい。士郎ですら少し眠たくなってきたというのに、この三人は元気すぎる。
『じゃーんけーん……ぽんっ!』
斬華がグーで、双葉と茉莉がチョキ。
斬華の勝ちだ。
「ふっ、私の勝ちだな。ーー皐月いろは、お前は私と同じベッドだ」
「なんだ、あたしでいいのか?」
「ああ、互いのより良い睡眠のためだ」
「よくわかんねえけど……まあ、よろしくな」
なぜ斬華は三人の中で一番大柄ないろはを指名したのか。いろはだけでなく、双葉と茉莉まで首を傾げている。
双葉と茉莉は様々な事情によって、普段から同じベッドで寝ているのだが、いつ頃か夜中に雷でも落ちたかと思うほどの大きな音を立てたことがある。
士郎が心配になって双葉の部屋を覗きにいくと、そこには揃ってベッドから落ちたまま眠る二人の姿があった。
双葉の寝相が最悪なのは昔からだが、茉莉もまさかそれに匹敵するレベルだとは思わなかったので、それなりのショックを受けたのを覚えている。
しかしこの事実を当人たちは一切知らない。寝相の悪さが振り切っているのか、朝起きる頃には元の場所にきちんと戻っているのだ。
そしてそれを斬華も知っていたのだろう。
「細かいことは気にするな。二人はいつも通り、同じベッドで寝るだけだろう」
「それはそうなんだけど……なんか引っかかるなぁ」
「まあいいんじゃない? 私は双葉ちゃんと一緒で嬉しいな」
「……茉莉ちゃんがそう言うならいいけど」
茉莉に抱きつかれながらもふくれっ面を崩さない双葉を宥めるように、いろはがその肩を軽く叩いた。
「まあまあ、不満があるならゆっくり聞いてやるから。聞けばここは風呂も豪華なんだろ? とりあえずさっぱりしに行こうぜ、な?」
「……そうだね。お風呂入って全部忘れよう!」
そんなこんなでホテルの大浴場へ行くこととなった士郎たち一行だったが、その入口まで来たところで士郎はふと思った。
「そう言えば、癒羽ちゃんの着替えってどうするんだ?」
「ん、それについては問題ない。こんなに弱くても魔王なんだ、衣服ぐらいならどうとでもなる」
魔王だから問題ないという理屈がまったく理解できない士郎だが、斬華がそう言うのなら下手に口出しはしない。それにもし斬華が適当なことを言っていれば、いろはがそれを遮るはずなので本当に問題ないのだろう。
「ーーじゃあ癒羽ちゃんのこと任せたぞ」
「ああ、一人でゆっくりしてくるといい」
「じゃあお兄ちゃんまた後でねー」
「おう」
そんな風に言って士郎は男湯へ、斬華たちは女湯へと入っていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「ーーはぁ〜っ、生き返るな〜!」
「いろはちゃん、おじさんみたい……」
「お前らも入ってみろって」
髪と体を洗い終えた一同はとりあえず目についた風呂に片っ端から入ってみることにした。
最初に目を付けたのは入口のすぐ近く、他の湯船より少し小さめだが、誰も入っていない風呂だ。
いろはが一番に入っておっさん臭い台詞を言う。そんないろはの誘いに双葉と茉莉は湯船に入ろうとするのだがーー。
「さすがにそこまでじゃな……あっつ!?」
「双葉ちゃん!?」
「は?」
「は? じゃないよ! なんでそんな熱湯に入ってるの!? 火傷するかと思ったんだけど!」
「いや、確かにほかよりちょっと熱いかもしれねえけど大袈裟だろ」
「ほんとに熱いからね、おかしいのいろはちゃんの方だからね。斬華さんと茉莉ちゃんも試してみて。あ、癒羽ちゃんは危ないからダメだよ」
「構わないが……」
「私は遠慮しようかな……」
斬華は屈んで手だけを湯船へ突っ込み、一秒もしないうちにそれを引いた。
そして何事も無かったかのように水風呂の方へと去ってしまう。
「ーーほ、ほら。斬華さんでもああなるんだよ」
「普通に熱いのが苦手だったりしないか?」
「だとしても、そのお風呂が熱いことに変わりはないよ」
「いやでもほら……」
双葉が目を離した隙に、癒羽は湯船に入ってしまっていた。しかし双葉や斬華と違って熱がる様子はない。
それどころか湯船の中を漂って、そのままいろはの胸元へ吸い込まれていくとそこをベストポジションとした。
「癒羽ちゃん、熱くない? 大丈夫?」
「ん……だいじょーぶ」
「すごいなぁ。ーーじゃあ癒羽ちゃんのことお願いね、いろはちゃん」
「あ、おい! ……行っちまった」
「あの……ごめん、なさい……」
二人を置いて双葉と茉莉が行ってしまい気まずい空気が流れると、癒羽が唐突に謝罪の言葉を口にした。当然いろはに謝られる心当たりはない。
「なんで謝んだよ」
「……プールでそと、いこうとしたから」
「プールで外……? ーーああ、テントのあれか。なんだお前、あんなこと気にしてたのか」
それは士郎がいろはのいたテントに癒羽を放り投げていった後のことだ。
癒羽はいろはが止めるのも聞かず、士郎を追ってテントから出ようとしたのだ。
しかしそれはいろはによって阻止された。
「ごめん、なさい……」
「謝ることねえよ。むしろ謝るならあたしの方だ。急だったとはいえ悪かったな、痛かっただろ?」
「……ちょっとだけ」
「ははは、そうかそうか」
「ん……」
わしゃわしゃと癒羽の頭を撫でたいろはは優しい声色で囁く。
「まあ、あれだ。シロ助は当然だが、あたしと如月斬華も元魔王だからな。困ったことがあったらなんでも言ってくれ」
「……なんでも?」
「ああ、なんだっていいぞ」
「じゃあ……あつ、い……」
ぶくぶくぶく……、と癒羽が目を回しながら湯船の中へと沈んでいった。やはり無理をしていたらしく、逆上せたのだろう。
「おい!? 熱いなら熱いって早く言えよ、真っ赤じゃねえか!」
「うぅ…………」
急いで癒羽を湯船から引き上げて脱衣所まで出る。ふわふわした表情の癒羽の体をさっさと拭き、服を着せようとしたところで癒羽の着替えが無いことを思い出した。
「今の状態で服は無理か……仕方ねえ、とりあえずこれだけ着とけ!」
いろはは自分の着替え用のティーシャツを癒羽に着せる。いろはもすぐに着替えを済ませると、癒羽を抱きかかえて脱衣所に隣接された休憩スペースへと向かった。
休憩スペースにはマッサージチェアが並んでいる区画と畳の敷かれた区画があり、癒羽を畳の方に寝かせたいろはは傍にあった自販機でお茶を買って癒羽のもとへ戻る。
「ほら、飲めるか?」
「ん……ありが、とう……」
こくこくと、癒羽の細い喉が水分を通す。
水分補給の次は火照った体を冷やさなければならない。しかしながら扇風機があるのは脱衣所の方で、休憩スペースには団扇が置いてあるだけだ。
しょうがねえな、と団扇を手に取ったいろはは紅潮した癒羽の顔を扇ぐ。
「あたしの腕にも限界があるからな、大丈夫になったらちゃんと言えよ」
「もうひとつ……おねがい、いい?」
「この状況でか? 贅沢なやつだな……。まあ聞くだけ聞いてやる、言ってみろ」
「……ひざまくら」
「ーーほら、頭上げろ」
癒羽の頭を膝に乗せながら、いろははぱたぱたと団扇を扇ぐ。
しばしの沈黙ーーふと気づけば癒羽は小さく寝息を立てていた。
こうして見ていると、とても魔王だとは思えないような寝顔だ。ただの幼い子どもにしか見えない。
「にしても無防備だな……信用しろとは言ったけど、今日会ったばっかだぞ」
気持ち良さそうに眠る癒羽の頬を軽く指でつついて遊ぶ。
「ーーーーんぅ……?」
「っと悪い、起こしちまったな」
「……ん。いい、ありがとう……」
そう言うと癒羽は立ち上がり、いろはと少し距離を空けた所に座った。
「……どうした?」
「なんでもない……」
「なんでもないことないだろ。さっきは膝枕してくれって頼んできたのに急にそんな離れて」
「ほんとに、なんでもない……」
「そこまで言うなら深くは聞かねえけど……」
それから癒羽といろはは言葉を交わすことなく、双葉と斬華が出てくるまでの時間を無言で過ごした。
「ーーいろはちゃん、先に出るなら出るって言ってよね!」
「悪い悪い、うっかりしてた」
「うっかりしてたじゃないよ。癒羽ちゃんまで一緒にいなくなってるしーーって癒羽ちゃんのその服……」
「あ、そうだ。お前もう自分の服に着替えろよ。あたしがそれ着るんだから」
「……ん」
「そう言えば癒羽ちゃんの着替えってどうするの? 私何も用意してないけど」
「大丈夫だ、こいつも魔王だからな。あたしと如月斬華は魔力のほとんどを封印されてるから無理だが、魔力で服を編むぐらいはできる。てか、プールで水着から着替えてただろ」
「人の着替えなんか見ないよ」
「……それもそうか。と、まあこんな話をしている間にも着替え終わったわけだが」
「え、ほんとだ! これって自分の好きな服着られるの?」
「あんまり複雑なものじゃなかったらな」
「すごいすごい!」
双葉は嬉しそうに癒羽を抱き上げてくるくると回る。そんな様子を髪を乾かしながら見ていた斬華がため息をついて言う。
「双葉が思っているほど良いものでもない。自分の魔力で服を編むわけだからな、魔力を消費して疲れるし、細部までこだわると神経がすり減る」
「……そういうものなの?」
「そういうものだ。だから封印状態の私や皐月いろはでは、そもそも服を編むことすらできない」
「へぇー。……あれ? でも魔力の量なら癒羽ちゃんより、いろはちゃんと斬華さんの方が多いよね?」
今も変わらず、双葉の瞳には三人の持つ魔力の量が映っている。癒羽の魔力は本当に微々たるもので、斬華はおろかいろはの足元にも及ばない。
それなのに癒羽は自身の魔力で服を編むことができた。今の斬華の説明とは矛盾する。
「そいつには〈眷属〉がいるからーーいや、長くなるからやめておこう」
「えー、気になるんだけど」
「士郎絡みの話になるからな」
「そう言われると無理に聞けないんだけど……」
ずるいなー、と頬を膨らませる。
実際気になるのだが、別に今すぐ無理やり聞き出すようなことでもない。
士郎のいるところで話してくれるというなら、それまで待てばいいだけだ。
「それよりも双葉。士郎もいいが、抱えてるそいつを下ろしてやった方がいいんじゃないか?」
「あ、ごめんね癒羽ちゃん! 」
双葉から解放された癒羽は不機嫌なのを隠さずにいろはの方へやってきて、その手をぎゅっと握った。そして警戒心MAXな視線で双葉と斬華を見つめるのだった。
「お前ら何したらここまで警戒されるんだ?」
「ふむ……心当たりはいくつかあるが、あれだろう。最初に会った時に脅しで殺気をぶつけた」
「なんですぐそういうことする?」
「私は心当たりなんかないけどなー。ほら癒羽ちゃん、こっちおいで。お姉ちゃんと遊ぼうよ」
「うん、双葉の方もなんとなくわかった」
「ーーしかし、そうだな。……殺気をぶつけたのはすまなかった。互いに思うところはあるだろうが、少なくともお前を敵だとは思っていない。そこの皐月いろははともかく、士郎と双葉、あと茉莉ちゃんに危害を加えない限りはな」
「はぁ……斬華さん、言い方が怖い」
「私はこんな言い方しかできないんだ」
「あれ、そういや茉莉はどうしたんだ? まだ風呂入ってんのか?」
ふと、茉莉だけいないことにいろはが気づいた。
「なんかサウナと水風呂を十往復ぐらいしたい気分なんだって。先に部屋に戻っててって言ってたよ」
「……じゃあ先に出るか。如月斬華の髪ももう終わるだろ」
「ん、あとは櫛で梳くだけだ」
「そう言えば斬華さんっていつも髪の毛はやけに時間かけてるよね、なんでなの?」
「別に大した理由じゃない。以前、士郎が私の髪を綺麗と言ってくれてな。少し気をつけるようにしているだけだ」
「私でも髪の毛なんて褒められたことないのに……」
「そう落胆するな。面と向かって伝えるのが恥ずかしいだけだ」
「そうそう。自覚ないかもしれないけど、お前シロ助に溺愛されてるからな」
「そうかなー、あんまりそんな気しないけど……」
そんなことを言っている間に、斬華の髪の手入れも終わったので四人は脱衣所を出る。
外に出ると浴衣姿の士郎がコーヒー牛乳を飲んでいた。
「お兄ちゃーん」
「意外と早かったな。……茉莉ちゃんは?」
「サウナと水風呂を十往復ぐらいしたいんだって。それ一口ちょうだい」
「十往復って……」
士郎はそのことに苦笑しながら、半分ほど飲みかけのコーヒー牛乳を双葉に差し出す。
それを受け取った双葉はなんの躊躇もなく、残りの半分を一気に飲みきった。
「……ぷはっ」
「全部飲んだなお前!?」
「美味しかったよ!」
「俺も半分飲んだから知ってる。中の自販機で何も飲まなかったのか?」
「うん、癒羽ちゃんと遊んでたから。ねー、癒羽ちゃん」
双葉の言葉に首を横に振った癒羽は、いろはの後ろに隠れてしまった。
「……あれ?」
「双葉、お前何したんだ?」
「何もしてないよ。お姉ちゃんが妹に何かすると思う?」
「うん、だいたいわかった。……で、いろはの方は?」
双葉が避けられているのともう一つ、癒羽がやけにいろはに懐いていることも疑問だった。
「たぶん消去法だ。双葉と如月斬華から隠れるための壁、つーわけでこいつはやる」
「ひゃ……」
そんな調子でいろはは癒羽を持ち上げて士郎へと放り投げた。癒羽の体は宙を舞い、そのまま士郎の胸に吸い込まれる。
「ーーっと! 大丈夫か?」
「ん、だいじょーぶ……」
いきなりのことだったが、士郎はなんとか癒羽をキャッチすることができた。
