44.俺は君のことが
「アンナ!?」
突然泣き出したアンナに、マルグリットは驚きの声をあげ、慌てて駆けよってくる。
ドレスが濡れるのもかまわずにアンナを抱きしめると、「どうしたの?」と心配そうに声をかけた。
(こういう方なのだわ)
それが自分ではないというだけで、マルグリットはとてもやさしい。
なのに自分のことには無頓着だ。
ユミラが激昂したときも、マルグリットは我が身を盾にして、ユミラの扇からアンナを守ってくれた。
だが逆にいえば、自分の身体に傷がつくことくらい当然の環境でマルグリットは生きてきたのだ。
嫁いできたばかりのころ、何をしても笑っていた強いマルグリット。あの頃の彼女は自分は幸せ者だと自信をもって言えていたというのに。
そして今、すべてが彼女にとって幸福な環境が整いつつあることを、怖がっている。
「マルグリット様。マルグリット様は、幸せになっていいんです」
涙声に鼻を詰まらせながら、アンナは必死に訴えた。
「ほかの誰が何を言おうと。それがルシアン様の望みなんです」
ルシアンの名に、マルグリットの瞳が揺れた。
鳶色の目に走ったのは怯えだ。
(ああ――……!)
アンナはうなだれた。
自分ではどうにもできないのだ。
マルグリットの心がルシアンを変えたように、マルグリットを変えるにはルシアンでなければ。
(ルシアン様、どうか……マルグリット様が不安にならないほどの愛を)
マルグリットの苦しみを、ルシアンは知らない。
ただ、湧きあがる気持ちのままに、行動を起こそうとしていた。
***
「マルグリット!」
廊下を足早に去ろうとするマルグリットの背中に、ルシアンの声が届いた。
名を呼ばれてマルグリットは顔を赤らめる。
ルシアンがやってくるのを認め、方向転換してしまったのはあまりにも失礼だった。それ以前に、近ごろの態度は決して褒められたものではない。
(またルシアン様を怒らせてしまったわ)
直々に呼ばれてしまったのだ。聞こえなかったふりもできないし、当然逃げるわけにもいかない。
「ルシアン様――」
「話したいことがある」
ふりむいたマルグリットの腕を、逃さないとでも言うかのようにルシアンがつかんだ。
叱られるのだろうと思う。それなのに、ルシアンの手の力強さに、心臓は嵐の中の船のように跳ねまわる。
(お許しください。わたしはこのところ変なのです。しばらくすればきっと元に戻ります)
告げるべき言葉を心の中で準備する。
詳細は語らず、これで押し通すしかない。そして早くいつもどおりの態度をとれるようになって――。
「――……」
顔をあげたマルグリットは、用意した言葉を口にすることができなかった。
ルシアンの深海色の瞳。その複雑な色合いに吸い込まれそうになる。
このところマルグリットを惑わせていたほほえみは消え、ルシアンは以前のような、眉を寄せて厳しい顔つきをしていた。
そのことになぜかほっとする。
甘い視線をむけられたら、恥ずかしくて耐えられない。望んでしまいそうになる。
だが想像に反して、ルシアンが告げようとしたのは、お叱りの言葉などではなく。
「マルグリット。俺は君のことが――」
ふつりと、言葉はそこで途切れた。
ルシアンが顔をあげるのにならってマルグリットもふりむく。
廊下の反対側から、青ざめた顔の執事が、彼らしくない無作法さで足音を立てて駆け寄ってくる。
ルシアンとマルグリットもリチャードへむかって急いだ。
それほどに緊急の用事だと表情が告げていた。
「――ノエル・フィリエ第三王子殿下がお越しになりました。イサベラ・クラヴェル様もご一緒です」
「!」
悲鳴をあげそうになり、マルグリットは手で口元を覆った。
――もらって帰ってもいいわよね? いつもあたしの好きなものをくれたじゃない。
イサベラの声がこだまする。
倒れ込んでしまいそうなマルグリットを支えるルシアンもまた、波乱の予感に眉をひそめていた。






