二
英大館は狭山領内の東北にある剣術道場だった。
東北の並びには斎藤家家臣の屋敷がたち並んでいる。
十年ほど前、都で名を挙げた剣術家が師範を継いだことも相まって、家臣の子息たちは殆どが英大館に通うようになっていた。
町奉行今埜恒紀の息子、孝之助もその一人であった。町奉行である父は息子の素行に厳しく、時折窮屈な思いもしたが、暮らし向きはそれなりに裕福だった。
英大館の稽古は厳しかったが、同年代の朋輩と切磋琢磨し、己の芸を磨くというのは孝之助にとって、とても気持ちのよいことだった。
剣術を始めて十余年、英大館に通い始めてもう五年になるだろうか。孝之助は気持ちにむらがあるという嫌いがあるが、十五という若輩ながら、門下の若手の中では群を抜く腕前になっていた。
埃っぽい大通り沿いの門を抜けると、入母屋の、道場にしては立派な破風が構えている。左に少し行くと井戸があり、そこで手足を洗ってから道場に入るのが習わしだった。
「進一郎。今日、荻屋へ行かないか」
雑巾がけを終えて防具を用意しながら、孝之助は幼馴染の進一郎に話しかけた。
荻屋とは南柳小路の甘味屋で、孝之助の目的は甘味ではなく、荻屋の娘はるだった。
「あぁ、いいぜ。お前、今日こそは、はるさんに声をかけろよ」
進一郎はにやついてからかい、孝之助は
「うるさいな、余計な世話だ」
と返した。
竹刀の弦を締めながらそんな算段をしていたものだから、稽古も始まっていないのに師範代の佐々木に叱られてしまった。
罰として、進一郎と二人、道場の隅で素振りをさせられていたから、入り口に見慣れぬ人影が立った時も孝之助はすぐに気付いた。
「見学でしょうか」
孝之助は木刀を脇に下げ、進み出て尋ねた。
戸口に立っていたのは孝之助とそれほど年の違わない若者で、一瞬だけ孝之助に目を向けてすぐにそらし、「そんなもんです」と曖昧な返事をした。
彼は、袖がほつれた着物に色あせた紺の袴という地味な出で立ちであったが、顔はちょっと見ない美形だったので孝之助は驚いた。
通った鼻梁に細い顎、額は狭く、目はいささか大きな感じはしたが、それでも調和がとれている。
(家臣の息子にこんなやつがいただろうか…)
それなりに狭い政治の世界で、同年代の者を知らぬということはあまりない。
「御客人か」
「あ、はい。見学希望だそうです」
思案していると、いつの間にか佐々木が近づいていたので孝之助は場を譲る。
「お名を聞いてもよろしいか」
「…………」
若者は答えない。
佐々木は相対すると圧倒されてしまうほど大きな身体である。今は若者が土間、佐々木が一段高い場所にいるので、なおさら威圧感が増している。
それを自覚してか幾分声音を和らげると再び尋ねた。
「どなたかの紹介でおいでになったのかな?」
そもそも剣術自体、武士が修めるものであり、町民に門戸は開いていない。
佐々木の問いは若者の身分を証明できるものを示せということに他ならなかった。
「…いいえ」
「そうですか。では入門はちと無理だなぁ」
元来人好きのする佐々木が頭をかきながらつぶやくと、若者は頭を下げた。
「俺、わかひこと言います。和むの和、伽羅の伽で和伽彦です。今日だけでいいので一緒に稽古をさせて下さい」
結局、一日だけならと佐々木が折れる形で和伽彦の参加が許可された。武士階級ではないであろう和伽彦が、他流の使い手とも思えなかったからだ。
道場の隅で木刀を振る和伽彦の姿を見て、初心者ではないことが見て取れた。むしろ洗練されたその素振りは、彼の一撃がいかに重いかを物語っている。
孝之助だけでなく、道場の者たちほぼ全てが興味津々に和伽彦に注目していた。
額に浮かぶ汗までも錦絵のように美しく見えて、孝之助の胸にかすかな嫉妬の気持ちが湧いた。
「これからかかり稽古をする」
佐々木の一言で、今まで打ち込みを行っていた門下生が、さっとわきによけて面を外し始めた。
夏の暑気にめいめいが滝のような汗を流し、道場の中はこもる熱で淀んでいた。
「今埜、お前が彼の相手をしなさい」
孝之助に緊張が走った。次いで頬が紅潮してきた。若手で一番の孝之助を指名したということは、佐々木が和伽彦の腕前を孝之助と同程度と考えているのだ。
孝之助と和伽彦は間合いをはかり、相正眼に構えた。
両者の間には、一本の緊張の糸が張られている。
和伽彦の剣先がわずかに動いた。孝之助は誘いに乗らず、半歩足を捌く。
知らぬうちに汗が額を、背中を伝う。
「おうっ!」
孝之助が気合いとともに鳩尾に力をためる。
周囲の者たちは食い入るように若者二人の稽古を見ている。
「しっ!」
和伽彦が伸びやかに踏み込んできた。
正面に打ちかかる和伽彦を孝之助がいなし、さらに打ち返そうとするが、下段から和伽彦に切り返され鍔迫り合いになる。
両者の力は均衡しているようで、静かな、しかし激しい迫り合いの後、再び間合いが開いた。
佐々木や門下の者たちはふうっ、と息を吐いて初めて自分たちが息を詰めていたことを知った。
そして、勝負は一瞬だった。
孝之助の眼には、和伽彦が消えたように見えた。
気付いた時には天井を仰いでいた。喉に残る痛みで、突かれたのだということがわかった。
「大丈夫ですか」
と小手を外して手を伸ばしてくる和伽彦の手をつかんで立ち上がりかけた時、孝之助は息をのんだ。
和伽彦は、なんだ、大したことないんだな、という思いがありありと見て取れる目を、面金の奥から孝之助に向けていた。
心の奥が冷え冷えとしていくのが感じられた。同時に恥ずかしさと熱い怒りがこみ上げてくる。
こんなやつに、姓も名乗れない、武士でもない、どこの流派ともわからないやつに負けたのだ。
誇りと自尊心を傷つけられた孝之助は、竹刀を握り直すとそのまま気合いとともに和伽彦に打ちかかった。
相手が構えてもおらず、卑怯な行為だということはわかっていた。それでもいいから目の前の生意気なやつを叩きのめしたかった。
一瞬の後、体を捌いた和伽彦の手元から真っ直ぐに伸びてきた剣先が、孝之助の喉を打った。
その後は、何もわからなくなった。




