第6話:疫病、正義、誰が死んだ
疫病は止まらなかった。
グリーンフィールド領の三つの村――ホルスト、ブランド、ケラー。患者数は十日で百二十から二百に増えた。死者はまだ出ていない。だが、時間の問題だ。
教会は動かない。
フリードリヒの名のもとに出された通達は一つ。「疫病は信仰の試練である。教会の認可なき薬剤の使用は禁ずる」。
認可なき薬剤。
つまり、私の闇市から流れる解熱剤のことだ。
正規の薬剤は教会のギルドを通さなければ手に入らない。だが教会のギルドは疫病地帯への供給を停止している。「神罰」だから。
供給を止めておいて、代替を禁じる。
完璧な独占構造だ。
「ルートヴィヒ様」
ウルスラが執務室に入ってきた。手に書簡を持っている。
「エリン・ソルファからの手紙です。教会内部の伝書経路ではなく、民間の飛脚を使っています」
「エリン? 勇者一行の聖職者か」
「はい。内容は――教会への嘆願です。グリーンフィールドの疫病対応を求める内容。宛先は大司教フリードリヒ」
「それがなぜ私のところに」
「嘆願は却下されました。この手紙は、却下された後にエリンが独自に出したものです。宛先不明の、いわば投壜通信です。『誰でもいい、薬を届けてくれる人はいないか』と」
私は手紙を受け取った。
丁寧な筆跡。インクの滲みがある。急いで書いたか、あるいは手が震えていたか。
『ホルスト村の子供たちの熱が下がりません。
治癒魔法では一時的に症状を抑えることしかできません。
解熱剤があれば、体力が回復するまでの時間を稼げます。
教会に申請しましたが、返答はありませんでした。
どなたかこの手紙を読んでいらっしゃるなら、どうか――』
手紙はそこで途切れていた。
「どうか」の先が書かれていない。書けなかったのだろう。勇者一行の聖職者が、教会の外に助けを求める。それがどれほどの葛藤を伴う行為か。
私は手紙を畳んだ。
「返信はしない。だが、薬は届ける」
―――
七歳の記憶が蘇った。
母の部屋。
薄暗かった。カーテンが閉められ、蝋燭が一本だけ灯っていた。母の額には汗が浮かんでいて、呼吸が浅かった。
「ルートヴィヒ……」
母が私の名を呼んだ。かすれた声だった。
「ここにいます、母上」
「いい子ね……あなたは、いい子……」
いい子。
母がそう言った時、私はまだ何も分かっていなかった。七歳の子供は、死が何かを知らない。熱が出れば薬を飲んで寝れば治る、それだけの世界に生きていた。
だが薬は来なかった。
父が教会の門前に走った。「頼む、薬をくれ」と叫んだ。門番は首を振った。「認可のない薬剤の配布は――」
父が門を叩いた。
拳が血まみれになった。
それでも門は開かなかった。
母は三日後に死んだ。
葬儀の日、私は泣かなかった。
泣けなかったのではない。泣く意味が分からなかった。涙は薬にならない。叫びは解熱剤にならない。拳を振り上げても門は開かない。
あの日、七歳の私は、前世の三十二年間でも辿り着けなかった結論に到達した。
感情で人は救えない。
仕組みで人を救う。
仕組みが壊されたら、作り直す。何度でも。
それが、私がこの世界で生きる理由だ。
――理由、と言い切るのは正確ではないかもしれない。
だが、今は正確さより実行だ。
―――
「七十二時間で三つの村に薬を届ける」
私はカインとウルスラに指示を出した。
「解熱剤を二百。経口補水塩を百。分散備蓄の東部拠点と、ギュンターからの緊急納品分を合わせれば数は足りる」
「七十二時間。かなり厳しいですよ」
カインが腕を組んだ。
「三つの村への同時配送だ。ルートを三つに分ける。一ルートにつき運び手を四人。十二人が同時に動く」
「クルンプ峠の時と同じ編成ですね」
「あの時は間に合わなかった。今回は間に合わせる」
「勇者一行は?」
「ウルスラ、現在位置は」
「グリーンフィールド領の西端、パルム街道沿いです。東部の村からは二日の距離」
「二日。配送完了まで七十二時間。余裕はないが、不可能ではない」
「一つ確認していいですか」
カインが手を挙げた。
「どうぞ」
