悪逆女王は専属メイドに逆らえない
この国……アウローラ王国の頂点に立つのは、若き女王クリスティア=レーヴリス=アウローラである。
白金の髪と冷たい翡翠の瞳を兼ね備えた高潔な美貌を持つ彼女。
その表情には常に一点の曇りも無く、一言命じれば誰もが平伏した。
「この国は我が園。我が言葉こそが法。異を唱える者は前に出よ。我が直々にその首を刎ねてくれよう」
謁見の間に響くその声は、礼儀や優しさよりも威圧に満ちていた。
家臣たちの姿勢は自然と低くなり、身体をは震わせ、誰も女王の機嫌を損ねまいと固く口を閉じる。
そう……この国で最も恐れられ、同時に敬われる存在は、いつだって彼女だった。
ただ一人の例外を除けば。
「不味い」
クリスティアがカップを置いた所作に、メイドはビクッと肩を震わせた。
「紅茶も満足に淹れられぬのか」
「も、申し訳ございません! どうか、どうかお許しを!」
「もうよい。下がれ」
ため息を聞いたメイドは、この世の終わりのような表情を浮かべた。
冷酷非情で知られるクリスティアは、城の侍従たちの間でも畏怖の対象とされている。
ほんの些細な出来事で彼女の琴線に触れようものならば、どんなお咎めを受けるかわからない。
紅茶一つ、部屋の埃一つ、侍従たちは日々怯えながら彼女の身の回りに気を配っていた。
そんな中、そのメイドだけは、
「ふわぁ……」
クリスティアのお茶の準備をしながらあくびをした。
「貴様……何の真似だ」
「何のって、今日はいい天気ですから。あくびの一つも出ましょう。さて陛下、今日のお茶菓子は何になさいますか? 私のオススメはマドレーヌです。さっき味見したらおいしかったので。あ、もう一ついただきますね」
彼女は城仕えのメイド、名をセレスティーヌ。
人は彼女をセレスと呼ぶ。
ふわりと揺れる薄桃色の髪と気怠げな眼差し。
立ち居振る舞いは優雅で、どこか品が漂っている。
何の変哲もない地方貴族の出身で、到底クリスティアの前で砕けた態度をとる間柄でも、立場でもない。
目の前で悪びれもせずマドレーヌを頬張るセレスだが、しかしそれ以上に、クリスティアを戸惑わせる部分があった。
(……何故、こいつは我に怯まぬ?)
セレスは他の臣下とは明らかに違っていた。
媚びへつらい謙ることをせず、ただ静かに頭を下げるのみ。
必要以上に畏れず、必要以上に靡かず、まるで目の前の相手が女王であることなど関係がないとでも言うように。
メイド長ですら匙を投げるクリスティアの身の回りの世話を、このセレスだけが苦にせずこなしていた。
「お茶のお代わりは如何ですか?」
「……うむ」
態度は諌めるべきであっても、能力はけして低くない。
茶葉、菓子、花瓶の花、誰に好みを伝えたわけでないにせよ、セレスはクリスティアの気分のものを的確に用意する。
その手腕は長年仕えた熟練のメイドのものであった。
他のメイドは不要とばかりに、クリスティアはセレスに身の回りの世話を命じた。
特段気に入ったというわけではない。
ただ他の者を相手にするよりも気が楽だった。
いつからか二人は他愛ない会話を交わすほどになっていた。
「今日のおやつはプチシュークリームですよ。料理長の自信作だそうで。陛下は生クリームとカスタードだとどちらがお好みですか?」
「……生クリームの方が甘さが口の中に残らなくていい」
「そう言ってくれて助かりました。カスタードの方はいくつかつまみ食いをしてしまったもので」
セレスはそう言いながら、またカスタード入りのプチシュークリームを口に放った。
「そういえば陛下、今日もまた不機嫌に怒鳴っていたらしいですね? メイド仲間が怯えていましたよ」
「怒鳴ってなどいない」
「城中に響いてたそうですが? 無能め、出直してこい……でしたっけ」
