第7話 嫉妬
嫉妬というものはどうしようもなく人の心の中で暴れまくる。
あれがはたしてどこから湧いて出てくるもので、どうすれば消えてしまうのか、それを知るすべを僕は持たない。
嫉妬などという激しく、陰鬱な感情と僕は無縁であると思っていた。
大きな声で『僕は寛大な人間です』『優しい人間です』『慈悲深い人間です』と言い放つことの恥ずかしさを僕は知っている。
知っていてもなお、嫉妬に狂って暴言を吐いたり、誰かに嫌がらせをしたり、人を傷つける行為の卑劣さ比べれば、僕はその恥ずかしさは、とてもかわいいものだと思っていた。
そんな僕が己の嫉妬と向き合った時、それがいったい何なのかまるで理解できなかった。
それは身体に急にできた得体の知れない病租のようであり、成長期の声変わりのようであり、初めて夢精した気持ちの悪さのようでもあり、誰かに相談するわけにもいかず、悶々とするしかなかった。
体を動かせば気もまぎれる。そう思って日々をせわしなく過ごしてみたものの、ふとした瞬間にそれは心の奥底から現れては、狂気に身をゆだねたい衝動にかきたてるのであった。
狂気
僕は自分という人間が、常に陽の当たるところにあり、妬みや嫉みや、差別や偏見とはまるで縁がない環境に生まれ育ち、これからもそうであるという自信を根底から揺るがすもの。そんな存在が自分の中にあることを知ってしまった僕は、とてもまともではいられなかった。
僕は、狂ってしまったのだ。
狂ってしまったのだからしかたがない。
僕はとうとう、嫉妬という感情に身を任せ、求めても得られないものをそれならば壊してしまいたいと考えるようになった。
僕にはどうしたって、人を傷つけることなどできやしない。でも、何かを傷つけずにはいられなかった。
その時僕は、意表を突かれて、それでも格好の悪いことをするわけにはいかずに、君を失ったことを良い思い出とするためのあらゆる努力をした。それは決して楽な作業ではなかった。それでも頭では十分納得できるだけのプロセスを踏み、感情を完全にコントロールすることに努めた。
別れ
君と出会ってしまった僕は、はたして別れなどというものが、なんの前触れもなく訪れることなど考えもしなかった。
今ならわかる。僕らは出会うべきではなかったのだ。
それは恋でもなく、愛でもなく、ただ男と女の出会いだった。でも、僕はただの男になれず、君もただの女ではなかった。
君は時に少女のようでもあり、古くからの友人のようでもあり、また、神秘さと妖艶さと素朴さと悲哀さと様々な仮面を持つ道化師のようでもあった。
僕はといえば、今となっては未熟という言葉ですべてを表すことができるが、それすらも武器にするくらいの生気は持ち合わせていた。
どのような奇遇な出会いであっても、この二人にとって別れというのは、死別でもない限りにおいて無縁であるように思えた。
しかし僕の未熟さが君の何かを狂わしてしまった。
あるいはつまらない現実が、君を狂気の世界から救いだしたのか。
君を失ってからの僕は、街に出れば人並みの中に君の姿を探し、部屋に入れば鳴るはずのない電話のベルを待っていた。
やがて君はこの町から出て行ってしまった。
狂ってしまった僕は、街中に君の姿を探すのをやめて、君の部屋に行き、鳴るはずのない電話を待つことをやめて、君に電話をした。
こんなことをしたら、どうなるのか。
わかっていてもなお、こわさずにはいられなかった。
狂っているのだから、僕はまともであってはならなかった。心の中にぽっかりと空いた穴は、ただただ暗闇で、それを埋められるものは狂気でしかなかった。
嫉妬に狂うことでしか、僕は僕でいられなかった。
僕は夢の中で君を追いかけ、無理やりに犯した。
僕は夢の中であの男の存在を君の中から消そうとした。
僕は夢の中で君の心の中を覗きこんだ。
僕は夢の中で君の中にのめり込んだ。
すべては夢だった。
夢の中だけだった。
でも、もう眠りたくない。
夢はもういい。
警察が来たのは、私が連絡してから20分ほどたってからだった。
私が正気でいられたのは、果てしてすっかり狂ってしまったからなのかもしれない。
いや、私が狂ったかどうかは別として、そこには狂気そのものがあった。
愛し人は、すっかりと変わり果てた姿になってしまっていた。
もし、私の想像に足りる凄惨さであれば、私はもっと感情的になれただろう。
それが狂気以外のなにものでもないことは、遺体の異常な状態もさることながら、誰に当てたものとも分からない、そして遺書ともどこか違う狂気に満ちたこの文章が示していた。
そこには狂気というにはあまりにも整然とした文字が綴られていた。
目の前に広がる信じがたい光景は、どす黒い感情の発露の結果だとしても、やはり想像を超えているとしかたとえようがなかった。
彼女はその腹を刃物で裂かれ、男はその腹の中に頭を突っ込み、窒息死していた。
自分が付き合っていた彼女が殺されたというのに、私にはまるで理解しがたい感情が芽生えていた。
それは、犯人に対する恐ろしいまでの嫉妬である。
彼女を殺された恨みなど、その感情の前ではまるで存在感がなかった。
犯人は嫉妬に狂い強行に及んだ。その嫉妬の深さ、どす黒さは、私にはまるで縁のない物に思えた。
しかし、この男の死に顔を見たとき、私ははっとした。
この男のように、私は彼女を愛せたのだろうかと。
いや、それは愛ではない。
深く、深く、どこまでも深い心の底から湧き上がる衝動。
嫉妬と呼ばれるそれは、今まさしく私の目の前に横たわっている。
あの男の嫉妬心を呼び覚ましたのは私だ。その意味では、彼女がこのような結末を迎えた原因は、私にこそあるのだ。
しかし、私はそれを悔いるよりも、彼女の腹の中に頭を突っ込み、恍惚の表情で果てた男にひどく暗く、恐ろしい嫉妬心を抱いたのであった。
嗚呼、私は狂ってしまいたい。
おわり