しかしどうも癒羽の様子がおかしい。士郎に抱きついたまま離れないのだ。その体は心なしか震えているようにも思えた。
「いろはが乱暴にするから、癒羽ちゃんが怖がっちゃっただろ」
「は? そいつはそんなタマじゃねえよ」
「いやでも……」
「おにぃ……癒羽、こわかった……」
「ほら」
「ほら、じゃねえよ。魔王舐めてんのか」
「落ち着け、皐月いろは。所詮は子どもだ、甘えたい時もあるのだろうーー多分な」
「……そうだな。あたしもちょっと逆上せたみたいだ。先に部屋に戻ってる」
斬華に諌められたいろはは、頭を抱えながらその場を離れた。その後を双葉が小走りで追いかけていく。
「いろはちゃん、部屋の鍵持ってるの私だからー!」
「ーー行ってしまったな」
「まあ大丈夫だろ。それより斬華も何か飲むか?」
「ん、ではお言葉に甘えるとしよう」
「おにぃ、癒羽も……」
「うん、癒羽ちゃんは何飲みたい?」
癒羽は自販機のラインナップをしばらく見つめ、しばらくしてからコーヒー牛乳を指差した。
「おにぃと、同じの……」
「士郎、私もコーヒー牛乳だ」
「はいはい、ちょっと待ってな」
士郎はコーヒー牛乳を二本買って斬華と癒羽に手渡す。二人がそれを飲む姿を見ながら、士郎はふと気づいた。
「そういや癒羽ちゃんの服って結局どうしたんだ? 誰も持って行ってなかったよな」
「ああ、魔王にもなると魔力で服ぐらい編める」
「へぇー、便利なもんだな。それって俺にもできる?」
「無理に決まっているだろう。なぜできると思った」
「魔力の少ない癒羽ちゃんができるんだったら、〈眷属〉を持ってる俺もできるのかなって」
「そう単純な話ではない……」
呆れ顔でコーヒー牛乳を飲み干した斬華は、いいか、と人差し指を立てて士郎に詰め寄る。
「確かに〈眷属〉自体、膨大な量の魔力の塊だ。だがそれは〈眷属〉が存在を保つために必要な分であって、決して私たち魔王やお前が好き勝手に使えるようなものではない」
「まあ、そうだよな。でもそれなら、癒羽ちゃんはどうやってるんだ? 斬華といろはは魔力が足りないんだろ。それなのに二人より魔力が少ない癒羽ちゃんが服を編めるのっておかしくないか?」
士郎の問いに斬華は頷きながら答える。表情から察するに「よく気づいたな」とでも言いたげだ。
そんな風にどことなく満足気な斬華は、隣でちびちびとコーヒー牛乳を飲む癒羽を一瞥してから口を開いた。
「士郎、お前とこいつの違いは何かわかるか?」
「違い? ……なんだ、性別とか?」
「ちがう……癒羽は、まおう。おにぃ、にんげん……」
いつの間にか士郎の隣にやってきた癒羽が答えた。斬華は不満そうだが、士郎は感心した。てっきり癒羽は斬華を怖がって会話には入ってこないと思っていたからだ。
たぶんまだ斬華に対する恐怖心というものはあるのだろう。それでも今までの行動などから、少なくとも敵ではないことは理解されたらしい。
「ーーそう、こいつは魔王で、士郎は人間だ」
「それで?」
「魔王にはそれぞれ〈眷属〉がついているのは知っての通りだが、魔界も魔王によって別々に存在している」
それは士郎も知っている。
以前、瀕死の斬華といろはを救ってくれた〈ウィッチ〉が話していた。
魔王の数だけ魔界が存在し、そこには対応した魔王と同じ魔力が無尽蔵に満ちていると。
魔王の体は魔力で構成されているので、例え瀕死の重症を負ったとしても、自身の魔界で安静にしていれば命を落とすことは無い。
問題は魔王が魔界へ自由に行き来できないことだが、唯一〈ウィッチ〉だけはそれを可能としている。
「そして〈眷属〉は主の魔界から、魔力を引き出すことができる。こいつが服を編めたのもこれが理由だ。〈眷属〉である〈癒綿姫〉が、魔界から服を編むに必要なだけの魔力を用意したわけだ」
「それなら俺の中にいる〈眷属〉もそれぞれ魔力を引き出せるんじゃないのか?」
「言っただろう。〈眷属〉が引き出せる魔力は主の魔界からだと。〈眷属〉の意思はどうあれ、今の主は士郎だ。ただの人間が主では魔力を引き出す魔界がそもそも存在しない」
「俺って〈眷属〉の主になってるのか?」
「形式上はな、さっきも言ったが〈眷属〉がどう思っているかまではわからん」
「きいて、みたら……?」
癒羽がそんな提案をするが、それは士郎には到底無理な話だった。
〈眷属〉にも意思があることは、今までに三度〈斬殺鬼〉を振るったことのある士郎は知っていた。
一度目は斬華を『デモニア』のドールから守護るため、二度目は迫る無数のドールを蹴散らすため、そして三度目は〈使徒〉である〈斬殺悪鬼〉の封印をかけて斬華と刃を交えた時。
そのすべてで、士郎は手にした〈斬殺鬼〉の意思を感じ取っていた。
しかし、それとこれとは話が別だ。意思があることと、意思の疎通ができることはイコールではない。
人間が犬や猫の考えていることをある程度読み取ることはできても、明確な会話という意思疎通を図ることができないのと同じだ。
しかし癒羽本人はそんなことを露ほども思っていないらしく、不思議そうに小首を傾げるのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
「待ってよ、いろはちゃーん」
一足先にホテルの部屋へと戻ってきた双葉といろは。
双葉が急いで部屋の鍵を取り出してくれたが、実を言うと鍵くらいなら〈箝替公〉で開けることができてしまうのだ。
「悪いな、わざわざ」
「ううん、それよりいろはちゃん、何かあったの?」
「なんつーか、〈眷属〉封印されてるあたしが言うのもなんだけど、癒羽のやつの腑抜けっぷりというか威厳の無さってのがな……」
「あー、魔王のプライド的な話? まあでも癒羽ちゃんまだ子どもだし、それにお兄ちゃんがすぐに封印するんでしょ? だったら数日ぐらい我慢してあげようよ」
現状では癒羽の封印を見送る予定なのだが、せっかく双葉が励ましてくれているのだからと、いろははそれを否定せずに笑顔で答えた。
「ま、それもそうだな。気にしないようにする」
「ーーお話は終わった?」
「え?」
突然聞こえた声に双葉は辺りを見渡すが、当然部屋の中に双葉といろは以外の人影は無い。
しかしいろはには心当たりがあるようで、落ち着いた態度でベッドから立ち上がる。
「何の用だ、〈ウィッチ〉」
「久しぶり、皐月いろは。よくわかったね」
魔王〈ウィッチ〉。今まで何度か士郎たちを助けてくれた魔王だ。
〈濤透婦〉能力で姿が見えないが、いろはは一度だけその姿を拝んだことがある。
〈ウィッチ〉には命を救われた恩もあり、敵だとは思えないが一応の警戒だけはしておく。
「こんなとこまでわざわざ何しに来た?」
「別にこのために来たわけじゃないけど、二つほど忠告にね」
「忠告?」
「そう。一つはあなた達が連れてるあの子、霜月癒羽について」
「……あいつがどうした」
「あの子、〈眷属〉が暴走するかもしれないから気をつけて」
「暴走ってどういうことだよ」
「言葉通りの意味。あの子の〈癒綿姫〉は私たちの〈眷属〉と違って自我が強い、主と会話できるぐらいにはね。それに如月斬華や文月燐みたいに爆発的な魔力を解放する手段も無い、つまりーー」
「勝手に魔界から魔力を引っ張ってきたら、ってことか」
本来であれば、魔王自身が〈眷属〉を使って魔界から魔力を引き出す。しかし癒羽の〈癒綿姫〉に限っては、自己判断で魔力を引き出す可能性がある。もちろん、引き出された魔力が適正な量であれば何の問題もない。
しかしそれが癒羽の許容量を超えてしまえば、それは途端に暴走する。そうなれば今の斬華といろはの二人ではおそらく手に負えないだろう。
「そうならないために、霜月癒羽からは目を離さない方がいい」
「わかった。シロ助と如月斬華にも伝えとく」
「うん、じゃあ二つ目。こっちは正直、忠告というより報告で、言ったところでどうにかできるものでもないんだけど……」
「なんだよ、はっきりしないやつだな」
いろはが急かすと、姿の見えない〈ウィッチ〉のため息だけが微かに聞こえた。
「はぁ……言わないわけにもいかないしね。ーー魔王〈クイーン〉、文月燐がたぶん近くにいるから気をつけて」
「なんっーー」
「え、誰?」
焦るいろはの隣で双葉が首を傾げる。それを聞いたいろはは、あちゃーと頭を抱え、〈ウィッチ〉も少し困惑したような声色で尋ねる。
「もしかして、双葉ちゃんには話してないの?」
「え、どういうこと?」
「話してねえっつーか……」
いろはは気まずそうに天井を見上げる。
実際、双葉には話していないことが多くある。『デュランダル』のことや、それこそ燐のこともそうだ。
できる限り双葉を巻き込まないようにしようと、士郎、斬華、いろはの三人で話し合って決めたことだった。
「いろはちゃん、どういうことなの。文月燐って誰?」
「えーっと……」
「魔王だよ。しかも桁違いに強い」
「おい!」
「双葉ちゃんなら一目見れば分かるんだから、隠すだけ無駄でしょ」
姿は見えないが、きっと涼しい顔で言ってるのだろう。
いろはは〈ウィッチ〉の態度に舌打ちしながら話を続ける。
「ーーで、〈クイーン〉が近くにいるってなんで分かるんだよ。それに気をつけてって言われても、何をどうすりゃいいんだか……」
「私は少し特殊だから、微小な〈クイーン〉の魔力も感じ取れただけ。今彼女は上手く魔力を抑えてる。突然会っても驚かないように、気構えだけはしておいた方がいいってこと。ーーそれじゃ、私は用事があるからこれで」
ふっ、と〈ウィッチ〉の気配が消える。いきなりやってきて、一方的に姿を消した。神出鬼没とはまさにこのことだ。
「ったく、なんでこんな所でまで魔王と会うんだか……これじゃ気が休まらねえ」
「ねえ、いろはちゃん。その文月燐って魔王のことなんだけど、もしかして背はお兄ちゃんぐらいで、オレンジの髪の人?」
「……会ったのか?」
「ううん、前に遠くから見かけただけ。その時も怖くなってすぐ離れたし……」
双葉は一度、燐の姿を確認していた。
あれは茉莉と一緒に水着を買いに行った時だ。視界の端に一瞬映っただけで、双葉の本能が危険だと警鐘を鳴らした。
その時は茉莉とともに一目散に逃げ出したが、あの恐怖を忘れることはできない。
「……双葉から見て、〈クイーン〉のやつはどうだ? 仮に戦ったとしてーー」
「無理だよ」
いろはが言い終わらないうちに、双葉が断言した。
その声色は少し震えていて、瞳にも怯えが見える。
「あんなの、どうやったって勝てない。全力の斬華さんが三人ぐらいいたらもしかしたら……」
「私がどうかしたのか?」
そんな話をしている間に士郎と斬華、そして士郎に抱っこされた癒羽も戻ってきた。
茉莉の姿は見えないので、おそらくまだサウナに入っているのだろうが、それはそれで一般人を巻き込まなくて済むので好都合だ。
いろはは〈ウィッチ〉がやってきたことと、燐が近くに来ているかもしれないことを士郎たちに話した。
それを聞いて、士郎は深刻な表情で黙り込んでしまった。しかしーー
「そうか、まあ、そういうこともあるだろう」
斬華はあっさりと聞き流して、入浴セットをカバンにしまったりと、他の作業をし始めた。
「そうかって……もしまたあいつが何かやろうとしてたら……」
「その時は士郎と双葉と茉莉ちゃんを逃がすために多少の抵抗はするが、今の私たちではどう足掻いても勝てないだろう。せめてこいつがもう少しまともな魔王なら、話は変わってくるのだろうがな」
士郎に抱っこされている癒羽を見る斬華の目は、いつもと比べて少し冷たく感じた。
当の本人である癒羽は、なんのこっちゃと言わんばかりの表情で首を傾げている。
「癒羽……ちゃんと、まおう、だよ……?」
「…………ん、そうだな。すまない、言い方が悪かった。まともに戦える魔王であれば、ということだ」
まさか言い返されると思っていなかった斬華は目を丸くして、それから面倒くさそうに言い直した。
それを聞いた癒羽は少しムスッとしたようだが、斬華の言うことも間違いではないと思ったのか言い返すことはなかった。
「ーーで、どうする、シロ助」
「どうするってもなぁ……。本当に近くにいるのかもわからないし……」
「そもそも、〈クイーン〉の目的も分かっていないんだ。この間の時は『デモニア』を呼び寄せて一網打尽にすることが目的だったようだが……」
「らしいな。そのついでであたしは殺されかけたけど」
斬華の言う通り、燐の目的は『デモニア』のドールを一網打尽にすることだった。
しかし、同時に燐はいろはーー正確には〈眷属〉を封印された魔王を殺そうともした。
『デモニア』という共通の敵はいるが味方とも呼べない、云わば第三勢力のようなものだ。
「その燐って人を探して、一回ちゃんとお話してみるのはどう?」
「いやー……」
双葉の提案に士郎、斬華、いろはの三人は苦い顔をする。
実際に燐と相対して、少なからず言葉を交わした三人だからこそ分かる。おそらく彼女と話し合いをしても、何も解決しないであろうと。
そもそも、燐に何か明確な目的というものが存在しているのかも怪しい。その日その時の気まぐれで行動を起こしていても不思議ではない。
「考えても仕方ない気がしてきた……」
「そうだな」
「もうとりあえず放っとくか、また何かやらかするってんなら〈ウィッチ〉が教えに来るだろ」
