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魔王〈トリックスター〉

 異世界から【滅災】(めっさい)という災害とともにやってくる魔王。確認されているだけで七人いる中の一人、〈ムラマサ〉の〈眷属〉を封印してから一ヶ月ほど経過した。暦は六月へと移り、梅雨のせいもあって雨の日が続く。


 この一ヶ月で、魔王を封印した張本人である楠田士郎(くすだしろう)の周囲を取り囲む環境は大きく変わった。

 その中でも一番の変化と言えるのは、〈眷属〉を封印され一般人と化した魔王〈ムラマサ〉ーー斬華(きるか)との同棲が始まったことだ。

 元々は死んだ両親と士郎、そして士郎の妹である楠田双葉(くすだふたば)の四人暮らしだったのでスペース的にはなんの問題もないのだが、それはそれとしてうら若き男女が同じ屋根の下生活するのは如何なものだろうか。当の本人である士郎ですらそう思うのだ、双葉からすれば気が気でないだろう。

 そういう経緯もあって、部屋は余っているにも関わらず、斬華は双葉と同じ部屋で就寝することが決めつけられていた。


 ついでに言うと、斬華は士郎の通う天前高校に士郎の従兄妹という設定で転入してきていた。ご丁寧に同じクラスである。

 後々聞いた話だと、『ブレイヴ』が裏から色々と手を回したとか回してないとか……。


『ブレイヴ』というのは対魔王制圧組織を名乗る特殊な機関で、堅苦しい名前だが目的は至って単純だ。

 魔王の力である〈眷属〉を封印することで、魔王を人間にしてこちらの世界で平穏無事な日々を送ってもらう。そのために用意された空中艦『デュランダル』に士郎は度々お世話になっている。

『デュランダル』の艦長である皇恭弥(すめらぎきょうや)、そして副艦長である如月(きさらぎ)、それと乗組員である佐久間と小野。主にこの四人と会うことが士郎は多い

 ちなみに斬華の戸籍上の名前は「如月斬華(きさらぎきるか)」ということになっている。斬華は自分も楠田が良いと駄々を捏ねたが、皇がそれを許さなかった。

 〈眷属〉の封印ならともかく、書類の偽造のようなところにまで一般人である士郎を巻き込めないのだとかなんとか。おそらく士郎の身を案じてのことなのだろう。意外と『デュランダル』の乗組員の中で一番士郎のことを心配しているのかもしれない。


 そして『デュランダル』にはもう一人、艦の端にある一室に引きこもっている少女がいる。

 皐月(さつき)いろは。こちらの世界に現れてすぐ『デュランダル』に保護された魔王で、識別名は〈トリックスター〉。

 士郎が〈ムラマサ〉の〈眷属〉を封印してから一週間ほどしてからだ、二人は偶然『デュランダル』内で遭遇した。初めの頃はお互いに警戒し合っていたが、話してみると意外と悪いやつではないと理解し、それ以来士郎はちょくちょくいろはの部屋へと遊びに来ていた。


「んー、シロ助、暇だ。何か面白いことやれ」


 いろはは黒いボブカットの前髪、一部だけ白でメッシュの入った部分を指でクルクルと弄りながら、ベッドに腰掛けた士郎に向かって言い放つ。


「無茶ぶりすぎる……。てかそのシロ助ってのやめないか?ゲームで使ってる名前で呼ばれるの恥ずかしいし」


「あたしのセンスがダサイって言いたいのかよ」


「そういう訳じゃないけどさ……」


 この「シロ助」という名は、士郎といろはの初邂逅から一週間後。ゴミが溜まりに溜まって汚部屋と化したいろはの部屋を士郎が掃除し終えた後のことだ。

 この時いろはがプレイしていたオンラインゲームでキャンペーンが開催されていて、新規でユーザーを招待すれば限定アイテムを貰えたらしい。

 士郎はいろはの口車に乗せられ、まんまとそのオンラインゲームにデビューさせられた。その時にユーザー名を名前そのままにしようとしたところ、いろはによるストップがかけられ、その後は半ば強制的に「シロ助」という名に決定したのだ。

 とまあ、ゲーム内の名前なら士郎もとやかく言うつもりは無いのだが、問題はその名を現実でも読んでくることだ。

 渾名のようなものだと観念すればいいのだが、やはり人前で呼ばれると小っ恥ずかしいものがある。


「あたしはどこぞの魔王みたいに、腑抜けた顔で「士郎」なんて呼びたかないんだよ」


「いや、斬華も別に腑抜けた顔とかしてないと……」


「それだよそれ。あいつはあたしなんかと違ってまともな魔王だったんだろ。なのになんでお前みたいなのと仲良しごっこしてるんだよ。挙句〈眷属〉まで封印されちまって、一体何考えてるんだか」


「そんなに気になるなら、直接本人に聞けばいいんじゃないか?」


「嫌なこった、あたしがあいつのこと苦手なの知ってんだろ。それよりシロ助、お前明日って休みだったよな?」


「ああ、土曜日だし特に予定は無いけど……」


 よし、とガッツポーズをしたいろはは、部屋の片隅に置いていた未開封のダンボールを士郎の前まで持ってくる。


「開けてみろ」


「何これ」


「いいから開けてみろって」


 いろはに言われるがまま、士郎はダンボールを開封する。中に入っていたのは大量のDVDだ。


「『魔法乙女くるみん』のDVDコンプリートセットだ」


「…………なんて?」


「『魔法乙女くるみん』のDVDコンプリートセットだ」


 魔法乙女くるみん。全十三話とOVA一話で二年前に放送されていたアニメだ。

 可愛らしい絵柄とほのぼのとした世界観で、主人公の「早乙女(さおとめ)くるみ」が喋る猫と出会って魔法乙女となり人助けをするという内容だったのだが、最終話で仲間の魔法乙女が全員謎の死を遂げ、最後には主人公であるくるみも何者かによって殺されてしまい本放送を終えた。

 その後OVAでくるみを殺した真犯人や、仲間の死の真相が明らかになったという問題作だ。

 あまりオタク文化に詳しくない士郎でも話ぐらいは聞いたことがあるほどで、社会現象になったということも知っている。しかしなぜいろはがこんなものを持っているのか、そしてなぜ今これを持ち出してきたのか、それが士郎にはわからない。


「これめちゃくちゃ面白いらしいから一緒に見ようぜ!」


「……明日でいいか?今日はもう帰るつもりなんだけど」


「固いこと言うなよ、明日休みなんだから泊まっていけ。一緒に朝まで見ようぜ」


「はい?」


「安心しろ、皇に許可はとってある。食堂に行けば飯は食えるし、シャワールームには乗組員用の制服が常備されてるから着替えの心配もない。寝床はここを使えばいいしな」


 なんという用意周到さか。しかしいろはは最も重要なところへ根回しを忘れている。いや、できないと言うべきか。

 楠田士郎最終絶対防衛ラインである楠田双葉と如月斬華を突破する術を、皐月いろはは持たない。


「〈ムラマサ〉と妹のことなら放っとけ、一日ぐらい大丈夫だろ」


「そういう訳にもいかないんだよ、せめて連絡ぐらいはさせてくれ」


「……まあ、それぐらいならいいけどよ」


 いろはの許可を得ると、士郎は斬華に電話をかける。

 数コールもしないうちに斬華と電話が繋がる。携帯を持たされた時は使い方が一切分からず、あたふたしていたのが懐かしい。


『士郎、どうした?』


「あの、今日なんだけど……えっと、友達の家に泊まってもーー」


『そうか、明日の昼食は私が作ることになってる。それまでには帰ってこい』


「へ?」


『それではな、双葉には私から伝えておくよ』


「あ、ありがとう……」


 通話が終了する。

 もっと色々聞かれると思っていた士郎は、少し気が抜けたような感覚に陥る。

 やけに素直だったことが、逆に士郎の不安感を煽るのだが、そんな気持ちを知る由もないいろはは呑気なものだった。


「なんだ、案外話のわかるやつじゃん」


「俺もちょっと意外だった……」


「思ったより好かれてないんじゃねーの?」


「えっ……」


「冗談だ、シロ助と妹はあいつのお気に入りだろ。前に話してたぞ」


「よかった……てか、二人って話すことあるのか」


「たまーにな。ほら、あいつ検査でこっちに来ることあるだろ?」


 斬華は不定期で『デュランダル』まで検査とは名ばかりの、魔王についての研究のために呼び出されていた。いろはでは魔力が大きすぎて正確なデータが出せないのだとか、その点で言えば〈眷属〉を封印された斬華は丁度良いのだろう。

 斬華もそのことは理解して協力している。随分と『デュランダル』にも慣れてくれたようで、士郎はかなり安心していた。


「まあ、その時に向こうがわざわざこっちまで来たんだよ。『魔王の気配がする』とか言いながらな」


「魔王の気配……そんなものがあるのか?」


「魔王の気配ってーより、魔力だな。こっちの世界じゃ、まず考えられない量と質の魔力を感じ取ったんだろ。魔王同士なら、なんとなく分かるーーつっても今のあいつはその量と質が著しく下がってるからな、あたしがあいつを見つけることはできねえよ」