「……私の政策が気に食わぬ者がいたのでな。少し叱責しただけだ。どいつもこいつも役に立たぬ」
「公務に熱を出しているようで何よりですが、少しは落ち着くことも大事ですよ。あんまり皆に意地悪なことすると、おやつ抜きにしちゃいますよ?」
クリスティアは、フンと鼻を鳴らした。
(どうせ誰にも我の心は理解出来ぬ。使えぬ臣下などいない方がいい)
「使えない臣下なんていない方がいいとでも思ってるんでしょう」
クリスティアは目を丸くした。
自分の胸の内を覗かれたのかと錯覚したのも束の間、口にふわりと甘い味が飛び込んできた。
「むぐ……ッ?!」
気付けばセレスがプチシュークリームを口に押し込んでいる。
「人にはそれぞれ役割があります。上に立つ者は、人の使い方が上手くなければいけません。使えないからと切り捨てるのはただの傲慢です。陛下はどうか、愚かな王様でありませんように。それと、せっかく可愛いお顔をしてるのですから、もう少し笑った方がよろしいかと」
口から抜かれる人差し指。
口の中にはクリームの甘さが残っているのに、クリスティアは思わず呆けた。
女王の顔が赤く染まる。
自分を可愛いと言った者など、彼女の人生に一人もいない。
それは不敬だと斬られてもおかしくない言葉だった。
だがクリスティアは怒らなかった。
怒れなかった。
目の前のメイドは、不敵に微笑んでいた。
その日の夜、眠りにつこうとしたとき、クリスティアの胸に残っていたのはセレスの淡い笑み。
自分を女王として見ていない目。
しかし腹立たしいどころか、ほんの少しだけ心を軽くしているようにも感じてしまうのだった。
彼女はまだ、この感情の正体を知らない。
そして気付いていなかった。
この国でただ一人自分に怯まぬ女が、自分に何を齎すのか。
次の日もクリスティアはいつものように政務に熱を持たせていた。
背すじを伸ばし冷徹な女王の仮面を被る。
その姿には欠点というものがない。
だが、議会において喧々諤々と案を講じる中でもふと思う。
(あやつは今、何をしているのだろう)
ほんの僅かに胸がざわつく。
その事実に気付いたとき、クリスティアは眉をひそめた。
(何を考えている、我は。メイド一人如きに……)
その日の国政会議はいつになく緊迫していた。
「陛下、今年の徴税はすでに限界を超えております。これ以上は貴族から不満が……」
「民の暮らしを守るための税であろう。金は湧き出ぬ。貴族なればこそ民のために己が肉を斬ってみせよ」
女王の声には揺らぎがない。
重臣たちが沈黙する中で、一人の大臣が立ち上がった。
老齢の財務大臣、ラーク卿である。
「……陛下。そのご決定はあまりに独断が過ぎます。そろそろご自重いただかないと、王国の未来に禍根を残すことになりましょう」
議会の場に静寂が走る。
クリスティアの冷たい瞳が細まった。
「我に逆らうか、ラーク卿」
「同じ祖国を愛せし偉大なる陛下へ、恐れながら進言を」
「許す」
「僭越ながら民の暮らしを守るのが貴族であるならば、貴族の体裁を保つのは民の役目と存じます。華やかさと美しさを保てずして、何故貴族足り得ますでしょうか」
「貴き血のためには民からの搾取を厭うべきではない、と。貴様はそう言いたいのであろう。その腹は余程に肥えていると見えるなラーク卿。ならば答えてみせよ。その体裁とやらで、いったいどれほどの民が救われるのか」
ラーク卿は押し黙り、クリスティアは更に続けた。
「いい機会だ。ここで皆に伝えておこう。我は近いうち、貴族制度を廃止しようと考えている」
議会に大きなざわめきが起こった。
「お待ちください陛下!! どうかお考え直しを!!」
「これからの時代にはたしてそんなものが必要か。時代は変わるのだ」
「平等が美徳などとはまやかしに過ぎませぬ!! 格差と階級があってこそ、国は回るのです!!」
