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孵化

 昨日と同じ時間の今日。教室の中は、タマゴにヒビがはいる「ピキピキ」という音と、マジモンが生まれた時に発する薄ぼんやりとした光が満ちていた。それと伴にクラスメイト達の嬌声が飛び交っている。

 僕のタマゴはというと、少しずつヒビが入っていたが途中で何も起こらなくなった。しばらく眺めていたけれど何の変化もない。光を放って、マジモンになることもなければ、殻を破って中から出てくる気配すらなかった。哺乳類型のマジモンはタマゴが変形することで誕生し、鳥類や爬虫類はタマゴの殻を破って孵化するらしい。

 周りをみるとクラスメイト達のマジモンは続々と誕生していた。小林さんは欲しいと言っていたイヌのマジモンが生まれて満足そうにしていたし、なんと村上君のマジモンは黄色いサルだった。村上君の隣の席、藍川君は薄緑色の九官鳥に似たマジモンが生まれて、村上君のマジモンに「なんでやねん」といきなりツッコミを入れた。クラスメイトたちは笑うよりも藍川君のマジモンが喋ったことに驚き、遅れて笑いが起こった。

「あいつらマジモンで漫才する気だ」

「心から笑いとろうとしてるんだろ」

 村上君は変な動作をしたり、変な顔をする。それに連動して黄色のサル、つまり村上君のマジモンも同じ動作をして、同じような変顔をした。そして藍川君とそのマジモンが「なにしてんの」「うんこ見たいな顔になってるで」など言ってみんなを笑わせていた。うんこみたいな顔って…。僕たちは小学生はうんこ、ちんこ、の類に滅法弱い。村上くんは調子づいて、中腰になって腰をくねらせ巻き糞をする動作をした。「うんこは顔だけにしてくれや」といって鼻をつまむ藍川君と、そのマジモン。どうしようもない小学生の会話も、マジモンが横で真似をしているだけで変な面白さがあった。笹川先生まで腹を抱えて笑っていいる。

 そんな中、僕はひっそりと自分のタマゴを見ていた。まだ、何も変化がないのだ。

「辰野のタマゴ、ちょっとヒビが入っただけだな」

「うん」

 話しかけてきたのは隣の席の佐藤さんだ。彼女は運動神経が抜群で、笹川先生のファン。少し色黒で、髪の長い健康的な女子といった見た目をしていて、男勝りなところもある。馬鹿な宇佐美を気にかけてくれるから僕はいつも彼女に感謝している。でも性格が硬いというか、村上君のようなおちゃらけた男子があまり好きではないらしい。

 だからクラスの雰囲気につまらなくなって、隣の僕に話しかけてきたのだろう。そしてタマゴですら、うだつの上がらない僕を哀れんでいるのだろうか。あるいは馬鹿にしているのか。

「佐藤さんのは青い馬だね。尻尾は赤くて綺麗だ」

 僕はそのままの感想を言った。足の速い佐藤さんに馬のマジモンはピッタリにおもえたし、クールで口数の少ないところが青色に現れている。赤い尾は時に彼女の内面が熱く情熱的であることを意味するのかもしれない。彼女の体育にかける情熱を僕は思った。

「強いマジモンが欲しかったんだけどな」

 彼女は女子だけれど、カッコいいという言葉が良く似合う人だ。だから「強いマジモンが欲しい」と言っても全く変に聞こえなかった。

「馬だって強いのはいるでしょ? そういう風に育てたらいいよ」

 つまり、そういう心の成長をすればいいということでもある。

「なあ、辰野。宇佐美のマジモン見えるか?」

「うん」

 さっきから気づいてはいた。宇佐美は自分のマジモンをみてものすごくショックを受けているようだった。それは宇佐美自身が望んだウサギだった。ただ異様だったのが、そのウサギは真っ黒だった。昨日神社で見た、女の子らしいピンクではなかった。黒々とし、深い闇のような色。目や鼻がどこにあるかすらも分からない。ただそのシルエットは確かにウサギだ。

「あれはウサギだよな?」

 ためらいがちに佐藤さんは聞いてきた。

「たぶん」


 僕の位置からは星川君のマジモンは見えなかった。ちょうど背で隠れてしまうのだ。きっと望み通りのマジモンになっていると思う。それとも、昨日の神社で見た…。いや、親友を疑うのはやめよう。


 パンパン。


 笹川先生が大きな音を出して手を叩いた。

「みんな自分のマジモンが生まれたか? まだ生まれてないって人はいるか?」

 僕は恐る恐る手を上げた。

「なんだ、辰野」

 先生は僕の席に近づき、申し訳程度にヒビが入ったタマゴを見ると眉を上げた。内心驚いていたようだが、生徒に気づかれないよう堪えたように見えた。顎に手を当てて伸びかけた髭を撫でる。困ったときの笹川先生の癖だった。