「なるほど、それで魔王の気配ってことか」


「おし、難しい話はこんぐらいにして、まずは腹ごしらえだ」


「ちょ、ストップ!いろは!」


 いろはは士郎の手を引いて食堂へ向かおうとするが、士郎はそれを必死に止める。


「なんだよ、あたし腹減ってんだけど」


「なんだよ、じゃない!その格好のまま行く気か?」


 いろはは士郎に言われてから、自分の服装に目線を落とす。

 上はノーブラでタンクトップ一枚、下に至ってはショーツだけという、奇しくも士郎と初めて会った時と同じ格好だった。


「……それもそうか。ちょっと着替えるから待っててくれ」


 いろはは部屋に付けられたクローゼットから、ホットパンツとパーカーを引っ張り出してきた。

 しかし、ホットパンツはまともに履けたのだが、パーカーのファスナーがその豊満な胸に引っかかって閉まりきらないのだ。

 かと言ってノーブラで前を全開にして歩くわけにもいかず、結果として胸元が驚く程に開いているが、ギリギリ先端は隠れるところで落ち着いたらしい。


「どうだ、シロ助。これならいいだろ?」


「ああ、似合ってるよ。普段からちゃんと服着たらどうだ?」


「うーん……シロ助がまた褒めてくれるなら考えといてやる」


「いくらでも褒めるからそうしてくれ。下着姿でいられると目のやり場に困る」


「それずっと言ってるな。あたしは気にしないからお前も気にすんなよ」


 士郎がいろはと出会ってからというもの、いろはがまともに服を着ているのを見たのはほんの数回しかない。

 部屋にいる時は基本的にさっきと同じタンクトップにショーツ姿で、その部屋から出ることが少ない上に、いろは自身の羞恥心も常人に比べて薄いのだ。

 そのことについて、士郎は何度か意見しているのだが、当の本人であるいろはが何とも思っていないからどうすることもできない。


「気にすんなって言われてもだな……」


 正直、いろはは引きこもりとは思えないほどスタイルが良い。出るとこは出てるし、引っ込むところは引っ込んでいる。グラビアアイドルでもやっていけるぐらいだ。

 それに徹夜明けでさえなければ顔も整った美形で、雑誌のモデルだと言っても疑う人はいないだろう。

 そんな美少女が下着姿で、さらに同じ部屋に二人きりでは意識するなという方が無理な話だ。


「なんだ、もしかしてあたしに惚れたか?」


「違っーーと!」


 士郎が否定しようした瞬間、廊下の角を曲がってきた誰かとぶつかってしまった。

 いろはと話していた士郎の不注意だ。


「おっと、すまない。考え事をしてい、たーー士郎?何をしているんだ、こんな所で」


「き、斬華……えっと」


 曲がり角で士郎がぶつかったのは、一ヶ月前に〈眷属〉を封印した魔王〈ムラマサ〉ーー斬華だった。


「士郎、なぜ〈トリックスター〉と一緒にいる?友人の家に泊まるんじゃなかったのか」


「えーっと……」


「シロ助は今日あたしの部屋に泊まんだよ。だからここにいる、何か問題か?」


 いろはが士郎の一歩前に出てやや挑発気味に言う。その言い方に斬華はほんの少し眉を動かした。

 それに気づいたのはいろはではなく士郎だ。ほんの一ヶ月程度の付き合いだが、士郎は斬華の表情や癖などをかなりの精度で見抜けるようになっていた。

 今の動きは中でも簡単だ。いろはの挑発に対して苛立ったーーはずなのだが。


「ーーそうか。士郎、電話でも言ったが昼には帰ってこいよ。ではな」


 斬華は踵を返して来た道を戻っていく。一体なんだったのだろう。こっちに用があったのではないのだろうか。

 なんて士郎が考えていると、隣のいろはが小さく舌打ちをした。


「んだよ、もう少しぐらいムキになると思ったんだけどな」


「頼むからやめてくれ、心臓に悪い……」


「シロ助はあんなののどこが良いんだ?」


「どこって言われると難しいな……最初は一目惚れだったって話はしたよな?」


「それは何度も聞いた」


「その後にも色々あったんだけど……一番は双葉かな」


「なんでそこで妹が出てくる」


「双葉は俺にとって唯一の家族だ。斬華は双葉のことを大事に思ってくれてる。双葉の方はそうでも無いみたいだけど、それだけでも大きな理由になる」


「そういやシロ助はシスコンだったな……まあ、お前らの境遇なら仕方ないか」


「兄が妹の心配をして何が悪い」


「悪いとは言ってないけど、過保護すぎるって言ってんだよ」


 いろはは心底呆れたという顔で言葉を紡ぐ。


「もし妹が彼氏連れてきたらどうする?」


「双葉が選んだ相手なら何も問題ないだろ」


 意外とまともな返答だと、いろはは感心しかけた。しかし、士郎の言葉はまだ終わっていなかった。


「念の為、如月さんと皇さんに頼んで相手の身辺調査をしてもらう。あとは〈斬殺鬼〉(キャンサー)の封印を解いて、本当に双葉のことを好きなのかを確かめるぐらいか」


「えぇ…………」


 流石のいろはもこれにはドン引きだった。

『デュランダル』の力を借りるぐらいまでは想像できていたが、まさか封印した〈斬殺鬼〉(キャンサー)の力(斬った相手の考えていることが分かる)まで使おうとするとは……。


「というかシロ助、〈眷属〉の封印を解くってそんなことできんのかよ」


「できる、はず……たぶん」


「なんだよ曖昧だな」


「試したことないから分からないけど、感覚的にはできそうなんだ」


 士郎は自身の中に〈斬殺鬼〉(キャンサー)がいることを感じることができる。今は鍵のかかった箱にしまってあるような状態だが、士郎がその気になればその鍵を開くことはできる気がする。

 だが、そうした場合〈眷属〉が現れるのは士郎の手元なのか、それとも元あった魔王の手元に戻るのかが分からない。それにもう一度封印することができるのかも不明だ。

 そんな大博打を士郎一人の独断で行うことはいくらなんでもできなかった。


「なら試してみるか」


「え?」


「ほら、〈箝替公〉(リブラ)


 いろはの手に白銀の指揮棒が現れる。

 この指揮棒こそ魔王〈トリックスター〉、皐月いろはの〈眷属〉である〈箝替公〉(リブラ)だ。

 そしていろはは自身の〈眷属〉をなんの躊躇もなく士郎に手渡した。


「いいのか……?」


「ちょっとした実験だろ、試すぐらいなら大丈夫だ。〈箝替公〉(リブラ)もそこまで器の小さい〈眷属〉じゃないしな。でも、ちゃんと終わったら返せよ」


「あ、ああ……じゃあお言葉に甘えて、よろしく頼むよ〈箝替公〉(リブラ)


 〈箝替公〉(リブラ)に一言断りを入れてから、士郎は〈眷属〉の封印にかかる。

 少しずつ、だが着実に〈眷属〉が士郎の体内へと吸収されていき、やがて白銀の指揮棒は光の粒子となって消滅した。

 〈斬殺鬼〉(キャンサー)を封印した時と全く同じ感覚に、士郎は少し困惑していた。


「本当によかったのか?」


「ちょっと遊びに付き合うぐらいならな。さっさと封印解いてみろ」


「分かった」


 士郎は自身の中にある〈箝替公〉(リブラ)を封じている箱の鍵を外した。

 するとーー


「ーーなるほど、これはちょっと面倒だな」


「何がだ?」


 いろはは小さなため息を吐いて、白銀の指揮棒を召喚する。


「ーー封印した〈眷属〉は魔王の元に戻るらしい。てことはだ、〈ムラマサ〉との喧嘩でシロ助が〈斬殺鬼〉(キャンサー)の封印を解けば、あたしはボコボコにされる」


「喧嘩……?」


「もしもの話だ。実際にやり合う気はねえよ、今のところは。それよりシロ助、このことは誰にも言うんじゃねえぞ」


「如月さんや皇さんにもか?」


「そうだ。〈眷属〉の封印を解けば魔王の手元に戻るってことがバレれば、おそらく『デュランダル』はシロ助が〈眷属〉の封印を解けないようにするはずだ。人間の思考を制御する方法なんかいくらでもあるし、もしどこかから『デモニア』に情報が漏れたら、今度はシロ助を狙ってくるぞ」


「……意外と考えてるんだな、いろは」


「馬鹿にしてんのか?」


 いろはの額に青筋が浮く。今のは流石に失礼だったと、士郎が反省するよりも先にいろはの手が伸びてきた。

 いろはは士郎の腕をがっしりと掴むと、力任せに近くの部屋へ投げ込む。

 士郎が壁に背中を打ち付けると同時に、いろはも部屋に入って扉を閉めた。


「いきなり何をーー」


「しっ、静かにしてろ」


 いろはは士郎にそう言うと、壁に耳をぺたりとくっ付けて目を閉じた。

 いったい何事かと、士郎もいろはと同じく壁に耳をくっ付けて向こう側の音を聴きとる。

 よく耳を澄ますと、どうやら向こうにいるのは女性が二人らしい。どちらも士郎には聞き覚えのある声だ。おそらく斬華と如月だろう。

 二人が一緒にいるのは珍しいと思ったが、検査などで会う機会も多いだろうし、案外そうでも無いのかもしれない。


『如月、やはり私は士郎に嫌われてしまったのだろうか』


『ーーこれはまた唐突に、何かあったのかい?それとも、何も無かったからなのかな』


『最近の士郎は、なんというか……冷たいと言うか、前ほど私のことを見てくれていないような気がする……』


『………………』


 壁越しにも如月が困惑しているのが分かる。

 というか、実際に相談されている訳でもない士郎といろはも困惑していた。

 あの斬華が、魔王〈ムラマサ〉がこんな恋する乙女みたいなことで悩んでいるだなんて、誰が想像できたか。


『なあ、如月。士郎は私に一目惚れしたと言ったんだ。だが、もしそれが勘違いだったら?魔王の膨大な魔力に当てられただけで、私という存在には何の好意も持っていなかったら?』


『ふむ……それは興味深い仮説だ。可能性が無いとも言いきれない』


『っ……やはり、そうなのか。最近は専ら〈トリックスター〉の部屋に入り浸っているようだしな……このまま楠田家にいるのは迷惑なのだろうか』


『どうだろうね、今のところ士郎からそういった相談は受けていないし、それを匂わすような気配も感じないが……』


『そうか……だが今日は〈トリックスター〉の部屋に泊まるらしい。しかも私に電話してきた時は「友達の家に泊まる」なんて嘘までついてだ。士郎の手前、なんとか取り乱さずに、話せたと……おも、ったのだが……ひくっ……』


 斬華が嗚咽を漏らした。士郎といろはは互いの顔を見合い、おそらく壁の向こうの如月も驚愕していることだろう。


『ははっ……どうやら、〈眷属〉を封印されて、随分と弱くなってしまったらしい……士郎に嫌われたと思うだけで、こんな気持ちになるのだからな……』


『ーー残念ながら、私は希望的観測だとか、優しい嘘というのが苦手でね。気の利いたことは言えないが、一つだけ真実を伝えておこう』


『なんだ……』


『本当は口止めされているから、私が話したことは内密で頼むよ。ーー士郎はまず間違いなく君に恋愛感情を抱いている。学校では人目に付くし、家でも妹がいて二人きりになれないとの相談を何度か受けていてね。いくら士郎が物好きでも、好きでもない相手と二人きりになりたいと思うことはないだろうね』


『そう、なのか……?』


『事実だよ。まあ士郎も新しい魔王の封印をしなくてはと、少し意気込みすぎなところがあるからね。もしかすると周りが見えにくくなっているのかもしれない。だから君には彼を支えてやってほしいんだ。現状、士郎が最も信頼しているのは君だろうしね』