「貴様のいう回る国とは、貧困と飢餓に苦しむ者たちから目を背けてのものだろう。頭が痛む。そのような愚かな思想が根付いている現状を打破しようとも思わぬ膿が、この国の中枢に蔓延しているかと思うとな!!」
「陛下!!」
「……会議は以上だ。各位政務に励め」
困惑が残る会場を後に、クリスティアは足早に執務室へと戻った。
デスクに手をついて大きく息を吐くが、それで疲労感が抜けるはずもなく、悩ましい頭を押さえた。
「失礼します」
すると、お茶の用意にセレスがやって来た。
返事を待たずに入室するのはいつものことである。
「今日は一段と疲れた顔をしていますね。あいも変わらず白熱した会議だったようで」
「……下がれ。今は茶の気分ではない」
「そうですか。まあ陛下が気分でなくとも私は喉が渇いたのでいただきますけど。今日はハーブティーにしてみました。カモミールのいい香りがするでしょう。私が摘んだんですよ。陛下のためにわざわざ早起きまでして」
「下がれ!! 命令だ!!」
激昂。
それはただの八つ当たりであった。
クリスティアは声を荒げてからハッとしたが、セレスにはどこ吹く風であり、勝手にハーブティーを注ぎ、勝手にソファーに腰を下ろしている。
「命令しなければメイド一人動かせないなんて、無能を晒しているだけですよ陛下」
「無能、だと? 我に言っているのかそれを!!」
「受け取り方次第です。ただ、声を大きくすれば誰もが従うと思ったら大間違いです。飴と鞭は使いようです。強いるばかりが正義ではないんですよ」
「たかがメイドがほざくな!! 王の重責も知らぬ分際で!!」
「陛下のそれは要らない責任まで背負い、無駄に重みを感じているだけです。ゴク……ふぅ……。自分一人で全てをこなそうとする……能力があるならそれも一つの在り方ではあるでしょうが、恐れながら陛下は万能というわけではないでしょう?」
「我を……愚弄するか貴様!!」
「得手不得手の問題です。人である以上、恥じることではありません。だからこそ補うために、人は誰かを頼るのです」
「王とは万難を排し万人を導く者!! 王に不得手も弱さもあるものか!!」
「思い込むのは自由です。しかし虚勢は大きければ大きいほどに、現実を知ったときに絶望するということをお忘れなく」
クリスティアは唇を噛んでセレスに詰め寄り、彼女の持つカップを払いのけた。
カップが砕けた軽い音が寂しく鳴った。
「貴様は……どの立場でこの我に意見している!! 身の程を知れ!!」
王とは孤高。
常に絶対的立ち位置から俯瞰し、滅私を以て臣下と民を導く指針。
クリスティアは自分が間違っているとは思わない。
現に今のやり方で国はいい方に変わっているという自負がある。
だが、セレスの言葉は確実に彼女を揺るがした。
自分を否定されたことによる怒りを眼差しと声に乗せる。
しかし次の瞬間、クリスティアはビクッと身体を震わせた。
「陛下」
息を呑む。
「座りなさい」
仕草。僅かな目線。
空気を掌握するごく自然なセレスの圧に、クリスティアは只事でない迫力に思わず後ずさった。
(……何だ、これは)
胸の奥が震えた。
心臓が高鳴る音が自分でも聞こえそうになる。
「座れと言いました。二度はありません」
クリスティアは息苦しさを覚えながらも、向かいのソファーに手をかけようとした。
「誰がソファーに座れと?」
セレスはスッと自分の足元を指差した。
恐怖。
それ以前に、クリスティアはセレスの足元に膝をついた衝撃を受け止めきれずにいた。
(我は……なにを……)
「人間誰しも苛立ちを覚えることはありましょう。ですが、人の好意を無碍にすること以上の愚行はありません」
セレスはポットを持ち上げると、ぬるくなった中身をクリスティアの頭にかけた。
「ッ?!」
「ご堪能ください。陛下のために用意したお茶です」
「貴様……ぐっ?!」
