表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

不思議学園 短編集

桜花

作者: 吾桜紫苑

 窓から見下ろした桜が、妙に眩しく見えた。



 去年も見た桜。確かに去年は学校の外からで、今年は教室からという違いはある。


 けれど、桜なんてどこにもあって。毎年、開花してから全て散りゆくまで、その艶姿は嫌と言うほど目にしている。あの雪のような霞のような光景は、とっくに見飽きたと思っていた——それなのに。


 光を受けて白くけぶる桜に、どうしようもなく目が引きつけられて。今まで桜を目にする度に耳に蘇った音律すらも、遠のいて。


 静寂の中、時折花びらをひらめかせて咲き誇る桜。校庭の、どこにでもあるような桜並木は、私の目に浮き上がり、その威容を見せつけていた。



 ——花見なんて、もう何年も行っていないけれど。



 あの下に行ってみたい、と。そんな衝動に駆られ、私は踵を返した。






 桜の木の下では、空は花に覆われてしまう。数え切れないほどの花々が、見上げているはずの私を、逆に見下ろしているような錯覚に陥った。


 桜は、鞠のように集まって咲く。今は本当に満開で、数々の桜色の鞠が木に連なってくっついている。簪そっくりだ。


 ひらひらと、花弁が舞い落ちる。何となく掌を上に向けると、ふわりと1つ、掌に舞い降りた。僅かにピンクがかった花びらは、形も愛らしい。そっと、潰さないように握りこむ。


 ざっと、少し強い風が吹いた。桜の花びらが風に攫われ、空を舞う。つられて空を仰ぎ見ると、蒼穹をけぶらせる花枝が揺れ、小さな分身を空に送り出していた。



 とくんと、鼓動が1つ、跳ねる。



 桜は、美しい。それは、ほぼ日本人全員が持つ共通認識。私もそれに同意している。



 ——けれど。



 私は、桜を見るといつも、吸い込まれるような錯覚に陥るのだ。


 吸い込まれ、どこかに連れ去られていこうとする。この磁力に抗わずにいたなら、私は、どこへ連れて行かれるのだろう——




「——香宮?」




 低く、抑揚のない声が耳に届いた。


 ふっ、と。意識が、現実へと戻ってくる。



 もう1度桜に意識を戻す。先程まで私をどこかへ連れ去ろうとしていた桜は、今、ただの豪奢な花でしかなかった。



「香宮」



 もう1度、今度は少し強い音で、名前を呼ばれた。振り返った先には、この1年で見知った先輩。友人の親戚と知り、急に縁の深くなった人だ。何だか、いつもと様子が違う。



「空瀬先輩……」



 呟くように、その名を呼ぶ。途端、先輩の体から緊張した雰囲気が消えた。



 ——緊張? この人が?


 兄さんと対峙しても揺るがず、その静かな瞳で、兄さんの苛烈な光を受け止める人。基本物静かで無口だけれど、何があろうと泰然と構えているような人が、緊張?



 あり得ない自分の感性に首を傾げたその時、彼が口を開いた。


「何をしている?」


 ぼんやりしていた、というのは、わざわざ言わなくても分かるはずだ。先輩が声をかけるまでその存在に気付かず、ぼうっと花を見上げていたのだから。普段の私はそれなりに人の気配には敏感だし、先輩もそれを知っている。


