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第20話彼女が布団をかけないわけ

この物語は、先刻仲間内でなぜ中年男性はオヤジギャグを言うのか、そしてなぜ女性はそうならないのかについて語ったことをきっかけに思いついて物語です。

 休日だというのに目覚ましがなっている。充電したスマホまで手をのばさなければ。

 目覚ましは告げている。さぁ、その暖かな場所から出てきなさい。そうしなければあなたはずっとこの不快なアラームを聴き続けなければならない。


 目覚ましは優しくない。さぁ、朝だよ。起きないと遅刻しちゃうぞ。今日はきっちり化粧を決めていかなきゃならない日じゃなかったの……とは言ってくれない。言ってくれないからわたしはそのことを思い出すまで6畳間の今、一番暖かな場所から出る気にはなれない。ましてや――わたしがスマホまで手を伸ばすためには、ちょっと手を伸ばせばいいという状態ではない。


 布団から手を伸ばせばいいという、そういう簡単な状態ではないのだ。


 お布団で眠りたい。

 押入れには未練がましくもしまったままの羽毛布団が眠っている。寝つきが悪いわたしは、一人暮らしをはじめてからというもの、寝具をあれこれと試すのが半分は趣味のようにものになっていたし、生きているうちで何が楽しいか、何がしたいかでいえば、わたしはぐっすりと眠りたい。寝るのか好きだし、暖かな布団なのかに身を置いていると素敵なことはもっと素敵に思い出せるし、嫌なことはすぐに忘れられる。


 わたしは暖かな布団の中で寝ることが、何よりもすきなのだ。


 なんでこんなことになってしまったかを思い出すのはもうやめることにしている。考えてもしかたがないことというのは確かにある。だから寝る。仕方がないときは諦めるために寝るし、いいアイデアが浮かんだときはそれを喜んでわたしは布団で寝る。だからこそわたしは布団のことを考えるのをやめ、この目覚ましの意味をゆっくりと思い出し決心する。


 起きなきゃ。


 わたしには今、とても気になる人がいる。その人はバイト仲間のサチの飲み仲間で、趣味でバンドのボーカルをやっている。わたしはバンドにはまるで興味はなかったけれどサチの強引な誘いと、ライブハウスではなく、小さなライブができるライブカフェで座ってゆっくりお酒を飲みながらおしゃべりもできるところだと聞いて仕方がなく付き合った。


 演奏がうまいとか、歌が良いとかよくわからなかったけれども、演奏が終わった後、気さくにわたしに話しかけてくれたり、バンドのメンバーやお客さんや店のスタッフと楽しげに会話している彼の姿がなんだかとても眩しかった。わたしにはとくに趣味もないし、成し遂げたい目標とか、夢とかそういうものを持ったことがなかった。


 何よりも寝ることが好き、次に食べること、お酒を飲んで友達とわいわい騒ぐこと、ついでに恋愛が少しでもできたらあとは流れに身を任せておけば良いくらいにしか考えていなかった。だけど彼は違っていた。はっきりとした夢や今大切にしたいことがちゃんとある人だった。そんな彼を見ているうちに彼の歌が少しずつわたしの心に染み渡っていくのがわかった。


 ああ、ファンの心理ってこういうものなのかと最初は思ったのだけれども、次第にそれはその枠では収まらないものになっていた。


 今日は初めて彼と二人きりで会うことになっている。いつもより早く起きて支度をしないといけない。


 わたしは意を決して体を反転させ、衣装ケースのそばで充電をしているスマホのところまで虫のように這って行った。こんなだらしのない姿は誰にも見せられないが、幸いここにはわたし一人しかいない。そうでなくなったとき、わたしはどうやって起きるのかをまだ、考えてはいないが考える必要はまだ、当分はない予定だ。


 お昼、新宿駅で待ち合わせて、ランチ、買い物、お茶をして夕方から飲み始めた。楽しい時間が過ぎていく。お互い明日も休みということもあり、あちこち飲み散らかして、気がついたら終電の時間を過ぎていた。お互いに気持ちはある。もうこのまま朝まで一緒にいようという空気にわたしは戸惑いを感じていた。


 どうしよう。このままずっと一緒にいたい。だけど、なんの準備もできていない。

 わたしはうかつにも帰りたくないという気持ちをすっかり相手に悟られてしまっている。彼も帰したくないという顔をしている。最初はぎこちなくお互いの距離や立ち位置をきにしていたのに、今は身体が離れている時間のほうが少ない。


