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2.嫁ぐのはお姉様(後編)

 部屋に戻り、マルグリットはあらためて室内を見まわしてみた。

 北の、もっとも換気の悪い一室が彼女の部屋だ。夏は暑く冬は寒く、雨が降れば壁に染みができ、隙間風は四重奏を奏で、メイドは清掃を放棄している。

 

 クローゼットという名目の木箱をひらき、公爵家へ運ぶものを検討する。マルグリットに許されているのは、いま身につけているもののほかに、数着の野暮ったいドレスとヒールの擦り減った靴、数冊の本と、趣味の刺繡用品。

 それ以外に、価値のあると思ったものはすべて、イサベラに取りあげられた。

 

 と、思えばバタバタと淑女らしからぬ足音がして、ドアが大きく音を立ててひらいた。

 いま思い浮かべていた妹が、先ほどの泣き濡れた表情を消し去って、嬉々として部屋に入ってくる。

 用事があるときにはノックをとか、了承を得てから入りなさいとか、そういったことを忠告してやるだけの気力はもうマルグリットにはない。

 

「ああ、お可哀想なお姉様! ド・ブロイ家に嫁ぐことになるなんて。きっと今よりも酷くなるわ。あの人たちはお姉様を人間とは思ってくださらないでしょうね。なにせ敵ですもの」

 

(わたしのことを人と思ってくれないのはあなたたちじゃない)

 

 そんな扱いは慣れている、と言いたいところだが、言えばイサベラが激昂することは目に見えていて、マルグリットは表情のない顔で俯くだけ。

 

「あたし、晩餐会であの家の人たちを見たことがあるのよ。ルシアン様はね、綺麗な顔をなさっていたけれど、ずっと怒ったような顔で、一度も笑わなかったわ。公爵家だからって周囲を蔑んでいらっしゃるんでしょ。お姉様なんてボロくずのように扱われるわ」

 

 やはりなにも言わないマルグリットに、イサベラは眉を寄せた。

 

「ねえ! 聞いているの!」

 

 ぱんっと音がして、ひりついた痛みが頬に走る。

 

「!」

 

 頬に触れた手にうっすらと血がつく。イサベラの長い爪がマルグリットの肌を引っ掻いたのだ。

 

「なんてことを。ド・ブロイ家の方々と顔合わせがあるかもしれないのに……」

「べつにいいわよ。その顔で会ったほうがあの人たちにもあたしたちの気持ちがわかるというものよ」

 

 動揺するマルグリットを見て溜飲が下がったのか、イサベラはにんまりと笑うと部屋をあとにした。

 マルグリットを傷つけることができた以上、こんな惨めな場所には一秒たりともいたくないのだ。

 来たときと同様、バタバタと足音をさせながら気配が遠ざかっていく。

 

 開けっぱなしになっていたドアを閉めながら、マルグリットは気持ちを切り替えようと首を振った。

 

「……うん、やっぱりこれは、いいことのように思えてきたわ」

 

 どうにかしてマルグリットを貶めようとするイサベラと、常にイサベラの肩を持つ父。

 実の家族にそんな扱いを受けているよりは、敵の家へ嫁いだほうがまだ境遇への諦めがつくというものだ。

 

 見たこともない形のキノコをくわえて横切っていくネズミにさよならの挨拶をし、テーブルにむかったマルグリットは蒼い表紙の本をひらく。

 

「なにより、ド・ブロイ領には、海がある」

 

 クラヴェル領とは違って、ド・ブロイ領は国の南端でもあり大陸の南端でもある。隣国とクラヴェル領以外の境が、海なのだ。

 

 海――それは幼いころからのマルグリットの憧れだった。

 家族の中で唯一彼女を慈しんでくれた母の憧れでもあったからだ。

 

 尽きることのない大海原には、塩気のある水が満ちているという。人々は船を出し、未知の航路を開拓して、希少な宝石や香辛料を手に入れるのだ。

 そこに住む生きものも、地上とはまったく違った姿かたちをしている。

 

『海からは嵐がやってくるの。嵐の中心には人魚が棲んでいると言われているわ。彼女らは美しい声で歌い、船乗りたちを嵐の中へ誘い込む……』

『怖い、お母様!』

『こわあい!』

『でも大丈夫、いい子にしていれば人魚たちはあなたを歓迎し、海の底の宮殿へ連れていってくれるの。そして宴の最後には、素敵な贈りものをくれるのよ』

 

 イサベラもともに母の寝物語を聞いて、目を輝かせていたはずだった。けれども今の彼女には、海はなんの感慨も呼び覚まさないものであるらしい。

 

(ド・ブロイ家に嫁げば、海が見られるかもしれない)

 

 父や妹が聞けば馬鹿馬鹿しいと笑ったであろう希望を胸に、マルグリットはド・ブロイ家に嫁ぐことになった。

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