「そ、そんな人任せでいいの……?」
「問題ないはずだ。少なくとも〈ウィッチ〉と〈クイーン〉は敵対している。何かあればこちらに助けを求めてくるだろう」
「そうそう。そもそも燐が普通に遊びに来てるだけの可能性もある訳だし」
「確かにその線もなくはないな……」
「だとしても会いたくはないが」
そんなこんなでとりあえず、燐は放置することに決まって話し合いは終わった。
士郎は着替えやらをしまうために、いったん自分の荷物が置いてある部屋に戻ってきた。
そこでふと、茉莉のことを思い出した。
「そう言えば茉莉ちゃん遅いな……。サウナでぶっ倒れてなきゃいいけど」
あとで双葉に様子を見に行ってもらおうか、そんなことを考えながら部屋を出た瞬間、士郎と少女はぶつかった。と言っても人が出てくることを考慮せずに走っていた少女が一方的にぶつかってきたのだが。
「きゃっ」
「っと!」
可愛らしい声のした方へ目を向けると、少女が尻もちをついている。
キラキラと輝くプラチナブロンドの長い髪、澄み切った空のような碧眼、陶磁のように真っ白で美しく伸びた手足、そして同じく真っ白なワンピース。
尻もちをついている姿でさえどこか気品を感じさせる可愛らしい少女だ。
「いたた……」
「えっと、大丈夫?」
士郎がそう言いながら手を差し出すと、少女はまるで今気づいたかのようにハッとした。
「ご、ごめんなさい。わたくしったら、少しはしゃいでいて……お怪我はございませんか?」
「うん、こっちは大丈夫。それより君の方こそ怪我とかしてない?」
「はい、わたくしもお尻を少しぶつけてしまっただけですので」
少女は士郎の手に掴まって立ち上がった。
背は双葉より少し小さいぐらいだが、おそらくこの年齢にしては高い方だろう。
手足もスラッとしていて、子どもなのにどこか大人っぽさも感じる。
「あ、あの……」
「ん、なに?」
「その……手を、そんなに握られますと、わたくし恥ずかしいのですが……」
「あ、ごめん。綺麗だったからつい……」
士郎が慌てて手を離すと、少女は恥ずかしそうにその手を胸の前に持ってきて頬を赤らめた。斬華たちにはない仕草でちょっと新鮮な気持ちだ。
「それより、何か用があったんじゃないか? 人にぶつかったぐらいだし、結構急ぎの」
「ーーそうでしたわ。申し訳ございません、人を待たせていますので失礼させていただきます。このお詫びはいつか必ずいたしますので……!」
「いいよいいよ、気にしないで」
ぺこりとお辞儀をした少女は、そのままエレベーターの方へと小走りで去っていく。
そんな彼女の後ろ姿をなんとなく見送っていた士郎の首筋に、突然ヒンヤリとしたものが当てられた。
「せーんぱい、何してたんですか?」
「冷たっ。ーーって、茉莉ちゃん? あれ、サウナにいたんじゃ……というかなんでそっちから?」
振り返ると茉莉が一生懸命手を伸ばして士郎の首筋の高さまでペットボトルを持ち上げていた。
しかし、どういうわけか茉莉がやってきたのはエレベーターとは逆側だ。
「そこの自販機しかこれ置いてないんですよ。で、部屋に戻る前に飲み物買ってたら、先輩が見知らぬ女の子と楽しそうにお話してたので見てました」
そう言いながら茉莉は、さっき士郎の首筋に当てた緑色のペットボトルを見せつける。
メロンソーダかと思ったが、よく見てみるとラベルには「青汁ソーダ」と書かれていた。
「……美味しいのか?」
「体にはいいですよ。飲んでみます?」
「いい、遠慮しとくよ。それより、見てたなら声かけてくれればよかったのに」
「先輩が困ってたら助けてあげようと思ったんですけど、その必要はなかったみたいですし」
「困るって、何に?」
「いや、可愛い子だったんで緊張で上手く話せなくなったりしたらと思って」
「おかげさまで、そういうのには耐性がついてるから大丈夫だったよ」
士郎は斬華たちのいる部屋を親指で差して笑った。
一目見ただけで士郎の世界を変えた斬華は言わずもがな、いろはも整った顔立ちをしているし、双葉も兄贔屓が入っているかもしれないが美人だと思う。それに今目の前にいる茉莉も、庇護欲を掻き立てられるような愛らしさがある。
常日頃からそんな彼女たちに囲まれて生活している士郎にとって、美少女を前にした緊張感など皆無であった。
「確かにそうですね。それであの子と何を話してたんですか?」
「話したってほどでもないよ。ぶつかってごめんってことと、人を待たせてるからって言ってたけど、それだけ」
「あんなに可愛い子だったのに勿体ない」
「向こうも急いでたし、あんまり引き止めたんじゃ可哀想だから」
「それもそうですね。じゃあ私たちも戻りましょっか。晩ご飯までちょっと時間ありますし、トランプでもしましょう!」
やけにはしゃぐ茉莉に押されて斬華たちのいる部屋へ戻った士郎は、茉莉の提案通りに夕食までの時間を遊んで過ごした。
誤算があったとすれば、双葉の鞄からトランプ以外にも色々出てきたことだ。
特に色々なゲームのキャラが一堂に会してスマッシュするブラザーズなゲームが予想外に盛り上がった。
いろはは当然の如く上手かったし、斬華も操作方法を聞いてすぐにいろはと良い勝負をし始めた。双葉はそれなりにこのゲームをやり込んでいるので普通に上手い。茉莉も双葉と同じらしく、そつなくプレイしていた。
そんな四人にボコボコにされた士郎は、遊び半分で癒羽にコントローラーを渡してみた。
簡単な操作説明だけ聞くと、士郎の膝に座って一言、「かつ……」と宣言する。
これを挑発と受け取った四人は大人げなく癒羽を狙うのだが、あろうことか癒羽は全員を返り討ちにしてしまった。もちろん無傷ではないが、それでも実質四対一で勝ってしまった癒羽は士郎を見上げて「おなか、すいた……」と漏らした。
そうして、時間もちょうど良かったので一旦ゲームを切り上げてホテルに隣接しているレストランへ向かうことになった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
士郎たちがゲームに熱中していた頃、ホテルのロビーに一人の女性の姿があった。
真夏だというのに黒いジャケットを羽織った長身の女性。髪はオレンジ色のショートカットで、瞳は宝石を思わせる紅色だ。
その彼女の方へ向かって駆け寄る人影が一つ。
こちらはキラキラと輝くプラチナブロンドの長い髪、澄み切った空のような碧眼、陶磁のように真っ白で美しく伸びた手足、そして同じく真っ白なワンピースを着た少女だ。
その少女の姿を見て、長身の女は安堵したような表情を見せる。
「遅かったね。迷子にでもなってるんじゃないか心配したよ、アリス」
「あら、元はと言えば燐が『しばらく街を離れてほしい』なんて仰るからここまで来ましたのに、その言い方はいかがなものかしら」
「そうだったね。でも、おかげでやりたいことはできたよ」
「それなら良いのですが。それで、次はどうしますの? 」
「当分『デモニア』は動けないだろうから、次は『ブレイヴ』の方かな。しばらくは裏方に回るつもりだけど、アリスも一緒に来るかい?」
「いえ、わたくしは並風市に戻らせていただきます。ここのお料理も美味しいのですけど、ちょっと飽きてきましたし」
「そうか、またしばらく会えなくなるのは残念だね」
「あら、一日ぐらいわたくしの相手をしてくれてもよろしいのではなくて?」
「…………うーん、そうだね。じゃあ明日一日はボクがエスコートさせてもらうよ。お姫様」
「ふふ、よろしい。ですがそれでは及第点です、満点には及びませんわよ」
「じゃあ正解は?」
「明日と言わず今晩から楽しみましょう」
「え」
「そうと決まれば部屋に戻りましょうか」
「ご飯ぐらい食べない?」
「言ったでしょう、こちらのお料理には飽きたって。それに今から極上の御馳走を味わえるのですから、他に何かを食べる余裕なんてないですわ」
にやりと上がった口の端から鋭い八重歯を覗かせて、アリスは燐を引きずるようにエレベーターに乗り込み、上の階へと消えていった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その夜。
士郎は誰かに引っ張られているような感覚で目を覚ました。
目を開くと、隣のベッドで寝ていた癒羽が士郎のベッドの脇に立って服の袖を引いていた。
「……ん、癒羽ちゃん……?」
「おにぃ、といれ……」
起こされた意味を理解した士郎は、癒羽の手を引いてトイレの前までついて行く。
魔王と言ってもやはりまだ子どもだし、暗い中でトイレに行くのは怖いのだろう。そんなことを考えながら、癒羽をトイレまで連れていき自分はドアの前で待つ。
しばらくすると用を済ませた癒羽が出てきたので、その手を握りまたベッドの方へ戻る。
「のど、かわいた……」
「お水でいい?」
「ん……」
備え付けの冷蔵庫から水の入ったペットボトルを取り出し、コップに注いで癒羽に渡した。
こくこくと癒羽が水を飲んでいる間に、士郎もペットボトルに口をつけ一気に傾ける。
「癒羽ちゃん、コップ貰ってもいい? こっちに置いとくから」
「ん……、っ」
「っと! 大丈夫か?」
コップを渡そうとした癒羽が、何も無いところでつまづいてコップを落としてしまう。
しかしホテルの床はカーペットが敷かれていて、落としたぐらいじゃコップは割れない。つまづいた癒羽もコケる前に士郎が抱きとめたので怪我はない。
だと言うのに癒羽は初めてその目を見開き、信じられないものを見るような表情で士郎を見つめていた。
「ーーえっと、本当に大丈夫?」
「ん、だいじょーぶ……ありがと」
いつも通りの眠たそうな顔に戻った癒羽だが、しかし士郎から離れようとはしなかった。
それどころか、何かを探るようにもっと体を密着させてくる。
「癒羽ちゃん……?」
「いっしょに、ねよ……」
そう言うと癒羽は問答無用で士郎の手を引いてベッドへ向かう。そして当たり前のように士郎の寝るスペースを空けてベッドに入った。
「おにぃ、はやく……」
「う、うん……」
士郎は少し戸惑いながらも、特に断る理由もないので癒羽と同じベッドに入る。すると癒羽は先程よりもさらに体を密着させてきた。
具体的には仰向けで寝る士郎の上に乗った。
「癒羽ちゃん。それ、寝づらくない?」
「だいじょーぶ……。それより、おにぃ、ぎゅーして……?」
「ぎゅーって、こんな感じか?」
「ん、あり……がと…………」
士郎が軽く抱きしめると、癒羽は安心したのか頬を綻ばせて、そのまま寝息を立て始めた。
正直この体勢は少しキツいが、癒羽のために朝まで頑張ってみようと士郎も決意を固めたのだった。
そして翌朝。
案の定寝苦しくて十分な睡眠を取れなかった士郎の上で、癒羽は目を覚ました。
「おはよう、癒羽ちゃん」
「おはよ……といれ……」
目を覚ましたかと思うとすぐに士郎の上から降りて、とてとてと歩いていってしまう。
士郎もベッドから出て、冷蔵庫から水を取り出してコップに注ぐ。
それを飲んでいると、癒羽がトイレから出てくるので入れ替わりでトイレに入って用を足す。
「ふぅー。ーーあれ、癒羽ちゃん、何やってるの?」
士郎がトイレから出ると、癒羽が窓際に立って外を見つめていた。
「ーーこれ、おふろ……?」
「お風呂? ああ、うん。小さいけどそれもお風呂だよ。入りたいの?」
バルコニーの露天風呂を見ていた癒羽は、士郎にそう聞かれて少し考える。そして恥ずかしそうに口を開いた。
「いっしょに、はいろ……」
「うん、いいよ。ちょっと準備があるから先に入ってて」
士郎にそう言われた癒羽は、魔力で編んだ服を消してバルコニーの湯船に入る。そこから部屋の中にいる士郎の様子を眺めていると、それに気づいた準備中の士郎が手を振ってくれるので、小さく振り返す。
そうこうしているうちに、タオルと着替えの準備を済ませた士郎もバルコニーに出てきて、癒羽と同じ湯船に入った。
士郎が入ることで一気に水かさが増して湯が溢れる。
「はぁー、やっぱり朝風呂は気持ちいいな」
「ん、きもちいい……」
そう言いながら癒羽は、ぴとっと肩を寄せ、さらにそのまま士郎の手を握った。
どうも昨晩から体を密着させてくることが多い癒羽だが、視線はバルコニーから見える景色の方を向いている。
これが双葉や斬華なら、士郎の目をしっかりと見ながら密着してくるのだが、癒羽にはそれがない。照れ隠しというわけでもないだろうし、単純な好意とはまた別の理由があるのかもしれない。
「おにぃ、あそこ……」
「んーーああ、癒羽ちゃんと会ったとこだな。まだ開園前だから誰もいないけど」
「かいえん……」
「そうそう、確か九時だったかな。今が七時半だから、もうちょっと待たないと」
「じゃあ、あそこも……?」
癒羽が指したのは駐車場の隣にある駐車場と同じぐらいのスペースだ。おそらく新しくもう一つ駐車場を作ろうとしている土地なのだろう。今は何も無いただ広いだけの空間だ。
「あそこは開園しても人はいないかなぁ。たぶんずっとあんな感じだよ」
「そーなんだ……」
「たぶんだけどね」
「ねぇ、おにぃ……」
「ん、どうした?」
「ーーやっぱり、なんでもない……」
「……?」
「もう、あがる……」
「そうだな、向こうもそろそろ起きてくる頃だろうし」
それから斬華たちと合流するまでの間も、癒羽は士郎にベッタリとくっついて過ごした。
