第1話:焼けた倉庫、正しい人たち
三日目の夜だった。
カインは山道の脇に身を潜め、息を殺していた。背中には解熱剤の入った麻袋が二つ。足元は雪解けの泥で滑る。松明の灯りが遠くに揺れている。
一つではない。五つ、六つ――いや、十以上。
早すぎる。
ルートヴィヒ様の予測では、勇者一行の到着は早くてあと二日のはずだった。搬出は六割が完了し、残りは明日と明後日で片付く段取りだった。
それが、三日目の夜に来た。
「――光の御名において、この地の闇を浄化する!」
若い男の声が峠に響いた。
力強く、真っ直ぐで、一片の迷いもない声だった。
カインは知っている。あの声の主を。勇者セリウス・ライトフォード。教会が闇の討伐に差し向けた、二十歳の光の剣士。
松明の明かりが第三倉庫を照らした。
石造りの壁に、木製の扉。外見は廃屋にしか見えないはずだ。偽装は完璧だったのに、なぜ場所が割れた。
――いや、今はそれを考えている場合じゃない。
「中に残ってる荷は」
隣に伏せていた運び手のマルクスが、かすれた声で答えた。
「解熱剤が四十八、干し肉が百五十前後、経口補水塩が三十余り。あと毛布が二十枚ほど」
四割。残りの四割が、まだあの中にある。
セリウスが剣を抜いた。
光った。比喩ではなく、実際に刀身が白く輝いている。光魔法の付与剣。教会の祝福を受けた、闇を祓うための武器。
その剣が、扉を断ち切った。
勇者一行が倉庫に踏み込む。セリウスの背後に大柄な戦士が一人、フードを被った魔術師が一人、そして――白い法衣の女が一人。
「セリウス、中は」
戦士が声をかけた。低く、重い。
「闇の物資だ。大量にある。――ドルフ、火を」
「了解」
戦士ドルフが松明を投げ込んだ。
乾いた木箱に火が移った。あっという間だった。
炎が上がる。
解熱剤が、燃えている。
干し肉が、燃えている。
経口補水塩が、燃えている。
三つの村に届くはずだったものが、正義の炎に飲まれていく。
カインは唇を噛んだ。歯が肉に食い込む。鉄の味がした。
飛び出したい。
叫びたい。
あの中身がなんなのか、誰のためのものなのか、あの正しい顔をした連中に教えてやりたい。
だが、ルートヴィヒ様の指示は明確だった。
『万が一、搬出中に勇者一行と遭遇した場合――逃げろ。荷を捨ててでも人を残せ。人は補充が効かない。荷は作り直せる』
カインは背中の麻袋を握りしめた。
これだけは、持ち出せた。解熱剤、二十四錠分。
全体のうちの、二割にも満たない。
「浄化完了です」
白い法衣の女――エリンが、静かな声で言った。
「中にいた者は確認されませんでした。無人です」
「そうか。……良かった」
セリウスが、安堵したように息をついた。
良かった、と言った。
無人で良かった。人を傷つけずに済んで良かった。
カインは泥の中で拳を握った。
――あんたが燃やしたのは人じゃない。でも、あれが届かなければ人が死ぬんだ。
その言葉は、喉の奥で溶けた。
炎は高く上がり、クルンプ峠の夜空を赤く染めた。
―――
報告を受けたのは、翌日の昼だった。
私は執務室で帳簿を開いていた。南回りの遅延の件で、ウルスラに追加調査を指示した直後だった。
カインが入ってきた。
泥だらけだった。山道を夜通し走ってきたらしい。目の下に隈がある。唇の端が切れている。
「――報告します」
声がかすれていた。
「クルンプ峠の第三倉庫、焼失。勇者一行により。到着は予測より二日早かった」
「搬出済みの荷は」
「六割。四割が焼けました」
「内訳は」
「解熱剤が四十八、干し肉が百五十前後、経口補水塩が三十余り、毛布が二十枚」
私は帳簿を開いた。
数字を書き込む。品目。数量。焼失日。場所。
怒りは、ない。
いや、正確に言えば、怒りに割く余裕がない。怒ったところで焼けた薬は戻らない。怒りが解熱剤を生成する魔法なら話は別だが、残念ながらそんな魔法はこの世界にも存在しない。
「カイン」
「はい」
「記録しろ。すべてを」
「……記録、ですか」
「何が焼けたか。どれだけ焼けたか。いつ焼けたか。そして――焼けた後、何が起きたか」
カインは黙って頷いた。
意味を問わなかった。この男は、すぐには分からなくても、問わずに動く。そして後から自分で意味を見つける。それが彼の美点だ。