口元を捕まれたクリスティアが見たのは、普段の怠惰で気の抜けたセレスとは大きくかけ離れた、冷たく無機質な目であった。
「好意には感謝を。幼児でもわかる当たり前を、陛下ともあろう方がわからないと?」
その言い方があまりにも自然で、当然で、何も返せないクリスティアはただ身を竦ませた。
これは誰だと自問する。
目の前にいるのは、最早メイドではない。
王以上の存在感を放つ……そう、支配者のそれ。
「感謝を」
「か、感謝、する……」
「違うでしょう?」
「っ、こ、心遣い……ありがたく、思う……」
「違います」
クリスティアは怯み、ようやくそれを口にした。
「あ、ありがとう……ございます……」
そこまで言って、口元から手が離される。
セレスは満足そうに微笑んでいた。
「よく言えました」
その笑顔に、クリスティアは身体を熱くした。
濡れた髪をタオルで拭かれながら、自分の中の価値観が音を立てて崩れていくのを感じた。
女王として絶対であるはずなのに、何故かセレスの前ではそれが霞む。
「失礼します」
「……っ」
夜。
私室にいつものようにセレスが紅茶を運んできた。
違うのはクリスティアの態度だけ。
セレスは昼間あったことは忘れたかのようにいつもどおり。
(……心臓が激しい。怯えているとでもいうのか……。身体と心が、此奴に掴まれているかのようだ)
耳に残る声。
身体が覚える視線。
あれは自分のような権力を嵩取った威圧ではなく、彼女自身が持つ絶対性だった。
(我は……あの圧に、屈したのか?)
考えてしまった時点で既に答えは出ている。
「陛下、お茶の用意を」
「あ、ああ……ご苦労……い、いやありがとう……」
「クスッ、どうしたんですか陛下。そんなに畏まって。もしかしてお茶菓子のおねだりですか? ダメですよ、寝る前に甘い物なんて」
「ち、違う! そんなつもりでは……」
「じゃあ……夜伽のおねだりですか?」
スッといたずらっぽくスカートの裾を持ち上げるセレスに、クリスティアは顔を真っ赤にした。
「ば、バカなことを言うな!!」
「はい、冗談です」
淡々とした声。
絶妙に相手の心をかき乱す温度。
セレスが部屋にいるだけで、王の私室は一瞬で彼女の空気になる。
クリスティアはそれを感じ取りながら、呼吸を整え背すじを伸ばした。
「……セレス。今日の行動だが、わかっているのか? 我に対してあのような……度を過ぎれば反逆の罪に」
「反逆? 私が陛下に? フフ、ありえませんよ」
セレスは歩み寄り、机の上に静かに茶器を置く。
白い指先が触れる度に緊張が走った。
「今で充分居心地は良いですから。それに私は、陛下が思っているよりずっと陛下のことが好きですから」
「す……好きっ……!?」
クリスティアが生涯で最も素っ頓狂な声を出した瞬間である。
「忠誠としてですよ? ああ、こんな文句で顔を赤くしてしまうあたり、本当に可愛い方ですね。陛下のご命令とあらば、今日くらいは同衾を許してあげても構わないと思ってしまいそう」
クリスティアは言葉を失う。
誂われた怒りは湧かず、羞恥が身を刺す。
「陛下は子犬のような方ですね。四方八方を睨みつけ、牙を剥いて爪を立てる。けれど誰かに飼われれば手の平に顎を乗せてしまう可愛い子犬」
そして――――――――
「陛下」
セレスが唐突に命じた。
「跪きなさい」
空気が止まった。
「……は?」
「ほら、今日みたいに威張ってばかりだと疲れるでしょう。たまには、誰かに委ねてもいいんですよ?」
「な、なにを……言って……」
「あなたは上に立つのが下手すぎる。だからこそ、下に降りることの意味を知る必要があるんです」
優しい声。
しかし、それには逃がさない強さがある。
クリスティアは唾を飲みこんだ。
顔が熱い。
手が震える。
(跪けと言われて……何故、拒めぬ?)
