絶対に振り向かせてみせるから
あの翌日。
私、神田雪乃はいつものとおり登校した。しかし、隣の席に巴の姿がない。
紫藤によるとかぜをひいたとのことだったが、私には本当の理由がわかっている。
私の、せいだ。
巴にひどい質問をぶつけてしまった。
紫藤のように私を愛してくれるのかなど、そんなことを言うつもりはなかった。
しかし、昂ぶる気持ちを抑えつけることができなかった。
結局のところ、巴の私に対する大好きは友情でしかなくて、恋愛ではない。その事実を、突きつけられた。
今日の授業は、全く頭に入ってこない。
まあ正直なところ、基本的に私は何となく重要そうな単語を教師が喋ると、それをメモしてあとはぼーっとしているだけだ。
物理学は、少なくとも、将来の私にとって役立つものではない。
特に教師は重要そうなことは喋っていない。
私はため息をついてから、ノートに巴を描いていた。
肩までのさらさらで輝く髪、主張する二重の瞳、長いまつ毛、ほんのり色づいた頬、薄く柔らかそうな唇、溢れんばかりの笑顔ーーー。
そこまで描いたとき、私の瞳から熱いものが落ちてきた。
ーーー涙だった。
はたはたと落ちてくるものを、何とか瞬きして堪えるけれど、止まらない。
私はがたりと席を立ち、具合が悪いと教師に告げて、保健室へと向かった。
保健室には、幸い誰もいなかった。
私はベッドを仕切るカーテンを開けて、そのまま雪崩るように倒れ込む。
そのときだった。
「ぐえええ!」
「は!?」
私が慌てて飛び起きると、そこには巴の姿があった。
巴は腹部を押さえながら、あいたたた、と呟いて起き上がる。
何で巴が?私がぼんやりしていると、巴はいつもの調子で私を指差して言った。
「雪乃は背が高いから重い!!」
「…はあ?」
巴は、顔をしかめながら言う。
確かに私は女子の平均より身長が高いし、体重も巴より重いと思う。
ーーーでもそんなこと今言うか?
巴らしいというか何というか。
私がため息をつきながら、よたよたとベッドから立ち上がると、巴は更に続ける。
「そもそも、何で雪乃がここにいんの!?」
「それはこっちのセリフ。かぜなんじゃないの?」
「それは嘘ついただけ!紫藤先生も、私が別に学校に来てないとは言ってなかったでしょ!」
「それを屁理屈って言うんだよ」
巴は私の言葉に黙り込み、掛け布団の裾を握り締めている。
その手には、昨日は気がつかなかった絆創膏が複数枚、貼ってあった。
そうか、あのときにケガをしたのは、私だけではなかったのか。
巴を守ることができなかったーーー。
私は小さく舌打ちすると、絆創膏がしてあるほうの巴の手を引っ張った。
「ちゃんと消毒した?」
「あ、え?いや…ただ絆創膏貼っただけ」
「ばっかじゃないの。消毒しないと意味ないから」
私は巴の絆創膏を全て乱暴に剥がした。
ビリリという音が響き、その度に巴の、いでででで!という悲鳴が漏れた。
私は消毒液と脱脂綿とピンセットを用意して、巴の手をすくう。
巴の手は思った以上にかすり傷がひどく、若干肉が見えている部分もあった。
私は、消毒液を巴の手にかけて、ピンセットで摘んだ脱脂綿で拭き取る。
巴は少し痛そうに顔を歪めて、震えながら布団の裾を握っていた。
握るなら、私の手にしてくれればーーー。
そんな考えが湧き、私は頭を振った。
例えどれだけ期待しても、巴は私のことを決して愛さない。
だって巴は、紫藤のことが誰よりも好きなのだから。
私は、傷パッドのようなガーゼを巴の手に置いてから、サージカルテープで巻いた。
巴はその様子をひたすら見つめている。
「どうかした?」
「…いや、雪乃って、ほんとに私のことが好きなんだなあって…」
私はブ、と吹き出してしまった。
まさか、こんなちょっとした所作で悟られるなんて。しかもこの巴に。
私は何とも言えない気持ちになりながら、巴の手を離した。
もっとこの手を握っていたい、もっと彼女を抱き締めたい、もっとそれ以上のことがしたいーーー。
私の頭の中は、昨日の紫藤のようになっていた。
私は巴を抱き寄せると、壊れるくらい強く抱き締めた。
「…ちょ、雪乃!?」
巴は驚愕しているが、拒否はしてこない。
私はそれを肯定と受け取り、巴の頬に手をやった。
彼女のさらさらの茶髪が、ふわりと揺れる。
「巴…好きだよ。愛してる」
「ゆき、の…私…」
「わかってる。巴が紫藤を好きだってこと。でもこの気持ちは止められない。抑えられない、巴の傍にいる限り、一生ついて離れない…!」
私は、巴の肩に顔を埋めた。
巴の香りがする。優しく甘い、石鹸の香りが。
それが鼻をくすぐると、余計に涙が溢れそうになる。
「だからお願い巴、私のこと、嫌って…私のこと、嫌いになってよ…突き放してよ!」
