27.どうやって怒ればいいんだろう
「……ユミラお義母様」
呆然とするアンナとユミラ。
扇を受けとめた肌は青く痣になり、金具でついたのだろう傷からは赤い血が滲んでいる。明らかな暴力の証。
マルグリットはその腕を見せつけるようにユミラの前にかざした。
「この傷をアンナの顔につけようとしたのですか? ただ命令を忠実に守っていたアンナに?」
「ひっ、ひいいっ」
ふるえるユミラの手から扇が落ちた。
目に見える怪我を負わせてはじめて、ユミラは自分が何をしたのかを理解したのだ。
だが、それは、短慮と言わざるを得ない。全力で人を叩けば相手は傷つく。そんなのは当たり前のことだ。
マルグリットは眉を寄せた。
――君はもう少し怒りを見せたほうがいいと思うけどね。
脳裏にノエルの声がよみがえる。
(わたし、怒ってるんだわ!)
自身の感情を、驚きとともにマルグリットは受けとめた。
腹の奥からふつふつと湧きあがる何か、髪の逆立つような感覚――これは怒りだ。クラヴェル家では意味のないものとして封じられ、マルグリット自身押し殺してきた感情。
(でも、どうやって怒ればいいんだろう!?)
長らく忘れていた感情を表に出すのは難しい。
これはユミラへの怒りだ。だからユミラに伝わらなければ意味がない。どうしたら伝わるのだろうか。
およそ激怒しているとは思えない冷静さでマルグリットは考えた。
(そうだ、ユミラお義母様の真似をしよう!)
先ほどユミラが取り落とした扇を拾いあげ、マルグリットはユミラがいつもしているように、それをテーブルに叩きつけた。
バァンッ!! と食堂中に響くような音が鳴る。
ルシアンですらもびくりと肩を震わせた。
マルグリットに表情はない。どんな顔で怒ればいいのか忘れてしまったので、とりあえず真顔になっている。
表情の消えた顔で、テーブルをぶっ叩く――突然のマルグリットの豹変に、ユミラは恐怖に青ざめて腰を抜かした。
が、マルグリットは気づかない。
「あのですね、ユミラお義母様。お義母様はよく恥知らずとおっしゃいますが」
バンッ、バンッ。
「ひえっ、ひ……っ」
「絶対に逆らえない使用人をいたぶるのは、そのほうが恥ずかしいことだと思います」
バンッ、バンッ。
「わたしが気に食わないのなら、これまでどおりわたしにぶつけてください。わたしはなんとも思いませんから」
バンッ、バンッ。
「あっ! 口が滑りました。なんとも思わないというのは、その、言葉のあやというか。つらいです。悲しいです。心を痛めています。信じてください!」
バンバンバンバンッ!
「ひいいいいっ、わかったから、わかったからやめてちょうだい!!」
「……お義母様!?」
しゃがれた声にはっとしてマルグリットは顔をあげた。
見れば、床に尻もちをついたユミラは冷や汗にまみれ、化粧が崩れるほどに涙を流している。
「どうしたのですか!?」
扇を置いて駆けよるマルグリットにユミラはさらに顔をひきつらせた。
どうしたも何も、突然ものすごい剣幕で怒り始めた嫁に圧倒されたからこその反応なのだ。
ユミラの瞳に浮かぶ怯えを見、マルグリットはそのことに思い至った。
「えっ、お義母様がやったことを真似しただけなのに?」
「!!」
「あああっ、ごめんなさい、泣かないでください! 怖かったですか!? ごめんなさい」
焦る声をあげるマルグリットに、ユミラは――いやユミラだけでなくルシアンやアンナも、理解した。
マルグリットの耐性は、自分たちの限界を遥かに超えている。
すでに怒りが解けたらしいマルグリットは必死にユミラをなだめ、背をさすっているのだが、その平然とした態度がますます恐怖を呼び、ユミラは今にもひきつけを起こしそうになっている。
「……すまないが、そのくらいにしてやってくれ」
聞き慣れぬ声が割って入ったのは、そのときだった。
アンナはすぐに姿勢を正すと、声のしたほうへ頭をさげる。ルシアンも会釈をした。マルグリットも立ちあがり、頭をさげた。
ユミラは床にへたり込んだまま、呆然と声の主を見つめた。
自分を避け、家族を避け、食卓にも姿を現さなかった夫。
アルバン・ド・ブロイ公爵が、疲れきった顔で、食堂の入り口に立っていた。