37.恋の芽生え
夜会からの帰り道の馬車で奇妙なリズムを打ち出した鼓動は、一夜明けても元に戻ってはくれなかったし、数日がすぎても、一週間がたってもやはりおかしいままだった。
「あれから、ルシアン様を見ると動悸が激しくなって、ルシアン様から離れると心臓がぎゅうっとなるの……」
訪ねてきてくれたシャロンを自室に迎え入れ、マルグリットは夜会での出来事を語ったあと、神妙な顔で打ち明けた。
「病気……なのかしら」
「なに言ってるの???」
「なにって」
眉と口を曲げて令嬢らしからぬ表情を見せるシャロンに、マルグリットはたじろいだ。
シャロンからすればマルグリットの動悸の原因は一つしかないのだが、異性と接した経験のほとんどない友人には想像もつかないものであるらしかった。
「それはいつからなの?」
「帰りの馬車から……いえ、待って、その前にもあったわ。夜会で、コレット様がルシアン様に誘いかけたとき……」
あのときが奇妙な鼓動の始まりだった。
ルシアンがはっきりとコレットを拒絶してくれなかったら、マルグリットの心臓は破裂してしまっていたかもしれない。
「ルシアン様がわたしを庇ってくださって……」
そこまで言って、マルグリットの顔はまるで湯気を吹いたように赤くなった。
〝愛する妻〟――ルシアンはそう言った。
思えば、動悸が収まらないのは、それからではないだろうか。
だがそのことはあまり考えてはいけないのだと、マルグリットは思う。あれはド・ブロイ家の外の出来事であり、ルシアンの本音はわからない。
事実、帰りの馬車でもルシアンは自分の言葉を意識した様子は見せなかったし、近ごろではマルグリットが話しかけようとするそぶりを見せると背中を向けて立ち去ってしまう。
「ルシアン様は、わたしのことを嫌っていらっしゃるのかしら……」
「まさか。嫌っているなら庇ったりしないわ。照れていらっしゃるのよ」
「そう思う?」
「もちろんよ」
「そうならいいと、わたしも思うわ……」
シャロンがどれほど肯定しても、マルグリットには自信がないらしい。
「いったん、ルシアン様がどう考えているかはおいておきましょう。夜会のこと、あなたはどう思っているの? マルグリット」
「ちょっと距離が縮まったような気がして嬉しいわ」
「ちょっと距離が縮まった……?」
「だめかしら」
「だめっていうか……」
両手で顔を覆い、ううん、とシャロンは悩み声をあげる。
「そもそもこの部屋はルシアン様が用意してくださったのよね?」
「ええ」
「そのドレスも? 壁の絵も、戸棚の食器も?」
「そうなの」
「骨抜きにしてると思うんだけど……」
「なあに?」
「なんでもないわ」
シャロンは首をふった。
マルグリットに恋心を自覚させることは諦めて、距離が縮まったと思えただけでも相当な前進なのだと納得することにした。
実家での悲惨な状況に慣れきってしまったマルグリットは、敵意をむけられても傷つかない頑丈な心を手に入れた。
だがその一方で、好意をむけられることは経験がない。
「大切なのはマルグリット自身の気持ちよ。……それに、ルシアン様の気持ち」
「……」
「尋ねてみればいいのよ。簡単なことなんだけどね」
その簡単なことが、すべてを押しつけられる家で生きてきたマルグリットには難しい。
「そういえばさがしてたもの、見つかりそうよ」
「ほんとう!? ありがとう!」
話題を変えたシャロンの頭には、もう一つの手段が浮かんでいた。
***
それから数日後。
ルシアンの自室で、既視感のある光景が繰り広げられていた。
テーブルを挟んでルシアンと向かい合うのは、彼の友人、ニコラス。そしてニコラスの膝の上に寝そべるマロン。
「愛する妻、とは、なかなかやるねえ」
「つい売り言葉に買い言葉で……」
テーブルの下からルシアンが手をのばそうとすると、マロンは「シャッ」と鋭い威嚇を発してその手を払った。
ノエルからルシアンに贈られた猫だというのに、マロンはすっかりマルグリットになついてしまい、なぜかルシアンを敵視していた。
「帰りの馬車ではどうにか平静をたもったが……あれから、どんな顔をしていいかわからなくて、つい妻を避けてしまうんだ」
ルシアンの顔が赤らむ。
「俺それ、最初から真っ赤になってたほうがよかったと思うなあ」
胡乱な視線をむけられる理由が、ルシアンにはわからない。
「どうしたらいいと思う?」
「告白する以外にないだろ」
即答するニコラスにルシアンは一瞬ためらうような表情を見せた。
「……いまさら何を言ってるんだと思われないだろうか」
(いまさら何を言ってるんだこの男は……)
ルシアンの不安は、それこそいまさらなのだ。
話を聞くに、家同士の対立に縛られてつらくあたったルシアンに対して、マルグリットは理解を示している。自分の境遇に不満を漏らさず妻の役目を果たそうとしているのがその証拠。
その代わり、マルグリットの中でルシアンの存在はそれほど大きくないのだろう。
「まず意識をしてもらわなけりゃ、始まらないだろうが」
「ぐっ」と呻き声をあげルシアンはテーブルに顔を伏せた。その後頭部をマロンがたしたしと前足で叩く。
「やはり意識されていないのだろうか」
(ルシアンも、社交界では人気のあるほうだったが……)
不愛想とはいえ、次期公爵という肩書きと冷たくも美しい顔立ちは令嬢たちを惹きつけてやまなかった。だがそんな彼女らをルシアンは冷たく無視してきた。そのツケがまわってきたとも言える。
(やはり似合いの奥さんだったな)
自分の直感が間違っていなかったこと、友人の情けなくも人間くさい一面を垣間見られたことを、ニコラスは嬉しく思った。
と同時に、
(俺も何か手を打ってやれることをさがすか)
放っておけば妙な方向へ邁進してしまいそうな気配を感じ、とある人物を思い描いていたのであった。