士郎がその理由を訊ねると、「おちつくから……」らしい。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
午前九時。
昨日はプールで遊んだので、今日は遊園地に行くことになった士郎たちは、開園と同時に入場していた。
「お兄ちゃんお兄ちゃん! 見てあのジェットコースター!」
「うわ、すごいなあれ。ほぼ垂直じゃん」
「すっごい楽しそう! ほら斬華さんも早く早く!」
昨日よりもさらにテンションの高い双葉がぴょんぴょん跳ねながら呼ぶ。
そびえ立つジェットコースターを見上げて立ち止まっていた斬華は、引き攣った笑みを浮かべながら待機列に並ぶ。
「平気なのか? こういうの苦手だろ、斬華」
「わ、わからない。だが乗ってみれば意外とどうにかなる……かも。たぶん、おそらく、きっと……のはず」
「無理して乗らなくてもいいんだぞ? 斬華が乗らないなら俺も一緒に待っててもーー」
「いや、大丈夫だ。それに士郎はこういうの好きなのだろう?」
「あれ、好きだって言ったっけ?」
「昨日のウォータースライダーを見れば分かる。それに、あれの兄なのだからな……」
斬華の視線の先には目をキラキラさせながら、いろはと茉莉に今から乗るジェットコースターのスペックについて嬉々として語る双葉の姿があった。あそこまではしゃぐ双葉の姿は久しぶりに見た。
どうやら絶叫系が好きなのは遺伝子に刻まれているかららしい。
「癒羽ちゃんは怖くないか?」
「ん、たぶん……?」
士郎は自分の手を握る癒羽にも尋ねる。
自分や双葉がこれぐらいの時はもう既に絶叫マシンの虜で、ありとあらゆる遊園地のマシンに片っ端からチャレンジしていた。
「まあ一回乗ってみたら案外ハマるかもな。俺と双葉もそんな感じだったし」
「がん、ばる……」
「頑張って乗るようなものじゃないけどーーあ、」
「どうした、士郎」
頑張るというワードで思い出した。
もう何年も前だが、双葉が似たようなことを言っていたのだ。
その時の双葉はまだ幼く、年相応に背も低かった。そのため絶叫マシンの身長制限に引っかかってしまったことがある。
そこで止められた双葉が「頑張るから」と訳のわからないことを係の人にゴネて困らせたことがあった。
癒羽の身長は士郎の腰より少し高いぐらい。一三〇センチぐらいだろう。
「双葉、このコースターって身長制限いくつだ?」
「えっと、たしか一四五センチだったかな……あ、もしかして癒羽ちゃん乗れない……?」
「まあ、無理だろうな……」
「そっか、じゃあどうしよう。流石に癒羽ちゃん一人で待たせるわけにもいかないし、別のアトラクション探す?」
「ん、こいつが一人じゃなければいいんだな。なら問題ない、私が一緒にいよう」
癒羽のことをひょいと持ち上げて、斬華は笑顔でそう言った。
さっきはああ言っていたが、やはり乗らずに済むのなら乗りたくないらしい。
「いいの? 斬華さん」
「ああ、気にせず楽しんでこい。私たちは下から見てるよ」
「ありがとう。ーー癒羽ちゃんもごめんね。ちょっとだけ待ってて、次はみんなで楽しめるやつ乗るからね」
「ん……」
癒羽は頷くと、斬華と一緒に列を抜けて近くのベンチに座った。
「さて、少し時間もできたし話でもするか」
「おはなし……?」
「単刀直入に聞く。お前の〈眷属〉、あとどれぐらい抑え込める?」
「っーー、それ、は……」
癒羽が口ごもる。
〈眷属〉を抑え込まなくてはならない状態であることを、まさか気づかれているとは思ってもいなかったのだろう。
斬華の見立てではまだ数日は大丈夫そうなのだが、こればかりは本人に聞いてみなくては分からない。
「そもそも、魔王でありながら腹が減ったりするようなやつが〈眷属〉の持つ力に耐えられるとは思えん」
魔力さえあれば生きられる魔王は食事を必要としない。食事自体は魔力を摂取する手段として優れているのだが、そもそも余程の魔力を消費しなければ自然に回復する量で間に合うのだ。
そしてどうしても魔力が必要になり食事をしたとして、その九割以上は魔力に変換され体内に吸収される。そして余った一割未満のものは体内に満ちた魔力が分解し、完全に消滅する。
つまり魔王が食事を必要とする場面など滅多になく、その上トイレに行くなど本来ならばありえないのだ。
もちろんそれらは魔力あってのことなので、封印状態の斬華やいろはは普通に腹も減る。
「食事が必要だと感じるほど魔力が枯渇し、それでも体内で魔力に変換できなかったほんの一部すら分解できないほどに魔力を消費しているのだろう。そしてそれはお前の〈眷属〉のせいだと考えている。ここまでで何か間違いはあるか?」
「……ない」
「なら最初の質問に戻るが、お前はあとどれぐらい〈眷属〉を抑え込める?」
「なにも、しなかったら、ふつか……でも、おにぃがいれば……ちょっと、のびる……」
「ふむ。士郎が〈眷属〉に溜まる魔力を吸収することで、時間を稼ぐことはできるか……。ちなみに魔力が満タンまで溜まるとどうなる?」
「わかんない……でも、たぶん〈癒綿姫〉がそとに、でてくる……」
「外に……?」
〈眷属〉が外に出てくるということがピンとこないが、仮に出てきたとしても綿を生み出すだけの能力であればそこまで脅威ではない。
〈癒綿姫〉が魔力を溜め始めたのも、斬華やいろはといった(元)魔王が周囲に現れ、主である癒羽を守ろうとしたからだろう。
「召喚して無理やり魔力を消費することはできないか?」
斬華の問いに、癒羽は首を横に振った。
「だめ……よんでも、きてくれない……」
「主人から勝手に魔力を吸い上げた挙句、召喚拒否までするか……」
「いままで、こんなことなかった……」
「だろうな。そもそも〈眷属〉が魔王に逆らうこと自体が稀だ。ーーしかし〈癒綿姫〉を呼べないとなると、溜まった魔力を使う手段が……」
そう言ってふと視線を癒羽から上げた斬華は、その先で見たくないものを捉えてしまった。
真夏だというのに黒のジャケットを羽織ったオレンジ髪の女性。ーー魔王〈クイーン〉こと文月燐だ。
斬華が燐に気づくと同時に、燐も斬華の存在に気づいたらしい。両手にジュースを持ちながらゆっくりと近づいてくる。
気づかれる前であればさっさとこの場を離れたが、今からではもう遅い。
「……なぜここにいる」
「それはボクの方が聞きたいな。士郎は一緒じゃないのかい?」
「貴様には関係無い。用がないならさっさと立ち去れ」
「つれないなぁ。……ん? もしかして癒羽?」
斬華の後ろに隠れていた癒羽に燐が気づいた。
「なんだ、知り合いか?」
「しら、ない……」
「だろうね。キミの記憶は一部封じられてるから、覚えてなくても無理はないよ」
「記憶が封じられている……?」
「〈ウィッチ〉が記憶を封じたんだよ。そうでもしないと、トラウマで声すら出せなかったみたい」
「何があったんだ」
「ボクも詳しいことは知らない。けどーー癒羽、一条京介って名前に聞き覚えはあるかい?」
「いちじょー、きょーすけ……? ーーうっ、ぐぅ……!」
その名を聞いた瞬間、激しい頭痛が癒羽を襲った。その名前の人物を知っている。なのに顔も思い出せない。記憶に靄がかかっているような感覚だ。
そんな思い出せない記憶と共に、なぜ自分は京介と一緒にいないのだろうという疑念も湧いてくる。
京介がここにいない理由。それを考えたとき、癒羽の胸の奥深くでドクンと脈打ったそれは、魔王であってもありえない量の魔力を孕んでいた。
「だめっ……〈癒綿姫〉……やめて……!」
「おい、しっかりしろ!」
「これは、ちょっとまずいな……。如月斬華、この間のアレは使えるかな?」
「アレとはなんだ」
「アレはアレだよ、〈眷属〉じゃない方の刀だ」
燐の言っているアレとは、〈使徒〉のことだろう。
斬華の〈斬殺悪鬼〉は、本気ではなかったとはいえ燐をあと一歩の所まで追い詰めた。
癒羽の身に何が起きているのかは分からないが、燐は〈斬殺悪鬼〉の力が必要だと判断した。しかしーー
「残念ながら使えないが、〈斬殺鬼〉では力不足か?」
「はは、こんな魔力を目の前によくそんなこと言えるね?」
「チッ……なら貴様の〈燼滅妃〉でなんとかしろ」
燐の持つ〈燼滅妃〉の力は普通の〈眷属〉とは一線を画すことを斬華は知っている。
いくら〈癒綿姫〉が魔力を溜めていようと、そもそものスペック差で〈燼滅妃〉に勝てるはずがない。
燐は癒羽のことを知っているようだったので、彼女を助けるためなら力を貸してくれるはずだった。しかしーー
「〈燼滅妃〉のパワーだとここら一帯が焼け野原になるし、癒羽も死んじゃうけどいいかな?」
「いいわけないだろう!? 周りがどうなろうと知ったことじゃないが、こいつを殺すのは許さん」
「そりゃまた随分とお優しいことで。なんでその子にそこまで肩入れするのか、参考までにお姉さんに聞かせてもらえる?」
「士郎がこいつを救うと言った。それ以外に理由は必要か?」
「……だと思ったよ。士郎ならそう言うし、キミならそうする。ーーまったく、誰も彼も人間と関わった途端にこれだ」
燐は心底嫌そうな表情で忌々しげに言った。
純粋な嫌悪感を露わにして斬華を睨む。
「なら、ここで私を殺すか?」
「それもいいかもね。でもボクは先にその子を助けなくちゃならない。だからキミを殺すのはその後だ」
「ならそれまでは協力しあえるな?」
「ああ。それまでは、ね」
互いに互いの力量は把握している。
〈斬殺悪鬼〉を使えない斬華が、前と違い魔力を抑える必要の無い燐に勝てる可能性など、万に一つもありはしない。
だからと言って無様に命乞いをするなど、斬華のプライドが許さなかっただけだ。
それに今はこんなくだらない言い争いをしている場合ではない。
一刻も早く癒羽をーー、と視線を癒羽の方に戻した二人だったが、そこには誰の姿も無かった。
「あれ、癒羽は……?」
「なっ、どこへ行った!?」
すぐさま癒羽の魔力を感知して追おうとする。
今の癒羽であれば魔力を探し出すことも容易く、一瞬で見つけることができた。方角的には遊園地の外に向かっているようだ。
「あっちだ、追うぞ!」
癒羽の魔力は遊園地から出て駐車場の方へと移動していた。そのまま駐車場の奥へ向かい、そこを越えた辺りで急に癒羽の魔力が消え去った。
「消えた?」
「行けば分かるよ」
夏休みということもあり車の多く停まった駐車場。その奥にある駐車場の予定地のど真ん中、その真っ白なものは存在していた。
直径二メートルぐらいの球体。
まったくと言っていいほど魔力を感じないソレは、間違いなく〈癒綿姫〉の生み出したものだろう。
「アレは、なんだ……?」
「さあらわかるのは〈癒綿姫〉が癒羽を守るためにしてるってことだけだよ」
「魔力は感じないが、私たちだけでどうにかできると思うか?」
「幸いなことに、〈癒綿姫〉には攻撃力が無い。その分防御力は高いが、ボクたち二人なら無策で突っ込んでもなんとかなるよ。まあ、アレがボクの知っている〈癒綿姫〉ならの話だけど」
「アレがどういうものか分からないのに、無策で突っ込むのはどうなんだ。それより初めは様子見でいくべきだろう」
「へぇ……意外と慎重なんだね」
「馬鹿にしているのか?」
「ごめんごめん。お詫びにボクが突っ込んでみるから、ちゃんと観察しててよ」
そう言った燐の頭に黄金の王冠が現れる。
それと同時に今まで抑えられていた魔力が一気に解放された。これだけの魔力であればいろはが感じとれるどころか、双葉の視界にも入るだろう。士郎たちがやってくるのも時間の問題だ。
「よし、それじゃーー」
燐は〈癒綿姫〉に向かって駆け出す。その手には炎が宿り、触れたもの全てを灼き尽くすのだ。
〈癒綿姫〉へ近づく燐の行く手を塞ぐように、真っ白な綿毛の壁が生み出されるが、〈燼滅妃〉の炎の前にはそんなもの無いに等しい。
殴って、蹴って、突いて、叩いて、捻って、ありとあらゆる手段で破壊する。
次々に生み出される壁をノンストップで突き破りながら、燐は瞬く間に球体まで到達した。
そしてそこまで近づいて改めて理解する。
この白い球体は〈癒綿姫〉の出す綿毛でできている。この距離で見ればただのふわふわしただけの物体だ。
火をつければ燃えるだろうし、なんなら水をかけても崩れてしまいそうだと、おそらく斬華が見ればそう思っただろう。
しかし、燐は〈癒綿姫〉の能力を知っている。暴走した今、燐の知らないこともできる可能性もあるが、それでもこの綿毛の防御力だけは知っていた。
先程までの綿毛の壁も〈癒綿姫〉の元から持つ火力と、それを一点に凝縮させ一気に放つ燐の技量があったからこそ簡単に突破したように見えたが、あれを正面から破れる魔王なんてそういない。
「さて、引きこもりの妖精さんとご対面といこう」
燐は両手を思い切り球体に突き刺し、そのまま強引に中を開いた。
そこには桜色のパーカーを羽織り、膝を抱えて蹲る癒羽の姿があった。
「さあ癒羽、そんなところに閉じこもってないで出ておいで」
「だ、め……にげ、て……!」
「大丈夫、これぐらいなら〈燼滅妃〉でどうとでもーー」
そう言った燐の腕を綿毛が絡めとろうと伸びてくるが、〈燼滅妃〉で燃やそうと炎を解放する。
しかし、綿毛は燃えることなく燐の腕に巻きついて完璧に固定した。
「ごめん、なさい……!」
ドッーー!
