Act.11 源流と最初の一滴
龍宮の前には相変わらず、泥水が浮いている。
『まあ、根性や努力でどうなるものでもないしな。とりあえず無理をしない範囲でトライ&エラー、そしてインターバル。無理なら明日の自分に丸投げだ』
「椎名さんってさ、『頑張れ』って言葉を意識的に避けてるよな」
何気なく龍宮は口にした。椎名は少し無言になってから『まあ、嫌いだからな』と答えた。
『「頑張れ」と言う言葉は嫌いだ。その言葉を投げかけられるときにはたいていの奴は頑張っているよ。正直、人を追い詰める言葉だと俺は思う。それに代わる言葉を探すくらいの語彙はあるつもりだから』
ケイが椎名は『変なこだわりを持って生きている』と言っていたことを思い出した。
『それに「頑張れ」って時々、命令形に聞こえるだろ』
「俺はまだ無理だなんて、言ってないっスよ」
『俺も君がもう無理だなんて思ってはいないよ。むしろタフな子だと思っている』
「だけど椎名さん、終電まで原稿待ちすることもあるって言ってたけど、俺をそこまで暇潰しに引き留めたことは一度もないよな」
『原稿の入りがここのところスムーズだからな』
椎名さん、と龍宮は語気を強めた。椎名がたぶん嘘を吐いているであろうことを怒っているわけではない。それが彼の気遣いだとわかっている。ただ龍宮は表明したかった。
「俺はまだあんたの暇潰しに付き合える」
『難しいところだよな。その精神で、気付かず無茶されるのも不本意なのだよ俺は。だけど先伸ばしも歯痒いのは当然、か』
独り言のように椎名が呟く。
『この件に関しては確かに俺が悪かった。俺がまだ他人事だった』
椎名は電話越しに謝った。龍宮はそんな気はなかった。けれど、この人はきっと電話の向こうで頭を下げていると龍宮は思った。
『気が向かないが、そういうことなら致し方あるまい。本当は本人が気付くのが一番良いのだが、水について少し問おうか』
泥水をため池に戻す。ペットボトルを傍らにおき、廃材の一つに腰を下ろした。
『質問は変わらない。君の周りに「水」はどう存在したか、どういう存在だったか』
「かと言って特別何かがあるわけじゃなく、つまらない解答しか俺からは出ないッすよ。水のイメージにしても川だと、霧だとか一般的なものばっかりだし」
水は日常にありふれている。人目に付くようなものが、能力の構築に関わっているとは龍宮には思えなかった。
すると椎名が、『俺の友達に小説家志望の者がいる』とおもむろに言った。
『そいつはイカれた奴で、現状、本当に人間より小説のことを愛している。専門家にも精神構造が人間と異なると認められている狂人だ。小説を書くために人間と付き合っているといっても過言じゃない。そいつはよく人間のことを「知識が詰まった肉袋」と呼んでいたよ』
「椎名さんてそういう奴を嫌うもんだと思ってました」
軽蔑ではなく、意外だと龍宮は思った。
『幻滅したか? しかしそれは君がまだ俺のことをよく知らず、イメージにズレがあるからに他ならない。無理もないがな。俺は人間としては下等だよ。決して品行方正な人種ではない。清廉や高潔さからはかけ離れた生き物だ。なんなら俺は殺人鬼の言葉にだって肯定を示すこともある』
話を戻そう、と椎名は続ける。
『そいつに言わせると、つまらない人間というのは存在しないらしい』
ペットボトルから龍宮は水を口に含んだ。椎名の姿を見たことはない。けれど彼と話し込んでいると、龍宮は時々、目の前で講義している誰かの後ろ姿を想像することがある。熱っぽく身振り素振りを交え、学生を省みない架空の教師を思い描く。龍宮はその独りよがりな講義が嫌いではない。
『いるとすれば「自分をつまらない人間だと思い込んでいる人間」だと』
