交わりは始まりの味
寝静まった夜の街。家の明かりは消え、自分の靴音以外は何も聞こえてこない。そんな夜道を歩き、俺は大きな屋敷の前で立ち止まった。燕尾服を握り、ふわりと蝙蝠に姿を変える。二階の窓まで飛んで中を窺った。寝室らしいそこに、若い娘が寝ていることを知っている。今度は霧に姿を変え、窓の隙間からするりと部屋に入った。静かに元の姿に戻り、ベッドを見やる。布団にくるまれ、娘は寝息を立てていた。
俺はごくりとつばを飲み込んだ。まだだ、まだ早い。はやる気持ちを抑え、忍び足で寝台に近づく。寝そべる娘の上に覆い被さり、期待に牙の生えた口を大きく開いた。刹那、布がバサリと持ち上がるのが見えた。
「ごふっ…!?」
俺はその一瞬に何が起きたのか、すぐには理解できなかった。気付いたときには俺は後ろに飛ばされ、喉への的確な攻撃にむせ込んでいた。混乱した頭で寝台を見ると、ベッドで眠っていたはずの人影がすっと立ち上がった。
「エルバートだっけ? ふうん、あんたがこの街に住むヴァンパイアかあ」
わずかな星明かりに女性の顔が浮かび上がった。体格は人間のそれだが、狼の足と毛深い腕、そして犬耳ともっさりした尻尾が揺れる。彼女は俺が本来狙っていた貴族の娘ではない。どうも影武者を立てられてしまったようだ。
「ちっ、ロウプス風情が邪魔立てか」
俺の言葉に、半獣女はぴくりと耳を立てた。鋭い眼光が俺を睨み、きらりと爪が光を反射する。俺は咄嗟に横っ飛びに避けた。が、相手の爪は脇腹をかすめ、肉がえぐれる。人でないこの体から血が出ることはないが、傷が痛むのは変わらない。体勢を立て直す間もなく、振るわれた強靱な足が俺の腹に直撃した。そのまま後ろに飛ばされ、窓のある壁に叩きつけられる。起き上がるより早く、相手が飛びかかるのが見えた。獣のように獰猛な爪が迫る前に、霧へと姿を変える。すぐさま窓から部屋を抜け出し、蝙蝠姿で飛び去った。
なんとか自分の屋敷に帰り着き、俺は元の姿に戻る。寝台にたどり着く前に、膝から崩れ落ちてしまった。
「不意打ちとはいえ、こうも連続で急所を突かれると、さすがに痛いな……」
ベッドのシーツに頭を埋めながら、打たれた箇所をさする。ロウプスの筋力でたたき込まれたせいか、まだじんじんと痛みが残っていた。加えて、体が血を求めていた。
「ああ、腹が減ったな……」
“食事”を先延ばしにされてしまったせいで、思うように力が入らない。先ほどの爪痕も治りが遅い。普段なら一瞬で直ってしまうはずだが、空腹ではそれも弱まってしまう。痛みが治まったらすぐ獲物を探しに行かなければ、倒れてしまいそうだ。俺はやっとの事でベッドに乗り込み、そのまま休息に入った。
翌日、日の沈みかけた夕刻に俺は街へ繰り出した。普段であればもう少し遅い時間に出かけるのだが、一刻も早く血が欲しい今は少しでも人の多い時間に動きたかったのだ。
だが今日はどういうわけか、時間の割に街は静まりかえっていた。黄昏時とはいえ、寝静まるにはまだ早い。酒飲みの男達が出歩いていたっておかしくないはずだ。静寂を訝しみながら歩いていると、奇妙な人影に出会った。それはヒト型のようであったが、だらりと長い腕を持っていた。顔に鼻はなく、口が大きく裂けている。そしてどことなく、死の臭いがした。よく見れば、群れた彼らは足下の肉塊を頬張っていた。そこにあるのは人間の死体――あれはどうも、人肉を喰らう存在のようだ。
「なるほど、食人鬼の群れか」
グールどもがこちらを向いた。人間の姿をした俺が食べ物に見えたのか、長い腕を伸ばして襲ってくる。俺は腰に帯びたサーベルを抜き放ち、素速く振るった。相手の体は存外もろく、一振りで腕が簡単に切れてしまう。が、生命力があるらしく、それだけではひるまなかった。今度は高い位置で振り、グールの首を切り落とす。頭を失った体はどろりと溶けて崩れ落ちた。