『そうか、そういうことなら……今日ぐらいは……』


『それでも嫌だというなら、私から今日は帰るよう士郎に伝えておくがーー』


『いや、大丈夫だ。私の都合で士郎に迷惑をかけたくない……今日は大人しく帰るとする。世話をかけたな、如月』


『また何かあったらいつでも来るといい』


 コツコツと、斬華の足音だけがその場から離れていく。おそらく楠田家に戻ったのだろう。

 空き部屋の中、士郎といろはは二人して微妙空気になっていた。まさか斬華があんな悩みを持っていたとは。

 情報の整理が追いつくまで、もう少し時間がかかりそうだと思った矢先、更に予想外の出来事が二人を襲った。

 二人のいる空き部屋の扉が開かれ、如月がいつも通りの不健康そうな表情でこちらを見ていたのだ。


「で、士郎は今の話を聞いてどうするつもりだい?」


「き、気づいてたんですか?」


「ああ、魔王の気配がしたからね。それと済まなかった、口止めされていたのに彼女に話してしまった」


「今のは仕方なかったと思います……」


「そう言ってくれると助かるよ。それで、どうするつもりかな?」


「シロ助、今すぐ帰れ」


 どうしたものかと、士郎が悩むよりも前にいろはが口を開いた。


「いいのか?」


「いや、いいとか悪いとかじゃないだろあれは。あたしのせいでもあるけど、お前ももっと〈ムラマサ〉のこと気にかけてやれ」


 斬華のことを苦手と言っていた割に、やけに斬華の肩を持ついろはに、士郎は困惑していた。


「そんな顔する暇あるならさっさと帰れ!それと休み中はあいつの傍にいてやれよ!こっちに来たらぶっ殺すからな!」


 そう言いながら斬華は士郎を蹴っ飛ばし、自室の方へと戻って行った。

 一体どういう心境の変化があれば、あそこまで行動に影響するのだろうか。


「あれも彼女なりの優しさだろう。今日のところは甘えておくといい。この借りは後日返せばいいさ」


「はあ、分かりました……」


 全く分かっていないが、とりあえずいろはに言われた通り士郎は帰宅した。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 翌日、いつものように士郎、双葉、斬華の三人で朝食を摂っていると、突然思いついたように双葉が口を開いた。


「お兄ちゃん、たまには三人でどこかに出かけない?」


 三人というのはもちろん士郎、双葉、斬華のことだ。

 斬華が楠田家に居候を始めて一ヶ月ほど経ったが、思い返してみてもこの三人で一緒に出かけた記憶はほとんどない。

 斬華のための日用品などを揃えにショッピングモールへ行った以来だろう。娯楽目的で出かけたことはなかった。


「いいんじゃないか、なあ斬華」


「出かけるとは、また何か必要になったのか?」


「もう、斬華さんってばそうじゃなくて」


「三人でどこかに遊びに行こうってことだよ。家で本を読むのもいいけど、たまには外に出たってバチは当たらないだろ?」


「それは……うん、私も構わないぞ。そういうのも悪くない」


 言い方と比べて、表情がキラキラとしている。かなり喜んでいるようだ。


「じゃあ決定!どこに行く?遊園地?水族館?」


「水族館とは、あれか?無数の魚が泳いでいるというーー」


「魚以外でも海の生き物はだいたい見られるぞ」


「それは興味深いな……!」


 魔王として生を受け、これまで娯楽なんかに一切触れてこなかったのだろう。水族館という言葉を聞いただけで、斬華は幼い子供のように目を輝かせる。


「じゃあ水族館で決定だな。朝飯の片付けは俺がやっとくから、二人は準備してきていいぞ」


「やったー、お兄ちゃん愛してる!」


「はいはい、俺も愛してるよマイシスター」


「私も士郎のこと……す、好きだ、ぞ……?」


「うんうん、俺も斬華のことーーえ?」


 双葉と同じように流しかけた士郎が視線を上げると、耳の先まで真っ赤に染まった斬華と目が合った。


「ちょっと斬華さん、妹の前でお兄ちゃん口説かないで!お兄ちゃんもデレデレしない!まったく……そういうのは私のいないところでやってよね」


「いないところだったらいいのか?」


「斬華さん、揚げ足取らない。ほら、出かける準備するよ!」


 そう言って双葉は斬華の手を引いて自室へ戻っていく。その間、士郎はあまりの衝撃に微動だにしなかった。

 同じ空間から斬華が出て行って初めて、今起こったことを理解し始めた。


「あれはズルいだろ……」


 昨日の事といい、最近の斬華は士郎への好意を周りに隠さなくなり始めた。士郎も斬華に好意があるのだから、それが周知になることに何の問題もないのだが、それを公言することで外堀から埋める作戦なのかもしれない。

 しかし、どんな目的であれ今の斬華の発言は確実に士郎の心を揺さぶっていた。

 妹が近くにいるという事実と、士郎の鋼の精神力が無ければ勢いで抱きしめていたかもしれない。

 などと、一人で動揺している士郎のポケットでスマホが震えた。画面には「皐月いろは」の文字、一体何の用だろうか。


「おはよう、いろは。どうしたんだ?こんな朝早くから」


『おはようさん。特に用ってわけじゃねえけど、お前がちゃんと〈ムラマサ〉と一緒にいるのか一応確認しときたくてな』


「大丈夫だよ、言われた通り休み中は斬華と一緒に過ごす。今日だって双葉も入れて三人で出かけるつもりだ。よかったらいろはも来るか?」


『あたしはやめとくわ。今からちょっと出かける用事があるからな』


「そっか、なら長話はできないな」


『それはあたしじゃなく〈ムラマサ〉としてやれ。それで、〈ムラマサ〉の機嫌はどうだ?』


「特に変わった様子もないし、問題ないと思うけど、心配してくれてるのか?」


『なんであたしが腑抜けた魔王の心配しなくちゃならねえんだよ。ただ『デュランダル』の連中が騒がしくてな、〈眷属〉を封印したとはいえ相手は魔王だ。精神状態が不安定だと気が気じゃないらしい』


「そうだったのか。なら如月さんたちに、もう心配ないって伝えておいてくれ」


『あたしは今から寝るから伝えられねえ。でもまあ、どうせ監視カメラで見られてるんだ。言葉じゃなく行動で示せよ』


「ーーそうだな、ありがとう。いろは」


『わかりゃいいんだよ。じゃあ、せいぜい上手くやれよ』


 ブツっと、一方的に通話が切られた。しかし、いろはが士郎たちのことを気にかけてくれているのは分かった。

 朝からわざわざ理由をつけて電話をかけてきたのも、そういうことだろう。


「お兄ちゃん、いろはって誰?」


「うわぁっ!?」


 士郎が振り向くとそこには、訝しげな視線を向ける双葉が立っていた。


「も、もう準備できたのか?早かったな」


「今日の主役は斬華さんだしね、私が気合入れすぎても変でしょ。それよりお兄ちゃん、いろはって誰?」


「えーっと……友達、かな?」


 士郎といろはの関係性は一緒にゲームをしたり談笑するぐらいでしかない。そういうことなら友達というのもあながち嘘にはならないはずだ。

 むしろこれ以外の言葉が見つからない。


「ふーん……お兄ちゃん、女の子の友達多いんだね。斬華さんに聞いたよ、学校でも年下の女の子と楽しそうに話してるって」


「年下の女の子……あ、茉莉(まつり)ちゃんのことか?あの子は違う、友達というより後輩だ」


「へぇー、茉莉ちゃんって言うんだ。覚えとくね?」


「本当にただの後輩だから、やましいことなんか何もないぞ」


「それは私が決めることだから、お兄ちゃんには関係ないよ」


 完全に双葉の悪い癖が出てしまっている。士郎に女の影がチラつこうものなら、相手のことを徹底的に調べようとするのだ。

 斬華の場合はいきなり家にやって来て調べる暇もなかったし、そもそも調べようにも斬華の素性が一切分かっていなかった。

 しかし今回は相手の名前、通っている学校と学年まで分かっている。これだけ分かっていれば、ある程度は調べ上げられる。


「……あのな、双葉。そういうことやってると、いつか痛い目見ることになるぞ」


「お兄ちゃんが変な女に引っかかるよりマシだよ」


「変な女って……」


「だいたい、お兄ちゃんも斬華さんのこと好きなんでしょ。なのに他の女の子と仲良くしてるのってどうなの?」


「どうなのって言われてもな……あくまで友達としてーー」


「男女間の友情なんて存在しないよ」


「そんなことはないだろ!」


「じゃあお兄ちゃんは茉莉ちゃんやいろはって人と話してて、一瞬でも意識したことないんだね?」


「そ、それは……」


 ない。と言えば嘘になってしまう。

 いつも下着姿のいろはは当然のこと、小動物のような印象の茉莉ですらたまに士郎をドキッとさせるのだ。

 やはり双葉の言うことは正しいのだろうか。


「別に女の子と話すなって言ってるんじゃないんだよ?意中の人がいるのに、他の女の子と仲良くしすぎないようにって言ってるの」


「仲良くしすぎてるのか、俺は……?」


「しすぎてます。お兄ちゃん、斬華さんと出会ってから明るくなったけど、それから急に女の子と仲良くなり始めたんだよ。斬華さんは分かるけど、なんで他の人まで名前で読んでるわけ?」


 少々面倒なことになってきたな、と士郎は頬をかく。昔から双葉はスイッチが入るとなかなか止まらない子だった。


「そもそも、なんでそんなに一気に女の子の知り合いが増えるの?斬華さんの素性も結局よく分かってないし」


「斬華については本当に悪いと思ってる。けど俺を信じてくれ」


「……分かってるよ。斬華さんは悪い人ーーじゃなくて、魔王じゃない。それは今更言うまでもないけど、そういうことじゃないの」


「じゃあどういうことだよ」


 士郎の言葉に双葉は、一瞬だけ戸惑うような表情を見せる。それからゆっくり口を開くが、上手く言葉にできないようだった。


「……じゃあ、もう正直に聞くよ。お兄ちゃん、二人目の魔王は誰?」


「ーーは?」


「聞こえなかった?茉莉ちゃんといろはって人のどっちが魔王なの。それとも両方そうなの?」


「何を、言って……」


「すまない、少々身支度に手間取ってしまった」


 動揺する士郎と、それに向き合う双葉。そしてそんなことは露ほども知らない斬華がリビングへやってきた。


「斬華、まさかお前が……!」


 そうだ、そうに違いない。魔王が複数いることを双葉に教えたのは斬華だ。

 どういう意図があったのかは分からない。だが斬華は知っていたはずだ。士郎がこれ以上、双葉を巻き込まないようにしていることを。

『デュランダル』や魔王関連の会話は絶対に聞かれないようにしているし、如月やいろはと連絡を取る時もできる限り見つからないように注意を払っていた。

 それもこれも全て、双葉を危険に晒すことを避けるためだ。


「なんだ、私がどうかしたのか?」


「どうかしたのかじゃない!なんでいろはのことを双葉に話したんだッ!」


「ふーん、二人目の魔王はいろはって人の方なんだ。わざわざ教えてくれてありがとう、お兄ちゃん」


「なっ……双葉お前!」


「ごめんね、お兄ちゃん。でも、これも全部お兄ちゃんのためだから」


 なんの悪びれもなく、ただただ屈託のない笑顔を見せた双葉はヒラヒラと手を振りながら玄関へ向かう。


「じゃあね、私はちょっと用事があるから斬華さんと二人で楽しんできなよ」


「待て、双葉!」


 バタン。

 ドアが閉まり、士郎と双葉の間に確かな壁が生まれる。


「……大丈夫。私ならやれる」


 そう双葉は呟いたが、士郎と斬華の耳には届かない。


「士郎、どういうことだ?」


「とぼけてるのか……?斬華が魔王はまだいるってことを双葉に話したんだろ!」


「ーーふむ、悪いがそれは濡れ衣だ。私が双葉にそんなことを話すはずないだろう。あの子は自分で気付いたんだ」


「自分で気付いた……?そんなわけないだろ、双葉がどうやって魔王のことを知るんだよ!」


「さあな、そんなことは私も知らん。魔王の気配でも感じ取ったんじゃないか?双葉はそういう気配には敏感だろう」


 確かに双葉は魔王の気配ーーというか魔力にかなり敏感だ。それは斬華が初めて楠田家にやって来た時からわかっている。

 しかし、だとしてもだ。並風市(なみかぜし)の遥か上空に浮かぶ空中艦『デュランダル』にいる魔王の魔力を感じ取ることなど可能なのだろうか。

 答えはーーおそらく不可能だ。

 距離が離れているということもあるが、そもそも『デュランダル』自体に魔力を遮断する装置が搭載されている。そうしないと、いろはの魔力を感知した『デモニア』が襲撃してくる恐れがあるからだ。

