第2話:インフラという暴力
倉庫が一つ焼けた。
それだけのことだ。
感傷に浸る暇があるなら、次の手を打つ。私は翌朝、カインとウルスラを執務室に呼んだ。
「前提を変える」
二人が顔を上げた。
「倉庫を拠点にする方式は終わりだ。一箇所に集約すれば、狙われたとき全てを失う。クルンプ峠で証明された」
カインが頷いた。ウルスラは無言で待っている。この女は結論の先を聞きたいときに黙る。
「今後の方針は三つ。一、分散秘匿型の備蓄。二、行商偽装の移動式輸送。三、地下道網の整備」
私は机に地図を広げた。ハルツ領を中心に、北部山岳地帯から南のガルディニアまでを含む広域図だ。
「分散備蓄は、一箇所あたりの在庫を最大でも三日分に制限する。場所は二十箇所以上。農家の納屋、廃坑、森の中の掘っ立て小屋。どこが潰されても全体の損失は五分の一以下に抑える」
「二十箇所……管理が複雑になりますね」
カインが眉をひそめた。
「管理はお前がやる」
「俺ですか」
「お前は地図を読めないが、道と場所を体で覚えている。帳簿より確実だ。それに、各拠点の番人との関係構築が要る。人の顔と名前を覚えるお前の仕事だ」
カインは少し驚いた顔をした。それからいつもの軽い笑みではなく、静かに頷いた。
「……了解です」
「二つ目。行商偽装の移動式輸送。これまでは荷馬車で決まった経路を走っていたが、今後は小規模な行商人を装った運び手が不定期に動く。ルートは毎回変える。規則性を持たせない」
「運び手の確保は」
「ウルスラ、お前の人脈から信用できる者を選べ。条件は三つ。口が堅いこと、土地勘があること、そして欲をかかないこと」
「最後の条件が一番難しゅうございますね」
ウルスラが珍しく口元を緩めた。
「報酬で欲を制御しろ。安すぎれば裏切る。高すぎれば目立つ。適正な額を提示して、継続的な取引関係を保証する。一度きりの高額より、長く続く適正額のほうが人は裏切らない」
「心得ております」
「三つ目。地下道だ」
私は地図の一点を指した。レーゲンブルクの南東、旧市街区の端。
「レーゲンブルクには古い地下水路がある。百年以上前に掘られたもので、今は使われていない。一部は崩落しているが、主要な幹線は生きている」
「それをどうなさるので」
「物資の搬入経路にする。地上の検問を完全に迂回できる。教会も把握していない」
ウルスラの目が細くなった。
「……よくご存じですね。私の情報網でも、その水路の存在は断片的にしか掴めておりませんでした」
「父の書庫に古い図面があった。ハルツ家が王都に物資を運んでいた時代の記録だ。もっとも、当時は合法だったが」
「合法と非合法は、時の権力者が決めるもの。本質は変わりませんわ」
ウルスラの言葉に、私は何も返さなかった。正しいが、同意を表明する必要はない。
―――
午後、私はガルディニアに向かった。
ガルディニア。南部の自治商業都市連合。ヴェスタリア王国の版図には含まれるが、実質的には独立した商人の街だ。闇市の仕入れ元であり、正規の流通からはじき出された品物が集まる場所。
街に入ると、空気が変わる。
北部の山間の静けさとは違う。喧騒。値切りの声。荷車の軋み。香辛料の匂いと、魚の腐った匂いが混じり合っている。
私が会うのは、ドレクセル連邦との取引を仲介している仲買人のギュンターだ。
約束の時刻に、約束の場所に着いた。
港沿いの酒場。昼間から酒を飲んでいる男たちの間を抜けて、奥の個室に入る。
ギュンターは既にいた。五十代の痩せた男で、目だけがぎらぎらと光っている。
「ハルツの坊やか。わざわざ来なくても伝書で済む話だろうに」
「伝書は第三者に読まれる可能性がある。この話は対面でなければ意味がない」
「ほう。で、なんだ」
「発注量を増やす。解熱剤、経口補水塩、防腐処理済みの干し肉。現行の一・五倍。納期は従来通り」
「一・五倍か。急だな」
「在庫の一部を失った。補填が要る」
「事情は聞いている。勇者様にやられたそうだな」
私は表情を変えなかった。事情を知っているということは、情報が漏れているということだ。だが、ガルディニアの商人に情報が届くのは想定の範囲内だ。彼らは情報を売る。それが商売だから。
「価格は」
「据え置きなら受ける。量が増えるなら単価を下げる余地もある」
「単価を現行の九割五分にしろ。その代わり、半年の継続契約を保証する」
「……九割五分」
ギュンターが指で顎を撫でた。
「半年の保証付きか。安定収入は魅力だが、五分の値引きは利幅を削る」
「お前の利幅は二割だ。五分引いても一割五分残る。月あたりの取引量が一・五倍になれば、総利益は一・五倍の九割五分で……」
「一・四二五倍。増えるな」
