第3話 mizuwari
短い男女の会話劇です。
男と女の友情は成立するか? かつて筆者は成立するという立場をとっていた時期もありますが、この作品のように、必ずどちらかが我慢をしていると考えた方が、男女の方程式は単純でわかりやすいと、今では思うようになりました。
「『ありがとう』って言って、それで別れるつもりだったんだぁあ。わたし」
彼女は手に持ったグラスを眺めながら、口をとがらせて、そう訴えた。
「でも、あの人があんなこと言うから……」
カラン、カラン、カラン
グラスにはすっかり溶けてしまった小さな氷が浮いている。それをくるくると回すたびに、安っぽい音がする。
「私、わかってたんだ。こうなること。だから覚悟はできていたし、あの日だって、半分はそのつもりだった」
『そのつもり』という言葉を、少しだけ濁しながら彼女は言った。言い終えて、一気にグラスに入った水割りを飲み干す。僕は彼女が勢いよく置いたグラスを手に取り、ウイスキーの水割りを作る。
さっきよりも薄く。
一杯目に比べれは半分の薄さだ。もう4杯目か、5杯目か。僕ならとっくに出来上がってしまっている量を、彼女はまるでスポーツドリンクを飲むように体に流し込む。のどの渇きはともかく、心の渇きはまだ収まっていないようだ。
「でもね。わかっていても……、頭でわかっていても、『ハイ、そうですか』って具合には、いかないのが人生?」
質問なのか、自問自答なのか。それとも同意を求めているのか。おそらくはそのどれでもない。
新しく入れた水割りのグラスを両手でつかみ、手のひらに伝わる冷たい感触を確かめながら、彼女は僕を睨みつけた。
「ねぇ、これ、少し、薄くない?」
「そんなことないです。もし薄かったら、次に入れるときにもう少し濃くしますよ」
一瞬ヒヤッとしたが、彼女の関心はすでに他のことに移っているようだった。
「あぁ、この曲、懐かしい……」
店内に流れている有線放送は、70年代から80年代のヒット曲が中心になっている。
「ねぇ、思い出の曲、て……、ある?」
「いえ、特にそういうのは……」
僕には、わかっている。
僕がなんと答えようと、それが会話の中心になることはない。
僕の脳裏には、何曲かタイトルが浮かんだが、彼女が言いたいのは、自分のことだけで、僕の想い出話など、どうでもいいのである。
カラン、カラン
彼女はまた、氷をグラスの中で回し、僕が薄く作った水割りを恨めしそうに眺めていた。
「私はねぇ。いっぱいあるの。ありすぎて困っちゃうの。思い出の曲」
彼女は、恋多き女などと、自分では言ったりするが、僕が知る限り、そのほとんどは片思いで、しかも自己完結している。
一般的に言う『恋多き女』とは、まるで違っている。
恋に恋する女
恋に臆病な女
恋愛依存症な女
どれでもいいが、ともかく彼女は常に一途で、捨てられることはあっても、捨てることはない。二股をかけられることはあっても、かけることはない。そういう女だ。
「そりゃあ、相手が妻子持ちだっていうのは、最初から分かっていたわ。子供じゃないんだから、そんなとき、どうすればいいかなんて、人に言われなくってもわかっているわ」
いや、わかっていない。わかっていないから、傷つくし、傷つける。
そして毎度、こうして僕に事後報告をする。先に話を聴くこともないわけではないけど、ほとんどの場合、手の施しようがない状態で、話を持ってくる。
僕にできることは、こうして、ヤケ酒に付き合うことぐらいだ。
「わかってる? 今夜はとことん飲むわよ」
わかってます。わかってますとも。僕が一番、彼女のことをわかっている。そして彼女がわかっていないということも分かっている。僕がどれだけ、彼女のことを……。
「ねぇ、どうしたの? 今日はノリが悪いわよ。お酒が足りないんじゃないの?」
これ以上僕を酔わせたら、僕の心は溢れ出してしまうから……。
「ごめんね。いつも付き合わせちゃって」
ちがうんです。本当はありがとう、って言ってほしかったんです。
「また、ごめんねって、言っちゃったんですね」
「そうなの。でも、どうせなら、バカヤローっていえばよかったかもね」
そう。僕もこの店を出て、彼女と別れたら、きっとバカヤローってなるのかもしれない。
「バカよね」
「そうですね」
「本当、バカよね。私……」
いえ、ちがいます。本当に、バカなのは……。
カラン、カラン
今度は、僕が、薄く、薄く作った水割りに浮いた氷をまわし、それから一気に飲み干した。
なみなみと注がれたコップの水をこぼさないように、僕はあと何枚、コインを落とすことができるだろうか。
一枚か、二枚か。それとも……。
いつの間にか、店内には、僕の想い出の曲が流れていた。
おわり
2013/09/15改訂
文末に加筆