28.愛さないと言ったことは撤回する
アルバンは小さくため息をつくと、冬眠から目覚めた熊のような身体をのそりのそりと動かして、ルシアンたちの輪の中に入ってきた。
青い目にはどこか寂しさが宿っている。
「ユミラ、もうやめなさい」
最初に名を呼ばれたのはユミラ夫人だった。
アルバンはユミラに手を差しのべて立ちあがらせると、スカートの裾を払ってやった。ユミラはされるがままになりながらも、眉をひそめてアルバンを睨みつける。
「わたくしが悪いと言いたいの……?」
「悪いとか悪くないとかじゃないんだ」
(……?)
短い夫婦の会話がどことなく奇妙に聞こえてマルグリットは心の中で首をかしげる。
この騒動のことを言っているだけではないような気がした。
「マルグリット嬢、本当に申し訳ない」
アルバンが深々と頭をさげる。
「あなたの腕に傷をつけてしまった。どうか許していただけないだろうか」
「えっ!? いいえ、そんな。お顔をあげてください。許すもなにも、わたしが勝手にしたことです」
ほかにアンナを庇う方法はいくらでもあったのに、咄嗟に手が出てしまったのは自分のせいだ。
しかも、ユミラを怯えさせ、泣かせてしまった。
「この程度の傷であれば、適切に処置すれば半月後には跡形もなく治ります。あとで氷をいただければ」
傷跡には詳しいのですと口を滑らせそうになってつぐむ。
「そうか、ありがとう」
アルバンはほっとした表情になる。
「だが、責任をとらないわけにはいかないだろう」
もう一度、長いため息が吐き出される。
それは失望や落胆のため息ではなく、決意のための深い呼吸のように見えた。
ルシアンも疑問を込めた視線をアルバンに向けた。
それに答えるように。
「ド・ブロイ家当主の座を、ルシアンに譲ろうと思う」
やや緊張した、けれども覆すことはできないという意志を滲ませながら、アルバンはそう宣言した。
「あなた……!?」
「どういうことですか、父上?」
ユミラだけでなくルシアンも驚きの声をあげる。
「ずっと考えていたことだ。ルシアンも成人し、妻を迎えた。早すぎるということはない」
「妻と言ったって……この娘は、クラヴェル家の……」
こんな娘にド・ブロイ家の女主人が務まるはずがない、と言いかけて、さすがにユミラは押し黙った。
いまさらになって、自分とマルグリットのどちらの器が大きいか――彼女にもわかりかけていた。
「ルシアンは彼女を妻と認めたんだ。そうだろう?」
アルバンのまっすぐな視線がルシアンにそそがれた。
「……はい」
ちらりとマルグリットを見て、頬を染めながら、ルシアンは頷く。
アルバンはそんなルシアンの様子に目を細めた。
「ルシアンを当主とし、ぼくは補佐として領地へ戻ろうと思う。君にもついてきてほしい。ユミラ」
先代夫妻は隠居。むしろ、事実上の謹慎だ。その道を選ぶことで、王家への恭順を示す。
アルバンはユミラに向き合った。
涙で流れた化粧の混ざる頬に手を添えると、ユミラの瞳を覗き込む。
「むこうでやり直さないか」
ユミラが驚きに息を呑んだ。反射的に握ったこぶしは小さく震えている。
「……なにを、今さら……」
「ああ、今さらだ。ずっとすまなかった。でも、ぼくは君の夫なんだ。ルシアンとマルグリット嬢を見ていて、そのことを思い出した」
アルバンが笑う姿を久しぶりに見た、とルシアンは思った。
遠い昔、ルシアンを褒めてくれたとき以来。それからのアルバンはいつも疲れた顔をして、ユミラの前では気配を消すように身を縮めていた。
「ぼくは君を愛しているんだよ。出会ったときからずっと。君がぼくを愛さなくてもね」
――そのときのユミラの表情を、どう形容すればよいのか。
驚愕のあとに疑念が訪れ、けれどもそれはアルバンのやさしい眼差しによって拭い去られた。
よろけそうになった身体をアルバンが支える。
普段なら振り払っていただろう手に、ユミラは縋りつくように身を預けた。
「言うのが……遅すぎます……わたくし、わたくしにはルシアンしかいないものかと……」
「ごめんね。君には、ぼくの愛なんて要らないと思っていたんだ」
ユミラの肩を抱きながら、アルバンは顔をあげ、マルグリットを見つめた。
「やっと言えた。君のおかげだ。ありがとう、マルグリット嬢」
「わたしはなにもしておりませんが……どうぞ、マルグリットとお呼びください、お義父様」
「うん、マルグリット」
ルシアンもアンナもぽかんとしてやりとりを見守っている。
当主でありながらほとんどユミラに意見をしてこなかったアルバンの意外な一面に――そしてそれ以上に、アルバンの胸に顔を埋めるようにしてふたたび涙を流し始めたユミラの想定外の反応に、思考がついていかなかったのだ。
マルグリットだけは、外から嫁いできた者であるだけに、
(よくわからないけれど、お気持ちが通じあったのなら素敵なことだわ……!)
