第5話:物流は命綱
コストが首を絞めてきた。
地下経路の一時停止。分散備蓄の維持管理費。行商偽装の運び手への報酬。ギュンターとの新契約による仕入れ増。すべてが帳簿の上で重なり、利幅を圧迫している。
元々、闇市は暴利で成り立つ商売ではない。私が設計した価格体系は、原価に一定の利幅を乗せるだけの薄利多売型だ。そこに二割のコスト増が被されば、利益はほぼ消える。
「赤字ではないが、黒字とも言えない。均衡点の上を綱渡りしている状態だ」
朝の定例で、私はそう報告した。カインとウルスラが聞いている。
「つまり、このままじゃジリ貧ってことですか」
カインが眉をひそめた。
「そうだ。コストを下げるか、売上を上げるか、どちらかが必要だ。だが価格を上げれば客が離れる。値下げ競争に入れば体力が持たない」
「じゃあどうするんです」
「価格ではなく、価値で戦う。品質と安定性だ。うちの荷は品質検査を通している。届く日が予測できる。量が安定している。正規のギルド流通ですらこの三つを同時に満たせていない」
カインは黙って聞いていた。
「値段で選ぶ客は、もっと安い相手が現れれば去る。だが、信頼で選ぶ客は、多少高くても離れない。これからは信頼を売る」
「信頼、ですか」
「具体的に言えば、村単位で固定の取引先を作る。月に何回、何をどれだけ届けるかを事前に約束し、守る。約束を守り続けることが信頼になる。信頼が安定収入になる」
ウルスラが口を開いた。
「村単位の取引先開拓は、誰が担当しますか」
「カインだ」
カインが目を見開いた。
「俺が? また?」
「お前以外にいない。帳簿の数字では信頼は作れない。顔を見せて、名前を覚えて、約束を守る。その積み重ねができるのはお前だ」
「…………」
「不満か」
「いえ。不満じゃないです。ただ、ちょっと」
カインは頭を掻いた。それから、いつもの軽い調子ではなく、静かに言った。
「前は坊っちゃんに言われた通りに動いてただけでした。ルートの選定も、運び手の手配も、指示があって初めて動く。でも最近は――」
言葉を探している。
「……自分で考えて動くことが増えた気がします。分散備蓄の候補地を選んだ時も、東部の移送先を決めた時も、坊っちゃんの指示は『任せる』だけだった」
「そうだ」
「それが、なんていうか。重いんですけど、嫌じゃない」
私は何も言わなかった。
カインは続けた。
「村の取引先開拓。やります。俺がやる。ただ、やり方は俺に任せてもらえますか。帳簿の数字じゃなくて、俺なりのやり方で」
「任せる」
カインが笑った。いつもの軽い笑みではなく、腹の据わった笑いだった。
「了解です」
―――
カインが出ていった後、ウルスラが残った。
「よい部下をお持ちですね」
「部下の育成は組織の持続性に直結する。個人の能力に依存する体制は、その個人が欠けた瞬間に崩壊する。カインが自律的に動けるようになれば、私がいなくても組織は回る」
「……それを育成と呼ぶあたりが、あなたらしゅうございますね」
ウルスラの言葉の裏に何があるのかは読まなかった。読む必要がない。
「報告がある」
「聞く」
「グリーンフィールド領で疫病が拡大しています。ホルスト村に加えて、隣接するブランド村とケラー村でも発熱患者が確認されました。教会は対応を拒否しています」
「拒否の理由は」
「『神罰である。信仰を深めれば癒される』と」
私は息を吐いた。
信仰で疫病が治るなら、医者は要らない。
だが、怒りは帳簿に書けない。書けないものは扱えない。扱えるものだけを扱う。
「解熱剤の在庫は」
「分散備蓄全体で三百二十。経口補水塩が百八十。東部の四拠点に配分されているのが、そのうち解熱剤八十、経口補水塩四十」
「足りるか」
「現在の患者数がおよそ百二十。一人三日分として三百六十必要です。在庫三百二十では四十不足します」
「ギュンターからの次の納品は」
「七日後です」
「七日。その間に患者が増えなければ、現行在庫でほぼ賄える。だが増える可能性が高い」
「はい。疫病の性質上、接触で広がります。隔離ができていない村では、倍増もあり得ます」
私は帳簿を開いた。
数字を並べる。在庫、消費予測、納品日程、搬送にかかる日数。
足りない。どう計算しても足りない。
