第10話 続・尻
まさかの尻の続き・・・
どうにも体が動かない。動かないというか自由が利かない。
そうか。どうやら俺は、厄介なものに感染してしまったようだ。感染してそして発症したのだろう。
そういうことだと理解した。
眼が閉じられないというのは、そう、本能が見ることをやめないのだ。目の前で震えているあのかわいらしい尻にカブリツキタイという衝動をオサエキレズ、飢えている。ドウシヨウモナク飢えている。
だか、ソレダケカ?
俺は必死に考える。いや、それはもう必ず死んでいるだろうと、そうわかっているのだが、それでも考える。
だが、ソレダケカ?
食いたい。確かに俺はクイタイと願っている。欲している。切望している。
しかし、そこにはもうひとうどうしようもない感情がある。それらを凌駕してしまうようなおぞましい何かが、屍鬼としての完全なる感染者になるのを邪魔している。
それは、尻だ。いや、それこそ尻なのだ。
その豊満な肉感をしっかりと味わいながら、愛でながら、褒め称えながら尻にカブリツキタイ。
いや、だめだ。かぶりついたら、大事な尻が台無しだ。そんなことは俺にはできない。できようはずがない。
では、尻意外ならカブリツキタイか? カブリツキ、貪りつくしたいか?
いや、だめだ。
尻は尻だけで尻にあらず。
尻の上にあるそのくびれも、尻の下に伸びるしなやかな足もなくてはならない。上半身から下半身にかけて、カミが創りたもう芸術的なラインは、首筋から腰にかけてのすうっと伸びたその先に、絶対なる存在として、母なる大地の象徴として尻は君臨するのである。
その尻にあてがわれる細く白い指先はエロスへの開放を誘う役割を持つ。長く伸びた黒い髪、半空きの口元、自らの尻をまさぐる指先に注ぐ、いやらしい視線。
女というのは、女の部位、その所作は、すべて尻のために存在し、男はその尻に抗うすべを持たない。
それが尻だ。
俺は尻に付いて考える。考えれば考えるほどにわずかながら、わずかずつながら、正気を取り戻していく自分に気づく。そうか、がん細胞の活動を気力で抑制し、介抱したという子供の話を思い出す。
たしかスター・ウォーズかなにかに見立てて、悪いがん細胞とドッグファイトをして撃滅するイメージを繰り返すとかなんとか。それと似たようなものなのか?
俺は、まだ、死んではいないようだ。
なんとかしなければ。ナントカしなければナラナイ。
俺はコミュニケーションをとろうと試みる。
「オイ、女、俺の話を聞け」
そう言うつもりが、アウアウと意味不明の言葉しか出てこない。女は震えている。名前は知らないが、そう。いい尻をした女だと、エレベーターで一緒になったとき、階段ですれ違ったとき、俺がそう思った女だ。
「オイ、コッチヲ向け」
何度となく繰り返して、ようやくそれらしい言葉を発することができた。女は俺の言葉に反応し、恐る恐るこっちを見た。
「未だだ。まだダイジョウブだ。だが、ジカンがナイ」
女は俺に尻を向けたまま、顔だけをこちらに向けている。両の手で頭を抱えて震えている。それはそうだ。こんなに恐ろしいことはないだろう。俺が女なら、とっくに逃げ出すか、俺に止めを刺しているだろう。
意識と感覚がはっきりとしてきた。それで理解した。おそらく俺が意識を失ってから何かあったのだろう。俺は玄関で噛み付かれた以外に体に何箇所かダメージを追っている。どうやら頭を何かで殴られたらしい。灰皿か。俺は彼女のすぐ側に落ちているガラス製の灰皿を見つけて納得した。
そして、身動きが取れない理由もわかった。俺は殴られた跡、後ろ手に縛られていた。足も縛られていた。ロープの代わりにハンガーにかけてあった俺のシャツを使ったようだ。せっかくアイロンをかけたシャツが台無しじゃないか。
「いい判断だ。どうやら俺はワルイ病気にかかったようだ」
「あ……、あなた意識が戻ったの?」
「戻った。だが、そう長くは持たない」
「何よこれ! いったいどうしちゃったの! 町中めちゃくちゃよ。外には出られないし、あなたもおかしくなっちゃうし……」
「パンデミックだな」
俺は今起きていることをなんとなく理解した。俺はあの桜井とか桜田とかいう隣人に噛み付かれて感染したのだ。これは狂犬病のような病気なのだろう。かなりやっかいな物らしい。
「この病気は、強い意思に弱いらしい。強い意志を持てば、どうにか進行を食い止められるらしい。これはあくまで仮説だ。仮説だが、今はその仮説に頼るしかあるまい。そこで提案だ」
我ながらこの提案は常軌を逸していると思った。そう思ったが、現状、まさに常軌を逸した事態が起きている。こんなときなら、こういう提案も受け入れられるかもしれない。それにこの提案には腹案もある。どちらかを選べばいい。俺はどちらでもかまわない。
「この状況を打開するのに二つ提案がある。どちらか好きなほうを選べ。いや、嫌いなほうでもいい。しかし、どちらかを選ばなければならない」
女は、ゆっくりと体を起こした。しなやかな動きだ。尻を中心にして体をくねらせ、両膝立ちでこっちを向いた。尻が隠れる。俺の意識が遠のく。
「ダメだ。こっちを向くな、オンナ」
「えっ、な、なんで?」
「尻だ」
「……」
「尻をこっちにムケロ……」
"「向けろ"と言おうとした俺の舌は、レロレロと痙攣をし、口の中でのた打ち回る。
女は、その言葉を理解したのか、それとも単に恐ろしくなったからか、また俺に尻を向けて頭を抱えてうずくまる。
いい尻だ。