と感激していた。
やがてユミラはアルバンに連れられ、食堂を出て行った。
気を利かせたらしいアンナや給仕の係たちもそそくさと食堂をあとにし、残ったのはルシアンとマルグリットだけ。
「俺からも謝らせてくれ。申し訳なかった」
沈黙が重くなる前に、ルシアンは口をひらいた。
深々と頭をさげるルシアンに、マルグリットは慌ててしまう。
「母上とともに、つらく当たった。止めるべきだとわかっていたのに」
「そんな……気にしていませんでしたから。ルシアン様もお気になさらないでください」
「そう言ってもらえるならありがたいが。それから……」
「?」
アルバンとユミラのあいだになにがあったのかをルシアンは知らない。一つだけわかるのは、アルバンがマルグリットのおかげだと言った理由。
やはり、マルグリットにだけは伝わらない想いは、マルグリット以外の全員に伝わっている。
「……お前を愛さないと言ったことは撤回する」
アルバンが言いたかったのは、告げなければ想いは伝わらないということだろう。
どれほどいっしょに暮らしたとしても、贈りものをしようとも。
両親のあいだになにがあったのか、ルシアンは知らない。知ろうともしてこなかった。だがそれは間違いだったのかもしれない。
頭から拒絶するだけでは、関係は変わらない。
「はい、わたしも撤回いたします」
ルシアンの言葉に、マルグリットは驚いた顔になったが、すぐに笑顔を見せた。
「俺はお前を……いや、君を、――」
「お二人のように、二十年後にはどうなるかわかりませんものね!」
「――待て」
「え?」
マルグリットはルシアンを不思議そうに見つめた。
向かいあうルシアンは、告げようとした想いをあっさりと二十年後に持ち越され、
(完全に俺に興味がない……)
そのことを思い知らされていた。
「……なんでもない」
ルシアンは首を振る。
マルグリットはやはりきょとんとした顔で首をかしげていたが、また笑顔になり、「では」と礼をして出て行った。
(二十年後にはならぬようにしなければな……)
ひしひしと敗北感を味わいつつ、ルシアンも食堂をあとにする。
(これからは毎日花を贈ろう……)
そんな決意を秘めながら。
*
一方、廊下を歩くマルグリットは、スキップでもしそうに気持ちを弾ませていた。
(ルシアン様に妻と認めていただいている……)
マルグリットを嬉しい気持ちにさせているのは、ルシアンがアルバンの問いに頷いたことだ。
おまけにルシアンは、自分の発言を取り消してくれた。
マルグリットを愛することがあるかもしれないと認めてくれたのだ。
(……あれ?)
ぴたりと足を止め、マルグリットは胸を押さえた。
(気のせいかな? いま鼓動が大きく鳴ったような……)
そういえば息も苦しい気がするし、なんだか顔も熱い。
(いやだわ、風邪かしら。そうだ、どうせ氷も必要なのだし)
頬に手をあて、たしかに熱があるらしい、と確認したマルグリットは、アンナをさがしに廊下を戻っていったのだった。