「不良品ですか?」

 このタマゴが。あるいは、この僕が。

 先生は僕の発言にきょとんとしていた。しばらくして僕の言いたいことを文脈で察したらしい。

「いや、タマゴ自体に不良品はないはずだ。これまで聞いたことがない」

 ということは僕が不良品なのだ。

 この時だった。タマゴがわずかにゆれ、パリパリ音がした。左右の端と下から手足が出てきた。そして上部に小さな穴が二つ開き、そこから目の様なものが覗いている。

 クラスは騒然となった。ヒソヒソ声で僕のマジモンについてあれこれ言う奴らもいた。

「やっぱりダメなやつはマジモンも残念」

「あれはないわ。自分だったら死んでる」

「兄さんに才能吸い取られたんじゃねーか」

 僕はずっと俯いていた。悲しかったのか、切なかったのか、悔しかったのか。いや、そのどれでもない。何も感じなかった。兄さんと僕を比べているクラスメイトも少なくない。あんな優秀な兄を持つと弟は何かと大変だ。自分の感情に一つ一つ反応していたらやりきれない。僕には僕にできることがある。やるべきことができたのだ。

「辰野、放課後職員室にきなさい」

「分かりました」

 僕は小さく答えた。まさか笹川先生に気づかれたということはないだろうけど、気分が重くなった。


「せんせい」

 舌足らずな声で手を上げたのは宇佐美だった。

「なんだ宇佐美?」

 笹川先生は宇佐美に近づいて、黒いウサギを見た。それを見た先生は苦い表情をした、といえばいいだろうか。生徒達が騒ぎすぎて収集がつかなくなった時に見せる表情に近かった。

「ウサのマジモン、変。こんなの欲しくない。違うのに変えて」

 宇佐美は至って真剣な表情だ。目を少しうるませて、今にも泣き出しそうだった。

「宇佐美。このマジモンは宇佐美だけのマジモンだ。変えられないよ」

 笹川先生は小さな子に言い聞かせるように言った。時々先生は宇佐美にこういう態度をとる。彼女がとくに勉強が遅れていて、体も小さいからだろう。なんとなく特別に扱われている感じがした。それは僕や星川君も宇佐美のことは特別に思っていたけれど、先生のそれは少し「可哀相な子」という特別な扱いだと思う。

「やだ。こんなのいやだよ」

 唇を結んで俯いた宇佐美。

「そうか。宇佐美も放課後、職員室にきなさい」

 諦めて席に着いた宇佐美を見て、クスクスという笑いがあちこちで聞こえた。


 僕と宇佐美はクラスでもダメな生徒、として認識されている。二人とも家が近所ということもあり、幼馴染といってもいい仲だ。だからダメカップル、バカ良し(仲良しのもじり)、などと言われていた。それでも僕らは星川君とも仲が良かった為に、クラスから疎外されることはなかった。佐藤さんも宇佐美を気にかけてくれているし、お陰で宇佐美自身が女子の中で孤立することもない。ただ、僕と宇佐美をからかってバカにする人は多かったし、それは他のクラスや上級生に特に多かった。

 あんまり言いたくはないけれど、星川君は宇佐美のことが好きなのだ。彼は勉強についていけない宇佐美に、丁寧に根気よく教えてくれるし、宇佐美の的外れな言動に決して笑ったりしない。僕のいないところで星川君は宇佐美と話したがることも多い。

「宇佐美が好きなんだ」と星川君は僕に言ったことがある。僕は「どうして?」と聞いた。しばらく星川君は考えて、「守ってあげたくなるから、かな…。あと可愛いし」そう言った星川君は少し照れていた。ただ、星川君は僕らの関係を知っていて、それでも「宇佐美が好きだ」と言ったのだ。それは僕に対して、叶わない想いであっても宇佐美を好きでいさせてくれ、という許可をとったに過ぎない。僕は複雑な気持ちになった。僕は星川君も宇佐美も好きだから。


 五限目の授業はマジモンが生まれただけで、あっという間に時間が過ぎた。六限目の授業は引き続いて、マジモンの授業だった。そこで笹川先生は、マジモンの種類と性格について説明した。クラスメイトたちは生まれたばかりのマジモンと自分の性格を比べて、「確かにそうだ」という人も入れば、「ちょっと違うかも」という人もいた。それに関しては、マジモンの色が性格と複雑に関係していると先生は言った。

 僕はクラスメイトのマジモンとその性格を机のディスプレイに表示させて、なるほど、なるほど、と感心していた。僕が思っていたのとほぼ変わらない結果だったし、ここに色の要素を組み合わせると、マジモンは持ち主の性格を的確に現しているように思えた。確かにイマジナリー・モンスターとはその所有者の想像力によって生み出され、それをよく現しているのだと改めて実感した。だったら僕のマジモンは…。

 授業が終わり、ホームルームを終えると、村上君と星川君が真っ先に僕の席にやってきた。

「なんや、マジモンの種類と性格は複雑でわからん」

 村上君はお手上げのポーズをして、それを真似して黄色のサルは両手を挙げた。

「たっつん、あんま気落とさんと、元気だしな。直ぐ生まれるとおもうわ」

「そうだといいな。僕はさっきの授業分かりやすかったけどな。マジモンって面白いね」

「僕には難しいよ。でもマジモンの特徴と、僕らの性格を理解するのは、とっても重要らしいよ。塾の先生も言ってた。たっつんはマジモンを見るのは得意なはずだよ。誰よりも人の性格をみたり、人間関係を調整するのが上手いから」

 星川くんの言ったそれは、絵を描く以外で僕に許された少ない長所かもしれない。チキンな性格故に、人間観察が染み付いていたし、人の性格をあれこれ考えることは僕の悪癖とも言える。そしてどこかで険悪なムードやいざこざが起こると、それとなく解決の提案をする。場合によってはとことん喧嘩をさせることで解決することもあり、見極めが大切だけれど、みんなの性格を知っていればそんなに難しいことではない。僕にはこれが当たり前になっていた。

「ところで、星川君のマジモンは何? 僕の位置からは見えなかったよ」

 星川君の左手の袖から、白い何かが出てきた。それは右手に移り、僕らの目の前に現れた。

「これ。僕はヘビなんだ」

 星川君は言った。

 僕は唖然とした。しばらくは口を開けて何も言えなかったし、さっきまで忘れていた昨日の記憶を無意識に、思い出してしまった。

「ねえ、たっつん。このマジモンまだ名前を決めてないんだ。たっつんにつけて欲しい」

「え、僕が? なんで?」

 反射的に答えていた。なぜ優秀な星川君のマジモンの名前を僕が決めることができるのか?