巴は私をどかすわけでも、抱き締めるでもなく、私に抱き寄せられている。
彼女の肩から顔を上げると、巴は泣いていた。
それも、せっかくのかわいい顔をくしゃくしゃにして、嗚咽を漏らしながら。
「何で…何で、そういうこと言うの…」
「え?」
「私は…私は…雪乃が大事だよ…。そりゃ、紫藤先生へみたいな好きじゃないけど、これも、立派な好きのひとつだよ…!」
巴はぼろぼろと魚の鱗が剥がされるように涙を流し、言った。
煌めく涙に見惚れていると、巴が私の両手をほどいた。
あ、と思う間もなく、巴は私の頭に手をやった。
巴の掌が、ぽんぽんと二回私の頭を押さえると、撫でられたのだということが今更ながらわかった。
巴は涙をまだ瞳に溜めながら言う。
「私、雪乃のこと好きになる!友だちとしてじゃなくて、好きな人として好きになるよ!」
「…はあ?」
突拍子も無い発言に、私は驚愕する。
巴は涙を指ですくって、それから、ふふっと笑う。
「だって…私は紫藤先生のこと好きだけど、でも…雪乃にあんなことして…幻滅しちゃったよ…」
「っ…!み、見てたの…」
「うん。物陰で見てたの。そしたら先生が、雪乃を…!学校に来たはいいものの、先生と顔を合わせるのが気まずくて、保健室に来たってわけ」
「あ…あ、そう…」
巴はあの場を去っていったけれど、私が紫藤に襲われかけていたのを見ていたのか。
私は羞恥心が湧いてくるのがわかった。
巴はあのときの先生の顔、見せたかったなーと笑う。
紫藤を好きな巴が言うのだから、相当面白い顔をしていたに違いない。
私は唇から少し笑みが溢れた。
「確かに私、紫藤先生に好きにしていいって言ったけど、それは告白していいですよって意味で…紫藤先生、あんなひどい人だと思わなかった…」
泣き止みかけていた巴が、再び肩を震わせる。
私は俯いて涙を流す巴を見つめ、彼女の髪の毛を梳いた。
絹のような、さらさらの髪。私とは大違いだ。
「雪乃?」
「で?私を好きになるって、どうやって?」
「え?あ、そりゃー…あれよ、雪乃にかっこいいことやってもらうとか…」
「かっこいいこと、ねぇ…」
簡単に言いやがる。あと、絶対ちゃんと考えてない。
私はため息をついて、巴の両手を取った。
目をぱちくりさせている巴の表情は、とても愛らしい。
私は巴の両手をぎゅっと握り締めると、身体を彼女のほうに近づけた。
巴はあとずさるが、所詮はベッドの上、逃げ場などない。
私はそのまま顔を近づけて、耳元で囁いた。
「愛してるよ、巴」
巴がびくりと肩を跳ねさせた。
私は面白くなって、そのまま彼女の耳に舌を這わす。
やっていることが紫藤と一緒だな、と自嘲しながら。
「ちょ、や…雪乃…!」
「何?やめてほしい?」
「っや、それ、は…」
私は右手を巴の腰に回し、首筋にキスマークを施した。
制服の襟で隠れるから、大丈夫だろう。
私は首筋から唇を離すと、今度は巴の瞳を見つめた。
巴は私から目を逸らし、顔を赤くして震えている。
まるで林檎のような頬に左手を添えて、私はそのまま巴に口づけた。
想像どおり、柔らかい唇だった。
巴の唇に舌を這わせ、そこをこじ開ける。
彼女の舌に私の舌を絡ませたとき、巴が私の肩を掴み、ガクガクと揺らしてきた。
たぶん、息苦しいのだろう。私はおかしくなって唇を離した。
「っ、はあ、はあ、はあ…ゲホッ…はあ、あんた、なんでそんな…平気なわけ…」
「鼻で息すればいいでしょ」
「んな余裕ないっての!」
巴は顔を朱色の絵の具のように真っ赤にしながら、私を指差して言った。
私でも、巴の余裕を打ち崩すことができるのか。
わたしは、フとほくそ笑んだ。
「じゃあ私、巴を振り向かせるから」
「はあ…はあ…え?」
「あのさ、いつまでぜーハー言ってんの?」
「んな、うるさい!だ、誰のせいだと、思って…!」
巴は両頬を手で押さえて、熱を取ろうとしている。
しかし、巴は耳はもちろん首までもが真っ赤だった。
もちろん、そうさせたのは私なのだけれど。
「だから私、巴を絶対に振り向かせてみせるから。だから覚悟してて」
「は?はあ!?」
「それじゃ、仮病の佐瀬さんは休んでてくださいな。…じゃ」
私はベッドから腰を上げると、カーテンを閉めて言った。
後ろで巴が困惑する気配が感じられたが、私は振り向かなかった。
そのまま保健室をあとにする。
すると、
「ぬああああああああ雪乃のばかーーーーーーーーー!!!」
という巴の雄叫びのようなものが聞こえた。
ということは、少しはさっきの私の攻撃も効いているのだろうか。
私は唇に人差し指をあて、舌なめずりした。
巴の、唇を奪ったのは私なのだ。
私は重たい荷物を下ろし、羽が生えたかのように、そのまま教室へと駆け出した。