 どこか泊まろうといわれたら、それを断る理由もないし、わたしもずっと一緒にいたい。だけどその選択肢はわたしにとって大きな決断を迫られることになる。誘われて断ってしまったらこの先、こんな機会は二度と訪れないかもしれない。それだけはどうしても避けたかった。それならばいっそう……。


「ねぇ、よかったらわたしの部屋にこない?」


 ずいぶんと大胆なことをしていると自分でも驚いている。だけどどうしようもなく、わたしは彼のことが好きになってしまっている。それよりも何よりも、わたしはこんな自分を彼に知って欲しいと思っている。彼のことが好きなわたしを知ってほしいのではなく、わたしが今抱えている問題について、彼になら話せると思った。


 わたしは彼に助けてもらいたかったのだと思う。 

 彼にはわたしにそう思わせてくれる光がある。その輝きに目がくらみ、わたしは彼を部屋に誘ってしまった。




 いつも以上におしゃべりなのは、ちょっとした間がとてもこわかったからに違いない。

 新宿からタクシーで移動し、近所のコンビニで缶チューハイやつまみになるものを買って部屋に入った。


 早起きは三文の徳――部屋はいつもより少しだけこぎれいに片付けてあったし、台所やトイレ、風呂場は念入りに掃除をした。こうなることを期待していたわけではないけれど、ただでさえハードルの高いことをしでかしてしまう可能性を考えれば、当たり前田のクラッカーだ。


 わたしは買ってきたクラッカーにチーズやポテトサラダを盛り付けていただきもののお皿に盛り付けた。一人で使うには大きさも形もかさばるそれは、やっと日の目を見るときがたってきた。


 彼はそれをとても褒めてくれた。でも、褒められるのは嬉しいけれど、それだけまたハードルが少し高くなっているかもしれないと思ってしまうわたしは、うっかり思ったことを口にしそうになって、マンガのように自分の口を押さえて声を殺した。その言葉は決して口にしてはいけない禁句――すべてを終わらせてしまう呪文のようなものである。


「これ、好きなんだよね。イカそうめん」

 もちろんそれは生のイカを麺状に細く切った刺身ではなく、コンビニであれば必ずおいてある珍味のそれだ。わたしも大好きだけど、イカはここしばらく口にしていない。口にするとつい口に出てしまうその言葉を飲み込むのは至難の業。


「あれ、苦手だった?」

 わたしが急に口を押さえたものだから、彼はイカの匂いが苦手なのかと思ったようだ。

「違うの、ちょっとせきが……、大丈夫、イカ、好きだよ。匂いも」


 思ったことをすぐ口にしてしまうわたしは、うっかりおかしなことをくちばしってしまったことに気がついたものの、それでもあの言葉を言ってしまうことに比べたら、これはセーフだ。せいぜい失敗がオッパイになったレベルだと自分に言い聞かせた。


「イカの匂いが好きって言った女子は初めてだよ」

 彼は下世話な笑いもさわやかにこなすことができるユーモアのある人だ。そんな彼だからこそ、わたしは彼を部屋に誘うことができたのだ。二人はその会話をきっかけに「はじめまして」の緊張感からやっと開放された。


「本当だよ。こんな時間に男子を部屋にいれたことなんかなかったよ」

「信じるよ。そして嬉しいよ。呼んでくれて」

 わたしたちはしばらくお互いが普段どんな暮らしをしているのか、過去にどんな人と付き合ったことがあるのか、お互いの過去の記憶を共有することでより親密な関係を築くことに時間を割いた。それはこのあとのハードルを越えるためにどうしても必要なことなのだ。


 そしてそのときは不意にやってきた。

「もうこんな時間だね」

 彼は少し眠そうな顔をしてわたしに寄りかかってきた。最初はテーブルを挟んで向かい合わせに座っていたが、今、彼はわたしのとなりに居る。

「寝よっか」

 その言葉を合図に二人は少し強くお互いの手を握り締め、唇に唇を重ね、お互いの気持ちを確かめ合った。


「わたしの寝るの好き。だけど寝るときは布団で寝ないの」

 わたしは意を決してそう切り出した。彼はその言葉を自然と受け入れているようだった。

「じゃあ、どうやって寝てるの? 部屋にベッドはないみたいだけど」

「寝袋」

「寝袋? あのキャンプとかで使う……布団がないとか? 苦手とか?」


 わたしは首を振る。

「押入れに布団はあるよ。だけど駄目なの」

「駄目って、布団になにか問題があるってこと?」

「違うの。問題はわたしにあるっていうか、わたしの中にあるっていうか」


 わたしは彼の手を引き、押入れの前に立った。引き戸をあけるとそこには懐かしい布団が畳まれている。この布団を使わなくなってどのくらいたつだろうか。見ることすら本当に久しぶりだ。

