55*見守る者からの助言を
「…………」
クリストファーに連れられたロゼフィアは、サンドラの自室に来ても黙ったままだった。だが、それでも森の時よりは少しは気が安らいだ。研究室ではない、プライベートの空間だからかもしれない。部屋の中には様々なガラスの瓶が置かれていたり、花なども飾られている。サンドラの女性らしい一面が見えた。
「はい」
コップを持ってこちらに近付いてくる。
少し珍しい香りがして顔をそちらに向ければ、くすっと笑われた。
「カモミールティーだよ。リラックス効果があるからね」
どうやらわざわざ研究室で採れたカモミールを用意してくれたらしい。早速口につけて飲む。香りと味に癒され、ほっと息を吐いた。見ればサンドラも同じように味を楽しんでいる様子だった。
特に何も言わないのは、こちらの意図を汲んでくれているのだろう。
ロゼフィアはゆっくり時間をかけて飲み切った。
「落ち着いたかい?」
タイミングよく声をかけられる。
「……ええ」
「じゃあ、何があったか話してもらえる?」
サンドラは椅子にもたれかかりながらリラックスした雰囲気で聞いてくる。空気を重くせずフラットに聞いてくるのがいかにも彼女らしい。それが今はとてもありがたいと思った。
ロゼフィアは考えをまとめつつ答える。
「ジノルグに、シュツラーゼに行くって言ったの。色々考えて、自分で決めたんだけど」
「うん」
「反対されて。真剣な様子で、何か言おうとしてきて、」
「うん」
「……なんだか怖くなって、思わず手を振り払っちゃったの」
「怖いって、なにが怖かった?」
優し気に見守る表情に、ロゼフィアの心は落ち着いていた。
「怖かったのは……」
何が怖いと思ったんだろう。ジノルグの表情か。それとも言葉か。あの時のジノルグの言動を思い出す。何度思い出しても、その言動が怖いとは思わなかった。真剣な表情は少し怖かったかもしれない。でも圧迫に感じるほどの怖さじゃない。
ロゼフィアはゆっくり深呼吸をする。
色々考えて、心の奥に閉じ込めていた思いを少しずつ外に出す。
「多分、今の関係じゃなくなること」
「と、言うと?」
「ジノルグは、何か大切な事を言おうとしてくれたの。それなのに私、聞きもせずに途中で逃げちゃって……今の関係から変わるのが、怖くなった」
「……関係が変わるのが、怖い?」
「どうなるか分からないから、怖い」
ジノルグから何か言われる事で、自分の心が掻き乱れそうで怖い。もう一緒にはいられなくなるんじゃないかと思うと、怖い。どうせシュツラーゼに行くと決めたなら、一緒にいられなくなっても後悔はないかもしれない。だが、せっかくここまで一緒に過ごしてきた。ジノルグに対して思う事はたくさんある。それさえもなかったものになるのは嫌だ。
考えながら頭の中がぐるぐるになる。矛盾している。
結局何が正解なのか、分からない。どうすればいいのか、分からない。
サンドラはしばらく黙ったままこちらを見る。
机の上に肘をつけ、手に顎を乗せた。
そして突拍子もなくこう言う。
「そういえば言ってなかったけどね」
「?」
「私、何度もクリストファーに告白されてるんだ」
「……は!?」
話ががらっと変わり、思わず食いつく。
まずサンドラが自分の話をした事に驚く。しかも恋愛沙汰だ。彼女が最も口にしない話題だと思っていたのだが。そしてクリストファーの行動に驚く。一回のみならず数回も思いを告げているのか。元々サンドラを思っている事は薄々分かっていたが、知らぬ間にアタックしていたなんて。
「え、いつ? 何回もって、サンドラはクリスのこと好きじゃないの!?」
焦って複数の質問になってしまう。
だが彼女は穏やかに答えてくれる。
「告白自体は数年前からかなぁ。ここ最近はないけど。私もクリスの事は好きだよ。でも彼の『好き』と私の『好き』は違う」
「え、ち、違うって……?」
すると目を細めて笑われる。
どこか意味深な笑いだった。
「私の『好き』は家族に対する愛なんだ。異性の愛とは違うんだよ」
「で、でも。サンドラだってクリスの事大切に思ってるんでしょう?」
「うん。大事だよ。でも男性というよりは弟のような、息子みたいな感じかな」
