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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。

ホラー短編集

愛のカタチ

作者: 藍上央理
掲載日:2014/08/09

 結婚して10年。夫婦になれば、子供の一人や二人いて当たり前。それが世間の常識であるかのように姑に言われたとき、Lはなぜそれを女である自分にだけ言うのだと、内心納得できない気持ちで聞いていた。

 主人との性交渉は週に一度と頻度は以前よりも落ちた。夫婦関係に今まで不満を感じたことはなかったが、主人の兄弟に子供が生まれ、そしてL自身の兄弟親戚にも子供が生まれるのを祝うたびに、言葉にできない重圧を感じるようになった。

 やはり何らかの問題があるのだろうか。Lは心もとない気持ちを抱え、主人に相談した。当然のように病院で見てもらえばというアドバイスを他人事のようにLに授けてくれた。

 病院側からは主人と一緒に来院して精子検査をということだったが、主人は頑としてそれを拒んだ。根拠のない自信を主人はLに振りかざしたが、最終的には「今度の土曜日に行く」と主人から折れて、Lに許しを請うのだった。

 しかし、Lが不妊症とわかってわずか3ヶ月後には主人は子犬を家に連れてきた。Lにとってそれが主人の"子供を作る"事に関する答えのように受け止められた。

 不妊症と判断されるまで1年。宣告されて半年。貯金と気力、そして夫婦の愛情ををつなぎとめる何かをLはこの1年半で使い切った。



午前8時。2LDKの玄関へ続く、フローリングの床の上をカツカツと爪音を立て、白い小型のマルチーズが走って行く。滑りやすい床を犬が走って来る様子を見て、主人は満面の笑みで迎えた。

 「ヨシヨシ」軽い犬はひょいと主人の両手に持ち上げられ、関節のないぬいぐるみのように、下半身をだらしなく揺らしている。主人は愛くるしく両手にやっとおさまるほどの小さな生き物に夢中なのである。

 庇護欲がかきたてられると主人はLに漏らした。そういう主人にLは曖昧な笑みを漏らす。

 主人の笑みの奥には、妻であるLにしか理解できない想いが籠もっている。犬と一緒に、Lは主人を見送るために玄関口に立った。

 「ヨォシヨシヨシ、カム、チュッしよう、おでかけのチュッ」主人は犬の鼻に唇を軽く当て、ハデな音を立てた。

 主人はLにも手を伸ばし、同じようなハグを求めたが、Lは身をよじって抵抗した。主人は行き場のない片手をもてあました様子で微笑むと、

 「じゃ、カムをよろしくナ」

と言って出て行った。

 子犬を飼ったその日から、主人は毎日単調に繰り返される朝の儀式を楽しんでいる。

 「ご主人も一緒に検査しないと不妊治療は難しいでしょう」と、Lが医者に宣告されてしまってから、半年経った。

 果たして主人に、犬を飼う以外のこと、例えば離婚するか、病院へ行くか、極端な話、他人の子を自分の子にするかという方法が実行できただろうか。Lはそのことを考えたくなかった。言及したくとも、主人はその話題をされるのをひどく嫌がった。主人がLと一緒に病院に行き、精子を採取する行為をなぜそれほどに嫌がるのかわからない。

 だが夫婦関係を拒否することはなく、半ば定期的な儀式となりつつある、週一の義務を果たしてくれる。本当なら、排卵誘発剤の効いている期間、毎日毎時間でも抱き合っていたいのに。主人はそういった愛情が欠如した関係は嫌だと拒否された。

 Lにはもう愛情とセックス、子供と夫婦関係。瓦解した関係や行為、感情の上でひたすら自分を取り繕うことで精一杯だった。

 宣告されてから主人の態度に耐え切れなくなって、Lは浮気をした。だから、おおっぴらに主人を責めることができなかった。愛情のない性交渉がもたらした悲劇は妊娠だった。おなかの子供の父親は明らかに主人ではないとわかると、Lは逡巡の結果、堕胎した。それが婚姻を交わした妻の正しい選択だと思いたかった。

 Lの頭の中で血みどろの力ない鼓動にあわせて泣き声をあげている胎児の姿がフラッシュバックする。けれど、浮気して得た許されない子供の姿から目を背け、決して考えないようにするだけで精一杯だった。



 足元でスリッパにオイタをしようとしている犬から、Lは優しくスリッパを取り上げた。遊んでもらえると勘違いした犬が、キャフキャフ鳴きながら、Lの後ろをついて来る。

 午前8時半。Lは食卓の前に立ち、今からしなければならないことを整理した。計画を立ててから行動するのは、とても合理的だ。主人と一緒になって、合理的には処理できないことがたくさんあることを知ったけれど、この狭く密度の高い2LDKは、少なくともLの中では合理的な場所であるはずだった。

 特にぼんやりすると心をかき乱す事柄を忘れるためには、合理的に機械的に体を動かすことが一番に思えた。

 犬を飼うまでは……



 不妊症と宣告された時、主人は優し接してくれた。とろけるような優しい瞳でLを見つめて、「お前が悪いんじゃないよ」と何度も慰めてくれた。

 子供はいなくても夫婦の愛情が変わるわけじゃないとか、今は子供のいない夫婦も多いとか、子供だけが家族をつなぎとめる鎹じゃないとか、主人はそんなことをとうとうと述べた。

 そして、舅姑には主人から説明すると言ってくれた。けれど、Lにはわかっていた。主人はLより先に疲れてしまったのだ。愛情のこもらない、義務と世間体だけでつながっている夫婦間に犬を持ち込んだ主人を、良心に呵責を感じているLは微笑んで許容したのだ。それは間違っていたのだろうか。