 そんなものがあるのに、双葉がいろはの存在を知れるはずがない。


「……いくら双葉が魔力に敏感だからって『デュランダル』の中にいるいろはの魔力をここから感知できるはずがない」


「その通りだ。『デュランダル』の中にいる魔王の魔力を感知することは『デモニア』の連中にも不可能だろうな」


「……『デュランダル』の外に出れば感知できる、のか?いや、それでもおかしい。いろはが『デュランダル』の中にずっといるって言ってた。このことは如月さんにも確認したから間違いない」


「なら答えは絞られたじゃないか」


 斬華が悪戯っぽく笑った。

 双葉は魔王の魔力を感じ取ったが、それはいろはの魔力ではない。

 なら双葉は一体誰の魔力を感知したのか?


「まさかーー新しい、魔王……?」


「もしくは魔王に匹敵する魔力を持った何か、だな。いずれにせよ、相応の力を持っていることに変わりはない」


「そんなやつがポンポン現れるのか……?」


「知らん、だが現に私と〈トリックスター〉は短い期間でこちらへ現れた。前例がある以上はその可能性も考えるべきだ」


 斬華の言うことは正しい。

 〈ムラマサ〉と〈トリックスター〉、二人の魔王がこの並風市に続けて現れたのだ。その魔力に釣られて、他の魔王がまだ現れる可能性もゼロではない。

 もし本当に魔王が現れていたら?


「ーー双葉が危ない!」


「焦るな馬鹿者」


 すぐさま駆け出そうとする士郎の襟首を掴み、斬華は軽々とソファ目掛けて放り投げた。


「相手が魔王であれば、即座に双葉の身に危険が及ぶということはない。だからまずは落ち着け」


「なんでそんなこと言い切れるんだよ!」


「双葉の魔力感知の精度は本物だ。それでいて魔王の恐ろしさを知ってるからな、不用意に近づくとは考えにくい。それに魔王だって騒ぎを起こしたいわけじゃない。子どもに尾行されたぐらいなら、無視して適当なところで撒くだろう。ーー誰かさんみたいに無茶をしない限り、とりあえずは安全と言っていい。それにだ、今から双葉を追いかけてもどこへ行ったかわからないだろう」


「そ、れはーーそうだな。悪い、ちょっと焦りすぎてた」


「よし、では手始めに『デュランダル』に拾ってもらうか」


 斬華はスマホを取り出して、如月へと電話をかけた。

 事情を素早く説明して、すぐさま『デュランダル』に回収された士郎と斬華は、艦橋から街中の監視カメラの映像を見て双葉の姿を探し始めた。


「ーーいた!ここは……天前(てんぜん)高校?」


「なぜ双葉がそんなところにいる?」


「わからない、けど……双葉がいるってことはここに魔王がいるのかもしれない」


「学校で魔王の気配を感じたことはないが……」


「バレないように抑えてるんじゃないか?」


「ふむ……それも含めて、会えばわかることか」


 斬華は即座に踵を返して『デュランダル』の転送ルームへと向かった。

 士郎も艦橋にいた如月に、何か動きがあった時の連絡だけ頼んで斬華の後を追う。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 士郎と斬華が『デュランダル』にいた頃、双葉は天前高校の前までやって来ていた。

 目的は一つ、魔王の姿を確認するためだ。

 つい一ヶ月ほど前までは存在しなかった膨大な魔力が、双葉の目には映っていた。斬華のものとは異なる、異質な魔力の正体を突き止めようとした双葉の調査から、おそらく魔力の持ち主は天前高校の生徒らしいことが判明した。

 とは言っても魔力を確認できるのが平日の夕方までと、土曜日の午前中だけだったのだ。

 もちろん他の可能性も考えられるが、可能性としてはこの学校に通う生徒というのが一番大きいだろう。


 しかし、そこまでわかっていたのにどうして今まで双葉がその正体を知ることができなかったのか。

 なぜだかわからないが、毎回魔力を放っている人間が異なるのだ。学年もクラスも性別だって異なる人間が同じ魔力をしていることなどありえない。おそらく何らかのトリックがあるのだろうと、そう思って双葉は新しい魔王の正体を突き止めることを一旦保留した。

 だが今日は違う。魔王の名を知ったし、士郎が名前で呼んでいたということはおそらく同学年なのだろう。そこまでわかっていれば、土曜日で生徒が少ない学校なら見つけ出すのは容易い。


「とりあえず『いろは』って人を探さな、い……と?」


 ふと、双葉は違和感を感じた。何かがおかしい。どこか現実ではないような、体全体がふわふわしたような感覚に包まれる。


「なに、これ……?」


「初めまして、楠田双葉ちゃん」


「っ……だれ?」


 双葉は声のする方へ視線を飛ばすが、そこには誰の姿もない。

 だが誰もいない虚空から声だけは聞こえてくる。


「私のことは……えーっと、〈ウィッチ〉とでも呼んでくれればいいかな。知っての通り魔王だよ。こんな挨拶になってごめんね、今はまだ姿を見られるわけにはいかないから」


「魔王ってことは……あなたが『いろは』?」


「いろは?ーーああ、〈トリックスター〉のこと?残念ながら〈トリックスター〉ーー皐月いろはとは別人だよ」


「三人目の、魔王……」


「驚かないんだねーーって双葉ちゃんに言うのも野暮かな」


「今この町に魔王は何人いるの?」


「さあね、みんな上手くこっちの世界に馴染んでるから私にもわからないよ。ただーー」


「ただ?」


「ーー双葉ちゃんが()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。私も含めてね」


「え……どういう、こと……?」


「……うーん、どうせ忘れることだしいいか。私はほかの魔王よりちょっとだけ特別でね、自分の意思で魔界とこっちの世界を行き来できるの。それで、まあ端的に言ってしまえば幼い双葉ちゃんと会ったことがあって、その時に少しだけ私の魔法の力を分け与えた」


 〈ウィッチ〉はそう言うが、双葉にはそのような記憶は一切ない。魔王という存在を知ったのは斬華がやってきてからだ。仮に出会っていたとしても、こんな恐ろしい存在を忘れるはずがない。


「信じられないって顔だね。わかっててもやっぱり、そんな顔されるとちょっと悲しいな」


「あなたは、一体……?」


「おっと、そろそろ時間だ。それじゃあね、双葉ちゃん。また機会があったら出会おう。ーー〈未来永透〉(みらいえいとう)


 〈ウィッチ〉の気配が消え、双葉はその場に座り込む。

 その直後に士郎と斬華が天前高校に到着した。


「双葉!」


「ーーお兄ちゃん?斬華さんも、どうしたの、こんなところで。あれ、そういえば私なんでお兄ちゃんの学校に……あとさっきの魔王は……?」


「え?」


「……双葉、正確に記憶が残っているところまで教えてくれ」


「え、うん……確か、みんなで水族館に行こうって話になって、準備が終わって斬華さんを待ってる間にお兄ちゃんと喧嘩になっ、て……あれ、なんで私お兄ちゃんと喧嘩したんだっけ?」


「どういうことだ……?」


「魔王の仕業だろうな、双葉に見つかったから記憶を消して対処したのだろう」


「記憶を消すって、そんなことして大丈夫なのか?」


「わからない。だが少なくとも命はあるんだ、最悪の事態は脱している。誰かさんとは違ってな」


 斬華がにやけながら士郎の方を見て言う。

 士郎には魔力を感じ取ることすらできないが、斬華は双葉の状態を見て一先ず安心できると判断したのだろう。


「さっきの魔王、どこかで……まあいっか、忘れてるってことはその程度のことなんだよ。それより早く水族館行こうよ!」


「そんな能天気な……」


「まあ大丈夫だろう。おかしなところもないし、不自然な魔力も感じない。おそらくそういった能力に特化した〈眷属〉を従えた魔王なのだろう」


「記憶に干渉する能力か……厄介だな」


「確かに厄介ではあるが、戦いに向いている能力じゃないからな。突然殺されるようなことはないだろう」


「はは、斬華は前向きだな」


「ああ、最悪の事態は想定しておくべきだが、後ろばかり見ていては前に進めない」


「二人とも早くー、置いていくよー!」


 いつの間にか一人で先へ行った双葉が手を振っている。魔王と遭遇した本人があの調子なのだから、おそらく本当に問題は無いのだろう。士郎と斬華はそう判断して、それ以上追求することをやめた。



