第14話 虎穴
実際に目をそらすことはできたと思うが、私にはそれができなかった。
見蕩れてしまったのである。
その女は言葉少なく、声も小さい。
小声というよりは、誰の耳に届くような大きな声で話す行為は、彼女の流儀に反している。そういう気品のようなものがどうにも気持ちが悪かったが、悪い気はしなかった。
そう思わせるくらいに、女は潔かった。それほどまでに不純で不実さが徹底されていた。
女のべったりとこびりつくような視線は、だれそれかまわず送られているようだったが、それを意識しているのは私だけのように思えた。
カウンター席と女の座るテーブル席の間を客や店員がが往来する。
「知り合いか?」
なじみの客が時々声をかけてくる。その客越しに、女と目が合う。
「いや、初めて見る顔だね」
徳さんは、誰とでも気軽に話すが、いい人というわけではない。ちょい悪で面倒なところがあるが、それが魅力でもある。
「一緒にいるの、亮ちゃんだよね」
彼女とテーブル席に並んで座っている亮ちゃんは、相変わらずご機嫌な様子だった。ここが3軒目なのか4件目なのか。
「どこかの店で引っ掛けてきたのかな?」
「ふーん、珍しいね。あの人についてくる女なんて」
徳さんはいやみのない笑顔でいやみをいうのが得意だった。
「別に珍しくないんじゃないかな。この前だって誰か連れてきてなかったっけ?」
「そりゃ、女じゃないだろう。亮ちゃんのほうはその気があったかもしれないけど、女性のほうは『オンナ』としてついてきたわけじゃないじゃん」
横浜のホテルで長くコックとして勤めていた徳さんは、ときどき語尾に『じゃん』をつける。
「痛い目見ないといいけどね、亮ちゃん」
徳さんがグラスを傾けた。私はそれに合わせて水割りの入ったグラスを傾け、乾杯をした。
「やっぱ、そう思うか? ありゃー、そうとうなタマだぜ」
どうやら本題に入ったらしい。
「まぁ、亮ちゃんも独身だし、たまにはいいんじゃないですか?」
「離婚、結構大変だったらしいね。それですっかり自信なくしちゃったらしいよ。そうなるまでは、結構イケイケっていうか、ギンギンだったからね。よほど堪えたんだろうね」
「よく知っているなぁ。そんな話」
実際、亮ちゃんとはそれほど親しい間柄ではなかったので、プライベートなことはほとんど知らなかった。
「他人のそういう話は酒のつまみになるからな」
「あまり、いい趣味とはいえないね」
「ふん! ジンさんが人のこと言えるの? むしろ、そういう話を商売のネタにしてるんじゃないの?」
「人聞きの悪い。まぁ、否定はしないけど」
人の肩に手をかけて話してくる輩とは、あまり仲良くしたくないものだ。もちろん敵にもしたくない。陽気な酔っ払いは、曲に合わせてステップを踏みながら自分のテーブルにもどった。
この店に流れているのは80年代の洋楽だ。
ジンというのはこの店での通り名で、普段から慣れ親しんだ呼び名ではない。ジンは漢字の「仁」であり、私の名は「ひとし」という。漢字で「一志」と書く。会社勤めの傍らで、小説を書いている。いつか小説で一本立ちをしたいと考えているが、そこを思い切れないでいるから、こうしてここで飲んでいる。
仕事が終わってからまっすぐ家に帰る日が、年々減ってきた。仕事も家庭も順調で、趣味というレベルなら小説の評価もまずまずだった。だけど、それがどうにも居心地が悪かった。
酒を飲んで気を紛らわすというのは難しい。陽気な酔っ払いを演じるのも、社会への不満を訴えて管を巻くのも性に合わない。ただ、冷めていた。いや、温いといったほうが適切なのかもしれない。
それに比べて、女のそれは熱く、そしてクールだった。何がどうしてこうなったのかはわからないが、あの女はどうやら私に興味があるようだ。
女がカウンターの隣に席に着いた。亮ちゃんはご機嫌で、目があったなじみの客に女を紹介してまわっていた。その順番が自分に回ってきたというわけだ。
「こんばんは」
「はじめまして、どうも」
