繰り返す日々
「そうですよね。それこそ僕達のような職業なんかよりずっと患者さんの近くにいらっしゃいますし」
「色々悩むものよ。自分のせいかもしれないとか、責任追及されるんじゃないかとかさ。『ダブル』とか言うのがもっと昔にあったら……」
「そういう側面は確かにありますよね」
「安心だもの。だからさ、三つでも四つでもあったらいいのよ」
「ずいぶん極端ですね」
「ふん、どうせ複数あることの弊害が〜、とか命の価値の軽視が〜とか言うんでしょ」
「言いませんよ」
「そう。じゃあ休憩時間終わりだからおつかれ」
「あ、はい。今までお世話になりました」
「はいはい、元気でね」
繰り返す日々の中、山本さんと最後の挨拶をした頃ぐらいから、日常会話で『ダブル』に触れる人は減っていった。
探偵ものの小説で「それで、私を殺した犯人は?」というセリフや、テーマが「自分を殺した相手を許せるのか」という漫画を目にする事があった。とある曲の「あの子を救ったことに後悔はない たとえ命を失っても」「あの人が生きていてくれる だからありがとうと伝えられる」という歌詞がやや物議をかもしたが、配信停止の噂も一瞬だけで、テレビでも普通に流れている。
『ダブル』が当たり前の現象や文化の一種として扱われ出してきた。情報の隔絶された、山の中のテレビもない家で暮らしていた人が、死亡後に山を下りてお坊さんに「幽霊になったみたいなので成仏させてほしい」、などと懇願してきたという事件も起きてはいるが。