「本で読んだんだ。マジモンの名前は自分で決めるよりも、一番信頼できる人に決めてもらうのがいいって」

 尚更、なぜ僕なんだ? でもここで否定すると星川君の僕に対する好意を台無しにしてしまう。

 うーん。

 星川君のマジモンをみた。

 白いヘビに、三色のストライプ。青と赤と黄色。見れば見るほど、ヘボ神社で見たヘビにそっくりじゃないか。あのヘビと星川君のマジモンは関係があるのだろうか?


「トリコってどうかな?」

 僕はしばらく考えてから、星川君の右手に巻きつたヘビをみて言った。

「うん。すごくいい」

 星川君は笑って言った。

「ちょっと待ってや。ほっしゃんのマジモンはヘビやで。トリやない。鳥子って、へんやないか?」

 村上君はトリコの真意が分からなかったらしい。

「むっくん。トリコてのはトリコロールっていう三原色をあらわすEUフランス地区の言葉をもじっているんだよ。ほら、僕のマジモンには赤と青と黄色があるだろ?」

 へー、と感心した村上君。横でマジモンのサルが手を打った。仕草がいちいち可愛い。生まれたてで、小学校五、六年生のマジモンはまだ小さく、片手で抱きあげることができるくらいの大きさしかない。しかし、人によってはその心の成長具合によって小学生でも大きなマジモンになることもある。

「これで契約が…」

 星川君は小声で何か言った。

「ほっしゃん、何か言ったか?」

「え、いや、なんでもないよ。ところでむっくんのマジモンは名前決めたの?」

 村上君は顎に拳を当てて考え込んだ。周りのクラスメイト達はそそくさと帰り支度をしている。窓からは春風が吹き込んできた。

「そや、クラウンにしよう。王冠や。笑いで王冠をもらえるくらいに、この世界を平和にしたる」

「すごいね。村上君ならできるよ。笑いの王様」

「むっくんが笑いで世界を牛耳る日は近いな」

 ガクっとずっこけた村上君。

「ちゃうで。ちゃうちゃう。ここは道化のクラウンじゃないのかよって突っ込むところやで。クラウンは道化って意味もあるやろ。なんでフランスのトリコロールを知ってて、クラウンの意味知らんの? たっつんって不思議やわ」

 村上君は、実のところ頭がいい。そうでなくてはサルのマジモンが生まれないだろうし、そもそも人を笑わせられること自体が、頭のいい人であることが多い。天然でやってのける人もいるが。


 宇佐美が僕らに近づいてきた。目元が少し赤くはれて、さっきまで泣いていたのだと分かった。

「たっつん。一緒に職員室いこ」

「分かった。行こう」

 僕は立ち上がって、鞄を背負った。右手に手足の生えたタマゴを持つ。少し暖かい。僕のマジモンは見上げるようにしてこちらをじっと見ていた。

「今日も一緒に帰れるだろ? 玄関で待ってるよ」

 星川君と村上君は、僕と宇佐美にそう言い残して教室を後にした。


 左手に巻いた携帯電話に着信がはいった。ディスプレイには兄の顔が表示され、骨電導型のシールイヤホンから兄の声で「急ぎの用だ、至急出ろ。急ぎの用だ、至急出ろ」と繰り返し伝えてくる。携帯電話に着信があると、電話をかけた相手が短いメッセージを付け加えて、それが相手側の着信音となる。登録した人物の音声を再現して、コンピュータが合成した音声が着信音となり、最近ではほぼ本人の声色に近似していた。通話ボタンを押すと、兄のホログラムが左手に表示された。