限界まで圧縮された、大量の綿毛が燐に叩き込まれた。
地面に三回バウンドした燐の体は、斬華の隣まで転がってようやく止まる。
「無事か?」
「ん、いくら固めても元は綿毛だからね。吹っ飛ばされただけでダメージはないよ」
「それで、見たところ貴様の〈燼滅妃〉でも突破できないようだが?」
「それは本当に想定外だった。多少は耐えられるとは思ってたけど、まさか完全に効かないとはね。悪いけど、今のボクじゃあれは破れない」
「ーー私の魔力をくれてやればいけるのか?」
「ありゃ、バレてた?」
「あんなもの誰が見ても魔力が足りてないと分かる。まして私は貴様と殺しあったんだぞ」
「まあ、そうだよね」
斬華の言う通り、燐は魔力がほとんどない状態だった。それでも〈癒綿姫〉が咄嗟に生み出した壁程度なら突破できたが、やはり本体を守るための球体は強度が違うらしい。
「結論から言うと、例えキミから魔力を貰ってもアレの突破は無理だね」
「ほう、理由を聞いても?」
「まず一つ、そもそも〈眷属〉を封印されてるキミの魔力の量なんてたかが知れてる。ボクの一割にも満たない量じゃ、あれは突破できないよ。そしてもう一つ、今ちょっと諸事情でボクの体の中スカスカなんだよね。仮に魔力が足りても〈燼滅妃〉の力に体が耐えられない」
「そうか。つまりはーー」
「打つ手無し、だね。無駄だと思うけど〈斬殺鬼〉で斬ってみるかい?」
「はっ、無駄だと分かっていてやるわけないだろう」
「だよね。ま、あれに攻撃手段が無いのが救いかな。これなら助けが来るまで見張ってるだけでーー」
「おい待て、様子がおかしい」
二人の前方、さっきまでただの球体だったそれは、まるで猫のように綿毛を逆立たせいた。
警戒しているのか、はたまた球体の形が変わるのか、それを観察する二人めがけて逆立っていた綿毛が一斉に放たれた。
「チッーー!」
「おっと」
飛んでくる綿毛を斬華は見切って避け、燐は〈燼滅妃〉の炎を纏った手で叩き落とす。
数もそこまで多くないし、大した速さでもないので捌くのは余裕だった。
だが問題はそこではない。
「あ、これはちょっとまずいな」
燐が叩き落としたと思っていた綿毛は、どういうわけか全部その手にくっついていた。
ドラえもんみたいになった手に魔力を流すが、炎が現れない。
「ごめん、ボク詰んだかも」
そう言って苦笑した燐を、無数の綿毛が襲い一瞬で雪だるまのような姿に変えた。
「綿毛には触らない方がいいね」
「見れば分かるっ!」
なぜか余裕そうな燐を盾にしながら斬華がやり過ごすこと五分、やっと士郎たちが駆けつけた。いろははもちろんのこと、双葉と茉莉までついてきている。
「斬華、癒羽ちゃんは!?」
「あれの中だ。〈癒綿姫〉が暴走して放っておけば癒羽の体が崩壊する。……近づこうにも妨害が予想以上で、私たちでは打つ手無しだった」
斬華のすぐ隣で燐が雪だるまのようになっていることには一切触れず、開口一番癒羽の心配をした士郎は前方にある真っ白な球体を見つめる。
「あれも〈癒綿姫〉が?」
「ああ、ついでにこっちもだ」
「やっほー、まさかこんなところで会うなんてね」
珍妙な姿であってもやはりいつも通りな燐に、士郎は少し安心したような笑みを浮かべた。
「ーーそれ、気に入ったのか?」
「まさか。出られないだけだよ」
「おい士郎、そいつは役に立たんから放っておけ」
「酷い言われようだけど、本当のことだから何も言えないね。思う存分盾にしてくれていいよ」
横目で双葉と茉莉の方を見ながら燐が笑う。
二人を自分の後ろに隠せということなのだろう。正直なところ燐のことを完全に信用しているわけではないし、身動きの取れない燐の後ろにいたところでどれだけ安全なのかわからない。だがそれでも何も無い所に突っ立っているよりは幾分マシだろう。
双葉と茉莉を燐の後ろに隠して、士郎、斬華、いろはの三人は〈癒綿姫〉と対峙する。
「ーーで、どうすんだよ。というか、今のあたしらでどうにかできんのか?」
「どうだろうな……少なくとも私の魔力では、アレをこじ開けることはできない」
「ならあそこから癒羽ちゃんを引っ張り出すのは無理か……」
「しかしそうなると何をどうすべきか……〈クイーン〉、貴様なにかアレを突破する方法を知らないか?」
綿毛に身動きを封じられた燐は、士郎たち三人の方を見ておらず後ろの双葉たちとおしゃべりしていた。
「……おい〈クイーン〉。アレをどうにかする方法を教えろ」
燐の頭を鷲掴みにして、無理やり自分の方へ向けさせた斬華が低い声で言う。
〈癒綿姫〉攻略の術を持たない士郎たちにとって、燐から得られる情報だけが頼りなのだ。
「うーん、そうだね……。ま、やることは変わらないよ。士郎が〈癒綿姫〉を封印する。それ以外に癒羽を救う方法は無いね」
「貴様、話を聞いていなかったのか? 私たちではアレを突破することはできないんだぞ」
「だとしても、やらなきゃいけない。それとも、このまま癒羽を見殺しにするかい?」
「それはーーっ」
「だいたい、さっきからキミたち〈眷属〉を出そうとすらしないね。本当にあの子を助けたいなら、まず行動すべきじゃないかな」
役立たずのボクが言うのもなんだけどね、とニコニコした表情で斬華といろはを交互に見る。
しかし、燐の言うことは正しい。今この場面で癒羽を救うには、どうにかして士郎を球体の中に届ける必要がある。
そのためには〈眷属〉を使うしかない。『デュランダル』の監視がある以上、秘密にしていたことがバレてしまうが背に腹はかえられない。
「そうだな……。皐月いろは、力を貸せ」
「おう、援護は任せろ」
「士郎も、準備はいいか?」
「今は癒羽ちゃんを助けるのが最優先だからな。ほかは後回しだーーいくぞ」
士郎と斬華が同時に駆け出し、いろはの手に白銀の指揮棒が握られる。
「あたしが道を作るからそのまま突っ走れ!」
士郎と斬華目掛けて放たれる無数の綿毛が、まるで二人を避けるかのように曲がっていく。何百発も撃ち込まれるそれを全て〈箝替公〉の力で取り除いたいろはの額には大粒の汗が浮かんでいた。
しかし、まだ終わりではない。
綿毛の弾丸が当たらないのなら、直接その進路を塞げば良いのだと、そう言わんばかりに士郎と斬華の行く手に真っ白な壁が現れる。
小さな綿毛ならともかく、固定された壁を〈箝替公〉で素早く動かすことはできない。時間をかければ動かしたり、なんなら真っ二つに割ることもできるが、今立ち止まれば二人を弾丸の雨が襲うことになる。
と、いろはが思考を張り巡らせている後ろで燐が呟いた。
「あの壁、面では強いけど点では弱いんだよね、特に中心。ま、今の〈斬殺鬼〉じゃ斬れないだろうけど」
あの壁と対峙し破ったことのある燐だけが知っている情報。弱点が分かればそこを狙うのは当たり前だ。〈斬殺鬼〉だけで力が足りないなら、他で補えばいいだけの話だと、いろはは〈箝替公〉を握る手に力を込めて、叫んだ。
「ーー如月斬華! 中心を貫けッ!」
「了解した。ーー〈斬殺鬼〉」
斬華の手に漆黒の日本刀が現れ、その手を後ろに引いて構える。
今の魔力では目の前の壁を斬ることはできない。そう分かっているはずの斬華が、いろはの言葉を信じて真っ直ぐに突っ込んだ。
刀の先が壁に触れる直前、いろはも〈箝替公〉を振るった。
次の瞬間、壁には人間が二人通れるほどの穴が開いており、士郎たちは既にそこを抜けていた。
「〈箝替公〉で〈斬殺鬼〉の勢いを増し、さらに壁の方も攻撃の当たる場所に負荷をかけたのか。なかなかやるね」
燐が素直にいろはを褒めたが、その賛辞に耳を貸す余裕はなかった。次から次へ現れる壁を突破することに、全神経を注いでいるからだ。
ここでいろはの集中が途切れたら、士郎と斬華は壁を破壊できずに立ち止まり、たちまち格好の的となる。それだけはなんとしても避けなければならない。
たとえ自分が倒れることになっても、癒羽を救うために士郎をあそこまで送り届ける必要があるのだ。
「ーーっ、……っ!」
声が出ない、呼吸もできない。それでもただひたすら綿毛の壁を突き破るために、いろはは〈箝替公〉を振るい続ける。その魔力が枯れるのが先か、士郎たちが球体までたどり着くのが先か。
そしてとうとう、その時がきた。
何かを考える余裕すらない、無心で〈箝替公〉を振るい続けたいろはの魔力が底をついた。
ーー残る壁はあと一枚。
「く、そっ……」
その場に膝をつき倒れるいろはに、士郎と斬華は気づかない。ただいろはを信じて同じように壁を破ろうとするだろう。
そうなれば二人は終わりだ。〈斬殺鬼〉は壁に弾かれ、動きの止まった二人を綿毛が狙い撃ちする。
士郎と斬華、そして燐の身動きは封じられ、いろはは魔力切れで気絶。残された双葉と茉莉ではどうすることもできず、癒羽の体が魔力に耐えられず壊れるのは避けられない。そうなった場合、完全な詰みだ。
「ーーこればっかりはしょうがないか。……ふっ!」
燐の全身から炎が噴き出し、体を拘束していた綿毛を一瞬のうちに消し飛ばした。
そのままいろはの元へ駆け寄り、その手から〈箝替公〉を奪い取って一言。
「ご主人様とお仲間のためだ、一回ぐらい力貸してくれよ」
そう言って白銀の指揮棒を振るった。
いろはと同じように、綿毛の壁の中心に負荷をかけ、さらに〈斬殺鬼〉の勢いを増しつつそこへ切っ先を誘導する。
しかし、〈箝替公〉を初めて振るった燐が咄嗟にそこまで精確に操れるはずもなく、〈斬殺鬼〉の切っ先が中心からほんの少しだけズレてしまった。
その結果、〈斬殺鬼〉は壁に刺さりこそすれ貫くことはなく、斬華の動きが止まる。ーーが、
「斬華、伏せろッ!」
誰もが万事休すかと思ったその瞬間、斬華の真後ろで士郎が叫んだ。
その声に斬華は何の疑いも持たず、〈斬殺鬼〉から手を離して士郎の通り道を空ける。
「ーー行け、士郎」
壁に刺さった〈斬殺鬼〉の柄を、手にしたもう一振の〈斬殺鬼〉の柄で叩いて無理やり壁を突き破る。そのままの勢いで駆け抜ける士郎の後ろで、斬華が綿毛に拘束されたが、それでも立ち止まることなく、振り返りもせずに走り続けた士郎はたった一人、球体までたどり着いた。
手には二振の〈斬殺鬼〉。
斬華の手元を離れた今、すぐにでも消えるだろう一振と、士郎が封印した本体である一振。
ここ数日は斬華たちといる時間も長かったし、何より昨晩はずっと癒羽と体を密着させていた。士郎の体内に蓄えられた魔力には、それなりの余裕がある。
「待ってろ癒羽ちゃん、すぐにそこから出してやるから」
二刀を構え、踏み込んで、全力で斬り下ろす。しかし、斬るどころか傷がつくことも無い。
一度で駄目なら二度、二度で駄目なら三度、三度で駄目なら……、と続けるが何度やっても傷一つつかない。
「くそっ、硬すぎんだろ……!」
そう零しつつ、ひたすらに同じ場所を斬り続ける。
このままでは駄目なことは分かっている。それでも、今の士郎にできることはこれしかないのだ。
奇跡が起きるとは思わない。だが絶対に起きないとも言いきれない。魔力量に差はあれど同じ〈眷属〉で、士郎はそれを二つ持っている。突破できないはずはないと、自分に言い聞かせながらがむしゃらに刀を振るう。
「ーーあれ?」
その様子を見ていた双葉の目に、ほんの少しの異変が映った。
それはあまりに小さく、些細な変化。他の誰でもない、双葉にしか気づくことのできないこと。
二振の〈斬殺鬼〉が球体を叩く度、ごく少量の魔力が噴き出している箇所があるのだ。
しかし、あまりに少量すぎるため魔王である燐やいろはや斬華はもちろん、今まさに球体を斬ろうと奮闘している士郎でさえ、その魔力を感じ取れないりーーただ一人、魔力が見える双葉を除いて。
「お兄ちゃん! もう少し左!」
「なんだ!?」
「癒羽ちゃん助けるんでしょ! 言う通りにして!」
妹の見たことの無い血相に驚きながら、少しずつ左側へ移動する。
士郎だけでなく身動きを封じられた斬華や瀕死の燐、そして隣にいる茉莉も双葉の方を見て目を丸くしている。
当然だ。双葉が何をしようとしているか分かっていないのだから。それでも士郎が何も疑わずにいられるのは、双葉がたった一人の家族だからだろう。
「ストップ! そこのあとちょっとだけ上のとこ!」
「ちょっと上……この辺りッ!」
力を込めて〈斬殺鬼〉を振り抜く。手応えはさっきまでと変わらなかった。
だがほんの少し、一センチにすら満たない傷がそこについた。
たかが数ミリ、それだけでも事態は好転した。難攻不落かと思われた球体に傷をつけることができたのだ。
傷がつけられるとは即ちどういうことか。答えは簡単ーーぶっ壊せるのだ。
「う、おおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお!!!!」
たった一本の傷を、なぞるように斬りつける。何度も何度も斬りつける。
維持するだけで膨大な魔力を消費する〈眷属〉。既に士郎の体内に貯蓄されていた魔力のほとんどを使った。今も常に消費され続け、〈斬殺鬼〉を出していられるのもあと一分が限界だろう。それまでに球体に穴を開けることができるかどうか。
斬れば斬るだけ球体についた傷も大きく深くなっていく。削ることだけは確実に行えているのだ、あとは根気の勝負になる。
士郎は光力を両腕に集中させ、一撃の重さと回転数を上げる。威力も速さもおよそ人間に出せるレベルを遥かに超えた。燐ですら乾いた声を出したほどに、今の士郎は常軌を逸している。
しかし、いくら光力によって体の強度が上がっていようと、それ以上の負荷がかかれば壊れてしまうのは道理だ。
現に士郎の腕は内側から破られるように裂け、それでも止まらないせいでまるで花火のように血が飛び散っている。
異常だと、妹である双葉でさえそう思った。
やはりおかしいのだと、かつて士郎を殺した斬華は笑い飛ばした。
そしてそんなこと、士郎本人が一番分かっている。しかしこればっかりは仕方がない。
三年前、双葉にそうしたように、楠田士郎は自己を犠牲に誰かを救えるのなら、迷わずそうしてしまう性質があるのだ。
だからこそ、最善の一手に辿り着かない。
ーー瞬間、士郎の持つ〈斬殺鬼〉の片方が光の粒子となって砕け散った。消えたのは斬華が召喚していた方だ。主の手元を離れていたのに、今までよく頑張ってくれた。
〈斬殺鬼〉はまだ一つ残っているが、士郎の魔力ももう限界に近い。これが尽きればいよいよ命を削ることになる。
士郎の不死のトリックは、〈燼滅妃〉の力によるものだ。そして〈燼滅妃〉も〈眷属〉である以上、魔力を消費しなければその能力を発揮することはできない。
以前〈斬殺鬼〉に魔力と生命力を全て搾り取られた時はなんとか生き残ったが、今回もそうなるとは限らないのだ。
死ぬのは〈癒綿姫〉から癒羽を助け出した後だと決めている。それまでは何があってもこの手を止めるわけにはいかない。
