第0話:悪役令息の帳簿
蝋燭が一本、揺れている。
炎の寿命はあと二時間。替えは棚の三段目に四本。足りる。
私は帳簿に目を落とした。
南回りの荷が三日遅れている。
原因は二つ。ガルディニアの仲買人が値を吊り上げたか、街道の検問が増えたか。前者なら交渉で片がつく。後者なら迂回路の選定が要る。どちらにせよ、感情で解決する問題ではない。
私の名はルートヴィヒ・フォン・ハルツ。
ハルツ辺境伯家の嫡男にして、この王国ヴェスタリアの闇市を束ねる十七歳の――世間で言うところの、悪役令息だ。
「ルートヴィヒ様、クルンプ峠の中継点から伝書が」
扉の向こうから声がした。低く、落ち着いた女の声。ウルスラだ。
「入れ」
蝋燭の灯りに照らされて、修道服の女が静かに部屋へ滑り込んできた。元修道女。今は私の情報網の長。信仰を捨てた理由は聞いていない。聞く必要がない。彼女の仕事の精度だけが私にとっての評価基準だ。
「内容は」
「クルンプ峠の第三倉庫、在庫の棚卸しが完了しました。解熱剤が百二十、干し肉が四百、経口補水塩が八十。いずれも先月の搬入分です」
私は帳簿の数字と照合した。
合っている。誤差なし。
「それと、もうひとつ」
ウルスラの声がわずかに硬くなった。わずかに、だ。この女が声色を変えるのは、報告の中身が厄介なときだけだ。
「――勇者一行が北上しています。目的地はおそらく、クルンプ峠」
私は帳簿から目を上げなかった。
「根拠は」
「レーゲンブルクの教会筋から出た指令書の写しです。『北部の不正流通拠点を浄化せよ』。具体的な地名はありませんが、北部で教会が目の敵にしている拠点は一つしかない」
「到着予測は」
「早くて五日。遅くて八日」
五日。
第三倉庫の荷を全量移送するには、通常で四日。天候が崩れれば六日。
間に合うか間に合わないかの境目だ。
「カインを呼べ。移送計画を立てる」
「すでに控えさせてあります」
「そうか」
――有能な部下は、命じる前に動く。
これは褒め言葉ではない。事実の確認だ。
―――
カインが入ってきた。
十八歳。私より一つ年上。街育ちの元孤児で、身のこなしが軽い。帳簿は読めないが、人の顔と道を覚える速度は私の三倍ある。
「坊っちゃん、呼びましたか」
「坊っちゃんはやめろと言っている」
「へへ、癖なんで」
私はこの男の笑い方が嫌いではない。
――いや。好悪は帳簿に載らない。
「クルンプ峠の第三倉庫を空にする。五日以内に」
カインの顔から笑いが消えた。仕事の話になると、この男は別人になる。それが私が彼を使う理由だ。
「五日は厳しいですね。山道は雪解けで緩んでますし、荷馬車だと三日で着いても積み込みに丸一日かかる」
「荷馬車は使わない。分散搬出だ。小分けにして、行商に偽装した運び手を十二人。三ルートに分けて同時に動かす」
「十二人……手配できなくはないですが、人件費が」
「第三倉庫の在庫総額と、焼かれた場合の損失額を比較しろ。どちらが大きい」
「…………了解です」
カインは頭を掻いて、それから真面目な顔で頷いた。
「ルートの選定は俺に任せてもらえますか。山の抜け道なら、あの辺りは去年の冬に全部歩いてます」
「任せる。ただし、一ルートあたりの荷の上限は運び手の体重の三割以下。それ以上は移動速度が落ちて発覚の確率が上がる」
「細かいなぁ……」
「細かくなければ死ぬ。お前がではなく、届くはずの薬が届かなくなる人間がだ」
カインは一瞬だけ目を見開いて、それからまた笑った。
「――了解。五日で空にします」
―――
二人が出ていった後、私は蝋燭の炎を見つめた。
揺れている。
前世でもこうやって、深夜のオフィスで画面の光を見つめていた。
物流管理。在庫最適化。配送ルートの効率計算。
三十二年の人生で覚えたことは、結局それだけだった。
死因は過労。
笑えない冗談だ。いや、笑えないと感じること自体が無駄だ。感情は帳簿の余白を汚すだけだ。
目を覚ましたら、赤子だった。
泣き声が出た。自分の意思とは無関係に。生理現象だ。
周囲の言語は聞き取れなかったが、数週間で輪郭が掴めてきた。ゲルマン系の響き。文字は見えなかったが、音の構造から推測はできた。
母の名はヘルミーネ。