「計算が速いのはお前の美点だ、ギュンター」
「褒めても値は下がらんぞ。――まあいい。九割五分、半年契約。乗った」
握手はしない。代わりに、互いの帳簿に同じ数字を書き込む。それがこの世界での契約だ。
交渉が終わり、個室を出ようとしたとき、廊下で女とすれ違った。
三十代。赤茶の髪を雑に束ねた女。目つきが鋭い。右手に帳簿を抱えている。
「あら。ハルツの坊ちゃんじゃない」
声をかけてきた。
「知っているのか」
「情報屋だもの。知らない顔のほうが少ないわ」
名乗りもせずにそう言ってのける。
「ターニャ・ブロックよ。仲買人兼情報仲介。あんたの噂は聞いてるわ。闇市を仕切ってる十七歳の令息。怖い交渉するわねぇ、子供のくせに」
「子供かどうかは、帳簿の数字で判断しろ」
「あはは。そういうとこよ、そういうとこが怖いのよ」
ターニャは笑ったが、目は笑っていなかった。品定めの目だ。この女は、情報を売って生きている。つまり、誰にでも売る。私にも、私の敵にも。
「用があれば連絡しろ。こちらも情報は買う」
「へぇ。――いいわ、覚えておく」
ターニャは手を振って去っていった。
使えるか使えないかの判断は、まだ保留だ。情報屋は刃物と同じで、握り方を間違えれば自分を切る。
―――
ガルディニアから戻ると、アナスタシアが待っていた。
私の姉。二十二歳。ハルツ家の社交面を一手に担う女性。外面は完璧な令嬢。中身は私に負けず劣らず計算高い。ただし、彼女の計算式には「弟を守る」という変数が常に入っている。それが彼女の非合理な部分であり、私が唯一予測しきれない要素だ。
「おかえりなさい、ルートヴィヒ」
「ただいま。何かあったか」
「教会から招待状が届いたわ。レーゲンブルクの大聖堂で開かれる慈善晩餐会。ハルツ家にも出席を求めている」
慈善晩餐会。教会が主催する社交の場だ。表向きは貧民救済のための寄付を募る催し。裏では貴族間の情報交換と政治工作が行われる。
「差出人は」
「大司教フリードリヒ」
フリードリヒ。光の教会の最高権力者。温厚な老人として知られ、民衆からの信頼も厚い。
だが、母の薬を止めたのは教会だ。その教会のトップが、今さらハルツ家を招く。
意図は明白だ。懐柔か、偵察か、あるいはその両方。
「姉上が行け」
「私が?」
「社交は姉上の領分だ。笑顔で挨拶し、酒を飲み、何も約束せずに帰ってこい。情報だけ持ち帰れ」
「あなたは行かないの?」
「大司教に顔を見せる必要はまだない。こちらの手札を見せるのは、相手の手札が分かってからだ」
アナスタシアは少し不満そうな顔をしたが、すぐに頷いた。
「分かったわ。――でもルートヴィヒ、フリードリヒは普通の老人ではないわよ。私の情報網でも、あの人の本音を掴んだ者はいない」
「だからこそ、まず姉上の目で見てきてほしい。数字では測れないものがある。人の表情は、そのひとつだ」
「……あなたがそれを言うのは珍しいわね」
「私が苦手なことを、得意な人間に任せているだけだ」
アナスタシアは微笑んだ。
私はその微笑みの意味を正確には読み取れない。だが、彼女が動いてくれるなら、それでいい。
―――
夜。
私は執務室で帳簿を開いた。
今日の支出。ガルディニアへの往復の旅費。ギュンターとの新契約に基づく発注額の試算。分散備蓄の二十箇所の初期費用。運び手の報酬の概算。
数字を書き込んでいく。
コストは増えている。倉庫が焼かれる前と比べて、全体の運営費は二割増だ。
だが、耐久性は上がっている。一箇所が潰されても全体の損失は限定的。経路が一本切られても、残りの経路で補える。
脆い一本柱から、折れにくい網へ。
これがインフラだ。
インフラは見えない。薬を飲む患者はインフラを意識しない。安い食糧を買う農民は流通経路を知らない。それでいい。見えないからこそ機能する。
そして、見えないものを壊す者は――壊したことにすら気づかない。
勇者セリウスは倉庫を焼いた。正義の炎で浄化したと信じている。
だが彼が壊したのは建物ではない。
三つの村に薬を届ける仕組みだ。
子供の熱を下げる仕組みだ。
母親が泣かずに済む仕組みだ。
仕組みを壊すことは、暴力だ。
たとえその手に正義の剣が握られていても。
いや――正義の剣だからこそ、誰も暴力と呼ばない。
私は帳簿を閉じた。
明日、カインが分散備蓄の候補地を報告してくる。ウルスラが運び手の選定リストを持ってくる。アナスタシアが晩餐会の準備を始める。
歯車は回っている。
焼かれたら、作り直す。潰されたら、形を変える。
それだけのことだ。
蝋燭の炎が揺れた。
今夜は風が強い。窓の隙間から、かすかに冷たい空気が入ってくる。
春は、まだ遠い。




