ご無沙汰しております。
いろいろ宿題を抱えている身ですが、とりあえずこの夏の新刊『棺のクロエ』の最新外伝をお届けします。
今回はちょっとハードボイルド調で、登場人物はオーバー30のおっさんばかりですがw、その辺の需要もどこかにはあるのではないのか、と。
まぁ、これ以外にも『棺のクロエ』の外伝はあるのですが、その辺はおいおいと。
ではどうぞお楽しみください。
『……よりロックバード。現在位置はどこだ?』
「こちらロックバード、クラバ涸川を越えた辺りだ。到着予定時刻は一五分後」
『急いでくれ。患者の出血が激しい』
「何とか持たせろ。医者と一緒に輸血パックも積んできた。無駄足踏ませるんじゃねえぞ!」
言い終えると、グエン・ヴァン・トゥアンは操縦席から背後の客室を振り返って怒鳴った。
「先生! 患者の容態がヤバイらしい。現場からの通信を今そっちに廻す。応急処置の指示をしてやってくれ!」
『判った!』
機内を満たす爆音に負けじと、ヘッドセットを押さえながら壮年の医師が叫ぶ。
それをヘッドセットのスピーカー越しに耳にしながら、通信の切り替えボタンを叩いて、外部通話を機内通話の回路に接続する。
事故を起こして重傷の患者を抱えた鉱山現場と、医師の切迫した会話を聞き流しながら、周囲の状況と計器類を素早くチェックする。
問題ない。じっくりと確認したわけではないが、飛行に影響の出そうな違和感は感じられない。
機体上部の双発エンジンも順調だ。エンジン音にも機体を震わす振動のリズムにも、計器の示す回転数や温度にも異常はない。おかげで機内通話なしでは、隣のシートに座る副操縦士と話もできない。大戦中も戦場を飛び廻っていた軍払い下げのこの老嬢は、今日もなお意気軒高でけたたましい。
ちなみに、こうしている今現在、この機の操縦桿は副操縦士が握っている。二○歳を出たばかりの地元で雇った若者で、操縦桿を任せるのはこれで二度目だ。正規の訓練は受けていない。グエンが手ずから、飛行に必要なこと仕込んでいる最中だった。いずれ中原にある正規の飛行学校に送り込んでやらねばならない。とりあえず今は、現場度胸を付けさせるため操縦桿を握らせている。
まだ緊張が解けないのか、肩に力が入り気味なのが見て取れた。だが、涸川沿いにまっすぐ飛ばすだけなので、特に心配はいらないだろう。
グエンは改めて機外に目をやった。渇ききって醜い地肌をさらす涸川とその両岸の急峻な斜面が急速に後方へと流れてゆく。わずかに残った水分にしがみつくように、まばらに草や痩せた木々が生えていた。色みらしい成分はそれくらいで、後は色の抜けた薄茶色の乾いた大地が続いている。
ぱっと見、対地高度はそれほど高くはない。手を伸ばせば届きそうな高さ。ちょっとでも操縦を誤れば、すぐにでも大地に激突しそうな近さだ。既に標高が高く、大気も薄いため、双発エンジンを積んだこの機体でも、あまり対地高度は高く取れない。薄い大気を圧縮してエンジンに送り込む高圧過給器などを積んでいないということもあるが、そもそも機体上部の回転翼を回転させ、大気を掻き廻して浮力を得るジャイロ機にとって、高高度飛行は苦手な領域なのだ。せめて地表近くの比較的濃い大気を求めて、地を這うように飛ばざるを得ない。
だが長年の経験から、この程度の対地高度であれば多少のトラブルがあってもどうにかなると、グエンは踏んでいた。突風やエンジン不調などのトラブルが発生しても、この高度なら対処の時間はある。それで稼げるのはほんの十数秒程度の時間だが、もっと低い高度で、目の前で対空砲の近接信管に炸裂されたことだってあるのだ。勿論、戦時中の話だが。あの時だって何とかなったのだから、どうにでもしようはあるだろう──そう、ふてぶてしく肚で嘯く。
つまり、すべて順調。問題なし。
『機長、涸川が終わります』
「了解」
副操縦士に操縦桿を預けるのは、涸川が終わるまでという約束だった。ここからしばらくは、より複雑な地形の渓谷地帯に入る。それを抜ければ、目標である露天掘りの鉱山が見えてくるはずだ。
「操縦桿をこちらに渡せ」
『操縦を渡します』
「操縦を受け取った」
正面に掴む操縦桿がぐっと重みを増す。右手は出力桿に沿え、じんわりとスロットルを開く。
機体がぐっと浮かび上がり、尾根をひとつ越える。
「………………」
毎度のことながら、この瞬間だけはあまりいい気分はしない。
戦時中、兵隊と武器を詰め込めるだけ詰め込んで、こうした渓谷地帯に送り込むのがグエンの日課だった。電波警戒機を警戒して高度は取れない。元より積載オーバー気味の機体にそんな能力はない。稜線と渓谷の隙間を縫うようにして這い進み、尾根をひとつひとつ越えて、敵の後方へと忍び込む。だが、こちらの手の内は敵も先刻承知だ。うかつに飛び込んだ谷間には、鋼鉄の阻塞ワイヤーが張られてて、引っかかったらそこで終わり。そこを抜けたら、地面が爆発してるんじゃないかと思うくらいの濃密な対空砲火。色とりどりに輝く曳光弾が、アイスキャンディーのような尾を引いて、自分めがけて一斉に突っ込んでくる。事前の砲爆撃であらかた片付いていると豪語していた参謀の戯言が、事実だったためしはない。
重い機体を左右に振り廻してそれを避ける。直撃を回避しても、<同盟>の対空砲弾は弾頭が機体に近づくだけで炸裂する近接信管付きだ。機体のあちこちに砲弾の破片が当たって、カンカンと耳障りな音を立てる。
隣機が直撃を喰らって火だるまになる。昨夜、カードで貸しを作ったばかりの同僚が生きながらに焼き尽くされんとする断末魔が、ヘッドセット越しに流れ込む。ああ、畜生。これで貸した金を回収しそこなった。それ以上は考えない。戦友の死を悼むのは、自分が生きて帰ってからだ。目の前の操縦にだけ集中する。
そうこうする内に、びびった客室の新兵が小銃の引き金を引く。
畜生、畜生、畜生。お客さん、静かにしてくれ。さもないと、どいつもこいつもこの場で全部放り出すぞ──!