――美点などという言い方は私らしくないか。
訂正する。それが彼の、運用上の長所だ。
「人的被害は」
「ゼロです。全員退避しました。坊っちゃんの指示通り、荷より人を優先して」
「当然だ」
「…………」
「怪我人は」
「俺が唇切ったくらいです。走ってて枝に引っかけました」
「治療しろ。報告は以上か」
「いえ、もう一つ。倉庫を焼いたあと、勇者一行はその場で野営していました。朝になって南へ引き返した模様です」
「南か。レーゲンブルクへ戻るのか、それとも別の拠点を狙うのか」
「わかりません」
「ウルスラに追跡を指示する。お前は休め」
「……了解です」
カインが出ていった。
私は帳簿の数字を見た。
解熱剤、四十八。
三つの村に均等に配れば、一村あたり十六。一錠で一人、三日分。十六人分。
つまり、四十八人の発熱患者が、三日間、薬なしで耐えなければならない。
そのうち何人が持ちこたえ、何人が持ちこたえないか。
計算できる。したくはないが、できる。
私は数字を帳簿に書き込んだ。丁寧に。正確に。一桁の狂いもなく。
感情を書き込む欄は、この帳簿にはない。
だから、書かない。
―――
――一週間後。
グリーンフィールド領、ホルスト村。
エリン・ソルファは、土壁の家の前に立っていた。
扉の隙間から、子供の咳が聞こえる。
「エリン様、お願いします……うちの子の熱が下がらなくて……」
母親が両手を握ってきた。痩せた手だった。爪の間に土が詰まっている。農婦の手だ。
「大丈夫です。光の加護がありますから」
エリンは微笑んで、家の中に入った。
薄暗い部屋。煤けた天井。寝台の上に、五つほどの子供が横たわっている。額に乗せた布は乾いていた。換える水もないのだろう。
エリンは手をかざした。
淡い光が掌から溢れる。治癒魔法。教会で学んだ、聖職者としての力。
光が子供の額に触れた。
熱が、わずかに下がる。
わずかに。
治癒魔法は万能ではない。個人の体に作用する力だ。熱を下げることはできる。だが病の根を断つには、薬がいる。解熱剤があれば症状を抑えている間に体力が回復する。それが治療の基本だ。
エリンはそれを知っている。教会の医療教本で学んだ。
「お薬は……お薬はないのでしょうか」
母親が聞いた。
「……教会に申請していますが、まだ届いていないのです」
嘘ではない。申請はした。だが返答はなかった。
エリンは一週間前のことを思い出した。
クルンプ峠の倉庫。セリウスが「闇の物資」と呼んだものの中に、見覚えのある瓶が並んでいた。
あれは。
あの瓶は。
解熱剤ではなかったか。
いや、そんなはずはない。あれは闇市の不正物資だとセリウスは言った。教会の指令書にもそう書いてあった。闇の流通拠点を浄化せよ、と。
でも。
もし、あの瓶が本当に解熱剤だったなら。
もし、あれがこの村に届くはずのものだったなら。
エリンは首を振った。
考えてはいけない。自分たちは正しいことをしたのだ。教会の指示に従い、闇の拠点を浄化した。それは正義だ。
正義のはずだ。
「エリン様……」
母親が、泣いていた。
「お願いします……この子を助けてください……」
エリンはもう一度手をかざした。光が溢れる。熱が、ほんの少し下がる。
ほんの少しだけ。
一時間もすれば、また上がるだろう。
薬がなければ、この繰り返しだ。エリンが去った後も、明日も、明後日も。体力が持つか、病に負けるか。その綱渡りが、薬一瓶で避けられたかもしれない。
エリンは家を出た。
空は晴れていた。春の風が吹いている。穏やかな昼下がりだった。
村には他にも発熱患者がいる。四軒。すべてを回らなければならない。
だが、回ったところで、エリンにできることは同じだ。一時的に熱を下げる。それだけ。
足が、重い。
エリンは空を見上げた。
青く、高く、何の答えもない空だった。
――あの倉庫の中身は、本当に「闇の物資」だったのだろうか。
その問いを、エリンは声に出さなかった。
出せなかった。
出してしまったら、自分たちがしたことの意味が変わってしまう。
次の家に向かう。足を動かす。
背後の家から、子供の咳が聞こえた。
子供の熱は、まだ下がらない。