俺は次々に首を狙った。だが、いっこうに数が減らない。刃に付いた体液を拭ったところで、背後の影に気付いてしまった。間に合わない。そう直観したその瞬間、背後のグールがぐしゃりとつぶれた。獣の双眸がすぐさま次の獲物を捕らえ、狼の足がグールの頭を蹴り抜く。泥となったグールの傍に降り立ったのは、昨夜の半獣女だった。彼女はこちらを確認すると、うわ、とでも言いたげに顔を引きつらせた。
「なんだ、昨日のヴァンパイアか。慌てて助けて損した気分」
「勝手に助けといてずいぶんないいようだな? 礼は言わないぞ」
さすがに俺も腹が立って、すぐさま言い返す。このままこいつを襲ってしまおうかと考えたが、グールの鳴き声にはっとした。まだグールは俺達を囲むほど残っている。
「おい、獣女、貴様夜目は利くか?」
「まあね、夜戦は得意だよ」
「ならいい。一時休戦だ。あとでたっぷり文句を言ってやる」
俺がそう言ってサーベルを構えると、半獣女は意外そうに耳を立てた。
「へえ、自分も人間を襲う立場なのに、人間を守るんだ?」
「ふん、グールどもに人間を食い尽くされたら、俺の取り分がなくなるからな」
俺は攻撃態勢に移りながら答えた。相手はふうんと言ったきり、それ以上は何も言おうとしない。すっかり暗くなった街道で、グールの目が輝く。その光が動いた瞬間、サーベルを一閃。的確に首を切り落とし、すぐに次を狙う。横を半獣女が駆け抜けてはグールを蹴散らす。それでも敵の数が減る気がしない。
「どれだけ入ってきたんだ……」
何体目かを斬り伏せ、つい悪態をつく。目の前に敵が迫る。その長い腕を切り落としたところで、不意にめまいに襲われた。まずい、さすがに空腹のまま無理をしすぎたらしい。体勢を崩し、迫る攻撃に対応できなかった。
「ぐあっ……!」
グールの腕が俺を突き飛ばした。俺は勢いよく建物に激突し、口から空気が漏れる。好機とみたのか、グールがこちらに寄ってくるのが見える。だが痛みと空腹とで思うように体が動かない。死を覚悟したそのとき、目の前でふさりと尻尾が揺れた。襲い来る異形を回し蹴りで吹き飛ばし、鋭く俺を睨んでくる。
「そんなところで寝ないでくれないかな?」
「…………」
彼女の声にはかなり棘があった。俺はそれに答えられず、小さく息を漏らす。半獣女の耳がピン、と立った。
「もしかして、喉が渇いた?」
その問いに、俺は小さく頷いた。暗闇の中で、相手が眉をひそめたのがわかった。女はしばし尻尾を揺らして考え込み、やがて俺の腕を掴んで路地裏に引き込んだ。壁に向かって女に覆い被さる格好になり、俺は相手を睨み付ける。
「……何のつもりだ」
「血が欲しいんでしょ? あんたの食事を邪魔したのは私だからね、その責任くらいはとってあげる」
半獣女はすまし顔で答えた。疑問を持つのは馬鹿らしいとでも言いたげに、襟元をほどいていく。なめらかな首元が視界に現れ、俺は言いかけた言葉を失った。血色のいい肌はしっとりと柔らかそうで、牙を突き立てればすんなりと受け入れそうだ。得られる糧に心が躍り、喉がそれを欲して鳴る。女の余裕そうな顔が噛みついたらどう変化するのだろうかと、己の劣情までも駆りたてられる。
「全部は吸わないでよ」
彼女の忠告も、もう耳に入ってこない。俺は女を抱き込むと、首筋に口を付けて舌を這わせた。血管の位置を見つけ、肌に牙を突き立てる。予想通り柔らかな感触と、あふれる新鮮な血の味に酔いしれそうになる。逃げ腰になる女の腰を捕まえ、さらに強く吸い付く。飲み下すごとに体に力がみなぎってくる。俺は夢中で血をすすっていた。