柔らかい手で、私の頭を撫でた。その感触だけは、覚えている。
――覚えているだけだ。それ以上の意味はない。
母は私が七つの時に死んだ。
流行り病だった。
薬はあった。ガルディニアから届くはずだった。だが教会が流通を止めた。「認可のない薬剤の配布は神の摂理に反する」という理由で。
父は教会の門前で叫んだ。
泣いた。
怒鳴った。
拳を振り上げた。
そのすべてが、無意味だった。
薬は来なかった。母は死んだ。父の叫びは空気を震わせただけで、一錠の解熱剤にもならなかった。
私はあの日、理解した。
感情は空気を震わせる。
数字は薬を届ける。
どちらが人を生かすかは、計算するまでもない。
―――
ヴェスタリア王国の構造は単純だ。
名目上は立憲王政。実態は四大貴族と光の教会による寡頭制。国王グスタフ三世は老齢で実権はなく、玉座はただの装飾品だ。
経済はギルドが支配している。登録料は庶民には払えない額で、小規模商人は最初から排除される。流通は教会の息がかかった商路に集中し、価格は高く、品質は不安定。
そしてその隙間に、闇市がある。
正規の流通から弾き出された商人や農民が、非公認の経路で物資を動かす。品質はまちまち。詐欺も横行する。統制がないからだ。
私がやったのは、その統制を作ることだった。
品質検査の基準を設けた。価格は原価に一定の利幅を乗せるだけ。暴利は禁止。運搬経路を整理し、山岳路、河川路、地下道の三系統に分けて冗長性を確保した。
そして取り扱い禁止品目を定めた。奴隷売買、暗殺用の武器、麻薬。
理由は道徳ではない。
リスクと世間の目が釣り合わないからだ。
――少なくとも、私はそう説明している。
闇市は犯罪だ。私はそれを否定しない。
だが、正規の流通が機能していない国で、誰が薬を届けるのか。
答えは単純だ。届けられる者が、届ける。善意でも正義でもなく、そこに需要があり、供給が可能で、利益が出るから。
私は善人ではない。
だが、無能でもない。
それだけのことだ。
―――
帳簿に戻る。
南回りの荷の遅延。三日。
仲買人のブルーノは過去二年間、納期遅延が一度もなかった。今回が初めてということは、彼の側に問題が発生した可能性が高い。検問強化なら、他の経路からも遅延報告が来るはずだが、それはない。
つまり仲買人側の事情だ。
値の吊り上げか、あるいは身辺に何かあったか。
明日、ウルスラにブルーノ周辺の調査を指示する。結果が出るまで、南回りの代替として河川路の増便で補う。コストは一割五分増。許容範囲だ。
私は数字を帳簿に書き込んだ。
蝋燭が短くなっている。
替えを取りに立ち上がる必要がある。だがその前に、もう一項目だけ。
クルンプ峠。
勇者一行の標的。
勇者セリウス・ライトフォード。二十歳。光の剣士。教会が「闇の不正を浄化する英雄」として民衆に喧伝している男。
評判は聞いている。
実際に善人らしい。本気で正義を信じ、本気で人を救おうとしている。
だからこそ厄介だ。
悪意なら対処は簡単だ。利害を計算し、交渉するか排除するかを選べばいい。だが善意は計算を受け付けない。善意は自分が正しいと信じている。正しいと信じている人間は、自分の行動の結果を検証しない。
検証しない人間が剣を振るう。
その剣が焼くのは、倉庫だ。
倉庫の中身は、薬だ。
薬が届かなければ、人が死ぬ。
この因果関係を、善意の剣士は知らない。知ろうとしない。知る必要がないと信じている。なぜなら、自分は正義の側にいるのだから。
――善意は免罪符ではない。
結果だけが現実に残る。
私は帳簿を閉じた。
蝋燭の替えを取り、新しい芯に火を移す。
古い蝋燭が燃え尽きる。新しい炎が立ち上がる。
明日やることは三つ。
一、クルンプ峠の緊急移送の進捗確認。
二、南回りの遅延原因の調査指示。
三、勇者一行の移動速度の再測定。
やることがある。
前世で学んだことがある。
この身体は健康で、頭は動く。
それだけで十分だ。
私は善人にはならない。正義も振りかざさない。
ただ、帳簿の数字を合わせる。
届くべきものを、届くべき場所へ、届くべき時間に届ける。
それが私の仕事だ。
蝋燭の炎が揺れた。
風ではない。窓は閉まっている。
炎の気まぐれだ。
――私には、そんなものはない。