椎名にしても、今話題に出ている小説狂いにしても、とうの昔に枠組みから外れてしまった人間なんだ。龍宮は腑に落ちる。だから彼らは誰よりも強く、そして立場が弱いのではなく、そもそも居場所が無いんだ。階級制度に当てはめられない例外たち。だから傷や痛みを恐れず、刃向かえる。
『人間は皆、自分が普通の基準で、他人は例外なく変な奴なのだ。客観的に自分が変かもと思っていても本気で修正できることは少ないだろ。同じ人生を送っている人間が一人たりともいない以上、話を突き詰めて聞くと、被っている面が多々あるにしても、必ずどこか「ズレる」ものだ』
ケイが真似してはいけないと言った真意は聞けなかったが、多分、大きく間違っていないだろうと龍宮は思う。この人たちは己の破滅より、恐いことが別にある生物なんだ、と。
『 人間は故に「面白い」らしい』
きっと彼らには正義も悪もなく、かと言って中立者でもない。個しか存在していないのだ。
龍宮は先程より少し多めに水を仰いだ。
『長くなったが本題だ。水で印象に残ったことはあるか。それをとっかかりにする。君が言った通り、水に関することなんて万人大差ない。だが、俺の友人の言も一理ある。深堀していこう。情景だって構わない。思い付くままにまずは羅列してほしい。何が源流かなんて誰にもわからない。手探りで最初の一滴を辿るんだ』
「川」
『続けて。変わってることを言おうとなんてしなくて良い。俺からすれば、もう面白い』
「霧とか」
椎名なら、どんなものを挙げても笑わないという確信があった。だから目を閉じて何も考えず列挙した。
目の前に見い出せる「水溜まり、赤錆のたまったため池、泥」。
ありふれた日常の「シャワー、水道、台所」。
祖父の家で見た「雪」。
冷たかった「井戸、夏、汗、木刀、風呂」。
そこから溢れ出た水を目で追った「排水溝」。
そう言えばここ最近、暑かった。「汗、アイスコーヒー、氷」。
廻栖野がいてくれて良かった。「マジキッチ」。
そしたら、「大丈夫だって、水が」。
背中で感じたんだ「水しぶき」を。
無心になって思いつくままに「霜、氷、雪、川、海、雲、雨」
全部、巡ってる、水に「涙」も「川」も繋がってる。
川で眺めてたな、「ビニール袋」
何かを思い出したんだ、「白」いもの。何だっけ、「流れるもの」。
そうだ、「水だけが知ってる」。
ここに繋がってる。「水は巡る、じいちゃんが言ってたな、紙を流したんだ川に」。
「悪いものは流してしまえって」。
祖父の「冷気、氷挿拳」。
『人形流しか』
不意に椎名の言葉が遮った。聞きなれない言葉に龍宮は我に返る。
「なんスか、それ」
『人を象った紙を川に流したんだろ』
「ああ、そうだった。子供のときにじいちゃんに促されて、何も説明してもらえなかったけど」
『ひな祭りに飾る人形も元々は川に流したんだよ。人形に災いを移して川に流す、厄払いの一種だな。「水に流す」というだろ。人間は面白いんだよ。人命も文明も関係なく押し流す洪水を知っていながら、その中に災いを流すという機能性を見出だしたんだ。水は拒まず受け入れるから。時に都合よく、時に無慈悲に』
「じいちゃんが川には度量があるって言ってたな。悪いものは川に流してしまえって」
『水は循環そのものでもある』
「『水は巡る』って。『そのサイクルの中に流して、解かし、浄化する』。俺さ、そのあとからだよ、能力が使えるようになったのは」
椎名は『今一度、水を集めてみろ。上手くいったら性質と方向性を検討しよう』と促した。
龍宮の気分は高揚していた。
「それは水だけが知っている」
『悠河君は大丈夫だ。怯えていても、こんなに人の目を真っ直ぐ見られる子はそうはいない』
アルターポーテンス、起動。