「……息子って。そこまで歳が離れてるわけじゃないのに」
「私はあの子を拾ったからね。どうしても親みたいな気持ちになるのさ」
そういえば孤児だったのを見つけたのがサンドラだった。だがクリストファーからすれば、命の恩人でもある。親以上の愛情になるのは分かる気がする。
「……でも、それでもクリスは」
「あれ。ロゼはクリスの味方? 皆こぞってクリスの味方になるね。そういえばヴァイズもそうだったな」
「だ、だって」
「周りがはやし立てたくなる気持ちは分かるけどね、私だってクリスの事は真剣に考えてる。けどどうしてもそこまでの愛にはならない。だから諦めて欲しい」
きっぱり言われて、ロゼフィアは黙る。
確かに今の発言は、サンドラの気持ちを無視していた。
反省をしていれば、しばらくして彼女は苦笑する。
「――って、一番はクリスが諦めないんだよね」
聞けば断っても断ってもめげずに告白してくるらしい。しつこいと思った時期もあり少し厳しい事も言ったらしいが、しばらく静かになっただけでその愛自体は消えていなかった。もはやサンドラも諦めた様子で好きにすればいいと言ったらしい。そうすれば本当に好き勝手してくるのだから困っているようだ。
「護衛をする理由も最初は『ただしたいから』って言ってたくせに、今じゃ平然と『サンドラが好きだから』って言ってくるんだもんなぁ。本当に困った子だよ」
思わずロゼフィアも苦笑する。
「それだけサンドラの事が好きなのね」
クリストファーの意志の固さはなんとなく分かる。
それでいて頑固で粘り強い。それが彼の良さでもあるのだろうが。
「ほんと、愛はもらうより与えたいんだけどねぇ……」
サンドラはロゼフィアにも聞こえないようにぼそっと呟いた。
そしてきりっとした表情でロゼフィアを見る。
「で、だ」
「え?」
「とにかくロゼは、ジノルグくんの言いかけた言葉を聞くべきだね」
急に自分の話に戻ってう、と唸る。
相手の正論に何も言い返せない。
「聞いてからまた決めたらいい。これからどうするのか」
「……でも、聞いた事で関係が変わって」
「関係が変わる事が全て悪いわけじゃないよ」
きっぱりとサンドラは言い切る。
「いいじゃない。変わる事で良くなる事もある。まずは互いにどうしたいのかを話すべきだよ」
「…………」
「それにロゼは色々我慢し過ぎてる。皆の幸せを願えるのはいい事だけど、もっと我儘にならないと」
「え、そんな。そんな迷惑は」
「迷惑をかけちゃ駄目なんて誰が言った? こっちとしてはむしろかけてほしいくらいなんだけどな。それにシュツラーゼに行く理由も、どうせ村長が来てほしい、って言ったからだろう?」
また唸ってしまう。どうして自分以上に自分の事が分かるのだろう。
だがロゼフィアは反撃する。
「で、でも私自身も行った方がいいなと思って」
「どうせそれも人の役に立つために、って理由だろう?」
「……そう、だけど……」
もはや打つ手なし。完敗だ。
するとサンドラは大きな溜息をつく。
「あのさ、ロゼ」
「は、はい」
「私個人の思いとしては、シュツラーゼに行ってほしくない」
「え」
予想外の言葉に固まる。
まさかジノルグと同じ事を言われるなんて。
「だって寂しいもん」
その一言に目を丸くする。
思わず何度か瞬きをした。
するとサンドラは眉を寄せる。
「そんな理由、なんて言わないでね。それだけ私はロゼが大好きだから」
「…………サンドラ」
「好きという気持ちに理由なんかいらない。……まぁこれはクリスの受け売りだけど。大好きだから行ってほしくない。ここにいてほしい」
「…………」
「でも同じ薬学に通ずる者としては、応援してる」
ロゼフィアは目を丸くする。
サンドラはくすっと笑った。
「シュツラーゼに行って学ぶ事はたくさんあると思う。だから行くのはいい事だ。ロゼ自身の成長にもつながるだろうなと思う。それに、ロゼ自身が決めた事なら応援する。だって大事な友人だもの」
優しく微笑んでくれる。
ロゼフィアも思わず微笑んだ。
個人の思いはあっても、それとこれは別、というわけか。
相手はちゃんとこちらの事を分かってくれている。
「サンドラ、ありがとう」
「どういたしまして」
そう言って笑う彼女は、いつものお茶目な顔になっていた。