「兄さんから電話だ。ちょっと待ってて」

 僕は宇佐美にそう言って、電話に出た。

「何、兄さん?」

『タマゴは生まれたか?』

「うーん。生まれなかった。なんて言ったらいいのかな」

 兄は僕のマジモンが何になったのか知りたかったのだろうか。でも、こんなことで電話をかけてくるほど僕達兄弟は仲が良いわけではない。

『生まれなかった? どういうことだよ?』

「タマゴのまんまなんだよ。でもちょっと生まれたのかも」

『は、全然意味が分からないぞ。生まれたのか、生まれてないのか、どっちなんだよ』

 僕は困った。

「タマゴに手足が生えたんだ。それだけなんだよ。これ」

 僕は右腕にタマゴを抱えた。これで兄の方ではタマゴがホログラムに表示されるはずだ。

『遅滞発生か。しかし手足だけ発現した。だとするとやっぱりそうか…』

 兄は独り言をぶつぶつと言った。制服を着たままだからたぶん学校から電話しているはずだ。

「何? 兄さんどいうこと?」

『気にするな。直ぐに家に帰れるか?』

「これから職員室に行く。笹川先生に呼ばれているんだ。こんなマジモンが生まれたから」

 兄のホログラムはしかめつらをした。

『笹川は龍介の担任だったな? 何か怪しんでいたか? もしくは、他の先生がおまえのマジモンを見に来たりしたか?』

「え、先生が怪しむ? そんなことはない気がしたけど。他の先生は見に来てないよ」

『そうか。今日はなるべく早く帰って来い。おまえに話すことがある』

「分かった。じゃあ」

 電話は切れた。兄が何かを疑っている、あるいは心配しているのは明らかだった。きっと家に帰ったら話してくれるのだろう。


「宇佐美、お待たせ。行こうか」

 僕は宇佐美に向き直った。その瞬間、ぞっと背筋に悪寒がはしった。宇佐美は自分のマジモンであるウサギの耳を持って、ぶらりと床に引きずっていたのだ。

「うん、行こう、たっつん。今のお兄さん?」

 宇佐美はいつもと変わらない口調で言った。その残酷な所業とは裏腹に。

「うん。なんか今日は早く帰って来いって」

「そっか。きっとさ、たっつんのマジモンのお祝いするんだよ。生まれておめでと、ってさ」 

 こんなタマゴのマジモンにお祝いできないだろう。

「そうかな」

「そうだよ。きっと、そう。ねえ、今日もウサのお母さん遅いんだ。たっつんの家行ってもいいでしょ?」

「ああ。いちいち聞かなくていいよ。もうこっちの家に住めばいいのに」

「ウサもそうしたい。今日はお兄さんに会えるね。ウサ嬉しい」

 僕らは廊下を歩いていた。随分教室で油を売っていたから、他に生徒は誰もいなかった。いなくて良かったと思う。宇佐美は自分のマジモンの耳を持って、引きずり、振り回して壁に打ち付けていた。僕はマジモンをこんな風に扱う人を初めて見た。宇佐美のマジモンはぐったりとして一切動かなかった。まるで宇佐美は本物の黒いウサギの死体を持っているみたいだった。

「宇佐美、それ可哀相じゃない?」

「どれ?」といって辺りを見回した宇佐美。

「それ」

 僕は宇佐美の右手にあるマジモンを指差した。

 宇佐美は耳を持ったウサギを顔の高さまで上げて、笑った。

「死んじゃったかな? そしたら先生は取り替えてくれるよね。ウサはこんなのいやなんだよ。嫌いなんだよ。死んじゃえばいいんだ」

 僕らは階段を下りていた。宇佐美のマジモンは階段のヘリに全身を打ち付けて引きずられていた。

 宇佐美が自分のマジモンに対してこういう態度をとる理由を僕は知っている。宇佐美は自分のことを受け入れられない。違う誰かと自分を取り替えて欲しいと思っている。死んでしまってもいいと思っている。マジモンはその所有者の心を映す鏡みたいなものだ。マジモンを見て抱いた感情は、そのまま自分自身に抱いている感情と同じなのだ。

 僕は宇佐美の言葉を否定しなかった。そういう宇佐美を受け入れようと思ったのはもう二年も前のことだ。

「死んだら僕は悲しいよ」 

 僕は宇佐美に向けて言った。


 僕たちは職員室に着いた。戸を開けて入ると、何人かの先生がいて僕らを見たが、直ぐに自分の仕事に取り掛かった。職員室は物が少ない殺風景な場所だが、先生達が仕事をしていると、デスク上に様々なファイルが漂っていて、宙に浮いた電子ファイルが所在を失ってあちこちに散らばっている。僕と宇佐美は笹川先生のデスクまでゆっくりと歩いた。

「おう。来たか。じゃあ、篠宮先生お願いします」

「辰野君、宇佐美さん、ちょっと先生とお話しましょう。君達のマジモンについて話があるのよ」

 篠宮先生は六組の担任をしている、美人な先生だ。話し方も優しくて柔らかく、僕は少しうっとりしてしまう。おっぱいも大きい。僕はかがみこんだ篠宮先生のおっぱいをみていると、宇佐美がマジモンで僕を殴ってきた。ドカッとわき腹に入って、僕は悶絶した。

「談話室に行きましょうか」

 笹川先生は篠宮先生を見て言った。僕以上に篠宮先生のおっぱいを見ている。

「そうですね」

 篠宮先生は長いストレートヘアをサラリと振りかざして、前髪をかきあげた。サラサラと流れる髪からはいい香りがした。子どもにはない大人の女性の魅力だと思った。


 僕たちは談話室に入ると、柔らかいソファーに座るように言われた。篠宮先生は宇佐美のマジモンに対する扱いに気づいたらしく、じっと宇佐美を見て言った。

「宇佐美さん。その黒いウサギさんはあなたのマジモンよね。そんな持ち方をしてはいけないわ」

 耳を待たれて、だらりと横たえている黒いウサギ。

「違うよ、先生。これはウサのマジモンじゃないの」

 篠宮先生は目を見開いた。驚いたのだろう。

「どうして宇佐美さんのマジモンじゃないと思うのかしら?」

 僕と笹川先生は、彼女達の隣でおとなしく座っていた。笹川先生としてはここで、宇佐美をなだめてくれないかと期待しているようにもみえる。

「可愛くないから…。こんな真っ黒で可愛くないから。ウサはピンクのうさちゃんが良かったの。それか本当のお父さんがつけてくれた、雪って名前みたいに白いウサちゃんが欲しかった」

