8.悲しい顔って、どんなのだっけ?
食堂にはルシアンと、ルシアンの母であるユミラ夫人が席についているだけであった。ド・ブロイ公爵であるアルバンはいないようだ。
ルシアンの表情は固い。対して、ユミラの表情は厳しく、射抜くような目で食堂へ入ってきたマルグリットを睨みつけた。
「おはようございます、ユミラお義母様、ルシアン様」
マルグリットは優雅に礼をする。その所作は昨日ルシアンにも認められたもの。
だがマルグリットのドレスは飾り気のない流行遅れの一着で、アクセサリーも母のくれた珊瑚のペンダントのみ。
すぐさま、ユミラの持つ扇がバシッとテーブルを叩いた。
「遅れてきたと思ったらなんなの、その格好は! わたくしたちを侮辱しているのですか!」
「いえ、めっそうもございません!」
マルグリットは慌てて顔を伏せる。
ドレスについてはド・ブロイ家クラヴェル家の誰もマルグリットのための花嫁道具を用立ててくれなかったからなのだが、そんなことは問題ではない。
「ド・ブロイ家は歴史あるお家柄です。その起源は王国建国のきっかけとなった白百合の合戦までさかのぼり、その際に王家のお味方をしたわれらのご先祖様が土地を賜ったのです。つまりあなたの格好はわが家だけでなく王家やわが家の先祖に至るまで敵にまわす行為!」
(お義母様、それでは歴史の講釈になっているだけで脅しになりません)
声は大きくてたしかに耳障りだが、内容が精神を抉ってこない。
ユミラも根はやさしい人なのだろうとマルグリットは思った。彼女の意に添うようにしてやりたい。
「可哀想なルシアン、こんな女と結婚させられて。経歴に傷がつくわ」
何年かのちに王家の気が済んで離縁したとしても、婚歴は残る。次の相手をさがすのには苦労するだろう。
男であるルシアンよりも女であるマルグリットへの傷のほうが深いのだが、ユミラには知ったことではない。
「少しでも良心というものがあるのなら、こんな恥ずべき姿でこの場所へ出てこられるわけがないわ」
「……」
マルグリットは黙り込んだまま、うなだれるように肩を小さくした。
ここで重要なのは、理不尽な叱責にマルグリットが傷ついているように装うことだ。
それで少しでも鬱憤を晴らしてくれたら――と思うのだが。
(しおらしい顔、しおらしい顔……つらそうな、悲しい顔…………って、どんなのだっけ?)
伏せた顔をあげることができず、マルグリットは真顔になった。
クラヴェル家で虐げられていたとき、つらそうな顔や悲しい顔を、最初はしていたのだと思う。しかし泣けば「被害者ぶるな」と余計に頬を張られ、つらそうな顔をすれば「わたしのせいだと言いたいの」とイサベラを激昂させ、マルグリットがどれほど無価値な人間であるかを切々と説かれたものだ。
だからマルグリットはいっさいの感情を表に出さなくなった。表情も忘れてしまった。
(笑顔を忘れないでいられたのはすばらしいことだわ)
ド・ブロイ家に来てから、マルグリットは自然に笑えている。つらそうな顔や悲しい顔ができないのは、そういった感情ではないからだ。
表情の作り方は忘れてしまったが、感情はまだ生きている。人と接しながら、笑い、楽しみ、感動の涙だって流せるのだ。
そう考えてみると自分はなんと幸せなのだろう。
思わず口元がゆるんだ。
胸いっぱいに膨らんだ幸福感にうながされ、マルグリットは顔をあげる。
「……っ!! あなた、わたくしをバカにしていて!?」
「あっ」
それがユミラ夫人を激怒させるということを忘れて。
*
(失敗したわ……)
図書室の隣の自室で、マルグリットは反省していた。
ユミラの鬱憤を晴らすどころか、ますますストレスをためさせてしまっただろう。
ユミラの望みはマルグリットが離縁を口にすることか、もう死んでしまいたいと思うほどつらい気持ちになることだからだ。
泣き濡れて、食事も喉を通らず、弱々しくふるまうことが望みだったはず。
(泣きはしたんだけど……)
キッチンで食べていた使用人たちといっしょの食事ももちろんおいしかったが、今朝の食事はルシアンやユミラと同じものがマルグリットの前にも並べられた。
母が亡くなってから五年ぶりの豪華な食事だった。
あまりのおいしさに涙ぐみながら完食してしまったのである。
クラヴェル家では、マルグリットに与えられるスープはわざわざ冷やした上に水を入れて薄められ、パンも一日置いて固くなったもの、しかもそれをモーリスやイサベラと同じテーブルで食べるという手間のかけようだった。
(あの人たち、ものすごく暇人だったのね……)
自分たちの食べるものを羨ましそうに眺めるマルグリットを見るのは楽しかったのだろうな、と思う。
でもユミラは違いそうだ。ルシアンはマルグリットの満面の笑顔を見て微妙な顔つきになったあとは終始こちらを見ず、黙々と食事をすませるとすぐに席を立ってしまった。もちろん楽しくなかっただろう。
(どうしたら皆様に気持ちよく暮らしていただけるのかしら)
ド・ブロイ家に不快感を与えておきながら、自分だけが幸せに暮らすのは申し訳ない。
そう思って考えてみるのだが、答えは見つかりそうになかった。