「……行ったか」
姿が見えなくなってからそっとクリストファーが出てくる。部屋の外で待機していたのだ。二人きりにしてほしいとサンドラが頼んでおいた。
「うん。元気になったみたい」
「そうか」
「なんだかんだクリスも心配してたんでしょ?」
「誰が」
そっぽを向いて答える。
そういうところは素直じゃない。
サンドラはくすっと笑う。
そしてそっとクリストファーに近付く。
自分よりも背が高くなった彼を見て、本当に大きくなったと思った。そっと長い前髪をかき上げれば、濃い緑色の瞳と目が合う。相変わらず童顔だが、それでも身体は鍛え上げられて逞しくなっている。
「いつになったら私の事を諦めてくれるのかな」
「俺が諦めるよりサンドラが諦める方が早い」
ブレない返しに思わず息を吐く。
「ロゼの護衛をお願い」
「了解」
元々護衛をするようお願いはしていた。
ジノルグのいない間はそれを行うのが彼の仕事だ。
今からロゼフィアはジノルグに会いに行く。とにかくまずは早く謝りたいらしい。今ジノルグは騎士団にいる。その道中をクリストファーに任せる。
あっさりと返事をした彼はその場から歩き出す。
一応仕事となると真面目にやる。
一人になったサンドラはふう、と息を吐く。
「……私もそう思うよ」
先程のクリストファーに対する返答だ。
彼の前で言ったらどんな顔をされるか。サンドラは苦笑した。
剣を振れば相手の騎士は吹き飛ばされる。
「次!」
すると待ち構えた別の騎士がこちらに向かってくる。ジノルグはすぐに身体を正面に向けて相手の動きに合わせた。剣をはじきつつ背後を取り、肘で相手の脇を狙う。相手がよろめければこちらのもの。すぐに足を引っ掛ければ簡単に転んだ。
ジノルグは声を荒げる。
「お前らの実力はこんなものか!」
するとその場にいた騎士達は雄叫びを上げる。
その勢いのまま、ジノルグに向かっていった。
いくらジノルグに実力があるからといって、他の騎士達も毎日稽古に勤しんでいる。仕事だってしている。だからこそ、言われっぱなしだと悔しいのだろう。騎士は大体皆、負けず嫌いだ。
騎士達の向かっていくその勢いは勇ましいが、それでもジノルグが簡単にはねのける。見ていて悲しくなる程の力の差だ。いつもロゼフィアの傍にいるのでそこまで稽古ができていないだろうと思っている騎士もいるだろうが、ジノルグは時間を見つけては己の限界に挑戦している。たまたま通りかかった先輩騎士に剣の稽古をつけてもらったりもしている。皆が知らないだけで、彼は努力家だ。
が、今のジノルグはいつもと違う。
いつも以上に覇気がある。いや、覇気と言うより殺気か。
とにかくイライラしている様子は伝わった。
傍で見ていたレオナルドは鼻で笑う。
「怖ぇ」
素の声で出た。
すると隣にいたサラも苦笑する。
「相変わらず容赦ないですね」
「大体あいつ分かりやすすぎだろ」
何の事を言っているのか、おそらくサラは分かっているだろう。
この言葉にあっさり「ええ」と返してきた。
「いつもロゼフィアさんと一緒ですからね。一緒じゃないという事は……ねぇ」
意味深な言い方をする。
そう、一緒じゃない。しかも苛立っているという事は、おそらくその理由はロゼフィアが関係している。今日は別に稽古場で剣を見る予定はなかった。なのにいきなりやってきて主導権を握った。滅多に騎士団に来ないからこそ、ジノルグの存在は大きい。先輩方も苦い顔をしながら様子を見ている。中にはせっかくの機会だと思い、参加している先輩もいる。
「そういえばサラ、ようやくクラウス殿と一緒になったんだな」
ジノルグの話に飽きたのか、レオナルドは話題を変える。
すると彼女は少し驚いた顔をした。
「どうしてそれを……って、聞く相手が間違ってましたね」
「これでも情報屋だからな」
レオナルドはにやっと笑う。
実はサラとクラウスは恋人同士になった。レビバンス王国に帰ってからしばらく経ってからの話だ。一応アンドレアには報告したらしい。恋のキューピット役として相談に乗ったロゼフィアにも早く言いたかったらしいが、色々あったので報告は保留にしていたようだ。空気を読んで周りにも言わなかったらしい。
「ま、情報屋って言ったけど、皆知ってるだろ」