強く、毅然と返すべきだ。
相手はメイド。
自分は王。
それなのに逆らえない。
身体は勝手に動く。
(跪けば、楽になれるのか……?)
クリスティアは、ゆっくりと絨毯に膝をついた。
「……こう、か?」
「頭は床に」
「……わかっ、た」
「言葉遣いも直しましょう」
「わかっ…………は、はい。これで……よろしいでしょうか……」
瞬間、全身に電流が走った。
威厳も貫禄もかなぐり捨てた、形容し難き無様。
だというのにクリスティアは、これ以上なく高揚していた。
「ええ。とてもよく似合っていますよ、陛下」
セレスは微笑み、女王の頭に触れた。
優しく、支配的に。
「気持ちが楽になったでしょう。王であることを辞め、今あなたは一人のクリスティアになったのです」
「王ではない、私……。王でなくても、いい……?」
「そうです。これからは、甘えることの喜びを知っていきましょう」
甘える……それはすなわち支配そのものであった。
従属という名の二人だけの蜜月。
重責からの解放と背徳的な響きは、クリスティアの心に深く刺さった。
「従いなさいクリスティア。あなたの弱さも、孤独も、全部包み隠さず。私の前だけは素直なあなたを晒しなさい」
クリスティアの胸が震えた。
自分の中の何かがゆっくりと崩れ、同時に満たされていく。
「は、い……セレス、様……」
ついに彼女は小さく答えた。
セレスは静かに頭を撫でた。
クリスティアは誰にも触れさせたことのない、王冠無き素顔に触れられ、また全身を熱くした。
「いい子ですね、クリスティア」
その呼び名にクリスティアは完全に陥落した。
(この女に……従いたい……)
産まれながらの王が、初めて見つけた悦びであった。
クリスティアがセレスに跪いた夜から、世界は静かに変わり始めた。
彼女自身が気付かぬうちに……いや、気付いていても否定しないままに。
公務中のクリスティアは、前と変わらず絶対的だった。
しかし、廊下の陰からその姿を見ているセレスは、どこか誇らしげに微笑んでいる。
(ああ、今日も頑張っていますね)
夕方。
クリスティアは私室に戻るなり、部屋で待っていたセレスの前にすぐに膝をついた。
「セレス様……今日も皆に……き、厳しくしすぎてしまいました……」
「はいはい、よしよし。よく頑張りましたね。偉いですよクリスティア」
セレスがクリスティアの頭を撫でる。
その指先が、彼女の心をほどいていく。
この瞬間だけはクリスティアは王ではなく、素直な一人の女性でいられた。
二人の秘密の関係は続いた。
より甘く、より深く。
「ご褒美をあげませんとね」
セレスはふと、ポケットから細い黒のリボンを取り出した。
「それは……?」
「言ったでしょう、ご褒美です。さぁ顔を上げて」
言われるままに顔を上げると、セレスはまるで髪を結ぶように自然に、クリスティアの首にリボンを回し、柔らかく結び目を作った。
軽く締まるが痛みはない。
しかしその存在が、クリスティアの心臓を震わせる。
「これ……は……?」
「首輪みたいなものですよ。可愛らしく忠誠を誓うクリスティアに」
小さく笑ってリボンの端を引く。
それだけで、クリスティアの身体がびくりと震えた。
「っ……セレス様……」
「大丈夫。誰にも見せません。このリボンは、あなたが私にだけ見せる秘密の証なんです」
「秘密……」
「二人だけの」
セレスの指が、クリスティアの喉元のリボンをそっと撫でる。
「お似合いですよ、クリスティア」
その言葉は王冠よりも重く、砂糖菓子よりも甘く、生を受けるよりも幸福だった。
「犬……のようですね……」
「子犬には過ぎたプレゼントでしたか?」
