訓練初日
「お、おはようございます!!」
「おはよう、ミーア」
ミーアが宿泊施設の大部屋に顔を出した時、すでにそこにはセレスの姿があった。テーブルに皿とカップを並べている。
「あわわ……おししょーさま、ごめんなさい!!」
「うん? 何が?」
まだ時刻は昨日セレスが告げたそれよりも早い。なぜ謝るのかと首を傾げたセレスにミーアは駆け寄り、起きたばかりのしょぼつく瞳で見上げた。
「だ、だって、おししょーさまに朝の仕度をさせるなんて……弟子失格です!!」
「なんだ、そんなことか。別に気にする必要はないさ。いつもは一人でやっていることをただ君の分も含めてやってるだけだから」
「そ、それはそうですけど……うう」
「それにまだミーアはお皿がある場所も分からないだろ? 慣れてきたら交代制にするかもしれないし、あまり気にしないように。とりあえず外の川で顔を洗っておいで」
「あうう……はいぃ……」
やはり気にしているのか、ミーアはうな垂れながら裏口に向かって歩きだす。
最寄の街、アルサンデには水道が完備されているが、さすがに街の外のこの場所にまでは水路は繋がっていない。とはいえ目と鼻の先に水の澄んだ川があり、セレスはここでの生活に不便を感じたことはなかった。小さい頃は師匠の言いつけでやらされる水汲みが大変だったが、背も伸び筋肉もついた今となってはそれも苦ではない。
感傷にひたっていたセレスの耳に、裏のドアが再び開閉される音が聞こえた。止まっていた食事の準備を再開するため、手足を動かす。とはいえ、昨日セレスがミーアに伝えた通り、食卓に並ぶのはシンプルなものだった。
「ただ今もどりました。おししょーさま」
「おかえり、ミーア。それじゃあ食事にしようか」
セレスは席に着き、ミーアもお皿が準備されている己の師の正面に回って座った。目の前には小さなパンケーキとドライフルーツ。ミーアの好きなものである。もちろんセレスはそのことを知らなかったが、寝ぼけ眼だった少女の瞳が輝きだしたのを見て優しく微笑んだ。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「こうですか? おししょーさま」
「うん、そんな感じで」
軽い朝食を終えた二人は動きやすい服に着替えて野外の人となり、体の柔軟体操を行っていた。中には二人一組で行うものもあるので、時々ミーアは師の体と触れ合うことがあるのだが、その度に少女は頬を朱色に染めていた。
そんなミーアの気持ちを知ってか知らずか、セレスはミーアの体が温まってきたのを見てとると、次にやるべきことの為に立ち上がり、ミーアに手を貸す。
「よし、じゃあそろそろ走ろうか」
「は、はいっ!」
ミーアはその手を取って立ち上がる。セレスの掌は魔法使いという割りには小さな擦り傷やたこの痕がいっぱいあり、少女は不思議そうに彼の手と自分のそれとを見比べた。
「といってもしばらくはゆっくりとしか走らないから、そんなにきつくはないと思うけど。今日はコースを覚えるつもりでね。僕が走る後をついておいで」
「わ、分かりましたっ!」
少なくとも気合だけは十分らしいミーア。
セレスはその返事に微笑を浮かべ、やがて小さく駆け出した。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
全身にかいた汗が吹き渡る風によって冷やされる。それがぐったりとしている少女にはとても心地良かった。
駆け出してから長いようで短い時間。ようやく出発地点に戻ってこれたミーアは地面に尻をついて、ただひたすらに空気をむさぼっていた。
「はあ……ふう……」
「しばらくはこんな感じで毎日走る。ミーアが慣れてきたら、少しずつ戦うための体の動かし方や武器の扱い方も教えるよ」
「ひゃ……ひゃい……」
へたり込んで息も絶え絶えのミーアを見下ろし、セレスは少女にとっての絶望的なことを宣告する。ミーアは顔を下に向けたまま、力の篭ってない返事をするのが精一杯だった。
「あはは、ミーアは本当に運動が苦手なんだね」
「うう、ごめんなさい……」
「大丈夫、偉そうなことを言ってるけど、僕も最初はそんな感じだったから」
息ひとつ乱れていない己の師を見上げ、本当に自分もいつかこんな風になれるのかとミーアは半信半疑だ。
とはいえセレスが宣言していた通り、二人とも大した速度で走っていたわけではない。今ミーアが息を切らしているのはセレスの指摘の通り、運動不足以外の何物でもないだろう。
「ずっと続けていれば、少しづつ体は慣れてくるもんさ。ま、ぼちぼちいこう」
そう、最初は今のミーアのようにちょっと走っただけで体が音を上げていたセレスも、最終的には徒手空拳で谷底からクライミング出来るくらいにまで鍛えられたのだ。もっとも数日分の食料を持たされ、じゃあ登って来なさい、と言われた時は今のミーアよりも絶望的な瞳で自分の師匠を見上げたものだった。ちなみに今となっても、あの試練は本当に必要だったのかという疑問に対して答えは出ていない。セレスも、今まで面倒を見てきた弟子達にそれを課したことは未だなかった。
その試練の存在を今、この子に伝えるのはさすがにまずかろうと思ったセレスは、ミーアの息が平常通りに戻るのを待つため、何も言わずに空を見上げた。
今日も昨日のように、雲と空との織り成すコントラストが綺麗だ。セレスはことある毎にいつも空を見る。風や雲は人間にいろいろなことを教えてくれるからだ。とはいえ、セレスが天を見上げるのは、自然が描く芸術をその目に焼き付けたいという己の趣味が第一の理由だったが。
