41.恋の若葉(後編)
マルグリットがルシアンのためを思い、時間をかけてくれたことが嬉しい。
それに、マルグリットから贈られた刺繍は、大切なことを思い出させてくれた。
「海に行きたいと、言っていたな」
この数日間、どうやってマルグリットとの距離を縮めればいいのかと悩んでいた。
しかしその必要はなかったのだ。
「仕事が落ち着いたら、ド・ブロイ領へ行こう。俺も幼いときに行ったきりで、領地を継ぐなら現地の様子を見ておかねば」
マルグリットは最初から、彼女のやりたいことを伝えていた。それを訝しんだり疑ったりしていたのはルシアンの先入観がさせたこと。
「本当ですか!?」
マルグリットがぱっと顔を輝かせる。すぐに視線は夢見るようになり、ほうっと息が漏れた。
「わたし、クジラが見たいのです。クジラという大きな大きな生きものが海にはいて、呼吸のたびに泉を吹きあげるのだそうですわ」
「聞いたことがあるな。船を出せば見られるだろう」
「ああ楽しみ! それに、魚ではない変な生き物もたくさんいると図鑑で見ました」
タペストリーにはそんなマルグリットの憧れが詰め込まれている。
「あっ、申し訳ありません。わたしの話ばかり……」
ルシアンに喜んでほしかったのに、と言いたげに、マルグリットの眉がさがる。
そんな表情を見たら、ごく自然に、手が出た。
「君の話が聞きたい」
マルグリットの髪を撫で、ルシアンはほほえむ。
「君が喜ぶことが、俺の喜ぶことだと思ってくれていい」
「……」
「……? どうした?」
真顔で黙り込むマルグリットに、ルシアンが首をかしげた、そのときだった。
落ち着きかけていたマルグリットの顔色が、ぼっと火を噴くかのように赤く染まった。頬だけでなく、耳の先から首まで、湯気が出そうなほど真っ赤だ。
「え……」
「あ、ありがとうございます! では、明日以降もがんばりませんと……! こ、今夜は、早く寝ようと思います」
言うなりマルグリットはマロンをルシアンに押し付けると、部屋を出て行ってしまった。隣室のドアが開く音がして、すぐに閉まる。
「……」
がんばるとは、何をだろうか。
ルシアンはマロンと顔を見合わせた。
マルグリットの部屋からは何の音も聞こえない。
(俺は……彼女に、何を言った?)
隣室へつながるドアを見つめ、自分が何をし、何を言ったのかを、ルシアンはようやく自覚し始めていた。そして、それに対するマルグリットの反応。
ルシアンの頬にも、じわじわと赤みが差してくる。
いっぽう、自分の部屋に戻ったマルグリットも、アンナがやってくるのを待ちながら、鍵のかかったドアを見つめていた。
(がんばるって何をよ、わたし!? で、でもだって、ルシアン様があんなことをおっしゃるから……)
マルグリットの喜ぶことが、自分の喜ぶことだと、ルシアンは言った。
(そんな幸せなことが……ありえる……?)
壁一枚を隔て、ふたりは、互いに赤い顔をしたまま呆然と立ち尽くしていた。
***
ドキドキと煩い鼓動を抱え、マルグリットは食堂へ顔を出す。
タペストリーをルシアンに贈ってから、数日がたっていた。なのにドキドキはまだ消えない。クラヴェル家の夜会から戻ってきたときもそうだった。
刺繍に没頭することで忘れていたのだが――。
ルシアンの笑顔が消えない。
ルシアンがとんでもなく美形であるということを、マルグリットは今の今まで忘れていた。そして今なぜか急に思い出したのだ。
話を聞きたいなんて、言ってくれる人はいなかった。やはりルシアンはやさしいと思う。彼のような人物が夫だなんて幸せだ。……いままでなら、ここで思考は止まっていたのに。
知ってほしい、と思ってしまった。
互いのことを知って、笑いあいながら暮らしていく未来を、望んでしまった。
(わたし、やっぱり、ルシアン様のことを……)
「どうした、具合でも悪いのか?」
「いいえ、なにも」
心配そうに話しかけてくれる義父アルバンに、マルグリットは笑顔で首を振るが、その態度はすぐに彼女らしくない覇気のないものに変わってしまう。
首をかしげたアルバンは、だが、マルグリットの視線の先にこちらも顔を赤らめてぎくしゃくとしているルシアンの姿を認め、にっこりと笑った。
ちなみに、その数時間後。
「どう思う、これはいい雰囲気か」
徹底的に人払いをした応接間で、ニコラスを呼び出したルシアンは、必死の形相で友人の意見を聞こうとしていたとか。