 宇佐美の下の名前は雪だ。そして彼女は父親が小さいときに病気で亡くなっている。今は母親が再婚して継父と弟の四人家族だった。

「黒いと可愛くないのかしら?」

「うん。大人みたいに汚いんだよ。黒は汚いんだ。怖いんだもん」

 宇佐美は目に涙をいっぱいに貯めて唇を結んだ。溜まった涙が溢れて頬を伝う。僕は宇佐美の涙をハンカチで拭いてあげた。僕は彼女が泣いてしまう理由を知っている。

「笹川先生。今日の夜、空いてるかしら?」

 突然声をかけられた笹川先生は、鳩が豆鉄砲をくらったような表情になり、しばらくしてニヤけだした。

「いや、その、なんて言うか、デートのお誘いですか? 困ったな、こんな所で」

 バサッと篠宮先生のマジモンであるブラオが羽を広げ、居住まいを直した。

「笹川よー、空気読めないにも程があるってもんだ。おめー童貞こじらせてるだろ? 生涯チェリー貫ぬいて、魔法使いになりたいか?」

 ドウテイ? チェリー? よく分からないけれど、笹川先生を褒めていないことは確かだった。この状況で篠宮先生がデートに誘うわけはないし、空気が読めないにも程があると僕も同感だった。

「今のは私の本心に限りなく一致しているわ。今日の夜は宇佐美さんの家に家庭訪問よ」

「え、でも家庭訪問はつい先日終えたばかりですよ」

 笹川先生の鈍さには、小学五年の自分ですらあきれてしまう。

「まあ、いいわ。後で打ち合わせして、それから宇佐美さんの家に行きます。有無は言わせません」

 頑として言う篠宮先生。頼もしく思った。僕と宇佐美はもっと早くに篠宮先生に相談していれば良かったのかもしれない。周りの大人は僕達のことを全く信用してはくれなかったのだ。

「はあ」

 気のない返事を笹川先生は返した。僕らの担任はあまりに頼りなかった。ダメな僕と宇佐美にとって信頼に足る先生ではなかったし、力にもなってくれなかったのだ。

「ということで、宇佐美さん今日の夜、お宅に伺います」

 こくりと頷いた宇佐美。

「いや、でも親御さんの都合をお伺いしなくては…」

「行政権限が発動されるから心配には及ばないわ。場合によっては一時保護もありえるの。かつての児相が持っていた権限は現在の学校に譲渡されているのよ。しかも教師にね。私にはその権限の行使が許されているのよ、立場上」

 篠宮先生はわざと難しい言葉で僕らに分からないような話方をしているようだった。

「そうなんですか」

 いまいち要領を得ない笹川先生。


「二人とも。どうしてここに呼ばれたか分かるかな? 宇佐美さんは今のお話の通りなんだけど。辰野君、君はどう?」

 僕は左手に持っているタマゴを見た。今は手足を引っ込めて、目だけをキョロキョロとさせている僕のタマゴ。

「生まれなかったから、僕のタマゴは」

「どうしてそうなったのか、自分では分かる?」

 ひどい質問だと思った。

「僕がダメな生徒だから。心に問題があるからこうなったんだと思います。僕も宇佐美も」

 篠宮先生は僕がダメな生徒であると、自覚を持たせたいのだろうか? もう十分に持っているというのに。いやというほど。クラスの誰かが言っていたように、僕は兄に才能をすべて持っていかれたのかもしれない。

「なるほど。君は自分のことがダメな生徒だと思っているんだ。それはどうして?」

 篠宮先生は僕に対しては厳しい。

「答えなくちゃいけないんですか? 先生は僕に酷いことを言わせようとしている」

「篠宮先生。私もそう思います。辰野は決して優秀な生徒ではない。ましてやその逆だ。彼に自分のことを口に出させるのは酷だと思います」

「担任のあなたが、それじゃ辰野君が自分の長所に気づけないはずだわ。私はね、辰野君には誰にもない大きな長所があると思っています」

「絵を描くことは好きです。兄よりも上手いです」

 申し訳程度に僕は言った。たいした才能じゃないと思った。それを聞いて篠宮先生は笑った。とても優しそうな表情をした。

「そうなの、絵が上手いの。知らなかったわ。今度見せて欲しいわ」

「他に得意なことはないです」

 篠宮先生は一拍置いて僕に質問をした。

「クラスで犬のマジモンを持っている人は誰?」

 僕は篠宮先生の質問の意図が分からなかった。僕は知っていることを答えた。さっき見ていたから答えるのは簡単だった。

「小林さん。田村君。長橋さん。沼田君。浜田君。肥後さん。堀さん。真島さん。矢島君。湯川君、です」

「犬のマジモンをもっている人たちの性格を言える?」

「小林さんは、正義感が強くて真っ直ぐな性格をしています。誰にでも平等に接しています」

「彼女のマジモンの色と性格の根拠は?」

「冷静に物事を見る青と、真っ直ぐで情熱的な赤は、彼女の熱心さにでていると思います」

「田村君は?」

「彼は何事にも受身で、自分からは行動しません。非常に優柔不断なところがあるので、それが灰色のマジモンに出ていると思います。ですが、良いことと悪いことの両方を知っているので、芯が通っている性格です。灰色以外に色が混じっていないのはそのためじゃないかと思っています」