 その後は当初の予定通り、三人で水族館にやって来た。

 時刻は昼前。双葉の一件があって到着が少し遅れたが、遊ぶ時間はたっぷりとある。

 しかし士郎たちは、水族館内のレストランに足を運んでいた。


「士郎、昼食にはまだ少し早いんじゃないか?」


「確かに家で食べる時に比べたら早いけど、あと三十分もしたらここも満員で、飯どころじゃなくなるからな。それにたぶん、見て回る前に食べておいた方がいい」


「……?まあ、士郎がそう言うなら構わないが」


「斬華さん何食べる?オススメはこの海鮮丼だよ」


「かいせんどん……とは一体どんな物だ?」


「海鮮丼は色んな魚のお刺身を乗せた丼のことだよ。ーーほら、ちょうどあそこのお姉さんが食べて……」


 可愛らしく首を傾げた斬華に、双葉は離れた席に座る女性を指差して教えようとする途中で動きが止まった。

 不審に思った斬華と士郎がそっちを向くと、そこに座っていたのは思いもよらない人物だった。

 黒いボブカットに白のメッシュを入れた髪。服装はパーカーにホットパンツというスタイルなのだが、その豊満な胸に引っかかって胸元が大胆に開いている。

 魔王〈トリックスター〉こと、皐月いろはが海鮮丼を美味しそうに頬張っていた。


「〈トリックスター〉?なぜあいつがこんな場所にいるんだ」


「……お兄ちゃん、あの人も魔王なんだよね?」


 双葉はどこか不安そうに士郎の方を見る。それは恐怖や緊張ではなく、単純に困惑しているような雰囲気だ。


「そうだけど……どうかしたのか?」


「えっと……あの、魔王にしては魔力が小さいというか。なんなら今の斬華さんの方が大きいぐらいだよ」


「なんだと?魔力を抑えているだけじゃないのか」


 それに反応したのは士郎でなく斬華だった。

 魔王の中にも魔力の個人差はある。だがそれでも〈眷属〉を封印されている斬華の方が、いろはより魔力が大きいなんてことはありえない。

 考えられるとすれば双葉の見間違いぐらいなのだが……。


「外に出てなくても、なんというか内側にある魔力の大きさは変わらないから見えるはずなんだけど……」


「ーーそうか……なら考えられる可能性は一つしかないな。士郎?」


 斬華が鋭い目付きで士郎に尋ねる。

 だが士郎としても心当たりがない。いや、正確に言えば心当たりはあるのだが、あれはあの場で終わったはずの話なのだ。


「いつの間にあいつの〈眷属〉を封印した。なぜそのことを黙っていたんだ?」


「ま、待ってくれ。俺は確かに一度〈箝替公〉(リブラ)を封印したけど、その後すぐに封印を解いていろはに返したんだ」


「封印を、解いた……?そんなことができるのか?」


 斬華の反応は、くしくもいろはと同じものだった。


「感覚的にはできそうって話をいろはとしてたんだ。それで試しにいろはの〈箝替公〉(リブラ)でやってみただけだよ。予想通り一度封印した〈眷属〉の封印を解くことはできたし、いろはの方も特に変わったことはないって言ってたんだけど……」


「ふむ……士郎、試しに〈斬殺鬼〉(キャンサー)の封印を解くことはできるか?」


「わかった。ちょっとやってみる」


 士郎は意識を集中させ、イメージの中で〈斬殺鬼〉(キャンサー)の入った箱にかけられた鍵を外す。

 これで〈眷属〉の封印は解かれたはずだ。士郎は斬華に合図した。


「よし、ーー〈斬殺鬼〉(キャンサー)


 斬華が〈眷属〉の名を呼ぶと、その手に漆黒の日本刀が現れた。

 やはり士郎は〈眷属〉の封印を自由に解くことができるようだが、なぜだか斬華の顔色は明るくなかった。しかしーー


「ふふっ、はははは。士郎、このことは誰にも言うなと〈トリックスター〉に口止めされていただろう?」


「あ、そう言えば……なんでわかった?」


「結論から言うぞ。士郎、〈眷属〉の封印は解けていない、今もお前の中にある」


「どういうことだ?現に〈斬殺鬼〉(キャンサー)は斬華の方にーー」


 そう言いかけて士郎は言葉を止めた。斬華の持つ日本刀、魔王〈ムラマサ〉の〈眷属〉である〈斬殺鬼〉(キャンサー)の違和感に気づいてしまったのだ。

 散々この刀に斬られ、最後には自分で手にした士郎には分かってしまった。今の〈斬殺鬼〉(キャンサー)には何か大切なものが欠けている。〈眷属〉を〈眷属〉たらしめる重要な核が失われているのだ。


「ほう、よく気づいたな。お察しの通り、ここにあるのは〈斬殺鬼〉(キャンサー)のガワだけだ。魔王の肉体に残った残滓のおかげで〈眷属〉の力を限定的に行使することはできるが、本体の方は士郎の中にいるーーということを〈トリックスター〉は知られたくなかったのだろう」


「そう言えば、斬華と喧嘩する時に困るみたいなこと言ってたような……。でもあれは〈眷属〉の封印が解けることが知られたらってことか」


「私と喧嘩?〈トリックスター〉がか?」


 斬華はキョトンと、普段の言動からは想像もできないほど気の抜けた表情をした。

 しかし、そうなってしまうのも仕方がないのだ。斬華といろは、〈ムラマサ〉と〈トリックスター〉、もっと言えば〈斬殺鬼〉(キャンサー)〈箝替公〉(リブラ)では戦闘能力に差がありすぎる。

 〈箝替公〉(リブラ)に戦闘能力が無いわけではない。ただ単純に〈斬殺鬼〉(キャンサー)の能力が戦うことに特化しすぎているというだけだ。


 それだけの戦力差があるにも関わらず、いろはは斬華と戦おうとしていたわけだが、どうやらそれが斬華ツボにハマったらしい。


「〈トリックスター〉の思惑は分からないが、面白そうだし乗ってやろう。最近ちょっと運動不足だと思っていたんだ」


「え、ちょ……斬華?」


 斬華は上機嫌な様子のまま、海鮮丼を頬張るいろはの方へと近づいていき、そのままいろはの真正面に座った。

 突然現れた斬華にいろはの箸が止まる。

 その場はまるで時間が止まったかのように凍りついた。いくらなんでもこの場でおっ始めることはないだろうと思っていた士郎だったが、かなり不安になってきた。

 そうなったら自分の身を呈してでも双葉だけは逃がしてやらなければーー。


「〈トリックスター〉、それ一口くれないか?」


「…………」


「…………」


「…………」


 士郎、双葉、いろはの三人は言葉を失った。あまりの衝撃に脳が考えることを放棄したのかもしれない。

 斬華といろはの関係がさほど良くないことを士郎は知っていた。いろは自身もそのことを自覚していた。無関係の双葉も先程の空気感から本能的に理解していた。

 三者三様ではあるが、この場が一触即発だということに疑いがなかった。だと言うのに斬華は、この魔王だけはそんなこと一切考えずに、いろはの食べている海鮮丼を一口寄越せと、そんなことを言い始めたのだ。


「いや、やはり行儀が悪いか……すまない、一口食べてから注文しようと思っていたが、普通に頼むことにするよ。それより〈トリックスター〉、貴様も一緒にどうだ?今日は士郎と双葉と一緒に来ていてーー」


「待て、待て待て待て。おかしいだろ、そうじゃないだろ」


「何がだ?」


「今更てめえが人間と仲良くすることに文句は言わねえ。シロ助もまあ良い奴だ、惚れたってのも理解できなくはない。でもだ、それでもあたしにまで気をかけるってのが気に食わねえ。あたしは魔王だ、〈眷属〉も戦闘向きじゃないし、言動も魔王に相応しくないってことは理解してる。それでも魔王として最低限の誇りは持ってるつもりだ。てめえみたいに人間と仲良く沼に沈みたかねえんだよ」


「フッーー魔王としての誇りか、ならなぜ士郎に〈眷属〉を封印させた?魔王を魔王たらしめる〈眷属〉を自ら封印させておいて魔王の誇りとは、聞いて呆れるな」


「んだと……?」


「おっとすまない、つい本音が出てしまった。謝罪しよう。それとも、その貧弱な力しか残っていない〈眷属〉で私とやりあってみるか?」


「上等だ、ぶっごッーー!?」


 ぶっ殺してやる。そう言おうとしたいろはの顔面は机に叩きつけられた。


「で、めぇ……!!」


「そう慌てるな、もうすぐここに人がたくさん来るらしいからな。場所を変えよう」


 そう言った斬華はいろはの頭を掴んだまま、レストランの出口の方へ投げ飛ばし、次いでいろはが起き上がるよりも早くその体を蹴り抜いた。いろはの体は宙を舞い、外の広場へ落下する。

 レストランの外にはオブジェがいくつか置かれており、子どもの遊具のようになっていた。その中央まで飛ばされたいろはは、既にボロボロの体をどうにか起こす。


「まだ立てるか、腐っても魔王だな。だがここなら思う存分〈眷属〉をーー」


「〈眷属〉なら使わない方がいい、てめえはな」


「どういうことだ」


「どうもこうも、封印したはずの〈眷属〉が使えるなんて『デュランダル』の連中が知ったらシロ助はどうなるだろうな?屋内なら監視の目は届かなかったけど、ここは丸見えだ。人間にとって脅威でしかない〈眷属〉の封印を、シロ助が自分の意思で解けると知ったらどんな仕打ちを受けるか分かるだろ?」


「……なるほど、だがそれは貴様も同じはずだ」


「そうだな。あたしもシロ助を巻き込むのは気が引ける。でもな、あたしの〈眷属〉が一度封印されたってことを『デュランダル』の連中は知らねえんだよーー〈箝替公〉(リブラ)ッ!」


 いろはが白銀の指揮棒を振るう。

 それと同時に、周りのオブジェがゆっくりと宙へ浮いた。


「さあ、形勢逆転だな」


「チィーーッ!」


 斬華が駆け出すと同時、複数のオブジェが発射される。大きさはどれも二メートル程度、〈眷属〉を封印されているとはいえ、斬華のセンスと勘なら避けられない攻撃ではない。

 だが問題はその数が多いことと、いろはが自在に操っているということだ。


 一つ一つならどうということはないが、組み合わせられると厄介なこと極まりない。

 タイヤをいくつも繋げたオブジェが鞭のように斬華の足元を狙って撓る。当然それを跳ぶことで回避するのだが、身動きの取れない空中では既に巨大な板のようなオブジェが二つ、斬華を挟むように待ち構えていた。


「ぐっーーこれしきッ!」


 挟まれる前に板の表面を蹴って更に上へと逃げる。その後はすぐさま着地、低い姿勢のままいろはの方へ疾駆する。

 タイヤの鞭と二枚の板が追いついてくるには少し時間がかかる。立ち止まらない間は安心しても良いだろう。残ったオブジェはあと四つ。

 巨大な立方体、亀の上に龍の乗った像、片側だけ異常に長いシーソーが二つだ。


「これならーーどうだ!」


 先程と同じく、シーソーの一つが斬華の足元を狙う。だが斬華は跳躍せず、前方にローリングしてそれを躱した。

 予想外の動きではあるが、いろはも魔王である。空中に待機させていたもう一つのシーソーで立方体と像を弾き飛ばして斬華を狙った。


「なかなかやるーーが、私の勝ちだ」


 斬華は迫り来るオブジェを躱すのではなく、それを蹴って一気に加速した。

 既にいろはの元に弾となるオブジェは存在しない。もし仮に存在したとしても間に合わない速度で斬華は迫った。


「ーー終わりだ」


「ああ…………()()()()()


