第6話 束縛、そして瞑想
高原に大悪人の烙印を押し付けられ、兵士に連れてこられたのはおそらく城の地下。降りた階数から考えると地下3階程度で、その階層のかなり奥の方に連れてこられた。
手錠の一つでも付けられるかと思ったが、幸いにもそれは無く、殆ど自由に身体は動かせる。もっとも今は脇を兵士に固められているので動けないが。
薄暗く、等間隔に壁にある蝋燭の灯りのみが照らす廊下はカビ臭く、湿気が酷い。時折聞こえる水の音は地中の水分が天井を抜け、水滴となって落ちる音だろうか。
「さあ入れ!」
鉄格子の扉が開き、兵士の怒号が鳴り響く。無言で大人しく入ると同時に鉄格子の扉に付けられた鍵に加え、南京錠が2つ付けられる。
随分と警戒しているのだな、と内心思っていると兵士が声を掛ける。
「食事は朝と晩に二回、糞尿は部屋の隅の穴にしろ。言っておくがこの牢から脱獄を試みれば手枷足枷をつけていく。今、殆ど身体を束縛されないのは王の慈悲だ」
それだけ言って兵士は立ち去った。
牢屋の中は三畳ほどの広さで廊下の蝋燭の灯りさえも壁に遮られる位置にあるため、暗闇同然に暗い。
先程兵士が言っていた部屋の隅の便所を見ると、思わず目を顰める悪臭と乾いた糞便が底にへばりついていた。幸いにもハエなどの虫はおらず、蛆も湧いていない。
壁は石レンガ造りで、所々風化の兆候が見られるが、拳で砕こうと思えばアレをすれば可能だろうが衝撃の音が響くからな……
その後も牢屋の中をくまなく調べるが、自力で脱獄できる要素は発見できなかった。
仕方がない、こういう時はアレの練習をするか。
小さな決意を新たにして牢屋の中央で胡座をかく。
べちゃりと嫌な音、尻に伝わる冷たい不快感。俺としたことが床が濡れていることに気づかなかった。
最悪な気分で床の濡れていない、湿っているだけのところに座り直し、改めてそれの練習を開始する。
まずは胡座をかき、目を閉じる。そして耳、肌、鼻と目以外の感覚器官に意識を集中し、息を整え、周囲の気配を敏感に感じ取りつつ、一体となるような意識を持って瞑想する。
これは黒月流『静の呼吸』と呼ばれる技を習得する為の、黒月道場でする稽古の基礎中の基礎。
静の呼吸は身体の外側に意識を集中し、空気の微細な流れや匂いなどを感じ取り、自然と一体となることで気配を消す技術だ。
本来ならば気配を消して相手に近づき、奇襲を仕掛ける為の技術で、慶が最も得意とするものだが、戦いの場以外でこうして瞑想として用いることで疲労回復を図ることができる。
しかし疲労回復効果が得られるのは静の呼吸に慣れてからの話で、覚え始めは集中するのに意識を使う為、かえって疲れるのだが。
俺の爺ちゃんの域に達したならば時を忘れて瞑想し続けることが可能らしいが、俺ではもって一日が限度だ。それ以上は腹が減る。
廊下の外へ耳を傾けると、この階層には俺の他には誰一人として牢には捕まっていないように思える。呼吸音も一つしか聴こえない。
その一つというのは、階段付近にいる見張り番の兵士の呼吸だ。奴がいる限りは目立った行動は取れない。
静かで狭く、暗く、寒い。こんな場所に長時間いたならば普通の人間は発狂しそうだ。かくいう俺も寂寥感を少なからず感じつつある。
集中すると段々と集中をかき乱す要素も混じってくる。
例えば、この階層は湿気っているが同時に鍾乳洞の中の如く肌寒い。今着ている服は学校指定の黒ズボンに半袖カッターシャツ。この牢屋にいつまで閉じ込められたままかはわからないが、風邪を引きそうだ。
他にもここは殆ど風の通りが少なく、空気が淀んでいる。おまけにカビの匂いと部屋の隅の臭いが混ざっており、その臭いでさえ集中の対象であるため、思わず吐き気を覚える。
それらを堪えながら、さらに呼吸を穏やかにしていく。
この環境では体力を温存しておかなければならない。こんな狭苦しい部屋でも技の型を練習することは可能だろうが、何しろここは牢獄。日本の刑務所とは違ってまともな飯は期待できないだろう。
無駄に動き回って疲れて、量の少ない飯だけで生き延びられるか? 無理だろう、そんな事を続けていたら餓死してしまう。
結局誰かが助けにでも来るか、王の気が変わって解放されるまではひたすら動かないでいるしかないのだ。ただ、後者の期待は高原が勇者のリーダー格になるように仕組んだ為、零に等しいが。
数刻後……腹の具合からして6時間ほどだろうか。廊下の奥の方で声が聞こえる。
「おい、交代だ」
「やっとか、暇で暇で仕方なかったぜ」
「それにしてもここは寒いしジメジメしてるな。こんなとこに入れられた悪人の勇者とやらはどんな奴なんだ?」
「さぁ? 今のところは大人しいぜ……気味が悪いぐらいに何も聞こえねぇ」
「何だと、まさか脱獄してるんじゃないだろうな!」
「んなことありえねぇだろ、試しに見てみるか?」