 生活が変わる? たいして、何も変わらない。Lはそれを受け入れたけれど、それでも部屋の中は前より乱雑になってしまった。水色と黄色のストライプのソファカバーは、犬が潜り込むために乱れ、フローリングの床は犬の爪痕が残り、すぐに粗相をしてしまうために、合理的で快適だったはずの2LDKが、Lにとって今ではただの汚い臭い部屋になっていた。

 それを主人に愚痴ると、笑いながら犬を抱き上げ、「子供だっておんなじもんだよ、見ただろ、甥っ子たちの暴れっぷり! カムなんかかわいいほうだと思うよ」と目に入れても痛くないかわいがりようだ。



 足元で犬がキャフキャフ鳴く。気が付くともう午前10時を回っていた。Lはキッチンのシンクをピカピカに磨き上げている最中だった。

 「なぁに? おなかが空いたの?」

 主人は犬が大好きで、今までに何匹も飼ったことがあったらしい。Lはお祭りの金魚を飼った経験すらない人間だった。犬は嫌いではなかった。ぬいぐるみのように真っ白でフワフワしたこの犬のことを可愛いと思っている。

 犬は犬。と思うのだが、主人はこの子は違う。俺の子供と同じだ。と豪語する。

 主人にとってこの犬は実の子供と同じ。

 Lにとっては?

 食器乾燥機から食器を取り出し棚に片付けている間、10分程犬から目を離した。

  ガシャーン カラン ゴトッ

 Lはハッとして振り返った。何かが倒れた音。柵が倒れた? 犬が悲鳴を上げている。あれが倒した……? 急いで駆けつけてみると、主人が日曜大工のやりかけで放って置いた背の低い木製のスリッパ掛けと蓋の開いた赤いペンキ缶がフローリングの床に転がっていた。赤ペンキが敷いていた新聞紙からフローリングの床へと流れていく。Lは総毛立ったまま、凍りついていた。

 キャフ、という鳴き声に我に返り、見ると真っ赤な犬が尻尾を垂らして、Lを見上げていた。Lはしばらく犬と床を見つめたまま黙っていた。頭の中ではグルグルと、今からしなければならないことを築き上げていた。急いで物置へ向かい、厚手のデニムの白いエプロンを掛けた。そして、ベタベタする赤い新聞紙をつまみ、そのまま赤い柵を掴んでバスルームへ持って行った。透明のゴミ袋に赤い新聞紙を詰めながら、Lは無感覚に「バラバラ殺人、したみたいね」と呟いた。

 ガビガビになった赤い犬が他にまで影響を及ぼさないように、軍手をはめた手で捕まえた。もがく犬。

 「ヨォシヨシ、すぐ気持ち良くなるからね」と、バスルームに引き戻り、洗面台の明かりを点けた。

 バスルームに犬と入り、いやがるカムに石鹸をつけてこすったけれど、赤いペンキは取れなかった。

 Lは赤い犬をじっと見つめ、主人のことを考えた。

 ラバーの毛串を手にすると、赤いペンキがついている毛並みをごしごしと強くくしけずった。

 犬が鳴いているが、気にしている場合ではない。風呂場の床に赤い毛が少しずつ抜けて排水溝にたまっていく。ペンキではない赤い染料も出しっぱなしのお湯に流されていく。

 ようやく赤い部分がなくなったと犬を見やると、肌色に赤むけた赤ん坊のようなか細い犬が手の中にいた。きれいになった。こうしてみるとこの犬は人間の赤ん坊のように無力で力弱い存在に見える。

 怯えた目でLを眺める犬の体がふるふると小刻みに震えている。犬は何か問いたげにLをながめているように感じられる。

 Lは初めて犬をかわいいと思えた。



 そうか、主人には最初からカムはこんな風に映っていたのだ。やっと腑に落ちた。

 Lと主人の子供。小さなか弱い存在。本当だったらLが産むはずだった赤ん坊。毎月の生理、ぐちゃぐちゃに叩き潰した残骸とは違う運命にあるLの子供。許された存在。受け入れられた存在。

 Lはカムを抱き上げあやしながら、台所へと向かった。



 リビングの時計を見る。12時になっていた。食事の用意をしていない。けれどLは焦らない。主人がお昼を食べに帰って来ることは、あまりない。だから弁当も作らないのだ。営業で外回りする主人には昼食に弁当はめんどくさいものらしい。

 胸に抱きしめた赤ちゃんは、帰りたいと不安げに泣いている。

 母親の体から産みなおされたいと泣いている。大丈夫。Lは赤ちゃんの耳元でささやく。

 ダイニングに立ち、食器乾燥機から清潔な包丁を取り出した。

 これで何もかも修復される。

 Lと主人の関係も。一度粉々になった赤ちゃんも。そしてLの心も。



 時計は午後1時半。

 「ただいま、おーい、L、カム?」

 Lはやけに眠たいまぶたをこじ開けて時計を見やる。主人が珍しく帰ってきた。

 「なんだ、出迎えはないのか? パパが帰ってきまちたよ〜」

 Lは微笑む。赤ちゃんのことを知らせよう。きっと主人も喜ぶはず。

 「L、ごめんな? 実は今日は会社休んで泌尿器科で精子検査したんだ。……子供出来ないの、おまえのせいじゃなかったよ」

 大丈夫。赤ちゃんはちゃんと産みなおすから……Lはダイニングの血だまりの広がる床に横たわって、膨れたおなかを大事そうに抱え、遠のく意識の中、微笑んだ。



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[良い点]  失われて行く愛情と得られる愛情は、まさに裏表一体・紙一重で、それを「小さな愛おしい存在」にオーバーラップさせて行く、サイコサスペンスの情景&心理描写がお見事です。  怖いけどページをめく…
2015/11/22 05:01 退会済み
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