 決着は一瞬だった。

 自身の速度とオブジェの勢いを利用して加速した斬華が、目にも留まらぬ速さでいろはへ肉薄し、勝負が決まるかと思われた。

 だが斬華は失念していた。もし『如月斬華』ではなく、『魔王〈ムラマサ〉』として戦っていれば或いは気づけたかもしれない。

 〈ムラマサ〉にとっての武器が〈斬殺鬼〉(キャンサー)だけであるように、〈トリックスター〉にとっても武器となるのは〈箝替公〉(リブラ)なのだと。

 白銀の指揮棒は周囲の物体を操る。そのための道具であり、武器とはなり得ない。そんな考えをしていた。

 だから気づけなかった。その指揮棒が己の腹を貫くまでは。


「が……はっ……」


「はは……はははは、はははははははははははははははは!!!!勝った、勝ったぞ!あたしはてめえに勝ったぞ〈ムラマサ〉!人間なんかとつるんでるからそうなるんだ!人間なんかに気を遣うから!〈眷属〉を振るうことを躊躇ったからこうなってるんだよ!」


「……ああ……そう、だな……。だが、これで、いい……」


「なんだよ、自分の命より人間の方が大事だってのか!?」


「少し、違うな……人間ではなく、楠田士郎……私のーー」


「斬華!いろは!後ろだっ!」


「は?」


「ッ……!」


 トンっ、といろはの体がその場から押し出された。


 刹那。

 一瞬前までいろはの体があった空間を、光の刃が斬り裂く。

 何が起きたか理解できないいろはの視界の端で、黒髪の少女が鮮血を噴き出しているのが辛うじて確認できた。


「な、ーーは?」


「標的捕捉。魔王〈トリックスター〉。捕縛せよ」


 両手足が機械化された男。『デモニア』のドールは、未だ斬華の血で濡れた光剣を振りかぶった。


「なん、だよ……てめえは。どうして〈眷属〉を使わなかった!!」


 いろはは絶叫して〈箝替公〉(リブラ)を振るい、ドールを地面に這い蹲らせた。


 〈箝替公〉(リブラ)の能力。物体を動かす能力では、生物を動かすことは基本的にできない。その生物が抵抗すれば〈箝替公〉(リブラ)の能力が阻害されてしまう、〈眷属〉としてのパワーが他の魔王と比べてもかなり弱いのだ。

 〈箝替公〉(リブラ)に限ったことではないが、〈眷属〉は何故か『心』というものに影響されやすい。だから〈箝替公〉(リブラ)で生物を操ることは基本的にできない。だが、ドールは違う。見た目は人間で、人間と同じように受け答えできる知能もある。だがそれらは全てプログラムされたものをベースにしているに過ぎない。

 人間と同じ『心』と呼べるものが存在していないのだ。そして『心』がないのであれば、〈箝替公〉(リブラ)の敵ではない。ドールが何体来ようともただ白銀の指揮棒を一振りするだけで片がつくのだから。


「そうまでして、あいつを守りたかったのか……?」


 始めに光剣となった右腕、次は左腕、右足、左足と、ドールの四肢は胴から引きちぎれた。

 引きちぎれた四肢は宙に浮き、ゆっくりと一ヶ所に集まった。そしてーー


「潰れろ」


 いろはが〈箝替公〉(リブラ)を振り下ろす。

 空中から発射された四肢が、ドールの頭を粉々に砕いた。


「ーー〈ムラマサ〉」


「………………」


 ドールを粉砕したいろはは、瀕死の斬華に歩み寄り声をかけるが返事がない。

 それどころか呼吸できているのかも怪しい。〈箝替公〉(リブラ)の傷だけならまだ問題無かったのだろう。だがドールの光剣は斬華の肩から脇腹までを斬り裂いた。間違いなく致命傷だ。いくら斬華が魔王だとしても、助かる見込みはない。まだギリギリ息はあるが、十中八九死ぬだろう。


 だからせめて最後の挨拶ぐらいはさせてやろうと、いろはは〈箝替公〉(リブラ)を振って斬華の体を士郎の元へ動かす。死にかけで意識もほとんど無い状態ならば動かすことは容易い。


「斬華!しっかりしろ!」


「斬華さん!」


「………………」


「……もう喋ることもできねえよ。だからせめて、聴こえてる間に別れを言ってやれ」


「元はと言えばあなたが……!」


「やめろ双葉、いろはのせいじゃない」


「でも……!」


「あたしに文句があるなら後でいくらでも聞いてやる。だから今は〈ムラマサ〉と話してやれ」


「っ…………。斬華さん……私、斬華さんのこと嫌いだったんだよ。急にうちに来て、お兄ちゃんと仲良くしてて。でも斬華さんはそんなのお構い無しにグイグイきてね、最初の頃はウザかったんだけど、どんどんそれが当たり前になってきて、楽しくなってきて……それで、それでぇ……」


 双葉の瞳に大粒の涙が浮かぶ。


「しな、ないでよぉ……!」


「…………泣く、な……かわいい、顔が……台無し……だぞ…………」


「斬華さん!」


 目を開いた斬華は、ゆっくりと言葉を紡いだ。きっともう限界は近いのだろうが、それでも斬華は双葉の声に応えた。


「すま、ない……あまり長くは、話せそうに……がはっ……」


「大丈夫!?」


「はぁ……はぁ……短い、間だったが……楽しかったよ……双葉、私は……お前の、こと、ずっと……好きだった、ぞ……」


「そんなの知ってるよ!私も斬華さんのこと大好きだから!だから……だから死なないでよぉ……!」


「はは……それは嬉しい、な……。士郎……」


「……斬華、ありがとうな。斬華のおかげで今の俺がいる。感謝してもしきれない、だからちゃんと返していこうと思ってたんだ。思ってたのに……」


「それは、悪かった……でも、いいんだ…………私も士郎から……たくさん、貰ったからな……私が、死んでも、落ち込むなよ……」


「落ち込むなってのは……無理な相談だ」


「はは……そうか……なら、落ち込んでも、いい……ただし、ちゃんと立ち上がれ……そして、前を向いて、生きるんだ……」


「ああ、大丈夫。斬華との約束なら、絶対に立ち上がるよ、立ち上がれる」


「それなら……もう、言うことは、ないな……士郎、ありがとう」


「……ああ、俺の方こそありがとう……おやすみ、斬華……」


 士郎のその言葉を聞いて満足したのか、斬華の全身が光の粒子に包まれる。その様子は〈眷属〉を封印する時と酷似していた。


「斬華さん……?やだ、行かないで……」


 双葉が斬華の手を握るが、やがて斬華の体が端から消え始める。徐々にだが確実に、如月斬華という生命の終わりが迫っている。もう誰にもそれを止めることはできない。

 少女は咽び泣き、少年は静かに涙を零す。そして、如月斬華だったものの最後の一欠片が光の粒となって消え去った。


「あ、ぁ……お兄ちゃん、斬華さんが……」


「っ……!」


 消えゆく光を掴もうと手を伸ばす。無駄だと分かっていても諦めきれない。士郎はそうせずにはいられなかった。

 たとえ掴んだとしても、手の中には何も残らない。それでも最後の一瞬まで諦めたくなかった。

 どれだけ情けなくとも、どれだけ無様であろうと、如月斬華という「人間」が生きた証を遺したい。ただそれだけを胸に士郎は手を伸ばす。


「……っ」


 駄目だった。

 そんなことは不可能だと、初めから分かっていたはずなのに、それでも万が一、いや億が一にでも奇跡が起こる可能性に賭けた。

 それでも駄目だった。

 おそるおそる開いた手には、何も残っていなかった。そこにあったのは自分の掌だけだ。

 そして、絶望した士郎に追い討ちをかけるようにいろはが告げた。


「シロ助、妹連れてここから離れろ。『デモニア』のおでましだ」


 いろはの視線の先には無数のドールの姿があった。おそらく先程の一体は偵察機だったのだろう、数えるのも億劫になる数のドールが士郎たちの視界を埋めようとしていた。


「ドールなら、〈箝替公〉(リブラ)で何とかならないのか……?」


「確かにドールと〈箝替公〉(リブラ)の相性は良い。けど封印されて出力が大幅に下がってるから、正直言うとあの数は捌けない。だからあたしが時間稼いでる間に逃げろ」


「でもそれだといろはが……」


「あたしは大丈夫だ、危なくなったらすぐに逃げる。それに『デモニア』の目的はあくまで捕獲みたいだからな、殺されることはない。もしあたしが捕まったら、その時は助けに来てくれよな」


「待て、いろは!」


 士郎の制止も聞かず、いろはは〈箝替公〉(リブラ)を振るった。

 先程のオブジェを使ってドールを蹴散らしていく様子は、圧巻の一言だった。だがそれでも、いろはは圧され始める。

 オブジェで挽き潰すだけでなく、〈箝替公〉(リブラ)の力で直接手足や胴を千切るが、それでも足りない。ドールの数が圧倒的に多すぎる。

 それも当然のことで、『デモニア』が想定していたのはフルパワーの魔王〈トリックスター〉であり、〈眷属〉を封印された今のいろはではない。

 魔王ごとに個人差はあるが、いろはの場合〈眷属〉が封印されていては本来の一割の力も出すことができない。こんな状態ではジリ貧どころか、気を抜けばいろはの方が一瞬でやられてしまう。


「くそっ!双葉、お前は逃げろ!」


「お兄ちゃんはどうするの!?」


「いろはを助ける」


「なんで……?あの人のせいで斬華さんは死んだんだよ!あの人が斬華さんを殺したのになんで助けるの!?」


「違う、そうじゃないんだ。確かに斬華が死んだ原因にはいろはも関わってる。でも実際に斬華を斬ったのは『デモニア』のドールだ。斬華はドールからいろはを庇ったんだよ」


「だからなんなの!あの人がいなかったら斬華さんだってーー」


「斬華はいろはを守ったんだ。だから俺も斬華が守ろうとしたものを守りたい」


「っ、だ、だからってお兄ちゃんに何ができるの!?あんなの相手につっこんでも死んじゃうだけだよ!」


 双葉は涙を流しながら懇願する。

 ずっと兄と二人だった世界に踏み込んできた黒髪の少女は、いつの間にかなくてはならない存在になっていた。しかしそんな彼女が目の前で去り、双葉の世界にはまたしても大きな穴がぽっかりと空いてしまった。