どうやら見張りの交代の時間のようだ。それも俺が脱獄しているのかもしれないと疑っているらしい。
出来るものなら初めからしていると内心呟いている間に、足音は近づいて来る。
「ほら、大人しく座って……寝てんのか?」
「起きてる」
「うおっ、びっくりしたぁ!」
このまま寝たふりで通してもいいが、敢えてここは会話をしてみようと思う。情報の一つでも得られたなら御の字だ。
「なぁ、あんた達は俺の事をどう聞いているんだ?」
「んーと、確か……女も子供も関係なく殴り飛ばし、実の妹や、ついさっきまで勇者様の一人を洗脳していた悪人って聞いてるぜ」
駄目元で話しかけてみると、二人いる兵士のうち気の軽そうな男が答えを返す。成る程、非常に不服ではあるが、慶は洗脳されていたことになっているんだな。俺が連れていかれた後に一芝居打ったのだろう。
もちろん俺は従妹である菫も親友である慶も洗脳しているつもりは毛頭無い。むしろ俺が慶に洗脳されていてもおかしくは無いのだが。
「おい、囚人と無闇に話すんじゃない」
「ええ〜ちょっとぐれぇいいじゃねぇか、暇なんだし」
まだ対話を始めようとしたばかりだというのに、隣の如何にも堅物そうな男が俺と話した事を窘める。
厄介だな、これでは何も得られる物が無いまま終わってしまう。
「俺はほとんど一般人と変わらない力しか持って無いんだ、まさか俺を恐れているのか?」
「仮にも貴様は召喚された勇者らしいからな。何か力を隠しているという可能性が残されている限りは警戒して見張れとの王の御達しだ。それに私は与えられた任務を忠実にこなすだけ、囚人と話すことはこれ以上無い。ほら、場内の巡視に戻れ」
「はいはい、それじゃあな囚人くん」
それだけ言うと二人の兵士は牢屋の前から去り、一人は廊下の奥の階段をゆっくりと登っていった。
得られた情報はたったの二つ、それも二つ目のそれは出来れば聞きたくなかったな。
この国の王は万一の可能性を考えて俺をここから出すつもりは無いらしい。
手錠も何も付けない甘さだけが唯一の救いだが、俺に今のところ何の価値も見出されていない為、そのうち存在を忘れられて餓死させられるのが最悪の状況だろうな。
それからさらに数刻後、腹の音が鳴り出してからは腹時計はあてにならない。
再び短い交代の声がして、堅物の兵士は階段を上るが、今来た兵士が一人でこちらに近づいて来る。
「飯だ、食い終わったら外に出しとけ」
無愛想な兵士が持って来たのは晩飯だった。しかし、予想通り貧相な食事のようだ。
1センチほどの厚さ黒パンが2切れと、生温く野菜の細切れが浮かんだスープが一皿。これだけだ。
鉄格子の下の一部には食事を入れる為だけの隙間のような場所がある。残念ながら小さな子供でも通れない程の小さな隙間であるため、脱獄の役には立ちそうに無いが。
兵士が持ち場に戻ったのを確認し、黒パンを齧る。
まず感じるのが独特の匂い。発酵臭というべきか、日本人受けはしないだろうな、という匂いだ。
そして一切れが意外と重い。この人生で初めて黒パンを手に取ったが、普通のパンの倍の重さがあるのは間違いない。また端の方は崩れやすく、崩れた粉が湿った手にくっつく。
そして口に入れて咀嚼、固い。例えるなら瓦煎餅のように固い。さらに匂いで感じていた通りの強烈な酸味が舌を支配する。
食えないことは無いが、美味いわけではない。むしろ俺の口には合わない味だ。囚人の分際で何を言っているのかと思うだろうが。
最初の一口を飲み込んだところで、隣のスープを飲む。匙などは用意されていないので、皿から直接だ。
……これはスープなのか? 辛うじて薄い塩の味はするがそれだけで、野菜の味は感じられない。例えるならば生温い塩水か。
しかしここでこれを飲み干そうとは思わない。まだ残っている黒パンを浸して少しずつ食べるためには残す必要がある。
そう思って黒パンを浸しているのだが、ふやかる気配も感じられない。諦めて石のように固いそれを何度も咀嚼し、飲み込んでいく。
少し時間を掛けたが与えられた食事を完食し、皿を鉄格子の外に押し出す。その音でさえ、廊下には響くので、ゆっくりと腰を上げた兵士がこちらに来て、無言で皿を回収すると再び持ち場に戻っていった。
黒パンは不味かったが腹持ちは良さそうで、この分なら体力を温存さえすれば餓死することはなさそうだ。
そういえば、黒パンという代物がある以上はライ麦のような穀物があるのだろうな。
もし外に出られたならば農産業や食事状について調べてみようか。もしその基準が中世ヨーロッパ諸国と同様だったなら、自分で料理でもしないと文明に呑まれそうだ。
食事を終えた後はやる事も無いので、そのまま就寝する事にする。
硬く湿った石造りの床に転がり、目を閉じる。そして誰かの……慶の助けが来る事を祈りながら、意識をゆっくりと暗闇に沈めていった。