「いい、驚かないでね」

「えっ、何を」

「今から起きること」


 次の瞬間、彼は腰を抜かしたように床に手と腰をついて倒れこんだ。

「なに、今の。何が起きたんだ。布団が勝手に押入れから飛び出してきた」

「ごめんね。わたしのせいなの」

「どういうこと? これって、サプライズとか、いたずらとかじゃないの」

「ちがうの。わたし、思ったことをすぐ口に出しちゃう癖があって、それで……、それでね」


 気がつくとわたしの頬を温かいものが流れていた。言葉はつまり、言いたいことが言えない。

「落ち着いて。俺は大丈夫だから、何が起きたのか、わかっている範囲でいいから教えてくれる?」


「あのね、わたし、ものを見たり、聴いたりするとね。ついつい思いついちゃうの」

 彼は隣で少女のように泣きじゃくるわたしを優しく抱き寄せてくれた。背中をさすったり頭をなでたりしてわたしを落ち着かせようと必死だった。

「うん、それで、何を思いついちゃうの」

「わたし、毎日布団を押入れから出すときにね。ずっと言ってったの」

「何を?」

「布団が……」

「布団がどうしたの?」

 わたしは後ろを振り返り、放り出された布団を見ながら言った。

「布団がふっとんだ」


 わたしの大好きな羽毛布団は、羽が生えたのではなく、何かに吹き飛ばされるように大きく宙に舞い上がり、そしてまた床の上に落ちた。

「え?」

 彼が驚くのも無理はないし、まだ信じられないのも当然のことだ。

「布団が吹っ飛んだ!」

 わたしはさっきよりも大きくはっきりした声で叫んだ。すると布団は文字通りに吹っ飛んだ。


「えぇ、えぇ、冗談よしこさん」


 わたしは凍りついた。こんな場面でよくもそんなオヤジギャグが言えるものだと。

「こんなときに冗談よしてよ! わたしの名前をギャグにしないで!」

 わたしは子供の頃から自分の名前をいじられるのが嫌いだった。好きで好子になったわけじゃないのに。まだ花子のほうがよかったと本気で思ったものだ。


 彼はわたしが本気で嫌がっていることを気づいていないようで、諭すようにわたしに言った。

「嫌いじゃないよ。好子って名前も、冗談も。俺もさぁ、つい言っちゃうんだよ。オヤジギャグ。MCとかでついついそれが出ちゃって大スベリしちしてメンバーからよく叱られたよ」

「そうなの?」

 確かに彼の駄洒落にはセンスのかけらも感じられない。もしかしたら場の空気が読めない人なのかもしれない。


「だからずっと我慢してる。で、家に一人で居るときは、そんなことばっかり言っている。たとえばイカが――」

「ダメ! それはダメ!」


 もう遅かった。わたしは口に出さずともその能力を発動させてしまう場合がある。布団が吹っ飛んだのように日常的に使っていたものは、よりその傾向がある。呪文の上塗りのようなものなのかもしれない。二人の視線はテーブルの上に向けられていた。


 イカそうめんが仁王立ちでこちらを睨んでいる。

「嘘だろう。イカが怒ったのか」

「ごめん、さっきまではイカがイカスぜぇって頭の中で言い聞かせていたんだけど」

「イカが怒るとどうなるの?」

「ああなっちゃうと手がつけられないのよ。時間が経つまで」

「もしかして、10分間仁王立ちしてるのかな……イカだけに足が10本」


 なんてつまらないことを思いつく人なんだとわたしは幻滅した。

「そんなわけないでしょう」

「時間、計ったことあるの」

「ないわよ」

 彼は腕時計を覗き込みながら言った。

「時計で時間計ってみようか」

「ほっとけい」

 すっかり気が抜けてしまったわたしは、思いついたことを躊躇なく口にした。彼の腕時計が吹っ飛んだ。


 ここは笑うところなのか、謝るところなのか。

 ただ、わたしは彼に関してひとつだけ確信していることがある。それは電話番号を交換しても意味がないということだ。


 おあとがよろしいようで。

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