――今日も雨の気配は無し……か。
やがて、草が擦れる音が聞こえ、セレスは顔を下ろす。息が整ったのか、ミーアがセレスを見据えて立っていた。
「それじゃ、今日は戻ろうか。最初から体を酷使すると次の日がつらいからね」
もちろんそれはセレス自身の経験則だ。ミーアもこくりと頷く。セレスは先に立って歩きだし、とりあえずミーアを休ませようと宿泊用の建物へと足を向けた。
ノブにセレスが手をかけ……ようとしたところでいきなり眼前の扉が勢い良く開かれた。セレスは驚きに目を見開いたものの、彼が取れた反応はそれが精一杯のことだった。
「ぐあっ!?」
突然襲い掛かってきた扉の角に頭を打ちつけ、セレスはもんどりうって倒れた。無様に尻餅をついているセレスの側を駆け抜ける影が一つ。そのシルエットは未だ呆然としているミーアに走り寄り、抱きついた。
「ミーア、やっと会えた……」
「ル、ルナちゃん!?」
耳元で囁かれた言葉に対し、ミーアは驚きと共に彼女の名を呼んだ。ここにいないはずの人物との邂逅に目を白黒させるミーア。かつて魔法学校の寮で相部屋だった少女が、なぜか今この場にいる。
顔を押さえながらようやく立ち上がったセレスは訳も分からず、自分にドアを直撃させてくれた小さな姿に問いかけた。
「えーっと、君はどちら様? ミーアの知り合いのようだけど」
セレスの声にルナと呼ばれた人物が振り返る。そしてなぜかミーアを背後に庇い、やや大きめの瞳を鋭くしてセレスを見上げた。
自分がねめつけられている理由が分からず戸惑いながらも、セレスは目の前の人物を観察する。
ミーアと同い年なのか、背丈は彼女とほぼ同じ。出で立ちは黒を基調とし、ところどころに赤青緑の三つの色で装飾がほどこされた上着とスカート……リルドラ魔法学校の制服を身につけていた。頭髪は雲一つない空のような色あいで、肩の辺りで綺麗に切り揃えられている。おでこを隠す前髪の下にある両の瞳は琥珀色だ。
そしてその双眸でなぜかセレスを親の仇のようにしばらく睨み続け……やがてミーアの方に首を巡らせると小ぶりな唇を動かした。
「ミーア……学校に戻ろう……」
「ええ!?」
驚くミーア。空色髪の少女はセレスに視線を戻しながら言葉を続ける。
「この男は危険……私達をいやらしい目付きで見てる……救いようの無いクズ……」
「いやちょっと待て!! なんで初対面の相手にそんな言葉が出てくるんだ!?」
「私には分かる……私の直感がそう告げている……」
「それ要するに単なる思い込みだろ!?」
「そ、そうだよ。落ち着いてルナちゃん。それにあたしは帰らないよ」
「……ミーア?」
予想外の強い否定の言葉に、少女は全身を振り返らせ、その瞳をまじまじと見つめる。ミーアの目の中には彼女が秘める才能と同じ、熱い火の滾りがあった。
「あたし、ここでおししょーさまについて一人前になるって決めたもん。だからまだ戻らない。あの学校には」
「……」
ルナと呼ばれた少女はしばらくミーアの顔を呆然と見つめた後、悲しそうに顔を逸らし……やがて眉をしかめて露骨に舌打ちした。セレスに見えるように、ミーアからは見えないように。
――何この子、チンピラ!?
驚愕するセレスを気にする様子もなく、少女は小さく呟いた。
「計画変更……プラン氷へ……」
「なんだよそのプラン氷って!?」
セレスは声を大にして問い質したがミーアにはそのつぶやきは聞こえなかったらしく、きょとんとしている。そしてこのガラの悪い少女は腰に下げていたポーチの中に手を突っ込み、取り出した白い紙をセレスへと突きつけた。
「見て……紹介状……」
「しょ、紹介状?」
予想もしなかった展開に、セレスも、そしてミーアも目を点にして封をされたそれを見た。二人の視線はその封蝋がリルドラ魔法学校のものであることを捉える。
おずおずと受け取ったセレスはしばらくその印を見つめていたが、どうやら本物らしい。開いた中にはいつぞやのように書きなぐられた文字が並んでいた。今度はあの時とは違って適度な文字の大きさで長文だったが。
『すまん、面倒くさい奴がそっちに行った』
――おい!!
危うく声に出しそうになったのをすんでのところでこらえるセレス。
『まあでも冷静に考えてみると、そいつもいろいろと問題を抱えてるし、ちょうどいいか』
――いや何が!?
『お前ならおそらくすぐに分かると思う。ミーアともども面倒を見てやってくれ。ああ、金に関しては心配するな。ミーアの分と一緒にまとめて払い込んでおくから。いつも通りアルサンデで受け取ってくれ。それじゃ、あとはよろしく頼むわ――パサランより愛を込めて』
紹介状? にはそれだけが書かれており、あの日のように第二の文章が隅に記載されているということもなかった。どうやら、本当に文面はこれだけらしい。
今度あいつにあったら本気で攻撃魔法をぶつけてやろうか、などという物騒な考えを何とか振り払い、セレスは書面から視線を外してこちらを見上げる二人の少女に向き直る。
一人は何やら保護欲をくすぐるような不安げな瞳で見上げており、もう一人は対照的に敵愾心に溢れる瞳で睨んでいる。
セレスは二人に聞こえないように小さな溜め息を吐くと、こちらを敵視しているらしい少女を見据え、声を掛けた。
「一つだけ聞きたい。君の名は?」
「ルナルナ=エリスダート……親しい人はルナと呼ぶ……」
返事を受けて口を開きかけたセレスを遮るように、ルナルナは続けた。
「でも貴方はルナルナで結構……」
前途多難。
そんな言葉がセレスの心に浮かんだ。