「え」
「だってあのクラウス殿の嬉しそうな顔を見ればなぁ」
「ああ……」
サラは少し顔を押さえる。
想像できたのだろう。
長年片思いを続けていたのだ。顔と態度によく出るクラウスが毎日上機嫌という事は、サラ関係であると皆すぐに気付いた。ようやく幸せになったんだな、と微笑ましい眼差しで彼を見つめる目は多い。……こう見るとどの騎士も相手によってすぐ態度に出るな、とレオナルドは思った。
サラは恥ずかしそうに顔を俯かせる。
「……本当は迷ったんです。大変な時だったのに、こんな」
「いや、そこは自粛する必要ないだろ」
レオナルドはあっさり言う。
「悪い出来事が起きても、不安があっても、その中で誰かの幸せな話を聞ける。それだけで俺達の心も明るくなる。周りに合わせて暗くなる必要なんてない。皆が暗くなったらそれこそ本末転倒だろ」
「レオナルド殿……」
「少なくともあのクラウス殿の笑顔に癒された人は多い。俺も含めて」
くすっと笑いながら安心させる。
実際その通りで、にこにこと笑うクラウスの笑顔で元気になった者もいる。まぁ今までが少し落ち込んでいたので心配していた者の方が多かった事だろう。これもサラが関係していた事は皆知っている。アンドレアの側近という大役でありながらまるで子供のよう素直な心を持つ騎士だ。そんな彼を慕う人は多い。
「レオン!」
愛称を呼ばれて顔を向けば、ジノルグが睨んでくる。
それだけで悪い予感がした。
「お前も入れ」
顎を動かし、吐き捨てるように言われる。
悪い予感は的中。心の中で冗談じゃないと思った。
「十分対戦相手はいるだろ」
「弱すぎてつまらん」
「……先輩もいるのにお前ほんとえげつないな」
むしろこっちが冷や汗を流す。
見ればジノルグの周りは倒れた騎士だらけだ。急所を必ず当てているのか、呻いたり動けない者もいた。顔を見ればそれなりに強いと言われる騎士もいる。そんな騎士に対しても弱いと吐き捨てるのは本心からなのか、それとも腕が鳴らなくて本当につまらないのか、どちらだろう。
面倒くさいなと思いつつ、レオナルドは足を動かした。
むしろこの場を止められるのは自分しかいないのかもしれない。
「お前、何に怒ってるんだよ」
「怒ってない」
「怒ってるだろ。こんなに場を乱しやがって」
怪我を負わせるまでやる必要はなかったはずだ。
頭を冷やせ、と言いたくなった。
直球で聞く。
「ロゼ殿と何があった」
少しだけ間があった。
「なにもない」
「嘘つくなよ」
「お前には関係ない」
「……おいおい、これでも俺はずっと……おわっ!」
ずっと見守ってきたつもり、と言おうとしたが言う前にジノルグが向かってくる。話を折るのはルール違反だ。というか、正当な戦い方をするジノルグらしくない。最も、今の彼にはそんな叱責も届かないのだろうが。
レオナルドは慌てて体制を立て直す。
「どうした。ロゼ殿に拒否られたか?」
なんとなく言ってみれば、眉を寄せられる。
振る剣の衝撃がさらに重くなった。
「嘘だろ……」
冗談のつもりだったのに図星だった事に動揺する。
だが動揺したのはジノルグも一緒だったようだ。
「……たんだ」
「は? なんて?」
「間違えたんだ」
「なにを」
「距離の詰め方を間違えた」
思わず目をぱちくりさせる。
「まさか、好きとでも言ったのか?」
「………………」
「まじかよ」
「言ってない」
「いや随分長い間だったな」
その後の即答に思わずツッコむ。
「……分からない」
「なにが」
「今まではただ傍にいられるだけでよかったんだ」
少し切ない顔をする彼は、珍しく弱く見えた。
……相変わらず剣を振る勢いは強烈だが。
「なのに、今の俺は欲深い」
「欲深い、ねぇ」
むしろ今のジノルグは、欲深いというよりはどれだけロゼフィアを大切に思っているのかが分かる。そんな自分を責めているのだから、彼はどこか不器用だ。
いや、二人共、か。
「いいんじゃないか。欲を持ったって」
「だが、」
「むしろお前はずっと傍にいるだけで見てきたんだろう。ロゼ殿を」
「…………」
「じゃあちゃんと言ってやれよ。どれだけ想っていたのかを」
「……俺は」
ジノルグは迷うような声を出した。




