井上さん
井上さんという猫を飼っている。黒い毛並みの華奢な猫で、高い声で「ナッ」と鳴く。本当の名前はあるのだろう。でも僕はそれを知らない。
ある日、近所に住んでいた井上さんが、僕にキャリーケースごと猫を渡してきた。
「僕が戻ってくるまで、この子を預かってくれないかな」
ぷっくりした頬を流れる汗と、ふっくらした腹が激しく上下しているのを見て、僕は何も聞かずにキャリーケースを受け取ってしまった。
井上さんは、おじいさんの代から続く豆腐屋の三代目。太陽の昇る前、彼の店からは仕込みの音が聞こえてくる。
井上さんは、遠くへ行ってしまった。猫を受け取ることは二度とできないくらい、遠くへ行ってしまった。豆腐屋は、永遠にシャッターが閉まったままになってしまった。
僕は、猫の名前を聞きそびれた。キャリーケースをひっくり返しても、それらしい文字は書いていない。「井上さんの猫」と呼んでいたのが、いつの間にか「井上さん」になってしまった。井上さんは、猫になった。
猫の井上さんは、好き嫌いの激しい、おすましさんだった。僕のあげるものはほとんど食べなくて、何とか口に運んでくれるものを見つけても、三日後にはツンと顔を背けてしまう。
井上さんには、鈴がついている。赤いチョーカーに、金色の小さな鈴がついている。試しにチョーカーを外してみたけれど、やっぱり名前はついていなかった。
井上さんは、この猫に名前をあげなかったのかもしれない。
ある日、気になって思いつく限りの名前で猫を呼んでみた。大豆、豆腐、湯葉、にがり、タマ、クロ、にゃんにゃん......。
井上さんは、ツンとすまして、僕の声を無視する。でも、「井上さん」と呼ぶと、鈴を鳴らして振り返る。耳をピピッと動かして、反応してくれる。
だから、やっぱり井上さんは、井上さん。仮に本当の名前が見つかったとしても、僕の方が井上さんでしっくり来ているから、変えることはないだろう。
「君の飼い主さん、どこ行っちゃったんだろうねえ」
たまに、本物の井上さんの話をしてあげる。僕が仕事から戻ってきて、窓辺で本を読み始める時。ふと顔をあげると、井上さんのために作った壁沿いのキャットタワーの上から、僕を見ている彼と目が合う。
井上さんは、綺麗な猫だ。猫は綺麗好きと聞いていたけれど、本当にその通り。ご飯を食べた後は、特に念入りに毛づくろいをしている。
「井上さん、井上さんに戻ってきて欲しい?」
僕が二回も井上さんと言ったから、井上さんの耳は計四回もピクピク動いた。
井上さんが、本物の井上さんのことを好きだったのか分からない。この家に来て、酷く寂しがっている様子もないから。でも、僕の方は井上さんが恋しい。
井上さんが居なくなってから、朝早い通りに響く仕込みの音も、湯気の香りも、日が昇ってからやって来る業者さんの声も、お客さんとの談笑も、何もかも消えてしまった。
井上さんとは、あまり喋ったことがない。たまに豆腐を買いに行くと、静かな声でグラムを聞いて、値段を言うくらいで、僕がお天気のお話や近所にできたスーパーのお話をしても、柔らかい腹を揺らして頷くだけだった。
井上さんの声は野太い。あの体から出る声だな、と思うような声。猫の井上さんの、鈴と高い鳴き声とは、対照的だ。
井上さんが戻ってきたら、僕は猫の井上さんを返すつもりだ。そして、やっぱりいつものぎこちない会話をして豆腐を買うつもりだ。
口の中でふわっと解けるあの豆腐が、井上さんのふっくらした手のひらで切られるのを、もう一度見てみたいのだ。