白い。そして黒かった。身体の線がはっきりとわかる黒のワンピースの短いスカートから伸びた細い足は、白々しいほどに白く、きめの細かい肌をしていた。自分のため以外には使ったことはないだろう細い指先は、まるで別の生物の触手に白く光って見えた。腰の辺りまで伸びた黒髪は、怨念でも込められているように不気味に黒く光ってる。
会話が続かない。亮ちゃんは「いい女だろう? 綺麗だろう?」とそればかりを繰り返している。私はおそらくそっけない程度に仰々しく相槌を打つに留まり、それに満足したのか、或いは不満だったのか、話の矛先をマスターや他の客に向けてくれた。亮ちゃんは愛すべき酔っ払いである。
その間、そしてそのあとも、女は僕から視線を離さない。時々何か口にするが、何を言っているのか聞き取れず、それを聞くには二人の肩が触れ合うという距離を越えて近づかなければならず、その状態がしばらく続いた。必然、余計に話しづらかった。
救いだったのは、女は私が顔をしかめるような香水をつけていなかったことだ。そしてそれが災いして、不用意に女のテリトリーに足を踏み入れてしまった。うかつだった。
「奥さんとお子さんのいるところに帰っちゃうのね」
そんなことを言われた。それは会話の流れなどではなく、女がまるで詩を朗読するように、或いは医者が死を宣告するように言ってのけた。
これと言って気の利いた言葉も思いつかず、かといってやられっぱなしなのも釈然とせず、当たり前のように女の唇に私の唇を合わせた。
おそらく誰にも気づかれないタイミングと間合いを女が演出し、私はその台本にしたがって演技をしたに過ぎなかった。私は背中から腰に右手を滑らせ、左手で水割りを口に含み、女の唾液を洗い流した。
演出家のダメだしを待ったが、これと言って指示もないので、そのままアドリブで右手を女の白く、細い太ももの上に置き、可能な限り卑猥に動かした。
爆笑
女の背中越しに、亮ちゃんが馬鹿笑いをしている。本当に馬鹿に見えたのが申し訳なく思えた。
私は右手を本来あるべき女の腰に戻し、ここで監督からOKが出た。
「じゃあ、そろそろいくわ。ジンさん、また!」
「おやすみなさい」
女は席を立ち極端に短いスカートの裾をつかみ、あらわになった尻をしまいこむ。細身の体にふさわしくない、たるんだ尻が艶かしかった。
亮ちゃんが会計を済ませている間に、もう一度女が挨拶に来る。いよいよダメだしを食らうのかと、いささか期待をしたのだが、相変わらず彼女は口を開こうとしない。代わりに不用意にだらんと下げていた私の右手を女は自分の股間に押し当てた。動揺しなかったかのかと問われれば、しなかったと答えるが、女にそれは通用しないいだろう。
女は口で語らず目が語る
ほんの少しだけ手を動かし、別れの挨拶をすませた。
二人が店を出た後、若い客が私の隣に座り、女のことを聞いてきた。
「君子危うきに近寄らずという言葉をしっているか?」
「知っています。やっぱりあーいう女はヤバイですかね」
「虎穴に入らずんば虎子を得ずだよ。青年」
我ながらつまらないことを言ってしまったと思い、そうそうにその場を立ち去ることにした。
外は雨
彼女は傘をささないだろう
家に帰ると、自分の布団に息子が寝ていた。チョッカイを出してやろうかと思いながら着替えていると、物音に気づいたのか、息子は目を覚まして自分の布団に移動してしまった。妻は携帯電話を握ったまま寝ている。そういえば、さっきメールが何通か届いていた。半分ぐらいは返信したからいいだろう。娘の寝顔を覗き込もうと思ったが、なんとなく後ろめたくなったのでやめることにした。
ノートパソコンを開く。寝る前のスケジューとメールのチェックは欠かさない。
ふと思い立ってSNSの画面を開く。
「据え膳食わぬは男の意地」
そう書き込みを投稿して、ノートパソコンを静かに閉じる。
翌朝、SNSの画面を立ち上げると、昨晩の書き込みにコメントが入っていた。
「意気地なし」
ワープロソフトを立ち上げた。
いい話が書けそうな気がして、残念な気分になった。
外は雨
彼女は傘を持っているだろうか