「もう、少し……っ!」
真っ白な球体の一部に、微かに薄桃の何かが見えた。ほんの小さな隙間から覗いたそれは、間違いなく中にいる癒羽の髪の色だ。
本当に僅かな隙間、羽虫一匹程度の極小の穴だが、今はそれでも十分だ。
両手で握った〈斬殺鬼〉を逆手に持ち替え、腕を振り上げる。
「癒羽ちゃん、今そこから出してやる」
思い切り振り下ろし、僅かに空いた穴に突き刺した。そしてそのままーー
「お、ら、ああああああああああああああああああああああああああーーーーーー!!!!!!」
突き刺した〈斬殺鬼〉を真上に振り抜いて球体の上部を斬り裂いた。
球体の上半分が左右に開き、その中にいる癒羽がキョトンとした顔で士郎を見上げる。その頬には涙が伝っていた。
「おにぃ……?」
「迎えに、来たぞ……まだ、一つもアトラクション乗ってないだろ……次はちゃんと、癒羽ちゃんも、乗れる……やつ、に…………」
癒羽に手を差し出した士郎の意識は、そのまま闇の中へと沈んでいった。
やはり体が耐えられなかったのだ。最後の最後、球体の上部を斬り裂いた時に残った魔力の全てと、足りない分の生命力を使ってしまった。それでも気力だけで癒羽に言葉をかけ、その手を伸ばしたのだ。
しかし体はそのまま前のめりに倒れ、あろうことか開いた球体の中へ頭から落ちてしまう。
その様子を見て声をあげたのは、綿毛に拘束されて動けない斬華だった。
「〈クイーン〉! 今すぐ二人を救出しろッ!」
「ごめん、ボクもう動けない」
座り込んだ燐は軽い調子で言うが、動けないのは事実だ。綿毛の拘束から無理やり抜け出した時に力を使いすぎてしまった。魔力云々ではなく、体が耐えきれずに崩壊を始めている。歩くことはおろか、最早立ち上がることすらできない。
斬華も燐も動けない。ならば今動ける人間が向かうしかない。そう思って駆け出そうとした双葉の行く手を小さな火の玉が塞いだ。
「やめときなよ。〈癒綿姫〉の防御機能はまだ生きてる。キミが行っても一瞬であれと同じになるよ」
燐は顎で斬華の方を指しながら言う。
そんなことは双葉だって理解している。だが今この場で兄を助けられるのは自分だけだ。
だから自分がやらなければならないのだ。
その意志を見せつけんばかりに、目の前の火の玉を素手で握り潰す。
「私がお兄ちゃんを助けるんだ……私しか、いないんだから……!」
「なるほど、兄が兄なら妹も妹だ。兄妹揃って自分を犠牲にすればなんとかできると勘違いしてる」
「勘違いでも、なんでもいい。お兄ちゃんを助けたいの」
「一般人のキミに何ができるんだい?」
「そんなのわからないないけど……! 何もせずに見てるだけなんて嫌なの!」
「それはキミの感情だろう。もっと合理的に考えようよ。キミがあれに助けに行ったところで、最初の綿毛に捕まって終わりだ。士郎を助けるどころか、ボクらが助けなきゃならない人間が増えるだけでいい迷惑だ」
「…………たら」
「ん、なんだい?」
「……だったら、誰が助けに行けばいいの!? あなたも斬華さんもいろはちゃんも動けないし関係ない茉莉ちゃんも巻き込めないし私が行くしかないから! だから……私だって、怖いのに頑張って……! なのになんで……なんでぇ………」
自分が無力なのは分かっている。士郎の元へたどり着ける可能性なんて万に一つもありはしない。
だが行くしかないのだ。助けられないと分かっていても、無理だと知っていてもここで行かなければ必ず後悔する。
魔王に立ち向かうのは怖い。双葉はただの人間で、ただの中学生だ。非日常を望むことはあっても、実際に非日常に巻き込まれれば非力な子どもに過ぎない。
それでもーー非力だとしても、たった一人残された家族を失う恐怖には立ち向かうしかない。できることは何も無い。力も無ければ策も無い。あるのは兄を失うかもしれないという不安と、魔王に向かうという恐怖だけ。
漠然とした底知れぬ不安より、今目の前にある具体的な恐怖に立ち向かうしかないのだ。
勇気は出ないし決心もつかない。ただただ負の感情がゆっくりと足を前に動かし始めた、その時だった。
「ーーあなたの気持ちはよく分かりましたわ。あとはわたくしにお任せ下さい」
今にも泣き出しそうな双葉の手が優しく握られる。それと同時に聞こえてきたのは、見知らぬ少女の声だった。
双葉がそっちに視線を向けると、キラキラと輝くプラチナブロンドの長い髪、澄み切った空のような碧眼、陶磁のように真っ白で美しく伸びた手足、そして同じく真っ白なワンピースを着た少女が、真剣な眼差しで双葉を見つめていた。
誰?という疑問よりも先に、双葉の脳は真っ白になった。言葉が出ない。
他の誰にも分からない、双葉にしか見えないが、この少女の魔力は常軌を逸していた。
双葉の目に映る魔力はぼんやりと色が見える。斬華なら夜空のように吸い込まれそうな漆黒、いろはは新雪のように輝く白、燐は太陽のように煌めくオレンジといった感じなのだが、目の前の少女は濁りきって形容し難い色をしていた。例えるなら絵の具を何色も混ぜてできたような、初めからそうなのではなく結果的にそうなったようなどこか澱んでいる禍々しい色だ。
「はじめまして。わたくし、神無月アリスと申します。お見知りおきを」
「あ、……う」
「双葉ちゃんッ!」
一瞬で現れた茉莉が双葉をアリスから引き剥がし、自分の後ろへ隠すように立った。
その目は確実に敵を見る目で、今にもアリスに襲いかかりそうなほど睨みつけている。
「そんなに怖い顔なさらないで。わたくし、あなたがたを助けに来たんですのよ」
それでも警戒を解かない茉莉に苦笑し、アリスは瀕死の燐へと寄る。
目立った外傷は無いが、よく見れば体の至る所がヒビ入り崩れ始めていた。本人は平気そうな顔をしているが、放っておけばあと一時間ともたないだろう。
「ーー珍しいですわね。燐がここまでするなんて」
「まあ、相手が相手だからね。それよりキミこそ、こんな陽の当たる場所にいて大丈夫なのかな、日傘はどこへやったんだい」
「大丈夫ではありませんが、短時間なら問題ありません。日傘は邪魔になりそうだったので置いてきました。全部終わりましたらホテルまで丁重に運んでいただきますわよ」
「任せてよ。だからあの子のこと、お願いしてもいいかな?」
「言われるまでもありませんわ。わたくしもあの方にまだお詫びをしておりませんので。だからもう少し、そのボロボロの体で耐えていただけますか?」
「うん、まだしばらくは大丈夫。でもなるべく早く頼むよ」
「ええ、お任せ下さい」
軽く伸びをしながら〈癒綿姫〉の方へ踏み出すアリス。
球体の方は士郎の斬り裂いた上部も塞がって、また鉄壁の要塞と化していた。
さっきは士郎、斬華、いろは、そして燐と双葉の五人が協力してやっとたどり着けたのだが、アリスはそれを一人でやるつもりなのだろうか。そんなことが可能なのかと、そんな疑問を解消しようと言わんばかりに、球体から綿毛が放たれる。
それらは全てアリスへ向かい、ものの数秒でアリスの姿を雪だるまのように変えてしまった。
「あら、これは確かに……」
思いのほか綿毛の強度が高かったのか、アリスは意外そうな表情をした。
ーーが、それもすぐに余裕の表情へと変わる。
「とはいえ、この程度ならどうとでもなりますがーー〈鏖塵嬢〉、お披露目の時間ですわよ」
アリスが〈眷属〉の名を呼ぶ。
瞬間ーーアリスの全身にまとわりついていた綿毛が塵となって消えた。
間違いなく〈鏖塵嬢〉と呼ばれた〈眷属〉の能力だろう。しかし、その姿がどこにも見えない。
漆黒の刀だったり白銀の指揮棒だったり黄金の王冠だったり桜色のパーカーだったり、そういったものを、アリスは身につけていないのだ。
「さて、時間もありませんので手早く終わらせてしまいましょう」
アリスが歩を進める。
ゆっくりと、立ち止まることなく前へ前へと、飛来する綿毛の弾丸はその手に捕まると即座に塵に還る。次に用意された無数の壁すらも、アリスがただ触れるだけで塵となった。
その歩みは決して止まることはなく、〈癒綿姫〉の防御機構を破壊して距離を詰めてゆく。その姿はまさに魔王に相応しいものだった。
自身の〈眷属〉の前に敵は無いと、そう心から確信しているのが伝わってくる。そしてそれはこの場において絶対的な真実であった。
あっという間に球体まで着いたアリスは、その手で球体を破壊しようと手を伸ばす。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
士郎は見知らぬ街を歩いていた。
見たことの無い建物に囲まれた見たことの無い道を、会ったことの無い少女と並んで歩いていた。
燃え盛る炎を思わせる真っ赤な髪も、裏表の無さそうな眩しい笑顔も士郎の記憶には存在しない。だが士郎はその名も知らぬ少女と談笑しながら見知らぬ街をただ歩く。
と、そこへ後ろから声をかけられたような気がした。振り向けばそこには、淡い薄桃の髪をしたどこか眠たげな表情の幼い女の子。
その子と手を繋いで、また街に足を進める。
何をするでもなく、どうでもいいことを話しながらただ歩いた。目的もなければ、どこへ向かっているのかもわからない。
真っ赤な髪の少女が言ったことに、薄桃の髪の少女が一言二言で相槌を打つ。どうせ明日には忘れてしまうようなどうだっていい会話だが、今この瞬間が一番幸せなのだと心で理解した。
そんな士郎の変化を少女たちも悟ったのか、立ち止まって不思議そうな顔でこう言った。
「どうかした? ーー京介?」
「ーーきょう、すけ……?」
「え……」
士郎が目を開けると、癒羽が心配そうな顔で覗き込んでいた。
〈斬殺鬼〉の力を借りて球体をぶった斬った以降の記憶が無い。どうやら魔力切れで気を失ってその間に夢を見ていたらしい。
そしてやっと、夢の中で出会った薄桃の髪の少女が癒羽だと気づいた。自分の隣にいた赤髪の少女の方はやはり誰だか分からないが、癒羽ならばあの少女のことも知っているかもしれない。
それに、最後に癒羽も赤髪の少女も士郎のことを「京介」と呼んだ。そいつについても話を聞く必要がある。
……あるのだが、それはそれとして士郎は倒れていた体を起こすと、いの一番に癒羽のことを抱きしめた。
「無事でよかった……一人でよく頑張ったな」
「おにぃ……癒羽、がんばったから……つかれた……」
「あとは俺がなんとかするからーー」
「ううん……なんとかするのは、私の方です」
「……え?」
急に雰囲気の変わった癒羽が士郎の両頬に手を当てた。
そのまま手は下へと向かい、子どもとは思えない膂力で士郎の首を掴んだ。
「かっーーあ……なん、で……!」
「なんで? そんなの決まっているでしょう。あなたが役立たずだからですよ。口ではなんと言っても結局この子を守れやしない、これくらいで死ぬ脆弱な人間だから、ここで殺されるのです」
脳に酸素が回らなくなり、何も考えられなくなる。意識も朦朧とし視界もぼやけてハッキリとしない。
ただ癒羽の表情がとても悲しそうだったことだけは分かる。言葉をかけようにも声が出ないし、手を振りほどこうにも力が入らない。
などと考えたところで、ゴキンッ、と首の骨が折れる音が聴こえ、士郎の視界はブラックアウトした。
「はぁ……はぁ……。ごめんなさい、癒羽。でもこれもあなたのため……この人間が生きていたら、いつか私もあなたを守れなくなってしまう。それだけは、それだけは絶対に…………は?」
何やら独り言を言い続ける癒羽の目の前で、今しがた死んだはずの士郎がゆっくりと起き上がった。
そして何事も無かったかのように口を開いた。
「お前、もしかして〈癒綿姫〉か?」
「ーーなん、で……」
「癒羽ちゃんとは雰囲気が違うし、それにーー」
「違う、なぜ生きているのか聞いているのです!」
「なぜって……あ、癒羽ちゃんには言ってなかったっけ。俺、死なないんだよ」
「死なない……? そんなことあるはずがーーっ、まさか〈燼滅妃〉を封印したのですか。確かにそれならあの女が弱くなっていた説明もつきますが……」
「あの女?」
「文月燐。あなた方が〈クイーン〉と呼んでいる魔王です。以前よりかなり弱くなっていましたが、〈眷属〉を封印されていたのなら納得できます」
「確かに俺の中に〈燼滅妃〉はいるけど、封印できてないんだ。お前と同じでな」
残念ながら燐の〈眷属〉である〈燼滅妃〉の封印はできていない。士郎の中にあるその力はその再生能力だけだ。
更に燐の能力も欠落しておらず、事実上〈燼滅妃〉が二つ同時に存在しているということになる。
そしてそれは〈癒綿姫〉も同じだった。
「……つまり、封印はしていないのに〈燼滅妃〉の再生能力だけが体に宿っていると?」
「そうなるな。だから俺は死なないんだよ、たとえ首を折られてもな」
少しだけ得意げに笑った士郎を見て、〈癒綿姫〉は納得したように頷いた。
「ーーなるほど、やけに体が頑丈なのも、魔力を一切感じないのもそのせいだったようですね」
「どういうことだ?」
「つまりあなたが光力とやらの力だと思ってたことは〈燼滅妃〉や私ーー〈癒綿姫〉の能力の一部だったということです」
「魔力を封印するのも?」
「魔力の吸収はできませんが、それを遮ることはできますよ。現にこの中の魔力は外に漏れていなかったでしょう?」
そう語る〈癒綿姫〉だったが、士郎は魔力を感じることができないのでわからない。
ついでに言うと魔力がほんの少し漏れだしていたのだが、あれは燐が最初に開けた穴が完全に塞がっていなかっただけだ。
「じゃあ実際に光力でやってるのは魔力の吸収と、あとは身体能力を上げてるぐらいなのか」
「身体能力も光力ではなく魔力ですね。光力の中に蓄えた魔力を使うことで、一時的に魔王に近い肉体になっているのだと思います」
「魔王に近い肉体……」
「肉体の基盤はただの人間ですから、魔力を使って限界を超えた動きをすれば普通は壊れるのですが……幸か不幸かあなたの体はそっちの私の力でかなり頑丈ですし、仮に壊れても再生もできるので、そういう意味ではほぼ魔王と言って差し支えないでしょう」
「俺が、魔王……?」
「あとは偽りのものではなく、あなた自身の〈眷属〉を従えれば正真正銘の魔王ですよ」
「いやいや、俺は人間だし自分の〈眷属〉なんてーー」
「本当にそう言い切れますか?」
冗談で言っているような雰囲気ではなかった。その目はじっと士郎を見据え、まるで全てを知っているように感じた。
いくら魔王に近いと言われても、士郎は自身を人間だと思っているし、仮にこの先自分の〈眷属〉に出会おうと、そうであることに変わりはない。
だが〈癒綿姫〉の出した結論はそもそもの視点が士郎と違っていた。
「確かにあなたは人間です。そして人間に〈眷属〉が宿ることは絶対にありません」
