35.俺の妻を侮辱する気か?
「申し訳ありません、ルシアン様……」
紹介と挨拶が終わり、参加者たちはイサベラを取り囲んで楽しくおしゃべりに興じていた。特別なゲストであるはずのルシアンとマルグリットにはちらちらと意味ありげな視線を送るだけ。
取り残された二人は、料理のテーブルのほうへと寄り、なにをするでもなく並んで立っていた。
肩を落としたマルグリットが謝罪の言葉を口にしたのはそんなときだった。
マルグリットの脳裏には、ふたりのあいだになんの信頼もなかったころの、ド・ブロイ家での晩餐会がよみがえっている。
あれからマルグリットはド・ブロイ家で居場所をつくり、生活は幸福に満ちていった。
けれどもド・ブロイ家を一歩出れば、状況は悪化してすらいたのだ。
「君が謝る必要はない」
そっけないがそれはルシアンの本心だった。
いまや彼にも薄々わかりはじめていた。イサベラや、彼女を野放しにしているモーリスがどのような人物か。実家での様子をルシアンに問われても口をつぐんでいたマルグリットが、どんな扱いを受けていたのか。
ルシアンの内心は、現在の無礼な状況に対するよりも、過去のマルグリットが受けた仕打ちに対する怒りで燃えていた。
一方のマルグリットも、うなだれたまま、料理にも飲み物にも手を付けていない。
気にする必要はないと言われても、イサベラの我儘を育ててしまった一因は自分にもあるとマルグリットは考えている。
(わたしが抵抗してこなかったからだわ)
突然、イサベラのいる場所から「キャーッ!」と甲高い歓声が聞こえた。マルグリットを嘲笑うかのように意味ありげな視線がちらちらと届く。
それに混じって、隠す気のないイサベラの声が響いた。
「ルシアン様とお姉様は家のために結婚したの。寝室も別なのよ」
「な……っ! イサベラ!」
慌てて止めに入るマルグリットだが、周囲の令嬢たちにやんわりと押しとどめられ、イサベラのもとへはたどりつけない。
「それが貴族だもの。愛し合う相手でなくとも、結婚はしなくちゃね」
「まあ。それじゃあ、ルシアン様は、奥様がいらっしゃるというのに一人寝を?」
「大貴族は妾を囲うのだろう? 俺はそう聞いたぞ」
「妾を? 立候補したいくらいだわ」
くすくすと低い忍び笑いがあたりを満たす。
輪から出た一人の令嬢が、艶めいた赤髪を弄びながらルシアンの腕をとった。
「わたくしなどどうですか、ルシアン様……」
挑戦的にマルグリットへ視線を投げかけ、ルシアンへ囁く。
「コレットと申します。形だけの夫婦なら、少しくらい遊んでもかまわないのでしょう?」
「――……」
どきん、と鼓動が跳ねるのを、マルグリットは戸惑いとともに感じた。
彼女の言うことは間違ってはいない。皆が集まるような場では〝仲睦まじく〟との命令だが、個人的なふるまいまでは規定されていない。
愛さないと言ったことをルシアンは撤回してくれたが、愛し合うと誓ったわけではない。
ルシアンがマルグリット以外の令嬢を愛そうと、口出しできる立場ではないのだ。
どきん、どきんと鼓動は大きくなってゆく。
マルグリットはドレスの胸元をぎゅっと握りしめた。
(あら……? なぜかしら……わたし……以前の晩餐会では、気にならなかったのに……)
黙り込むマルグリットに、コレットはイサベラとよく似た冷笑を浮かべた。他人を貶める恍惚にひたった人間の笑み。
「マルグリット様のドレス……首も肩も隠されておりますのね。それほどご自分の肌に自信がないのかしら」
横目で流し見るようにして、コレットは告げる。
彼女の言うとおり、マルグリットのドレスは肌の露出を最低限に抑えたものだ。首から肩、腕まではレースに覆われている。これまで家に閉じ込められて社交界に出たことのなかったマルグリットでも抵抗なく着られるドレス。
対するコレットは、胸元まであらわにしたドレスで、はっきりとした目鼻立ちやそれを強調する化粧もマルグリットとは正反対。
これまでそんなことを気にしたことはなかった。
イサベラとは違って地味な見た目の自分を恥じたこともなかった。
けれどもなぜか、今夜だけは、身がすくむほどにそのことが悲しい。
追い打ちをかけようと、コレットの紅を塗った唇がひらきかける。
「俺の妻を侮辱する気か?」
ルシアンの冷たい声が落ちたのは、そのときだった。






