5.お前を愛するつもりはない
図書室の扉を開け、室内に人影を見出したルシアンは、一瞬瞠目した。だがすぐに思い出した。
彼の妻マルグリットの寝室が図書室の隣、かつて管理役の使用人が住み込んでいた部屋に割り当てられたことを。
マルグリットはルシアンの入室に気づく様子はない。それもそのはず、彼女はテーブルにつっぷして安らかな寝息を立てている。
テーブルに広げられているのは海洋学の博物誌だ。
「……」
マルグリットのそばを通りすぎ、ルシアンは目当ての本のある棚に近よった。祖父の書いた、貴族たちの儀式を解説した手記である。伯爵から公爵となって日の浅いド・ブロイ家には、なくてはならぬものだ。
しばらくして、調べものを終えたルシアンはマルグリットをふりかえった。
嫁いで一週間がたつというのに、まだ言葉すら交わしていない妻。
(……あどけない寝顔だ)
婚礼の場ではじめて顔を合わせたとき、マルグリットは表情の抜け落ちたような顔をしていて、それほどド・ブロイ家に嫁ぐのが嫌なのかとルシアンも怒りを滾らせた。
だがいまのマルグリットは、冷酷な仕打ちを受けているというのに悲壮感はどこにもない。むしろ、以前よりも生き生きとしているかもしれない。
使用人たちも首をかしげていた。
マルグリットの口元にはうっすらとほほえみが浮かんでいる。
夢でも見ているのか、その笑みはときどき深くなり、満足げな笑顔になることもあった。
美しい、と称賛するほどではない。着ているものもみすぼらしいし、容姿だけでいえば式で見かけた彼女の妹のほうがずっと可憐な外見をしていた。
なのに、不思議と視線が惹きよせられるのは、彼女に貴族特有の毒気がないからだろう。
(いったい何を考えているのだ……)
呆然ともいえる面持ちでマルグリットを眺めていたルシアンの手から、手記が落ちた。
***
ばさりという音に目を覚ます。
ふと顔をあげると、テーブルのむこうにルシアンが立っていた。
深海を思わせる蒼みがかった黒髪と、同じ色の瞳。切れ長の目と通った鼻すじは怜悧さを印象づける。
「!?」
どうやら本を読みながら眠り込んでしまったらしい。ルシアンの訪れにも気づかなかった。
「も、申し訳ありません。どこでも寝られる体質なもので」
なにに対する謝罪かわからないまま、ばつの悪さに頭をさげる。
ルシアンの反応はない。怒ってるというよりも、なにかに驚いているようだった。
足元には本が落ちている。しっかりとした装丁だが豪華なものではない。
マルグリットはそれを拾いあげてルシアンにさしだした。
「どうぞ」
やはりルシアンの反応は鈍い。マルグリットをまじまじと見つめたあと、本に視線をおろし、受けとろうともしない。
ルシアンの背後には本が抜かれたあとがある。そこへ戻しておけということだろうか。
「あの、中を確認してもよろしいですか?」
尋ねるとルシアンの目つきが鋭くなった。
「なぜだ」
「破損などしていないかを確認したほうがよろしいかと思いまして……どなたかの手記なのでは?」
勝手に見るのもためらわれ、許可を求めておいたほうがよいだろうと考えたのだ。
ルシアンは軽く目を見ひらいた。
「どうしてわかる?」
「その棚の本はド・ブロイ家の皆様の書かれたものでしょう」
重厚な拵えの黒檀の本棚は、それだけ明らかにほかと区別され、異彩を放っていた。
にもかかわらず収められた本は機能性重視の簡素な装丁のものが多く、表紙には署名と日付や連番のみの情報しかない。
目を楽しませるものではなく、むしろ家族以外の目に触れることを目的としない、秘された情報だろう。
マルグリットがモーリスに渡した文書と同じ。領地経営に関してや、財政についての情報があるかもしれない。
「ですから、許可なくわたしが中を見るわけには……」
その推測は当たっていたらしい。ルシアンの視線がいよいよ鋭くなる。
(余計なことを言って、怒らせてしまったかしら)
「お前は余計なことをしなくていい」
荒々しくマルグリットの手から本を受けとると、ルシアンは自ら傷みのないことを確認し、棚に戻した。
「勘違いするなよ。王家からの命令でなければお前を娶ることなどなかった。どれほど媚びを売ろうが、俺に取り入れると思うな」
マルグリットにむきあったルシアンは、冷ややかな視線を彼女に投げかけた。
「はじめに言っておく。お前を愛するつもりはない」
その宣言は、普通ならば屈辱的で拒絶を表すものだ。
――だが、なぜか。
マルグリットの表情は、明るく輝いてゆく。
「はい!」
元気のいい声が響いた。