『機長……?』
「……大丈夫だ」
何事もなかったかのようにグエンは告げ、出力桿を押し込んで更に機体を上昇させる。
時折訪れる一瞬のフラッシュバック。首筋に重い汗が吹き出して、下着が肌に張り付くのが判る。それを副操縦士に気取られぬよう、いつもどおりの態度を装って操縦に専念する。
終わった話だ。もう五年も前に戦争は終わっている。鉄と砂で血を灌ぐような凄惨な戦場だったこの<帝国>西方辺境領北部山岳地帯の空も、今では対空砲火もない、阻塞ワイヤーもない、平和な日常の空へと戻ったのだ。自分も軍の任務ではなく、民間会社のいち操縦士として操縦桿を握っている。
それは言祝ぐべきことだ。こうやって平和な空を飛んで、若者の育つ姿に目を細め、地上に降りれば整備と事務処理に追い廻されながら日々を過ごし、ゆるやかに老いてゆくことに感謝をすべきだ。そうできなかった戦友たちのためにも。
……それなのに、何故、自分は未だにあんな悪夢を振り払うことができないのだろう。
それは平和な「この空」と血塗れの「あの空」が、どうしても地続きの「同じ空」であるような思いを、拭い去ることができないからだ。
それが何故なのか自分でも判らない。戦場への郷愁か、死んだ戦友への贖罪の意識か。
判っているのは、多分自分は一生、この感覚と付き合い続けるのだろうという、確信めいた感覚だけだ。
それをどう折り合いつけるかというひとつの回答が、グエンにとっての今の自分であり、この仕事だった。
心拍がいつもの勤務時の水準に戻るのが判る。もう大丈夫だ。尾根をもうひとつふたつ越えれば、目的地もすぐに見えてくるだろう。普段から資材の運搬や今日のような急病人の搬送で何度も飛んだルートだから、どのタイミングで何が見えてくるかまで、ばっちり頭の中に叩き込まれている。
と、その見慣れているはずの視界に、かすかな違和感があった。
──人間……?
前方──グエンがこれから越える尾根の上に、ひとりの男が立っていた。遠くからなのであまりよく見えないが、ジーンズに大戦中には空軍兵が好んで着ていたようなボマージャケット。この時期の標高では、気温を考えるとあまりお勧めできない出で立ちだ。やや痩せぎすに見えるのは長身なためか。真っ白に色の抜けた長い髪が目の前を被っていて、浅黒い肌の表情は読み取れない。山歩きの装備の類も見当たらず、ただ尾根の上でひとりで佇んでいるようだった。
だが視線はまっすぐに、こちらを見ている──そう感じた次の瞬間には、機体は男の頭上を航過していた。
振り返って男の姿を確認したい衝動に一瞬駆られたが、すぐに抑え込む。何の必然性もない。ましてや、戻って確認などできようはずもない。この先で重症の患者が待っているのだ。
グエンは気持ちを切り替えて、男の存在を思考から追い出した。
現在時刻を確認し、残燃料やエンジン状況を再度チェック。現地に到着後の機材や人員の搬入搬出の手順について、事前の打ち合わせ内容を副操縦士に読み上げさせる。
現地に到着すれば、即座に患者を搬入して離陸だ。エンジンも回転翼も止めない。慌ただしく、しかし安全には細心の注意を払う必要がある。それだけに、飛行時より更に神経の集中が必要だ。
だから、この話はこれでおしまいだ。
グエン自身はそう、思っていた。
え~、本編中「ジャイロ機」という表現を使用していますが、こちらの世界での「ヘリコプター」と同等のものだと思ってください。
「辺境でやさぐれたパイロットをしている主人公が、トラブルに捲き込まれる」というのは、もう冒険小説としてはベタベタのネタなんですが、是非、そのベタさ加減をお楽しみください。