セレスはリボンの端を優しく持ち上げ、クリスティアをゆっくり導いた。
四つん這いのまま、クリスティアはセレスの側へ歩み寄る。
屈辱、羞恥……それ以上に甘く放蕩する特別の時間。
「芸の一つでもさせましょうか」
「芸……私が……」
未知の昂りに頬が染まるのを見て、セレスはまた笑った。
「ああ本当に可愛らしい」
セレスは蔑むでも嘲るでもなく、クリスティアを静かに愛でた。
差し出された手の平に手を置こうが、床に置いた深皿で紅茶を舐めようが、彼女は全てを受け入れた。
依存にも似た歪な関係。
しかしクリスティアは一切疑わない。
この姿が本当の自分なのだと。
しばらくして、城内にはこんな噂話が蔓延した。
「陛下は最近……少し物腰が柔らかくなられたのではないか?」
これまでは自分の意見を無理に押し通すだけだったのが、今では他者の意見を尊重するようになった。
これまでにない改革に反感を抱いていた臣下の中には、心を入れ替えたようにクリスティアに忠誠を誓う者さえ現れる始末。
「どう思いますかな、ラーク卿」
「どうせ一時の気まぐれであろう。貴族制度の撤廃が撤回されたわけではない。今のうちに手を打たねば」
「ではやはり……」
「明朝、例の作戦を決行する。理想に溺れるばかりの王など不要。この国に改革など齎されては困るのだ」
「御尤も。私共としては、卿にこの国を導いてほしいものですな」
「ハハハ、私が王か。私は楽に余生を過ごせればそれで構わぬよ」
御しやすい王ならばどれほど楽だったろうかと、大臣らは深く息をついた。
その陰で聞き耳を立てているメイドの存在など知る由もなく。
(ああ、なんて愚かな)
聞こえてくるのは、ラーク卿を中心とした重臣たちの密談であった。
近衛兵の一部を買収し、夜明け前に私室を急襲する計画。
女王を拘束し、摂政を立てる……典型的なクーデター。
(陛下を……取り替えのきく王と扱うなんて)
壁から背中を離し、おもむろに足をクリスティアの私室に向ける。
(楽に過ごせればいい……それにだけは大いに賛同しますけど。あなたのやり方はスマートじゃありません)
あなたは王には相応しくない、セレスは反逆者に毒を吐いた。
「身の程を弁えていれば、もう少し長く生き長らえたものを」
セレスは事の一切を余さずクリスティアに伝えた。
クリスティアは小さく息をつき、そうか……と一言呟いた。
「あまり驚かれてはいない様子ですね」
「遅かれ早かれこうなることは予想が出来ていた。それだけの圧政を強いた自覚はある。これは貴様の言うところの、人の頼り方が下手であった報いなのだろう。そのための準備は怠っていない」
厳格な政治を続けたのは自分の意思だ。
憎まれた。恐れられた。
それでも、この国のためだと信じていた。
だが、その思いは最も身近な臣下に伝わっていなかったのだと、クリスティアは肩を落とした。
「……私は、間違っていたのかもしれぬ」
ぽつりと漏れた声は今にも消え入りそうだった。
「正しさと過ちは表裏一体。主観で視るのと客観で視るのとでは、結果が異なることは当然です」
「我に……そう割り切れるだけの強さがあればよかったのにな……」
「悔い、憂うことに意味はありません。今あなたに必要なのは、前を向くための決断であると、僭越ながら進言させていただきます」
「……そうだな。なぁ、セレス」
クリスティアは弱々しく、自然な所作で膝をついた。
「私に……勇気をください……」
「……いくらでも」
セレスはそっと彼女の頭に手を置いた。
ラーク卿を初めとした重臣らによるクーデターは、クリスティアの私兵と彼女を支持する臣下たちによって未然に防がれ、僅かな被害も出さずに事なきを得た。
