一
あぐらゐの 神の御手もち
弾く琴に 舞する女
常世にもがも 古事記
息を吸い込むと夏の夜の草いきれが、ふうっと鼻の奥に入り込んでくる。近くに川があるからだろうか、蛍火がひとつ、ふたつ、目の前をふうわりと横切って行った。
空気はじっとりと蒸して和伽彦の額に玉の汗を作る。
狭山の里から明保野を横切って、ほんのわずか山裾を登ったところで和伽彦の左足は痺れて動かなくなった。
それはほんの数刻前に里を抜けるとき、後を追ってきた御影衆につけられた腿の傷が原因だった。
破れた紺地の袴を血がじわじわと染めていく。傷は深くはないが、御影衆が使う鏢には毒が塗ってある。
今は左足だけで済んでいる痺れも時がたてば全身に回る。これはそういう毒だった。
ただ一つ和伽彦にとって幸運だったのは、その毒が死をもたらすものではなかったということだ。御影衆はどうやら和伽彦を殺さずに捕えるつもりだったらしい。
和伽彦はこんもりとした茂みにうずくまって乱れた呼吸を整えた。
ここにいては山に不案内な里の者にだって簡単に見つかってしまうだろう。どうにかして御山の内に逃れなければ。
和伽彦は茂みを入ってきた方向とは反対に腹ばいになりながら進んで行った。茂みを抜けると一見それとはわからない獣道があった。
跡が残ってしまうのは仕方ないと思いつつ狭い獣道をたどっていく。腹ばいで遅々としか進めず、裸足なので足の裏が痛い。その上張り出した木枝が体中を引っ掻いていく。
そうしてしばらく進むと、途切れてしまいそうに小さな川に行きあった。
そうこうしているうちに血圧までさがってきたようだ。しめた、と和伽彦はぼうっとする頭で考えた。御影衆が使う猟犬もうまくやればまけるかもしれない。
御影衆は狭山の領主、斎藤一朝が使役する忍びの衆のことだ。
表向きには領民と変わらぬように生計を立てて暮らしていた。
狭山の領地に入って南に下ると、大きな楡が生えた一角に出る。そこには「伊兵衛」と号した屋敷があった。
伊兵衛さんと言えば、狭山の者にとっては馴染み深い大工のことで、よい仕事をすると評判だ。
屋敷の主人である高崎弥太郎は当代の伊兵衛さんであり、家族以外は知らぬことながら、御影衆の頭でもある。
高崎の一族は代々御影衆として斎藤家に仕えてきた。
頭は世襲ではないが、弥太郎の死んだ父親もまた御影衆の頭だった。
炉端に座り込み深く考え込んでいたため、庭に忍んできた気配にすぐに気付くことができなかった。
一瞬緊張が体に走ったが、その気配が馴染みのものだったことに気付くと、肩の力を抜いて立ち上がった。
弥太郎は庭に面した障子戸を引くと表廊下に出た。飴色に磨きこまれた廊下の木板は、弥太郎が歩くとぎしぎしと軋む。
広くはない庭で端正な佇まいを見せる庭木は、庭師の真似ごともする主人の趣味の良さを窺わせた。
その庭の一角に植えられた腕を低く広げた黒松の傍に、人影があった。
「荒良木か。どうした」
人影は弥太郎の補佐をして御影衆を束ねている荒良木総治だった。
細面のいかにも優しげな顔立ちではあるが、目を見れば厳しい世界に生きていることがすぐさま見て取れる。
荒良木は渋柿の胴着、同色の脚絆に脛当てという御影衆の出で立ちであった。
「頭領さん、お館さまからのお達しです」
荒良木のもたらした報せにため息を一つつくと、弥太郎は座敷へと入るように促した。
弥太郎の娘、紗代が入れた茶を飲みながら、荒良木は首尾を報告した。
「要所に配置した者によると、西三軒小路から明保野へ向かう若者がいたということです」
襖を開いて現れた弥太郎は荒良木と同じような出で立ちに着替えていた。
「明保野?その先には何もないぞ」
明保野は狭山の西、御山へと通じる野原で、人が住めるような場所ではない。
御山は広大な山脈に連なっており、山を越えるためには南に下らなければならない。
しかし、明保野の南には狭山の水源ともなっている小さな湖があり、そこから南に抜けることはできない。
「おそらくは西の御山の者かと」
「……そうか。して、見かけてどうした」
「捕えようとしたところ逃げられたそうですが、足に傷を負わせたそうです」
二人は伊兵衛屋敷から音もなく姿を消した。