 もう二度と大切な人を失いたくない。また二人だけに戻ってしまったこの世界から、もう誰もいなくなってほしくない。それが最愛の兄ならば尚更のことだ。

 たとえ士郎以外の全てが犠牲になったとしても、双葉は士郎を選びとる。士郎の命と世界が天秤に掛けられれば、一切迷わず世界を滅ぼす。

 楠田双葉という人間にとって、楠田士郎という存在は世界そのものであるからだ。自分の世界を捨てて死ぬか、自分の世界と共に死ぬかの違いでしかない。


 それでも、楠田士郎は止まらない。

 モノクロだった自分の世界を極彩色に染め上げた少女の死を無駄にしないためにも、今だけは双葉を裏切らなくてはならない。

 それが双葉を傷つけることになろうと、自分の命が尽きることになろうと、そうしなければ気が済まないのだ。


「ごめんな双葉、でもこれだけは譲れない。ここで逃げたら俺の世界はまた色を失くす気がするんだ。せっかく斬華が色を着けてくれたのにそんなの嫌だろ?」


「…………それ、でもーー」


「諦めなよ、双葉ちゃん。彼の決心は固いみたいだし、止めても無駄だってことは理解してるんでしょ?」


 二人のすぐ側から聴こえた声は、誰もいない空間から発せられていた。

 双葉は前にどこかで似たような経験をした気がするのだが、全くといっていいほど思い出せない。ただ何かが引っかかっているような気持ちの悪い感覚だけがそこにはあった。


「誰なの、あなたは。なんで私のことを知ってるの?」


「私も魔王なんだ。〈ウィッチ〉とでも呼んでくれればいいよ。一応はじめまして、双葉ちゃん、楠田士郎。姿は見えてないだろうけど、私はちゃんとここにいるからね」


「え?」


「どうかしたの?双葉ちゃん」


 困惑した表情を浮かべた双葉に、〈ウィッチ〉と名乗った姿の見えない魔王はどこか浮ついたような声色で返した。


「だってーー」


「魔力が見えないんでしょ?でも大丈夫、ちゃんと私はここにいるよ。ほら」


 〈ウィッチ〉の言葉と同時に、双葉の手が何かに握られた。その感触は間違いなく人のそれであり、確かにそこに誰かがいることの証明にほかならない。


「これで私がここにいるのはわかったよね。じゃあ本題に入ろう。楠田士郎、きみには皐月いろはを助ける方法がわかってるんだよね?」


「ああ。とっておきがある」


「よろしい!じゃあ僭越ながら私がきみをサポートしよう」


 ぱちんっ。

 〈ウィッチ〉が指を鳴らすと、士郎の姿がそこから消えた。


「今から五分間、きみの姿は私以外の誰にも見えない。思う存分その力を振っていいよ」


「ーーなんで助けてくれるのかとか、色々と謎なことはあるけど。今は何も訊かないでおく、ありがとう〈ウィッチ〉」


「いえいえ、それじゃあ私は用事があるからこれで失礼するね。ばいばい双葉ちゃん」


 やけに双葉のことを気にかける魔王だったが、悪いやつではなさそうだというのが士郎の中での〈ウィッチ〉の評価だ。


「よし、双葉。ちょっとだけそこで待っててくれーーすぐに終わらせる」


 士郎がそう言い終えると、いろはを取り囲んでいたドールが突然落下し始めた。

 このことに一番驚いたのはいろはだ。自分を包囲していたドールの脚部が突然切断され、半数近くのドールが墜落していったのだから。


「残り……半分だな…………お、らああああぁぁぁぁぁ!!!」


 士郎は()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 すると、士郎のいる場所からは五十メートル以上離れた場所にいるドールの部隊が次々に真っ二つになって墜ちていく。その力は紛れもなく魔王〈ムラマサ〉の〈斬殺鬼〉(キャンサー)のものだ。距離に関係なく、物体を切断する能力。

 斬華は言っていた「封印された〈眷属〉の本体は士郎の方にある」と。

 〈斬殺鬼〉(キャンサー)は主を失ったが、それでも士郎の中から消えなかった。たぶん、斬華と一緒に消えることもできたはずだ。しかし〈斬殺鬼〉(キャンサー)は士郎の中に残った、残ってくれた。斬華の指示なのか、それとも〈斬殺鬼〉(キャンサー)自身の判断なのかはわからないが、どちらにしても今士郎の手にあるのは正真正銘、魔王〈ムラマサ〉の握っていた〈眷属〉であり、その力は本体ということもあり文字通り別格だ。

 士郎本人は魔王でもないただのド素人であり、更に〈眷属〉の使い方もマスターしていない。こんな状態でもドールの部隊をたった二振りで全滅させた。


 しかしその代償もまた、ただの人間である士郎は受けなくてはならない。


「か、はーーっ」


 士郎は突如として、経験したことのない疲労感に襲われた。全身の力が抜け、呼吸すら意識していないと止まってしまう。

 〈斬殺鬼〉(キャンサー)を地面に突き立てることで、なんとか体勢を保ててはいるが、今すぐにでも意識が飛んでその場に崩れ落ちそうだ。


「はぁっ……はぁっ……意外に、食いしん坊なんだな、お前……」


 士郎は手に持った漆黒の日本刀に向かって力無く笑いかける。すると〈斬殺鬼〉(キャンサー)はなんの前触れもなく、その場から消え去った。

 感覚で自分の中に戻ってきたと理解した士郎は、今の発言で〈斬殺鬼〉(キャンサー)を怒らせてしまったのかと思ったが、〈斬殺鬼〉(キャンサー)が消えると士郎の疲労感もそれ以上進行しなくなった。

 おそらく〈斬殺鬼〉(キャンサー)は士郎の身を案じ、自らの意思で戻ったのだろう。これ以上顕現していては士郎の命に関わると理解して。

 おかげで士郎の疲労感も少し落ち着いた。まだ体は動かないが、この状態なら一先ず安心してもいいだろう。

 そう思うと、士郎の意識は急に沈んでいった。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



「ーーここ、は……」


 士郎が目を覚ますと、そこは見知らぬ天井ーーなどではなく、もう何度訪れたかもわからない『デュランダル』の医務室だった。


「やあ、おはよう、士郎。今回は早かったね、君が倒れてからまだ二時間も経っていない。身体の方は大丈夫かい?」


 そしていつものように、ベッドの隣に腰掛けていた如月がゆっくりと立ち上がる。

 そのままデスクの方へ移動し、どこかへ連絡を入れたようだ。相も変わらず目の下には大きなクマができている。


「えっと……俺は何してーー」


「ん、まだ意識がはっきりしていないのかな。もしくは記憶が混濁しているのか」


「どういうことですか……?」


「ああ、端的に言うとだなーー君はドールの攻撃を受けて死にかけた。といろはから報告を受けている」


「いろはが……?」


 何が何やらと士郎が困惑していると、唐突に医務室のドアが開かれ、いろはが飛び込んできた。


「シロ助、起きたか!」


「ああ……俺は、どうなったんだ?」


「あたしが一から説明してやる。いいか、ちゃんと聞いとけよ。一言たりとも聞き逃すな」


 やけにしつこく念押しをしてから、いろはは口を開く。


「まず〈ムラマサ〉があたしを庇って死んだ。で、その後に現れた『デモニア』の奴らの相手をあたしがしてる時に、シロ助の姿が『デュランダル』から観測できなくなった」


「君の姿が突然カメラに映らなくなってね、心当たりはあるかな?」


「……いえ」


 カメラに映らなくなったのは、おそらく〈ウィッチ〉のせいだろう。『デモニア』にも見つからず、『デュランダル』からも観測されなければ、士郎が封印した〈眷属〉の力を使えることを知る人物を極一部にまで減らすことができる。

 〈ウィッチ〉がどこまで『ブレイヴ』や『デモニア』について知っているのかはわからないが、今回に限っては全面的に士郎たちに協力してくれたらしい。


「続けるぞ。シロ助が『デュランダル』から観測できなくなったのと同じぐらいのタイミングだな、あたしは〈箝替公〉(リブラ)の力を使ってドールの部隊を全部ぶっ壊したーーはずだった。だがドールの中にまだ動けるやつがいたみたいでな、あたしが油断しきった頃に、なぜかシロ助に攻撃してそのまま動かなくなっちまったんだ。あとは如月に連絡して、『デュランダル』で治療って流れだな。あとシロ助の妹は死ぬ気で説得して家に帰したから安心しろ。今度菓子折り持って行く約束しちまったけどな」


「いろは、ありがとう。本当に……」


 士郎は心の底から感謝を口にしていた。

 今の話を聞く限り、士郎が〈斬殺鬼〉(キャンサー)を使ったことは知られていない。そして双葉が『デュランダル』と関わるようなことにもなっていない。

 これも全ていろはが手を尽くしてくれたのだろう。


「礼はいいよ。今回ばかりはあたしが悪かった。ああ、それと後で〈箝替公〉(リブラ)封印させてやっからあたしの部屋まで来てくれ」


「わかったーーは?」


 士郎が言葉を発しようとする時には、既にいろはの姿は消えていた。その様子を見た如月は、くすりと笑う。


「どうやら、かなり気に入られたみたいだね。まさかあの子の方から〈眷属〉の封印を持ちかけてくるなんて」


「そう、ですね……」


 既に〈箝替公〉(リブラ)を封印してしまっている士郎は苦笑するしかなかった。

 しかしそんな士郎の表情を見た如月は、どうやら少し勘違いをしてしまったらしい。


「……やはり、斬華のことが気にかかるかね」


「っ……。正直に言うと、斬華の死には納得できてません。『デモニア』は憎いし、いろはに対しても思うところが無いわけじゃないです。でもいろははそれをちゃんと自覚してて、きっともう二度とこんなことにはならないと思います。それに今回いろはには助けられたんで、感謝こそすれど恨む筋合いはないですよ」


「なるほど、いろはに対してはそう思うんだね。ーーじゃあ『デモニア』には?」


「たぶん俺はあいつらを一生許せない。自分の命と引き換えに『デモニア』を潰せるなら迷わず死ねますよ」


 これは士郎の本心だ。斬華の命を奪った『デモニア』は絶対に許さない。たとえ自分が死のうとも根絶やしにしてやると、表には出さないが密かに復讐の炎は燃えている。


「ふむ……士郎、君の『デモニア』に対する復讐心はきっと武器になるだろう。敵を敵だと認識し、恐れずに立ち向かえることは大きな力になる。しかしだ、復讐だけに取り憑かれていては、また大切な人を失うことになるよ」