民の不安を煽ることのないようにと箝口令が敷かれ、事件の一切は整然と秘密裏に処理された。
「この国が上手く機能しているのは我々がいるからだ!! 後悔するぞ!! 我々無くして真の国家は成り得ない!! 貴様らもいずれ過ちだったと気付くだろう!! あの女が王であることが!!」
ラーク卿は最後まで国の在り方を訴えたが、反逆者の嘆願が聞き入れられることはなく。
その首は断頭台に転がった。
反逆者とはいえ、国の重要なポストに就いていた彼ら。
喪ってすぐは公務が滞り、クリスティアや臣下らは空いた穴を埋めるべく、寝る間も惜しんで奮闘した。
そんな日々が一月ほど続き、クリスティアは疲弊を募らせていた。
深夜、フラフラとした足取りで部屋に戻ると、セレスがソファーに座って待っていた。
「おかえりなさい陛下。本日もお疲れ様でした」
「……貴様は何があろうと変わらないな」
「そうでもありません。私たちメイドも慌ただしい毎日です」
そう言ってセレスは優雅にカップを傾けた。
「陛下もどうぞ。軽く夜食も用意してありますので」
「……ああ」
クリスティアは自然に、セレスの隣に座った。
「……まだ礼を言っていなかったな。いち早く奴らの企てを知れたのは、セレス……お前のおかげだ」
「まあ、陛下が素直に頭を下げるところを見られるなんて」
「誂うな。……お前には感謝している。今回のことだけじゃない。お前が我を変えてくれたから、我に賛同し付き従う者が増え、結果的にラークらの企てを阻止し、この国をより良い方向へと導くことに繋がった。望むならどんな礼でもしよう」
「だとするなら、それが本来の陛下の才気であったということです。私はただのメイド。陛下の御心を受け取るには過ぎた身分です」
頑なに礼を受け取ろうとしないセレスに業を煮やしたクリスティアは、慣れたように跪いた。
「あなたに最大限の感謝を。ありがとうございます、セレス様」
その顔は今までにないほど晴れやかだった。
あまりにその笑顔が眩しく、セレスは一瞬時が止まった錯覚を覚え、それから手で口元を覆った。
「……やっぱりあなたは可愛いです、クリスティア」
セレスの顔には、ほんのりと赤みが差していた。
事件の鳴りは完全に潜め、国内は変わらず安定し、城内にもまた通常どおりの空気が流れていた。
「本日の議題については以上です、女王陛下」
「うむ。皆の働きに感謝する」
玉座に座るクリスティアは、かつてと変わらぬ威厳を放っていた。
臣下たちは頭を垂れ恭しく退室していく。
その姿をクリスティアは静かに見送った。
扉が閉まり、足音が完全に消えた頃。
「陛下。お疲れ様でした」
柱の影からセレスが現れた。
誰もいないはずの玉座の間に二人きり。
その空気が変わる。
凛と張りつめていた威厳は溶けていく。
「セレス様」
クリスティアは耐えられず玉座から滑り降りた。
長いドレスの裾をひきずりながら、まるで吸い寄せられるようにセレスの足元へ進む。
跪いた彼女は、頭に手を置かれるのを恭しく待った。
「二人きりになった途端にこれなんですから。すっかり従う姿が板につきましたね」
「こう躾けたのはあなたです」
「クスッ、そうですね。ならもう、おねだりの仕方はわかりますね?」
「はい」
クリスティアは首元にリボンを結ぶと、その端をセレスへと差し出した。
「今日も私をお導きください、セレス様」
この国には二人の王がいる。
国の中枢を動かすのは、威厳ある女王クリスティア。
だがその心を動かすのはら影から寄り添う一人のメイド。