「だったら俺に〈眷属〉なんてーー」
「そうですね、『人間』のあなたには絶対に宿りませんよ。でもあなたの肉体は魔王に近い。もし何かの拍子に肉体の構成要素が魔力に置換されたら? 普通の人間ならありえませんが、膨大な魔力の結晶である〈眷属〉を複数宿しているあなたの場合は違うでしょう。今日のように〈眷属〉を使うことを繰り返せば、体がそっちに合った方へ変化しないと言い切れますか?」
そんなことありえない、とは言えなかった。
魔王や〈眷属〉どころか、魔力についてさえよく分かっていない。
日常生活の中で使うことはないが、今日のような場面で使うことを躊躇いはしない。自覚はないがもしかしたら、もう既に士郎の体は魔力に蝕まれている可能性だってある。
そんな考えが一瞬よぎったが、士郎は頭を振ってそれを無理やり追い出した。
「ーーもし俺に〈眷属〉が宿ったとしても、やることは変わらないよ。魔王を封印する、それは俺自身も例外じゃない」
「……では、私のことも見逃してもらえませんね」
初めは見逃すつもりだったが、いくら癒羽を守るためとはいえ癒羽本人ですら制御できずに傷つけるような〈眷属〉を放置しておくわけにはいかなかった。
確かに無関係な市民に対する危険度で言えば〈癒綿姫〉はかなり安全な方だろう。だがーー
「俺は別に無関係な人間がどうとか、そういうのは別にどうだっていいんだよ」
「……どういう意味ですか」
「俺は魔王を救いたい。でもそれは魔王の存在が危険だからとか、そういう理由じゃないんだ」
「ではなぜ魔王を封印しているのですか。ーーまさか〈眷属〉の力を集めて大規模な術式を……」
「いや、別にそんな難しそうな目的があるわけじゃない。ただの自己満足だよ」
「自己満足?」
「俺の願望、ただみんなに普通の女の子として生きてほしいと思ってるから、それを実現させるためにやってるってこと。『ブレイヴ』とか『デモニア』とか、あと燐も何か企んでるみたいだけど俺はそんなのどうでもいい。魔王が人間として笑顔でいられるため、どこの組織にも狙われたりしないようにするために、俺が〈眷属〉を封印するんだ」
「……なるほど、概ね理解はしました。ーーであれば私を封印しない方が癒羽のためになりますが」
癒羽のためになるとはどういうことだろうか。〈癒綿姫〉が保身のために嘘を言う可能性もあるが、もし本当にそうなら封印しない方がいい。
「まず、ご存知のとおり私はほかの〈眷属〉より自我が強いです。そのおかげで私は癒羽の中で〈癒綿姫〉という一つの人格を形成しました。今こうして話している私がそれに当たるのですが、これがどういうことか分かりますか?」
「癒羽ちゃんの中に二つの人格が存在してるってことだろ。確かにずっと一緒だったのに引き離すのは可哀想だけどーー」
「そういう感情的な話ではないのです」
士郎の言葉を遮った〈癒綿姫〉は神妙な面持ちで続ける。
「私が今こうやって主人格となっている時、癒羽の意識は眠っています。なので私が表で何をしようと、その記憶は一切残らないんですよ。たまに夢のような形で見ることもあるらしいのですが、それもはっきり覚えていることはないので実際の夢とそう変わりありません」
つまり今この会話も癒羽には聞こえておらず、ここであったことを知るのは士郎と〈癒綿姫〉の二人だけということだ。
「ーーで、それがどうしたんだ。癒羽ちゃんが裏では眠っているからなんなんだ?」
「そうですね……癒羽の意思に関係なく私は表に出てこられる、と言えばある程度察しは付きますか?」
「いつでも癒羽ちゃんを乗っ取れるってことだろ、それ」
「……言い方が悪かったです。簡潔に言えば、この子の精神が不安定になるようなことを私が肩代わりできる、ということです」
「さっき俺を殺したみたいにか?」
「ええ、その通りです」
嫌味を言ったつもりだったが、〈癒綿姫〉は笑顔で言い返した。本当にいい性格をしている。
「言っちゃ悪いが問題の先送りだろ。癒羽ちゃんのことを思うならそれから逃がすんじゃなく、一緒に乗り越えるべきじゃないのか?」
「気軽に言ってくれますね。確かにあなたがいれば暴走のリスクは大きく下がるでしょうが、私と癒羽だけの時に今のように暴走すれば、間違いなくこの子は命を落としていましたよ」
「ん? ーーちょっと待ってくれ。今こうなってるのは〈癒綿姫〉が暴走したからじゃないのか?」
「今あなたの目の前にいるのがその〈癒綿姫〉ですが、暴走しているように見えますか?」
見えない。
苦しんでいる様子もなければ、取り乱してもいなさそうだ。いたって理性的な言葉遣いと雰囲気は暴走と言うには程遠い。
「じゃあ今のこの状況は……」
「…………ああ、そういうことですか。あなたたちは、これが〈眷属〉の暴走だと思っているのですね」
「てことはやっぱりーー」
「ええ、これは全て癒羽の仕業ですよ。自分の身を守るため、この子は許容量を超える魔力を引き出しています。とは言っても、この子にその自覚はありませんが」
「自覚がない?」
「はい。いつも暴走する寸前で私が表に出ていますから、この子からすれば魔力を抑えきれずに気絶しているようなものです」
「……えっと、つまり癒羽ちゃんが暴走しかける度にお前が表に出てきてた?」
「できる限り安全に魔力を消費する必要がありましたから。限界に達する直前に入れ替わっていました。それでも暴発はしてしまうのですが、今回ならこの球体がその結果です。そのせいで癒羽は、私が勝手に魔力を引き出して暴走していると思い込んでいます。本人的には、必死に抑えようとした魔力が溢れて意識を失った、とでも思っているのでしょう」
けれど実際は、癒羽自身が体が崩壊するほどの量の魔力を無意識で引き出し、〈癒綿姫〉がそれを消費していたというわけだ。
「今回はもう魔力をほとんど使ったので大丈夫ですが、今後またこのようなことが起きた時のため、私は封印されるわけにはいかないのです」
そう言われると封印しない方が良いと思える。仮に封印したとしても、その残滓を使って〈眷属〉を召喚することができる。
もちろん出力は下がるが今回はそれが問題だった。一度に放出できる魔力が減少するということは、それだけ癒羽の中に大量の魔力が滞在する時間が延びるということだ。今でさえ〈癒綿姫〉が効率的に消費しなければならないのに、そうなれば癒羽の体にかかる負担は大きくなる。
などと考えたところで、士郎はふと昨日の風呂上がりに斬華から聞いた話を思い出した。
「……あれ、でも魔界から魔力を引き出すには〈眷属〉が必要なんじゃないのか? 俺が〈癒綿姫〉を封印すれば、そもそも癒羽ちゃんが魔力を引き出すこともできなくなるんじゃ……」
「確かに、私が封印されればこの子はどこからも魔力を引き出すことができなくなります。ですがそれだと別の問題が発生するのですよ」
「別の問題?」
「結論から言うと、この子は死にます」
「どういうことだ。魔界から魔力は引き出せなくなるよな?」
「……前提として、癒羽はまだ魔王として未熟です。魔力のコントロールすらまともにできません」
それができていれば、わざわざ大量の魔力を消費するのに〈癒綿姫〉が表に出てくる必要もないのだから当然だ。
そもそも普通の魔王は、自身の許容量以上の魔力を引き出すことなどしない。
「しかしこの子は、自分の身を守るために〈眷属〉の力を無意識に使います。それを私は止められませんし、癒羽本人も自覚していません」
「……それが癒羽ちゃんの死とどう繋がるんだ? 魔界から魔力を引き出せない以上、魔力が多すぎて体が耐えられないなんてことは起きないだろ。むしろ癒羽ちゃん本人の魔力って少なすぎるぐらいだろうし」
「その少なすぎる魔力が問題なのです。もし私が封印されて、どこからも魔力の供給が無くなった時に今回のようなことが起こればどうなると思いますか?」
「うーん……魔力が足りなくて〈癒綿姫〉は呼べないだろうし、何も起こらないんじゃないのか」
「普通の魔王の場合はそれで正解です。が、この子は〈眷属〉の制御ができず、無意識のうちに力を使います」
「でも魔力がーー」
「あるんですよ。まともな魔王と〈眷属〉なら絶対に使わない魔力が」
「絶対に使わない……? ってまさかーー」
「はい。それは魔王の肉体を構成する魔力です」
魔王の肉体は魔力で構成されている。
体の構造や仕組みは人間とほぼ同じらしいのだが、細かく分解していくとそれらは魔力で形作られているらしい。
「でもその魔力を使ったら……」
「死にますよ。自分の命を使い切って体が消滅するでしょうね。そうならないために、私は封印されるわけにはいかないのですよ」
もしそれ真実なら、癒羽の命と引き換えにしてまで〈眷属〉を封印することはできるか、否である。
魔王を救うと言っておきながら、それを見殺しにするなど笑い話にもならない。話を聞く限りでは〈癒綿姫〉を封印せずにいた方が安全らしい。
「楠田士郎。あなたの立場も理解しているつもりですが、せめてこの子がちゃんと〈眷属〉を制御できるようになるまで封印を待ってください。お願いします」
〈癒綿姫〉が頭を下げる。体は癒羽のものなのだが、それを言うほど士郎も野暮ではない。
ここまできて〈癒綿姫〉が嘘をついているとは思えない。根拠はないが、癒羽のことを思う気持ちは本物だろう。
幸いにも癒羽の魔力は微弱で、〈眷属〉を持ったままでも『デモニア』に見つかるリスクは低い。そして〈癒綿姫〉も誰かを傷つけるような能力でないことも分かった。であれば士郎の答えは決まっている。
「わかった、でも癒羽ちゃんに暴走のリスクがある間だけだ。大丈夫だと判断したら、無理にでも封印させてもらうからな」
「それで構いません。癒羽が暴走する心配が無くなれば、私がいる必要もありませんので……」
「ーーいつかは封印させてもらうけど、それまでは今まで通りなんだからそんな思い詰めた顔するなよ」
世界の終わりのような顔をするので、士郎もさすがに申し訳なくなってきた。いや、実際〈眷属〉にとって主の魔王から離れて封印されるなんて、世界の終わりと言っても過言ではないだろう。
ただでさえほかの〈眷属〉より自我の強い〈癒綿姫〉のことなら尚更だ。
「そうですね、まだしばらくこの子の側にいられることを、今は感謝しましょう。ーーときに、あなたが先ほど呟いていた『京介』という名ですが……」
「ああ、それは俺も聞きたかったんだ。さっき気絶してる間に見た夢なんだけど、誰なんだその京介って。あとなんか赤い髪の女の子もいて、その子と癒羽ちゃんが夢の中でその名前を呼んでたんだよ」
士郎の記憶には存在しない映像。
〈癒綿姫〉だけが特別なのかは分からないが、どうも癒羽よりも知識が豊富のように感じたのだ。おそらく話し方や雰囲気のせいだと思う。とは言えそれ抜きにしても、今の言い方だと〈癒綿姫〉は『京介』の名を知っているようだった。
「夢の中に癒羽ちゃんがいたのは偶然なのか?」
「……あなたの夢の詳細までは知りませんが、今この空間には癒羽の魔力が充満しています。光力がこの魔力を吸収する際、一緒にこの子の記憶も流れ込んだのかもしれません」
「つまり俺が見た夢は……」
「癒羽の記憶、もしくはそこから生まれたイメージ映像のようなものでしょう。『一条京介』と赤髪の少女ーー『紅無卯月』は私の記憶にもあります」
「『一条京介』に『紅無卯月』……で、その二人は何者なんだ?」
「一条京介は人間で、紅無卯月は魔王です。二人についてはーー危ないッ!」
士郎の体がとてつもない力で引っ張られた。
バランスを崩すとかそういうレベルではなく、吹っ飛んで思い切り壁に顔面をぶつけた。血の匂いがする、鼻血も出ているらしい。
と、その直後、士郎のいた場所の壁がまるで塵のようになって消滅した。音も無ければ衝撃も無く、サラサラと風に舞って消えてゆく。
「いってぇ……! なんだ!?」
「神無月アリス……なぜあなたがここに……!」
「あら、記憶が戻ったのですか?」
「チッ……。すみません、今あれの相手はできませんので、話の続きはまたいつか」
士郎にだけ聞こえる小声でそう言った〈癒綿姫〉の雰囲気が少し変わる。癒羽が表に戻ってきたのだろう。
まだ話の途中だったが、戻ってきた癒羽の表情が落ち着いたものだったので少し安心した。
「ぅ……おにぃ……?」
「ーーおかえり、癒羽ちゃん。どこか痛いところとかはない?」
「ん、だいじょーぶ……」
「なら良かった」
これでひとまず、癒羽の暴走に関しては安心だろう。となれば次は球体を破壊して入ってきた少女に対処せねばならない。
「それで、えっと……君は確かーー」
「昨日ぶりですわね、士郎さん。わたくしは神無月アリス、これでも魔王をさせていただいております。お見知り置きを。外の皆さんがお手上げだと言うので、事態の収拾に来たのですが……」
真っ白なワンピースの裾を摘んでお嬢様らしいお辞儀を見せたアリスは、これで士郎に対する義理は果たしたと思ったらしく、すぐさま目線を癒羽の方へ移動させる。
ふぅ、とため息をついたアリスはそのまま球体の中へと足を踏み込むと、何も言わずに癒羽の側まで寄って屈んだ。その目は癒羽の瞳をじっと見据えて、癒羽の中の〈癒綿姫〉まで見通しているように感じた。
そして癒羽もそれに気付いたが、視線をアリスの目から離せない。まるで石になってしまったかのように、目線を外すことすらできずただじっとアリスを見つめるしかない。
「な、なに……?」
「いえ、なんでも。ーーどうやら問題は解決したようですね。これならわざわざ、わたくしが出向く必要もありませんでしたのに……」
少しつまらなさそうな顔をして、アリスは立ち上がり、そのまま踵を返して球体から出ようとする。
「あ、待ってくれ!」
士郎の呼びかけは聞こえているはずだが、アリスはそれを無視して球体の外へ出た。ーーと思ったらひょこっと顔を覗かせて。
「あなたがたも早く出た方がいいですわよ。もうすぐこれも消えますので」
最後にニコッと笑ってみせたアリスは、ヒラヒラと手を振りながら燐の元へと向かった。
その後ろ姿を見ながら、士郎も癒羽の体を抱きかかえて球体から外に出る。
士郎と癒羽の二人が無事に出てきたことに、その場にいた全員が安堵して張り詰めていた空気が一斉に弛んだ。
「癒羽ちゃん、斬華にくっついてる〈癒綿姫〉は解除できる?」
「うん……これでーー」
「士郎っっ!」
癒羽が胸の前で両手を握ると、斬華を拘束していた綿毛が消えた。と同時に斬華が目にも止まらぬ速さ(本当に見えなかった)で士郎の首に飛びついた。それだけ心配してくれていたということなのだろうが、それよりも首からミシミシと軋むような音がしていることの方が士郎にとっては問題だった。
「き、斬華……くるしっ……!」