満足できたところで、俺は口を離した。ふと女を見やれば、彼女は伏せ目がちに俺を睨んでいた。犬耳はぺたりと垂れ下がり、尻尾は足の間で小刻みに震えている。そうせよと言ったのは自分だろうに、随分といじらしい仕草だ。
「ほう、お前もそんな顔をするのか」
「うるさいなあ、今はそんなこと言ってる場合じゃないでしょ」
半獣女は鋭い視線を俺に向ける。が、涙に潤んだ顔ですごまれてもまったく怖くない。もう一度吸ってやろうか――と思ったところで、うなり声が聞こえた。路地裏に隠れていた俺達を、グールが見つけたのだ。俺は小さくため息をつき、異形達を見据える。
『鋭き閃光よ、かの体を貫け』
俺は言霊を唱えた。それは稲妻となり、一瞬で敵の体を突き抜ける。電流は瞬く間に相手の命を奪い、動かなくなった肉体が崩れ落ちる。
「そんなことできるなら初めからやればよかったのに」
「さっきまでは力を温存せざるをえなかったからな。その点は感謝する」
後ろから飛んできた嫌味は軽く受け流す。ひらひらと手を振ってみせ、騒ぎに集まったグールたちの前に進み出た。飢えた瞳が一斉に俺を捉える。血肉を狙う彼らの前で、俺は人差し指を立てた。
『雷鳴よ走れ』
詠唱に合わせ、青い閃光が放射状に広がる。雷撃はグールの体を焼き、動かぬ死体へと変えていく。
やがて、動けるグールは一匹もいなくなっていた。彼らのうなり声が消え、見慣れた夜闇に戻っている。
「終わったね」
「そうだな」
お互いの呟きもすぐに風に消えてしまう。そう、終わりだ、グールという脅威が去り、俺の腹も満たされた今、ここに留まる意義はない。そこの半獣女と共にいる理由もない。けれどここで彼女を帰してしまうには、なんとなく惜しい気がした。
「おい、獣女。名は何という?」
「……ジャッカ」
女は訝しみながらも、素直に名乗った。何故そんなことを聞くのかとでも言いたげな顔だ。俺は答える代わりに彼女をじっと見つめた。壁に押しやって迫り、怪訝な顔をのぞき込む。
「何? もう血は上げないよ?」
ジャッカは警戒の眼差しで俺を見上げ、腕で胸元を隠した。彼女の挙動に、俺はくつくつと笑う。
「それは困ったな。俺はお前の血以外、飲める気がしないのに」
「は?」
ジャッカは大きく目を見開いた。耳の動きを止め、ぽかんと口を開けている。その反応が面白くて、俺はさらに顔をよせた。
「安心しろ。責任取って俺がお前を一生養ってやる。だから俺の元に来い」
「はあっ!?」
彼女は素っ頓狂な声を上げた。わずかに頬を染め、瞳がふるふると揺れているのがわかる。
「それ本気? 自分が何言ってるのかわかってる?」
「もちろん本気だ。俺はお前が欲しい。だから来いと言っている」
俺はジャッカの目をまっすぐ捉えた。彼女は今にも泣きそうな顔をしていた。何か言いすぎただろうかと考えていると、押さえつけた腕ごと振り払われる。
「ばっかじゃないの? それで口説いてるつもり?」
上ずった声でそう言って、ジャッカはこちらに背を向けた。慌てて追いかける前に、彼女の足が止まる。
「……ありがとう」
こちらを見ず、消え入りそうな声が聞こえてくる。その尻尾は所在なさげに揺れていた。おそらく、それが本心なのだろう。隠そうとも隠しきれていない、いじらしさに吸い寄せられそうになる。俺は気付かれないよう小さく笑って、彼女の肩に手を掛けた。
雨野夜さんからのリクエストで「半獣狼女とヴァンパイア男の共闘、そして芽生える恋心」でした。
ネタとしては好物なので勢いに乗って書き上げましたが……ど う し て こ う な っ た
雨野さん、こんな感じでよかったでしょうか?