「……わかってます。ただ、今の俺にとって守るべきは双葉だけです。如月さんや皇さんには悪いですけど『デュランダル』と、いろはにまで気を回す余裕はありませんよ」


「尤もな意見だね、そこに関しては私から言うことはない。そして君が復讐だけを目標にしていないこともわかった。いろはの所へ行ってくるといい」


「はい、ありがとうございます」


「また近いうちに検査で来てもらうことになるだろう。日程は追って連絡するよ」


「わかりました」


 医務室を出ていろはの部屋へ向かう途中、士郎はズボンのポケットの中に奇妙な感触があることに気がついた。

 手を突っ込んでみると、中から真っ二つに割れた翡翠色の指輪が出てきた。


「これは確か茉莉ちゃんから貰った……」


 それは一ヶ月程前に後輩の水無月茉莉(みなづきまつり)に初めて会った時に貰った指輪だった。

 しかしおかしい、士郎はこの指輪を貰った日に自室の机の上に置いたはずなのだが、何かの拍子にポケットに入ってしまったのだろうか。

 というか人からの貰い物を知らない間に壊してしまったというのは、存外な罪悪感があるものだった。


「今度ちゃんと謝らなきゃな」


 学校へ行けば会えるのだから、週明けにでも機会を設けようと考えたところで、士郎はいろはの部屋に着いた。


「いろは、いるか?」


「おう、やっと来たか」


 部屋に入ると、いろははさっきよりも深刻な表情で待っていた。まるで何かを警戒しているような目で士郎を見る。


「どうしたんだ、俺の顔に何か付いてるか?」


「シロ助、お前は何をしたんだ?」


「え?」


「いや、今のはあたしの言い方が悪かった。ちゃんと説明する。あたしを助けるために〈ムラマサ〉の〈眷属〉を使ったのは魔力を感じたからわかってる。でもその時お前の姿が見えなかったのはどういうことだ?」


「ああ、それはーー」


 士郎は姿の見えない魔王、〈ウィッチ〉についていろはに説明する。彼女の目的はわからないが、士郎に対して協力的だったことや、なぜか双葉に執拗に絡んでいたことも。


「〈ウィッチ〉か……このことは如月に話したか?」


「いや、話してない。たぶん〈ウィッチ〉も『デュランダル』に見つかるのを避けたいんじゃないかって思うし、いずれ封印しないといけないのはわかってるけど、今回は助けられたから……」


「見逃したって訳か。まあ姿が見えない上に、妹が魔力を見ることもできなかったんだろ?それなら話したところで見つけられないだろうし構わねえよ。あともう一個訊いていいか?」


「いいけど……〈ウィッチ〉について知ってることは全部話したぞ」


「いや、〈ウィッチ〉じゃなくてシロ助についてのことだ」


 やけに神妙な面持ちでそんなことを言い出した。いろはも如月のように、斬華の死について尋ねるつもりなのだろうか。


「お前、何者だ?」


「ーーは?」


 予想外。あまりに斜め上すぎる質問に、士郎の頭は一瞬真っ白になった。

 何者かと問われれば、人間としか答えようがない。光力のおかげで〈眷属〉を封印できたり、人より丈夫にはなっているが、辛うじて人間の範疇には収まっていると自負している。

 しかしいろはの目はそうは言っていない。自身も魔王という超常の存在であるというのに、士郎にまるで怪物でも見るような視線を送る。


「シロ助、お前は〈眷属〉を振るったよな?光力だとか、体が丈夫だとか関係ない。あれは全身が魔力であるあたしたち魔王だから使えるものなんだよ。魔力を持たない人間が振るえば、魔力の代わりに生命力を食い潰されて死ぬ」


「死ぬって……でも俺は前にも〈斬殺鬼〉(キャンサー)を使ったことがーー」


「それはあくまで〈ムラマサ〉が召喚した〈眷属〉を〈ムラマサ〉の魔力を使ってシロ助が振るっただけだろ。でも今回は違う、シロ助自身が〈眷属〉を召喚してその力を使ったんだ。死んでなきゃおかしい」


「だ、だとしても光力のおかげで俺は死なない体になってるんだぞ?」


「ドールにやられた致命傷が治るのに二時間近くかかるのに、〈眷属〉に生命力を根こそぎ奪われたら一瞬で蘇るのか?シロ助の姿が見えるようになった時には、ただ気絶してただけだったんだ。姿が消えるのが五分、ドールをぶっ倒すのに二分もかかってねえ、三分ちょっとで完全復活するのか?」


「そ、れは……」


 いろはの言っていることは理解できる。士郎にも何かがおかしいことは十分わかっているのだ。問題はこの不可解な出来事に、心当たりが一切ないことだ。


「俺はいろはを助けるために〈斬殺鬼〉(キャンサー)でドールを斬った。その後すぐ〈斬殺鬼〉(キャンサー)が俺の中に戻るのと同時に気を失った。俺にはこれ以外の記憶はない。次に目が覚めたら医務室のベッドだった」


「……シロ助の言葉を信じるなら、あと考えられるのは〈ウィッチ〉の仕業ってところだが、こればっかりは本人に直接聞かないとわからねえな」


 未だ謎が多い魔王〈ウィッチ〉。姿も見えなければ目的もわからない。判明しているのは、士郎たちにやけに協力的なことと、双葉に対してかなり馴れ馴れしいことぐらいだ。


「いろはは、俺のことを信用できないか?」


「そうは言ってねえよ。この一ヶ月でお前がお人好しなのはわかったし、今回のことに心当たりがないのもたぶん本当なんだろうな。でもそれはあたしの中での感想だ。お前が〈眷属〉を封印する力を持っている以上、魔王として楠田士郎という存在を見極める必要がある。そのためにも考えられる可能性は全部確かめなきゃ駄目なんだよ」


「そうか……そうだよな」


「わかってくれたなら何よりだ。じゃああたしの用事はこれで終わりだし、行っていいぞ」


「ああ、ありがとな。また来るよ」


「待ってるよ」


 そう言っていろはの部屋を出た士郎は、最後にもう一度如月に挨拶をしてから帰宅した。



  ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆



 翌週の月曜日。

 士郎は学校の屋上へやってきていた。

 昼休みの屋上というと、昼食をとる生徒で賑わっていそうなイメージがあるが、実際は風が強かったりでほとんど人はいない。

 今も屋上にいるのは士郎と、士郎に呼び出された茉莉だけだった。


「茉莉ちゃん、これなんだけど……」


 士郎は申し訳なさそうに真っ二つに割れた指輪を見せる。

 茉莉に貰った翡翠色の指輪は、いつの間にか士郎のポケットに入ってしまったらしく、先日の一件で壊れてしまったのだ。

 わざとじゃなかったとはいえ、人からの貰い物を壊してしまったことに責任を感じた士郎は、わざわざ昼休みに茉莉を呼び出したのだ。


「ごめん、俺の気づかないうちにポケットに入ってて、たぶんどこかにぶつけたんだと思う。せっかく貰った物なのに壊しちまった」


「あ、それ役に立ったんですね、良かったです!」


「……え?」


 正直、多少怒られることは覚悟していた士郎だったが、どういう訳か茉莉は嬉しそうな表情だし声色も浮ついている。本当に喜んでいるようだ。


「それ渡した時に言いましたよね。先輩をありとあらゆる災難から守ってくれるって、つまりその指輪が壊れたってことは、ちゃんとその役目を全うしたってことなんです!その子は先輩を守ってくれたんですよ」


「えーっと……」


「言ってしまえば身代わり人形みたいなものです。先輩に降りかかる災難や不幸を肩代わりしてくれたんですよ」


「へー、そんな凄い物だったのかー」


「……信じてませんね?」


「シンジテルヨ」


「なんでカタコトになるんですか!」


「いや、だっていきなりそんな怪しい宗教みたいなこと言われても……」


 士郎の言葉に、茉莉は頬をぷくっと膨らませた。その様子はハムスターみたいでちょっと可愛いと思ってしまった。


「これが無かったら今頃先輩はこの世にいないんですからね」


「はー、そりゃ凄いな。スゴイスゴイ」


「やっぱり信じてない。もういいですー、先輩のアホ!シスコン!」


「シスコン関係なくない!?」


 茉莉が絶叫しながら校舎へ戻っていったので、屋上には士郎が一人だけ残された。

 昼休みもあと十五分はある。グラウンドでキャッチボールをしている生徒を眺めている時のことだ。

 士郎はふと呟くーーいや、語りかけてしまった。


「ーー今日の夕飯どうしようか?」


 屋上にいるのは士郎一人だけ、その問いかけに対して返答があるはずもない。

 その様子を待ち行く人に見せれば、百人中百人が士郎の独り言だと捉えるだろう。

 だが、楠田士郎にとっては違う。それはいつも通りの、この一ヶ月の間で何度も何度も繰り返された問いかけだったーー本来ならそこにいるはずの如月斬華に向けた。


「……っ」


 駄目だ、堪えろ。それ以上思い出してはいけない。もし思い出してしまえば、もう耐えられなくなってしまう。

 しかし、人間の脳というものは皮肉なことに、意識しないようにすればするほどそれが気になってしまう。


「きる、か……うっ、く……」


 士郎の口から小さな嗚咽が漏れる。それはやがて抑えきれないものとなり、そしてとうとう士郎の頬を涙が伝った。


「くそっ……なんで……なんで……!」


 三年前、両親が死んだ時には流せなかった涙が今は流れている。

 あの時は双葉を守ることに必死だった。

 今まで両親に任せっきりだった家事をこなし、更に双葉に寂しい思いをさせないようにと、士郎には悲しむ暇すらなかったのだ。

 双葉の前で自分の弱いところを見せる訳にはいかない。双葉の前では常に強い兄でなくてはならない。

 だから斬華が死んだ時も、士郎はできる限り取り乱さないように振る舞った。家に帰って双葉が泣きついて来た時も、双葉を落ち着かせることだけ考えた。

 だが、水無月茉莉という魔王とは無関係の人間と話したことで、ほんの一瞬だけ気が抜けてしまった。そしていつものように、斬華に語りかけてしまったのだ。

 そうなるともう止まらない。

 一ヶ月という短い期間だが、数えきれないほどの思い出が次々に浮かび上がる。日常の何気ない会話や、朝の挨拶でさえ斬華との大切な思い出だ。

 この一ヶ月は楠田士郎の人生の中で最も輝いた一ヶ月であり、おそらく今後の人生でもそれが塗り替えられることはないだろう。


 結局、士郎の涙が止まったのは今日の授業が全て終わるのとほぼ同時刻となった。

 それまでずっと士郎は屋上で泣き続けていたのだ。


「……は、ははは」


 士郎の口から笑い声が漏れ出た。

 あまりに長い時間泣いていたから、感情がおかしくなってしまったのだろうか。

 しかし、士郎の顔は清々しい。言うなれば希望に満ち溢れているような、悲しみや怨恨といった負の感情を一切感じさせない。


「確かに悲しいし、寂しいよ。でもずっと泣いてたって仕方ないよな。だから俺は悲しさも寂しさも抱えたままで、それでも前を向いて生きていく。約束は守るよ、斬華」


 今度は自分の意思で、斬華に向かって語りかけた。自分の決意を確認し、それを揺るぎないものとするために。

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