「あ、ああ、悪い……無事で嬉しくて、つい。ーーそれと癒羽」
「な、なに……?」
急に名前を呼ばれた癒羽は身を強ばらせる。
今回の件は全て自分のせいだと、癒羽は幼いながら客観的に判断した。だから今から斬華には怒られるのだろう。自分の魔力も制御できない未熟者だと、そう言われるのだろうと、半ば怯える癒羽の薄桃色の頭に、斬華はゆっくりと手を伸ばした。そしてーー
「ーーお前もよく頑張ったな。無事でいてくれて嬉しい」
「おこって、ないの……?」
てっきり斬華には責められるとばかり思っていたので、ついそんなことを聞いてしまった。
「なぜ私が怒るんだ?」
「だって、癒羽のせいで……」
「魔王なのだから、あれぐらいやってみせて当然だろう?」
「そうだぞ癒羽ちゃん。俺なんか初めて斬華に会った時は、全身バラバラにされたんだから」
「ばら、ばら……?」
さあっ、と癒羽の顔から血の気が引いて、士郎と斬華を交互に見る。
二人はなんとも朗らかな雰囲気で言うし、今朝の風呂で見た士郎にそんな傷は存在しなかったので、おそらく自分を落ち込ませないための冗談なのだろうと、癒羽も否定はせずに流した。
「さて、俺も癒羽ちゃんも無事だったわけだけどーー」
「お兄ちゃんっ!」
「ぐはっ!?」
今度は双葉が目にも止まらぬ速さで士郎の腰に飛びつき顔を埋めた。
首の次は腰に衝撃を受けた士郎は、いっそのことへし折ってくれた方が〈燼滅妃〉の能力で回復できるのに、と口に出せば怒られそうなことを考える。
「双葉も心配かけて悪かったけど、次はもう少しソフトに頼む。じゃないとお兄ちゃんの体が……双葉?」
「どうしよう……いろはちゃんが……!」
士郎を見上げる双葉の顔は、涙と鼻水でくしゃくしゃになっていて酷いものだった。
双葉の言葉を聞き咄嗟にいろはの方へ駆け寄るが、特に変わった様子はない。ただ気を失っているだけに見える。
しかし、双葉の目にはそう映っていなかった。
「いろはちゃんの魔力がどんどん小さくなってて……このままじゃいろはちゃんが消えちゃう……!」
「落ち着け双葉、魔力が減ってるだけならなんとかなる」
双葉を宥めながら、士郎は気を失っているいろはの手を握り、自分の中の魔力をいろはに流し込む。
ここ数日間の魔力は使い切ってしまったが、先程までいた球体の中には癒羽が魔界から引き出した無尽蔵の魔力が充満していた。そんな空間に閉じ込められた士郎の中には、決して多くはないがある程度の魔力は貯まっている。しかしーー
「ダメだ士郎、魔力がほとんど吸収しきれていない。皐月いろは本人の魔力でないと効率が悪すぎる」
「いろは本人の魔力なんて魔界にでも行かない限り無理だぞ!」
「なら効率の悪さなど関係ないほどの量で押し切るしかない」
「そんな量の魔力どうやって……!」
「ああ、私たちでは不可能だ。癒羽も魔力を引き出すには時間がかかりすぎる。可能性があるとすればーー」
そう言った斬華の視線の先では、プラチナブロンドの髪を靡かせる真っ白なワンピースの少女が、ちょうど燐の口に指を突っ込んでいた。
ふざけたプレイかとも思ったが、みるみるうちに燐は回復し、数秒後にはもう立ち上がって腕を回したりジャンプしたりと体の調子を確かめていた。
「ーーうん、絶好調。ありがとうアリス」
「でしたらさっさとホテルに戻りましょう。ほら、運んでくださる?」
「仰せの通りに、お姫様」
仰々しくお辞儀をした燐は、アリスを抱きかかえたところで士郎たちの視線に気づいた。
当然いろはが瀕死であることも知っているのだろうが、何も言わずそそくさと立ち去ろうとする。
「……待ってくれ!」
「なんだい?」
「ーーいろはを助けてくれ、頼む……!」
「……今回、キミたちに力を借りたのも事実だ。ーーアリス、お願いしてもいいかな」
「お断りします。ーー助けたいとか、力を借りたとか、そういうのはあなた方の事情でしょう。わたくしにメリットがございませんので」
「……彼らに借りを作れるって考えたら、そう悪くはないと思うけど」
「ーーええ、そうですわね。だとしても、それは士郎さんたちだけです。燐、あなたの頼みを聞く理由にはなりませんわよ」
「え…………ボクたち友達でしょ?」
「違います。仮に友達であったとしても、それとこれとは話が別でしょう」
「じゃあどうすればいいのさ」
「それは自分で考えてくださる? ーーと、そろそろ危険ですわね。ほら、助けてあげますから少しどいてくださいな」
手を払いながらいろはの側に立ったアリスだったが、そこで動きが止まった。何やら難しい顔をしながら呟く。
「……二、いや三滴は必要でしょうか……」
「一滴で十分だと思うよ。元から魔力は多くないし、今は封印されて更にキャパが減ってる。ボクと同じ感覚でやると吹っ飛ぶよ」
「では一滴で」
そう言って屈んだアリスは、爪を使って自分の左人差し指の先を少し切った。そこからぷっくりと出てきた血の一滴を、気を失っているいろはの口を開いて落とす。
「これでいろはは目を覚ますのか……?」
「目を覚ますかどうかは本人次第ですけれど、ひとまず魔力を失って消滅することはなくなったはずですわ」
「そうか、よかった……ありがとう」
「貸し一つということにしておきます。いつか返していただきますわよ」
「ああ、必ず返す」
士郎の返答に満足したのか、アリスは燐を連れてその場を離れホテルの方へ向かった。
見た目と反して異様とも言える雰囲気の少女だったが、敵意は感じなかったし話も通じそうなので安心した。またいつか会う日が来るのだろうが、その時は穏便に済ませられることを願う。
「ーー双葉、いろはの様子はどうだ?」
「……一応、大丈夫だと思うよ。魔力も安定して、ちょっとずつ回復してる。もうすぐ目も覚ますんじゃないかな。ーーいろはちゃーん、起きてー」
「…………ふた、ば……? あれ、あたし……」
双葉の呼びかけで目を覚ましたいろはは、頭を押さえながら重たげに体を起こし、ゆっくりと周囲を見渡すと、全てを察して悔しそうにぼやいた。
「……悪い、途中でぶっ倒れちまった」
「気にするな、お前の助けがなければ最初の綿毛の時点で終わっていた。壁も最後の一枚こそ強引に突破したが、お前が消滅しかけてまで届けてくれなければ、突破は不可能だっただろう。謝る必要などない」
「…………」
いろはも士郎も双葉も、口をぽかんと開いて斬華の方を見る。正直、斬華がいろはをここまで評価しているとは思っていなかったのだ。
「……なんだ。揃いも揃ってそんな顔で」
「お前にそんなふうに言われるとは思わなかった」
「うん、私も斬華さん怒るだろうなぁって思ってた」
「ただ事実を言っただけだろう。お前たちは私をなんだと思っているんだ」
斬華は呆れたようにため息をついてから、視線を士郎の方へ向けた。どうやら先ほど士郎も微妙な表情をしていたのに気がついていたらしい。
「士郎も私が皐月いろはを責めると思っていたのか?」
「違う違う。俺は斬華が真正面からいろはに伝えると思ってなかったから、ちょっと驚いただけ」
「本当か? その場しのぎの言い訳じゃないだろうな」
「斬華にだけは嘘はつかないよ」
「士郎……」
「はーい、二人ともそういうのいいから。いろはちゃんに肩貸してあげてー」
双葉に言われて、士郎と斬華は左右からいろはに肩を貸して体を支える。大袈裟にも思えるが、今のいろはの体はこうでもしなければ立ち上がることすらできないほどボロボロなのだ。
「悪いな、しばらく休めば自力で歩けるようになると思う……」
「この暑さだし、一回ホテルまで戻るか」
「そうだな。士郎、しっかり支えろ」
こうして一行はホテルの部屋へと戻って休んだのだった。
◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆
士郎たちがいろはを休ませるためホテルに戻った頃、その最上階にあるスイートルームで二人の魔王は、ふかふかのソファに座ってくつろいでいた。
正確には一人が座り、もう一人はその膝を枕にして寝そべっている。
「…………少し、無茶をしすぎたようですわね……」
「大丈夫? カーテン閉めようか?」
「ええ……お願いしますわ……」
アリスが体を起こすと、燐はソファから立ち上がって部屋中のカーテンをしっかり閉めた。それらが運良く遮光カーテンだったおかげで、部屋の中はかなり暗くなる。
「どう? ……って、まだ辛そうだね。ちゃんとベッドで休みなよ」
「きゃっ……」
気だるそうに座るアリスを抱きかかえ、ベッドまで運んで寝かせる。狭いソファで燐の膝を枕にするよりかは幾分マシだろう。
持ち上げた瞬間なんとも可愛らしい声が聴こえた気がするが、燐は聞かなかったことにした。
「ごめんね、無理させて。……あ、何か欲しいものとかあったら遠慮せず言ってね」
「ありがとうございます……でも、大丈夫ですわ……夜には良くなるかと……」
今はまだ昼にもなっていない。夜には良くなると言っても、それまでの間ずっとアリスが苦しむのは楽しいものではない。
彼女にとってはほんの一瞬に等しいのかもしれないが、燐にとってはそれなりの時間だ。
燐は意を決してジャケットを脱ぐと、アリスを寝かせたベッドに腰掛ける。
「ほら、いいよ」
「いえ、遠慮いたします……夜まで休めばーー」
「ボクとあの子を助けてくれたお礼だから遠慮しないで」
「……分かりました、ありがとうございます。お言葉に甘えさせていただきますわ」
ベッドから体を起こしたアリスは、燐に後ろから抱きつくようにして体をホールドする。
逃げ場のなくなった燐の首筋に狙いを定め、アリスは口を大きく開くと八重歯をそこに突き刺すように噛みつきーーそのまま肉を噛みちぎった。
「……っ!」
燐が激痛に顔を歪めるが、体は完全にホールドされていて動けない。そうこうしているうちに、アリスの二口目がやってきた。
今度はさっきよりも大口で、深いところまで抉られる。
「どう、かな。魔力は少ないけど、美味しいかい……?」
「ん……ええ、とても」
「はは、そうかい……」
その後もアリスは口周りだけじゃなく、服や体も燐の血で真っ赤に染まるまで燐の血肉を貪り食った。
普段の上品な雰囲気からは想像できない、肉食獣の食事風景のようなもの。道具どころか手すら使わない。燐の衣服も邪魔だったのか途中で無理矢理破いて捨てた。ただ肉に噛みつき、ちぎって、咀嚼する。
そんな行為を三十分も続ければ、真っ白だったワンピースも赤黒く仕上がってしまうし、口周りから首にかけてもべっとりも夥しい量の血が付着している。
「……ぷはっーーご馳走様でした」
「…………」
「ーーあら? 死んでしまわれました?」
「いき、てるよ……」
途切れ途切れに言葉を紡ぐ燐は、ベッドに倒れ込んで荒い息をしていた。その全身は至るところが裂け、千切れ、抉られていて、最早人体としての形すら成していない。唯一無事な頭部ですら頬や耳は噛みちぎられて、言葉を発するので精一杯な状態だ。
そして燐とは逆に、アリスは完全に回復していた。魔力、気力、体力はもちろんのこと、ほんの些細な気だるさすらない。お肌もツヤツヤで、間違いなく今まで生きてきた中で最高の状態だ。
「それにしても、燐のお肉はいつ食べても美味しいですわね」
「は、はは……嬉しい、ね……ごぼっ」
仰向けに寝る燐の口から血が溢れた。まだ自分の中に、これだけの血液が残っていたことに燐は驚いた。
そしてその様子を見たアリスは「あら、勿体ない」と何食わぬ顔で燐に口づけをして口内の血を一滴残さず吸い取った。
「んく……あぁ、いつの時代のどんな食物より、あなたの血肉の方が何倍も美味しいですわ」
「…………ん……」
「さ、わたくしはシャワーを浴びてきますので、燐は休んでいていいですわよ」
もう決して落ちることのないだろう量の血を吸ったワンピースをその場で脱ぎ捨て、アリスはシャワールームへ軽快な足取りで入ってゆく。そして中からシャワーの音が聴こえてきたことを確認して、燐は大きなため息をついた。
「はぁぁぁぁ……ごほっごほっ! あー……」
〈燼滅妃〉の力で再生しようにも、アリスに魔力を相当喰われた。ただでさえ死にかけた状態で、アリスから魔力を分けてもらうことでなんとか持たせていたのに、貰った魔力の八割近くを今の食事で喰われてしまった。
このまま消えるようなことはないが、アリスがシャワーから出てくるまでに完全復活ともいかない。せめて見た目だけでも繕うために、顔や手足に優先して力を集める。
『〜〜〜♪︎』
ご機嫌なアリスの鼻歌が聴こえてくる。
よっぽど燐の肉が美味かったのだろう。このままでは出てきてから『おかわり』を要求される可能性も出てきた。流石に燐でもこれ以上喰われれば〈燼滅妃〉で再生することもできなくなる。
そもそもアリスの食事はただ燐の血肉を食べている訳では無い。
ただ肉を食われるだけなら〈燼滅妃〉でいくらでも再生できる。だがアリスは燐の血肉と一緒に、その魔力まで喰らっているのだ。
理屈は分からないが、『そういう種類の生き物』とアリスは語った。中二病には少し早い気もするが、本人がそう言うならそういうことにしておこうと燐も深くは聞かなかった。
今考えれば、あながち嘘ではなかったのかもしれない。いくら魔王とはいえ、人の血肉を食べるのは少しおかしいような気もする。
「分かんないなぁ……」
「ーー何がですの?」
いつの間にかシャワーを浴び終えたアリスが立っていた。全裸で。
だがそんなことを指摘するだけ無駄なことを燐は知っている。
「前にキミが言ってた『そういう種類の生き物』ってやつだよ。あの時は適当に流したけど、もしかして本当に人じゃなかったりする?」
「……信じてなかったのですか」
「うん、ちょっと早い中二病か何かだと思ってた」
「チュウニ……? なんだかよく分かりませんが、これはお仕置が必要ですわね」
未だに動けるまで回復していない燐の上に、全裸のまま跨ったアリスは嗜虐的な笑みを浮かべる。流石に危機感を持った燐だったが、逃げ出すこともできずにただアリスを見上げるしかない。
「こ、これ以上食べられると流石にボクも死んじゃうんだけどな。もう魔力もほとんど無いし」
「それなら問題ありませんわ。ーーん……ほら、口を開けてくださいな、あーん」
「え、あ、あーん……?」
言われた通りに口を開く燐の真上で、アリスの舌から唾液が垂れる。それを口にすべきかどうか迷ったが、ここで拒否をしても結末は変わらないと判断して大人しく受け入れた。
「血液よりは薄いですが、それでも十分な量ですわよ」
「ーー本当だ、すごいね。唾液でもこれだけなら……アリス?」
「さて、ではお仕置に移らせていただきますわ。まずはーー」
そう言って狙いをつけたアリスは勢い良く燐の喉元に喰らいつき、本日二度目の食事を始めたのだった。