主従という枠組みを越えた、権力と隠された支配が紡ぐ誰にも知られぬ関係。
そっと二人の手が触れ合う。
ただそれだけで、王の世界は満たされた。
この国を本当に支配しているのは誰か。
答えを知るのは二人だけでいい。
――――――――
セレスこと、セレスティーヌの生家は王都から遠く離れた地方の小貴族だった。
古い称号と細い領地を持つだけの取るに足らない家。
王家に連なる血でもなければ、名を轟かせた英雄の系譜でもない。
だがある年、その家に生まれた一人の少女は、明らかに異質だった。
まだ言葉も拙い頃から、セレスの周囲では不思議と争いが起きなかった。
子ども同士の喧嘩は彼女が一瞥するだけで止み、大人でさえ彼女の周囲では理由もなく声を潜めた。
「セレス様がそう仰るなら」
「さすがでございますセレス様」
彼女が何かを決めた覚えはない。
命じたつもりもない。
それでも人は、彼女の言葉を従うべきものとして受け取った。
自分の言葉と振る舞いが他者の行動を決定する。
その事実が、幼いセレスには酷く息苦しかった。
(どうして……私は、何もしていないのに)
地方貴族の娘として控えめであることを心がけるも、周囲は無意識のうちに彼女を事柄の中心に据えた。
この子は人の上に立つ器だ。
将来きっと大成する。
期待という名の檻の中、彼女は早くから理解していた。
上に立つ者は常に視られ、測られ、やがて孤独になる。
だからこそ彼女は上に立つ宿命から逃げ、ただのメイドであることを望んだ。
今生一切表舞台に立つことのない日陰者として、気楽に、自堕落に、自由に生きるつもりであった。
そう、あの日までは思っていた。
ある年、王と妃が病に倒れた。
後の王位に即位したのは一人娘のクリスティア姫。
まだ若く、政務も拙い彼女が王になることに、周囲は懸念の声を上げた。
しかしクリスティアは王たる才能を以てその声を黙らせた。
だが優秀すぎるが故に、臣下の中には不平不満を募らせる者も増えた。
傀儡にならず、愚直なまでに自分の正しさを主張するクリスティアは、老獪な臣下たちの反感を買ったのだ。
一メイドであるセレスにはどこ吹く風で、自分はいつもどおり怠けながら業務をこなせばいいという心持ちでいた。
しかし、
「……不器用な人」
日に日に神経をすり減らすクリスティアを見て、セレスはふと呟いた。
人の上に立とうとするあまり己を捨てる……それはかつて、嫌厭し逃げた自分の姿であった。
同時にそう成り得たかもしれない未来でもあった。
虚勢を張り必死に王であろうとする姿を見て、セレスは直感した。
(あのままではいつか壊れてしまいますね……)
見て見ぬふりをしなかったのは、役目と才能から目を背けた贖罪のつもりだったのだろうか、それは本人さえ知らぬところである。
「跪きなさい」
人の本質を見抜くセレスの資質……クリスティア相手には柳に吹く風のように飄々と、時折彼女以上に高圧的に、しかし甘えさせることを忘れない扱いが最も適していると判断した。
結果的に一国の女王を犬のように扱うことになったわけだが。
(思った以上に被虐趣味なのは予想外でしたが……まあ良しとしましょう)
自分は宿命から逃げた臆病者だ。
ならその分、陰ながら彼女を支えようと決めた。
「セレス様……何故あなたは、私のしてほしいことがわかるのですか……?」
「さぁ、どうしてでしょうね」
この世の誰よりも王たる星の下に生まれた王は、一人の王の陰で今日もいたずらな笑みを浮かべている。
百合短編でした。
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