「長橋さんは?」

「仲良しのグループでいつも行動していますが、彼女はその中でもユーモアがあって、ムードメーカーです。すこし羽目をはずしすぎることもありますが、それがグループ内にいる高圧的なメンバーとの緊張を和らげています。温和というよりは、積極的にグループの中で盛り上げ役をかっている感じがします」

「じゃあ、矢島君は?」

「彼は勇敢だけども、臆病な性格です。慎重だとも言えます。自分からはあまり行動をおこしませんが、一度決めたことや、自分の役割はきちっとこなします。些細なことで喧嘩をしますが、それは自分のプライドや、自分の友人が傷ついた時に限られます。白黒ブチのブルドックは彼の性格に似ていると思います」

 篠宮先生の表情が真剣になった。僕はもうやめて欲しかったけれど。

「じゃあ、辰野君、クラスメイトの仲の良いグループ編成とその性格を教えてくれる。ざっとでいいから」

「三十人のクラスの中で女子は主に四グループに分かれます」

「ちょっと待って、女子から言おうと思ったのは?」

「女子のほうがグループに分けやすいというか、固まっている感じがするからです」

「いいわ。続けて」

「一番大きなグループは肥後さんと、真田さんのグループです。八人が主なメンバーですが、すこし入れ替わりがあります。それに人数が多いので、実質は四人、四人で遊んでいることも多いみたいです。中心的なのが犬のマジモンの肥後さんと、猫のマジモンの真田さんです。この二人は微妙な距離感ですが、お互いに好意を持っているから近づいています。それを取り巻くようにメンバーが変わります。僕がみる限り、まとめ役が上手な肥後さん、カリスマ的に引っ張っていく真田さんという感じです。あまり結びつきが強い人同士がいないのも特徴で、とても柔軟なグループとも言えます」

 僕はクラスの女の子達の会話や、性格を繋ぎ合わせて、普段思っていることを話した。話してるうちに、そういえば、これもそうだなと思えることも少し盛り込んで、自分自身でも少し発見があった。

「うん、じゃあ次のグループは?」

「小林さんのグループです。三人が固定のメンバーで他に堀さんと、緑川さんがいます。お嬢さん仲間といっていいと思います。親同士のつながりもあるようですし、犬型の学習アシスタントロボが家にあるような環境で育った人達で集まっています。小林さんも堀さんも犬ですが、緑川さんは鳥のマジモンを持っています。みな頭が良い人たちです。

 次のグループは、グループというか、あまり集団で行動しない女子達。宇佐美もそうだし、佐藤さんや真島さん、他にも何人かいますが、特定のグループで遊ぶことはあまりしていないようです。かといってクラスで孤立しているわけでもなくて、どちらかというと仲の良い二人だけで行動している人が多いです。宇佐美の場合は僕や星川君と仲がいいのです。男子と遊んでいる女子は殆んどこの内訳に入ります。あとは他のクラスに仲のいい友達がいるとか」

 篠宮先生は「へー」といって感心したようだ。僕は当たり前のことを言っただけだから、先生が感心した素振りをしているのだと思った。大人は時々子どもに対して過剰に反応して褒めることがある。僕はそれをよく知っていた。

「じゃあ、辰野君。男の子のグループは?」

「笹川先生に聞けばいいじゃないですか。担任なんだから僕よりもクラスのことは詳しいはずですよ」

 篠宮先生が何を僕に聞きたいのか全く分からなかったが、僕達のクラスの人間関係を知りたいのならば、笹川先生に聞いたほうが早いはずだ。大人なのだし、僕よりもずっと分かっていると思う。

「私は辰野君に聞きたいの」

「そうですか。じゃあ、男子のグループですが、大きく分けると二つです。岬の西団地グループと、岬の東団地グループです。男子は特に人間関係に縛られずに、住んでいる地区で遊ぶ相手を決めています。家が近所で夕暮れまで遊べる相手を自然と選ぶし、登下校も一緒だったり、そういうことが友人の条件になります。

 岬の東グループはガキ大将気質の鬼原君と、柔和で優しい河野君が中心的な人物です。雨の日なんかはこの二人の家に分かれてバーチャルリアリティゲームなんかをしているみたいです。鬼原君のマジモンは全体的に白くて所々に赤のブチ模様がありました。これは鬼原君の怒りやすい性格をブチの赤と猪であることが示していますが、白は彼が繊細で感じやすい性格をしていることの現れだと思います。河野君は牛のマジモンで柔和な性格を現していますが、その色は深い青でした。彼は見た目の優しさの割りに、冷静ですこし薄情なところがあります…

 もういいですか?」

「どうせなら最後まで聞きたいな」

 篠宮先生は椅子の淵に頬杖をついて甘い声で言った。隣に座っている笹川先生は僕が喋っている間、ずっと下を向いて俯いていた。談話室の中には小さな動物の人形がたくさん並べられている棚がある。その脇には砂が敷かれた平べったいテーブルが据えられている。僕はなんとなく、棚に並べられた動物達をクラスメイトに当てはめて見ていた。見たこともない動物がいくつかあり、僕はその動物がなんという種類なのかとても気になった。マジモンでは見たことがない種類だ。僕が知らないだけかもしれない。