 けれど、何をしていたかと言われれば、見て分かることしか言えないわけで。


「桜を、見ていました。なんだかとても、綺麗に見えたので」


 ありのままに答えると、先輩は、妙に遠いその距離を埋める。桜から距離を置こうとでもしているかのような場所から、私の隣へ。

 そして、私がさっきまでしていたように桜を見上げる先輩を、私はじっと見つめた。


「綺麗、ですよね」


 そのまま沈黙を保っていても良かったけれど、何となくそう言った。彼の相槌を、期待していたわけでは、ない。


「そうだな」


 けれど、そうして実際に相槌を打たれて、心のどこかがふわりと揺れた。舞い上がる花びらのようなその衝動に従って、更に続ける。


「でも、私は……桜を見ていると、吸い込まれるような気がするんです」


 先輩に倣って、桜を見上げた。先輩がこっちを向いた気がしたけれど、多分気のせいだ。



「桜の下にいると、どこかへ連れて行かれるような……そんな気がします」



「…………」


 先輩は、何も言わなかった。けれど、錯覚の中で私を見つめていた先輩の視線が、名実ともに桜を見上げる。



 2人の間に会話がなくとも、音は途切れない。風が枝を揺らす音、遠くから聞こえる人の声、小さな鳥のさえずり。自然と、途切れることなく、音が聞こえ続ける。


 ——さっき一瞬、吸い込まれそうだった時。私は、音を聞いていただろうか。



「——桜は、様々な物語の題材となっている」



 不意に先輩が沈黙を破った。何となく視線は桜に固定したまま、続きを待つ。


「小説、詩、歌詞、和歌……桜に様々な意味を乗せつつ、それぞれの持つイメージを形にしている。誰もが1度は、何かそういうものに触れているはずだ」


 ざっ……と、枝が一際大きく鳴る。その音を縫うようにして、先輩の低い声が耳に届く。



「その中で……今も昔も変わらず、桜は、魔性として扱われてきた」



「魔性……」

 その単語を繰り返すと、先輩が抑揚のない声で淡々と説く。


「例えば、桜の木の下には死体が埋めてある。例えば、桜は人を喰らう。そんな物語が、数え切れないほどある。小説然り、怪談然り、都市伝説然り。ここから分かるのは、人は皆、桜の美しさに、どこかこの世にあらざるものを感じるという事」

「…………」


 ようやく、さっきの私の言葉への返答だと気付いた。桜を視界から外し、隣の先輩に目を向ける。


 先輩は、眩しいものを見るように目を細め、桜を眺めたまま、呟くように言った。



「あるいは……桜は本当に、魔性を持つのかもしれない」



「……え」

 この人が言うには、余りにも似合わない言葉。聞き間違いだろうかと思っていると、先輩も桜から視線を外し、私に目を向ける。


「先程香宮が感じていたのは、神隠しのような……そんな力なのかもしれない」

「……神隠しとか、そういうのは、空想でしょう」


 自分から話を振っておいて何だけれども、この人に真剣にそんな事を言われると、何だかちょっと落ち着かない。気のせいで済ませたいというか、ちょっとした思い付きを真面目に扱われた気まずさに、咄嗟にそうはぐらかした。


 けれど先輩はにこりともせずに——そもそも、この人の笑顔なんて見た事ないけれど——、変わらない口調で続けた。


「それは、俺たちにはあずかり知らぬ事だ。空想を書き散らしたものの中に、誰かが真実を紛れ込ませているのかもしれない」

「…………」


 相槌が打てずに困る私を余所に、先輩はすいと視線を流し、再び桜をその瞳に映した。



「今俺たちが見ているものが、この世界の全てとは限らない。だから俺は——」



 その言葉の続きが紡がれることは、なかった。先輩の言葉をかき消すように枝がざわりと音をたて、鳥の鳴き声や、遠くから聞こえる人の声すらも掻き消した。



 刹那の間、先輩が桜に呑まれてしまう気がした。


 だから。




「——空瀬先輩」




 さっき彼が私を呼んで、私を引き戻したように。


 私は、彼の名を呼んだ。



 一拍おいて、先輩の瞳が、私を捉える。少し、安堵した。



 ——ああ、これだったのか。



 先輩の見せた緊張と弛緩が理解できた。今の今まで舞うばかりだった、胸の奥の花びらが、ふわりと地面に辿り着いた。自然と、笑みが浮かぶ。


「ありがとうございます」

「……俺は、何もしていない」


 少し表情を動かして、それでもはっきりと形になるような感情を浮かべない先輩に、小さく頷く。


「はい。でも、私の中で、桜に対する感情が、整理できたので」



 何となくだけど、これからは。桜を見ても、吸い込まれることは無い気がした。もし吸い込まれそうになっても、きっと、先輩の私を呼ぶ声が、私を引き戻してくれる。 


 そんな根拠の無い、けれど確かな安堵感が、私に笑顔と感謝をもたらしたのだ。



「……そうか」


 先輩は、頷く。さっき桜を見上げていた時のように、 その目を眩しげに細めながら。何だか落ち着かなくて、私は視線を逸らす。




 見上げれば、青い空と、白くけぶる桜の花。風に揺れる枝から舞い降りる、無数の花の精。




 ふと気が付くと、私は、握り混んでいたはずの桜の花びらを、いつの間にか手放していた。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] サクラの美しさと怪しさ。妖艶さが若い男女の心温まるやり取りと共にしずしずと舞い降り、そのまま終わるところ。
[一言] 春休み最後の投稿、お疲れ様です! 拝読いたしましたー(^^) この時季にふさわしい、幻想的な作品ですね。 『桜を見ると吸い込まれるような感覚になる』 私にとって、とても新鮮な考えでしたー…
2013/03/31 18:16 退会済み
管理
[一言] こんにちわ。 読みましたので、感想を置いていきます。 というか、これで感想に入るかわかりませんが。  桜はこういうイメージですね。  私はPNやHNに桜を必ず入れるのですが、美しさもありま…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