「届けた薬に、うちの名前は出しますか」
「出さない」
即答した。
「……なぜ?」
「名前を出せば、教会がハルツ家を標的にする口実になる。『闇市の悪役令息が、認可なき薬剤を疫病地帯にばら撒いた』。フリードリヒにとって、これ以上の攻撃材料はない」
「でも、名前を出さなきゃ、誰が助けたか分からないじゃないですか」
「分からなくていい。薬が届けばいい」
カインは黙った。
「配送方法は」
「行商に偽装した運び手が、各村の入り口に薬を置いていく。名乗らない。聞かれても答えない。『通りすがりの商人が置いていった』――それだけでいい」
「……了解です」
カインの声に、かすかな不満が混じっていた。
分かっている。この男は、助けた相手に「ありがとう」と言われたい人間だ。それは美徳であり、人としてまっとうな感覚だ。
だが、感謝は帳簿に載らない。
載らないものに組織を賭けるわけにはいかない。
―――
七十二時間後。
報告が来た。
三つの村すべてに、薬が届いた。
解熱剤二百。経口補水塩百。予定通り。損失なし。発覚なし。
ホルスト村。ブランド村。ケラー村。
朝、村人たちが家の前に置かれた木箱を見つけた。中には解熱剤と経口補水塩が、丁寧に紙で包まれて並んでいた。
差出人はない。
手紙もない。
ただ、薬だけがあった。
ウルスラの報告によれば、ホルスト村では薬が配られた翌日から発熱患者の症状が改善し始めた。ケラー村の重症者三名も、二日後には危篤を脱した。
「死者は――」
「ゼロです。三つの村とも、死者ゼロ」
私は帳簿を開いた。
解熱剤二百。経口補水塩百。配送費。運び手の報酬。総コスト。
数字を書き込んだ。
コストは大きい。今月の収支は完全に赤字に転落した。
だが、帳簿の片隅に、もう一つの数字を書いた。
死者:ゼロ。
これは会計上の数字ではない。利益にも損失にもならない。帳簿に書く必要のない数字だ。
だが、書いた。
なぜ書いたのかは、自分でも分からない。
分からないものは帳簿に――。
……もういい。次の数字を書く。
―――
三日後。
グリーンフィールドの村々で、静かに噂が広がり始めた。
「薬が来た」
「どこから?」
「分からない。朝起きたら置いてあった」
「教会じゃないのか」
「教会は何もしなかった。あいつらは神罰だと言っただけだ」
「じゃあ、誰が」
「知らない。でも、薬は本物だった。うちの子の熱が下がった」
名前のない善行。
いや、善行ではない。損得計算だ。
だが、村人たちはそう受け取らなかった。
「誰かが助けてくれた」。その事実だけが残った。
そして、もう一つの事実も。
「教会は助けてくれなかった」。
この二つの事実が並んだ時、人の心にどんな感情が生まれるか。
私が仕掛けたわけではない。語り部に命じたわけでもない。
ただ、薬を届けただけだ。
だが、事実は事実として積み上がる。
風がなくても、薪があれば、いつか火は点く。
―――
夜。
執務室で帳簿を閉じた。
蝋燭の炎が揺れている。
母の顔を思い出した。
柔らかい手。かすれた声。「いい子ね」。
あの時、薬があれば。
あの時、誰かが届けてくれれば。
私は今日、それをした。名前も出さず、見返りも求めず、三つの村に薬を届けた。
母を救えなかった七歳の子供が、十年かけて作り上げた仕組みで、誰かの母を救った。
――感傷だ。
帳簿に書けない。利益にならない。組織の運営には無関係だ。
だが。
蝋燭の炎を見つめた。
揺れている。いつもと同じように。
だが今夜は、少しだけ暖かく見えた。
気のせいだ。炎の温度は変わらない。
変わったのは――
いや。
何も変わっていない。
名前を出さないことが正しい。継続のためには秘匿が必要だ。
帳簿を棚に戻す。蝋燭を吹き消す。
暗闇の中で、目を閉じた。
明日やることがある。
コストの回収計画。カインの村単位取引の進捗確認。ウルスラの情報網の拡充。
やることがある限り、止まらない。
母の声が、遠くで聞こえた気がした。
――気のせいだ。
死んだ者は声を出さない。
出すのは、生きている者の仕事だ。
だから、私は帳簿を書く。