「僕の住んでいるところは岬の西団地です。クラスの男子で岬の西に住んでいるのは八人。僕の他に、星川君、村上君。これは僕のグループです。宇佐美も常に遊ぶ仲間です。たまに藍川君と佐藤さんが遊びにきます。藍川君は岬の東ですが。岬の西を二つに分けると星川君のグループと、田村君のグループに分けられます。田村君は犬のマジモンで、特に行動力があるのが特徴的です。そう、田村くんは笹川先生と同じ犬種のマジモンなので、とても人好きする性格で活発です。サッカーや野球をよくしています。僕らのグループもよく一緒に遊んでいます。ただ、その中の征野君は、意地悪な性格をしていて、青と黒の混ざった猫のマジモンが征野君の性格を現しています。僕は征野君にいじわるをされることがある。でもその度に星川君と田村君が庇ってくれます」

「ウサも征野君は苦手だよ」

 宇佐美はソファーに乗せた足の膝に顔を埋めながら言った。

「そうだったの。聞いてたかしら、笹川先生?」

「あ、ええ」

 笹川先生は急に話しかけられて驚いたように答えた。

「辰野、お前いじめられてるのか? 先生が征野に話そうか?」

「いじめってほどのことじゃないです。先生が入るとかえってややこしくなるから大丈夫です」

 少し冷たい言い方かもしれないが、たぶん笹川先生が征野君に話したところで、一方的に注意したり怒ったりするだけだから効果は全くないだろう。逆に、征野君を怒らせて、僕への矛先が強くなるだけだ。

「まあ、辰野君ならそのへんは大丈夫よ。で、笹川先生。今の話を聞いても、彼がダメな生徒だと思います?」

 笹川先生は俯いて首を振った。

「辰野、勉強ができないふりをしていたのか?」

「それは違うわ、笹川先生。辰野君の成績が悪いことと、彼の才能は関係がない」

 僕は勉強ができない。決してそんなふりなどしていない。胸を張って言える。しかし、篠宮先生の言っている僕の才能とはなんだろう。

「僕に才能なんてありませんよ。買い被らないでください」

「まだ気づいていないのね。いいわ。通常のタイミングで生まれずにタマゴのままだった個体はね、生徒に精神的な問題がある場合が殆んどなの。でも、ある種のマジモンに限って、孵化のタイミングが遅れる種類がある。あなたはどちらかしら?」

 僕の目をじっと見て篠宮先生は言った。

「僕は…きっと精神に問題がある」

 先生から目をそらして答えた。

「まだ分からないわ。孵化には時間がかかるかもしれない。今日はもう疲れたでしょうから、また明日話しましょう。それから、宇佐美さん。今日お伺いするけれど、お母さんとお父さんは何時頃帰ってくる?」

 宇佐美は相変わらずブスっとしている。

「お母さんは遅くなる。八時か九時に帰ってくるよ。あの人は今も家にいると思う」あの人とは宇佐美の父親のことだ。

「分かった。じゃあ八時位にお家に伺います。そうそう、宇佐美さん。マジモンはね、あなた自身の心なのよ。取り替えることはできない。あなたがマジモンを大切できないのは、あなた自身が自分を大切にできないからなの。だからね、そのウサギさんを大切にしてあげて」

 僕はヒヤッとした。篠宮先生の今の発言は明らかに宇佐美の地雷を踏みつけた。失言といってもいいレベルに宇佐美の心を蹂躙した。宇佐美の性格や状態を熟知している僕だから分かることなのだが。

 宇佐美は鞄からペンケースを取り出した。今の小学校では筆記具を殆んど必用としないが、字を書くという行為自体が国語と体育で取り入れられている。太目のサインペンだった。太いといっても先は細く、字を書く為に作られた道具だ。宇佐美はこれを自分のマジモンの股間に突き刺した。これでもかと強くねじ込むように。何度も何度も。僕や笹川先生、篠宮先生は宇佐美の突然の奇行に目を見開いた。

「私の心がこんなに汚いなら、この子は私と同じになればいいの。こう。こう。こう。こう。痛いでしょ」

 笹川先生と篠宮先生は慌てて宇佐美を止めにかかった。宇佐美は後ろから抱きかかえられ、マジモンから剥がされ、脱力してペンを握っていた。

「宇佐美さん、あなた…」

 震える声で言った篠宮先生の裾を僕は引っ張った。先生が泳ぐ目で僕を見ると、僕は頷いた。


 宇佐美は、三年生のとき母親が再婚した。再婚相手は年下の実業家で、見るからに好印象な人物だった。パリッとしたスーツとシャツに、短く刈りそろえられた頭、知的なメガネ。その奥には柔和な目元が常に笑っているような人物だ。

 新しい父親と同居してまもなく、宇佐美はその父親から嫌がらせを受けるようになった。性的なものだった。最初は父親の陰部を触るように言われ、宇佐美は訳も分からずにそれに応じていた。次第に要求はエスカレートしていった。僕は宇佐美からその一部始終を聞かされていた。当時はこれがどういうことなのか僕にも分からなかった。大人と子どもの遊びなのだろうかと思ったくらいだった。宇佐美は裸にされ、父親も裸になったらしい。憤り立つ父親の陰部は、宇佐美の陰部に差し込まれた。宇佐美は痛みに絶叫した。泣き叫んだ。助けをもとめた。そんな宇佐美を父親は殴り、黙らせた。これらの行為は母親の不在を狙って繰り返された。