「ウルスラ」
「はい」
「ガルディニアのギュンターに緊急発注をかけろ。解熱剤を追加で百。納期は三日以内。価格は通常の一・二倍まで許容する」
「一・二倍。利幅がさらに削れますが」
「利幅が削れても人は死なない。薬が足りなければ人は死ぬ。どちらを選ぶかは、計算するまでもない」
ウルスラが頷いて、出ていった。
一人になった。
帳簿の数字を見つめた。
赤字に近づいている。この緊急発注を入れれば、今月は確実に赤字だ。
だが、赤字は来月取り返せる。カインの村単位取引が軌道に乗れば、安定収入が確保できる。
死んだ人間は、来月取り返せない。
計算だ。純粋な損得計算だ。
――そう、自分に言い聞かせた。
―――
三日後。
カインが最初の報告を持ってきた。
「坊っちゃん、東部のリューベン村と契約取れました」
「早いな」
「村長と直接話しました。月に二回、解熱剤と干し肉と塩を届ける。量は村の人口に合わせて調整。支払いは半分が現金、半分が農作物。野菜と麦です」
「農作物?」
「現金が足りない村が多いんです。でも畑はある。だから物々交換を提案しました。うちは仕入れた農作物を別の地域に転売できる。村は現金の負担が減る。両方得します」
私は帳簿を開いた。
農作物の転売による利益を試算する。品目にもよるが、麦ならガルディニアで卸せる。輸送コストを差し引いても、現金収入の七割程度にはなる。
「悪くない」
「でしょう?」
「帳簿で確認する。数字が合えば、他の村にも同じ提案をしろ」
「了解です。あ、それと」
カインが少し照れたように続けた。
「リューベン村の村長が言ってました。『闇市の人間がこんなにちゃんと話を聞いてくれるとは思わなかった』って」
「それが信頼の最初の一歩だ」
「……坊っちゃん、それ褒めてます?」
「数字を報告しただけだ。褒めたければ、今月の取引件数を帳簿に反映しろ。数字が褒め言葉になる」
「数字が褒め言葉って、坊っちゃんらしいなぁ……」
カインは笑って出ていった。背中が、少し大きく見えた。
気のせいだろう。人の背中の大きさは変わらない。変わるのは、見る側の認識だ。
私は帳簿にカインの報告を書き込んだ。
リューベン村。月二回。解熱剤・干し肉・塩。支払い:現金五割・農作物五割。
数字の横に、何かを書き足したくなった。
「カインの独断による提案。的確」
……いや、それは評価であって数字ではない。
帳簿には数字だけを書く。
だが、指が一瞬だけ止まった。
その一瞬を、私は誰にも見せなかった。
―――
夜。
ウルスラから続報が入った。
「グリーンフィールドの疫病、さらに拡大。ケラー村で重症者が三名。教会は引き続き対応を拒否。『神罰』の一点張りです」
「ギュンターからの緊急納品は」
「明日到着予定です。解熱剤百、予定通り」
「到着次第、東部の四拠点に均等配分。ホルスト村、ブランド村、ケラー村への搬送は最優先。カインの開拓した村にも余裕があれば回す」
「了解いたしました」
ウルスラが出ていこうとして、足を止めた。
「……ルートヴィヒ様」
「なんだ」
「教会が疫病対応を拒否している件。これは、使えませんか」
「使える、とは」
「教会が民を見捨てている。その事実を、広めることができるのでは」
私は少し考えた。
「まだ早い。疫病が進行中に情報を流せば、民衆はパニックを起こす。パニックの中で流れる情報は、正しくても制御できない。事態が収束した後に、『あの時、教会は何をしていたか』を問う。その方が効果的だ」
「……承知いたしました」
「だが、記録はしろ。教会がいつ、どの村からの要請を、どういう理由で拒否したか。日付と内容をすべて残せ」
「心得ております」
ウルスラが出ていった。
記録。
第一話で、私はカインに言った。「記録しろ。すべてを」と。
記録は、武器になる。
今は刃を研ぐ時間だ。振るう時は、まだ先でいい。
帳簿を閉じた。
窓の外は暗い。月が出ていない。雲が低く垂れ込めている。
東の空に、かすかに赤い光が見えた。
グリーンフィールドの方角だ。
篝火か。それとも、疫病で亡くなった者を荼毘に付す炎か。
分からない。
分からないことは、帳簿に書けない。
だが、明日届く薬は書ける。
それだけを、書く。