 僕は宇佐美が酷く心を痛めていることが分かったし、父親の行為が許されるものでないことを知った。当初は周囲の大人に訴えた。宇佐美本人はとても大人に言えるような状態でなかったから、僕が動いた。自分の母親、宇佐美の母親、学校の先生。しかし、そのすべての人たちは僕が嘘を言っていると思ったらしく、あるいは自分達に目を向けてもらいたいが故の狂言だとはねつけた。宇佐美の新しい父は、実業家で地域でも有名な人格者だと言われていたことも、僕の発言の信憑性を低くしたと思う。それに、僕や宇佐美はパッとしない、成績も悪い生徒だから、大人がないがしろにするのが常だった。

 だから僕は、宇佐美がなるべく一人で家にいないようにした。平日は宇佐美の母が帰ってくるまで僕の家で遊び、休日は星川君や村上君と遊び、夕方は僕の家で時間を過ごした。宇佐美の父親と宇佐美本人が二人きりになる状況を避けるためだ。それでも非道な父親は、隙をみて宇佐美をレイプした。最近では母親が家にいても、宇佐美の寝込みを襲うことがある。

 僕が兄さんの世界選手権で週末にいなかったとき、宇佐美は嫌な思いをしていたかもしれない。昨日、僕を責めてきた。僕も心が痛む。宇佐美の新しい父親のことは絶対に許せない。僕はあいつを殺してやりたいと思うくらい憎んでいる自分がいることに驚いた。でもそれは、僕にとって当然の感情だとも思った。何故なら、僕と宇佐美は許婚の関係にあるからだ。


「辰野君」

 篠宮先生は僕に言って、意味ありげに大きく一つ頷いた。

「はい」

「今のところ、予定通りよ」

 耳元で僕にだけ聞こえる声で先生は言った。僕はまた「はい」と小さく答えた。


 僕達は談話室を出て、校舎を後にした。星川君と村上君はとっくに帰ってしまったかもしれないと思っていたが、校庭に備え付けられた遊具で遊んでいた。ブランコに揺られて靴飛ばしをしている星川君と村上君。日が傾きかけて、赤色の景色に、長くなり始めた影法師がゆらゆらと揺れている。僕らの背後では篠宮先生と笹川先生が心配そうな顔でこちらを見ていた。もう校舎の中は薄暗かった。

 僕らに気づいた星川君と村上君は走ってこちらに向かってくる。僕は先生たちに「さようなら」を言って、宇佐美の手を引いて星川君たちの元に向かう。

「遅かったね。心配したよ。何か先生たちに言われたの?」

 星川くんは僕と宇佐美を交互に見て言った。宇佐美の目元が少し腫れていることに彼なら気づくはずだ。宇佐美はあの後、わんわんと泣いた。篠宮先生が宇佐美を抱きしめて背中をポンポンと叩いた。先生はすべてを悟ったように、宇佐美を労わった。

「マジモンのことか? たっつんのマジモンまだ生まれとらんし」

 村上君は僕のマジモンのことを心配してくれているのだろうか。

「まだ、生まれていないけど、たぶん大丈夫。僕の心がしっかりしていればきっと生まれるみたい」

 僕に才能なんかない。きっと篠宮先生は、僕の心に問題があって、呼び出したに違いない。才能なんて言葉をつかってごまかしていたけれど、僕にもっとしっかりした心を持つように言いたかったのだ。

「宇佐美のマジモンは取り替えてもらえるの?」

 星川君は少し悲しそうな顔をして宇佐美に聞いた。宇佐美はギュッと口を結んで、下を向いた。変わりに僕が首を横にふった。

「そうか…。でもマジモンの色は変わるから。これから楽しいことたくさんして、いっぱい笑おう。そしたら宇佐美のマジモンはピンクになれるよ」

 星川君は分かっているんだ。宇佐美が傷ついていることを。だから真っ黒なウサギが生まれたことを。僕たちはずっと一緒だったから、楽しいことも辛いことも少しづつ分け合ってきた。ただ、宇佐美の家のことは僕と宇佐美の秘密だった。それでもなんとなく星川君は気づいていたはずだ。宇佐美が暗がりを異常に怖がること。そのような時に、僕にすがりつくようにしていること。そして、小学三年生以来全く成長していない宇佐美の体と心。

「大丈夫や、たっつんも宇佐美も。俺だってこんな不細工でも生きとる。たっつんは男前やし、宇佐美はべっぴんさんや。俺のマジモン見てみい。俺に似て不細工な顔やけど、面白可笑しくいきとる。俺がたっつんも、宇佐美も笑わしたるから、大丈夫や」

 そう言った村上君は思いっきり変顔をした。鼻の穴を広げて、唇は剥きあがり、目は中心に拠って、耳はヒクヒクと動いている。顔面の筋肉がどういう構造になっているのだろう。可笑しかったのは村上君のマジモンのクラウンが、村上君以上に変な顔をしていたことだ。殆んどゴリラに近い顔になって、ドラミングをしている。僕も宇佐美も思わず笑ってしまった。

「むっくん、きんもー。顔やばいよー。ウサ落ち込んでるのにー」

 宇佐美は笑いながら言った。

「ちょ、鼻毛見えてるよ村上君。隠して隠して」

 村上君は鼻毛を抜いた。

「はい、お土産」

 宇佐美は「キャー」と言って笑いながら逃げ出した。僕は自分のマジモンがどんなものでもいい。ただ皆が笑っていられたらそれでいいと思う。こういう瞬間がいつまでも続けばいいのに、そう願った。

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