深淵なる森に響け、今こそ
「はあっ……はあっ……はあっ……」
師によって鍛えられた体にも限界はある。ぎりぎりまで酷使された五体が悲鳴を上げている。しかし、少女は足を止めることは出来なかった。背後から追いかけてくる、いくつもの足音がそれを許さなかったのだ。
押し寄せる者どもの顔はそれぞれが愉悦を浮かべている。もう時間の問題だということが彼らにも分かっているのだ。だから無理に追う足を速めたりはしない。そんなことをしたら、この楽しい遊びがすぐに終わってしまうではないか。
ミーアは手に抜きっぱなしのダガーを持ったまま、ただひたすらに駆けることしか出来なかった。先ほど自分を守ってくれたこの短剣も、さすがにあれだけの数が相手では脅しにもならない。
髪を振り乱し、ただただ逃げ続ける少女。だがしかし、いつまであの魔手から逃げおおせるというのだ?
ミーアの霞んでいく意識にかつて自分と一緒にあった人達の姿が次々と浮かんでは消えていく。優しい母親。ルナルナ、クナイといった友人たち。そして……。
――ごめんなさいおししょーさま……生き残るのが一番大事だっていう教えを守れそうにありません……。
ついにその目蓋から涙があふれはじめた。もはやそれを拭う気力もなく、ミーアは歪む視界の中をただただよろめきながら走るしかなかった。
「ミーア!!」
――えっ?
突然ミーアの耳朶を打ったその叫び。心の底で、ずっと、ずっと待っていた力強い声。ミーアは涙を拭い、声の主を求めた。
「ミーア、こっちだ!!」
連なる木々の向こうに、その姿が見えた。
ミーアの瞳とセレスの瞳が絡みあった時、ミーアは喜びに打ち震えた。
――後のことは気にするな。全力で走れ。後ろの奴らは僕が残らず始末する。
その声なき声に応えるように、ミーアは体に残されていたわずかな力を全てかき集め、ただひたすらに駆けた。己と己の師匠との間に隔たる、まどろみのように短く、悪夢のように長い距離を。
ミーアの速度が上がったのを見て、セレスは両手を頭上へと掲げ、チャージスペルの詠唱を開始した。
「遠き極海に浮かぶ氷塊よ、遥かな山頂に冠する万年雪よ、この場に集え」
ミーアを追い詰めている醜悪な魔物ども。奴らを殲滅する。多少は森に被害が出るかもしれない。でもそんなことは知ったことか。
「水晶のように美しき仮面を脱ぎ捨て、押し寄せる大河となって今こそ有象無象に牙を剥け……絶対の冷気を持って!!」
セレスが呪文を唱え終わると同時にミーアが彼の横を通り抜けて倒れこんだ。最後の言葉を解き放つと共に、セレスは地面に片膝をついて両手を勢い良く叩きつけた。
「《氷河雪崩》!!」
言葉と共にセレスから巨大な氷塊が大量に生まれ、それが迫り来る魔物の群れへと雪崩のように殺到する。ようやく、自分達の前に現れたのが恐るべき力を持った人間だということに気付いた彼らだったがもう手遅れだった。自分達の数倍はあろうかという巨大な氷に押しつぶされ、あるいはなぎ倒された。魔法に巻き込まれた木々は倒れ、大地は鳴動する。樹上で体と羽根を休めていた鳥達は悲鳴のような鳴き声を上げて逃げ去った。
もうもうとあがる土煙と凍えつくかのような冷気。それらの中で小さな無数の光がクナイの故郷でよく見られるという蛍合戦のように産まれ、やがて消えていった。
静まり返った森の中で二種類の荒い息遣いだけがあたりを支配している。全身全霊で氷の魔法を解き放ったセレスと、全力疾走後の呼吸困難にあえぐミーアのそれだった。
それもいつしか収まり、セレスはミーアの側へと近付いた。
呼吸が収まりはしたものの、ミーアはまだ立ち上がれず、目の前に立った己の師を何も言わずに見上げた。その表情は陰となってミーアには判別できない。
なんと言えばいいのだろうか。助けてくれてありがとう? いや、心配をかけてごめんなさい?
そんなことを考えるミーアの手をやや強引にセレスは引っ張り、ミーアは上半身だけ起きあがらされる。セレスは片膝をついてミーアの顔を覗きこむ。間近になった師の顔を見、先ほどの疑問の答えは後者だったと考えた。今まで見たこともなかったような激しい感情がその顔に表れていたのだ。
手を振り上げるセレス。ミーアは目を閉じた。しかし、いつまでたってもその手はミーアの頬を打つことはなかった。おそるおそる目蓋を開けるミーア。そんなミーアをセレスは優しく抱きしめた。
「本当は思いっきりぶつつもりだったんだ……だけど……」
とまどうミーアの耳にそっと囁かれる優しい言葉。
「でも君が無事なのを見て。そんな考えは吹きとんだ……」
やがてその声が少しずつ震え始めた。
「この森には入っちゃいけないって言ってたのに……無茶をして……っ!! ……何かあったらどうするつもりだったんだ!?」
「あ……」
おししょーさま、泣いてる……?
慟哭と共に囁かれる言葉。それをミーアはまだ夢見心地で聞いていた。
「でもよかった……本当に無事で……」
「おししょー……さま……」
ミーアの瞳から涙が零れ始めた。ミーアもおずおずと己の師匠に腕を回す。セレスも腕に込める力をさらに強くし、小さな少女をその涙が枯れるまで抱擁した。
暗い森から光溢れる草原へと歩み出てきた二人の男女。
女は男に背負われ、腕を首に回している。
女はまだまだ少女といっていい体形で、その肢体や衣服は泥や草で散々に汚れていたが、それを背負う少女よりも年嵩の男はそれを全く気にしていない。
自分を背負う少年に少女は語る。先ほどから少年は、疲れているのだから寝てしまいなさいと言い聞かせているのだが、その女の子は全く耳を貸さずに喋り続けている。
「あたし……ルナちゃんに守られてばっかりだったんです……だから、ルナちゃんの力になりたくて……」
とはいえ、少女は次第に夢の世界へと行きつつあるらしい、漏れてきた言葉は先ほど聞かされたものと同じだった。
背負う少年は何も言わずに歩を進める。
「ルナちゃんは……ほんとうはすごい子なんです……でもあたしを守るために……自分に嘘をついて……」
途切れ途切れに囁かれる少女の言葉に、少年の足が止まった。しかしそんな様子にも気付かず、少女は半分夢を見ているかのような口調で続ける。
「……ここに来てからはおししょーさまに……守られてばっかり……あたしも……いつか……」
そこまで言ったところでかくんと少女の首が落ちた。心地良い眠りの世界に行けたのだろう、口から小さな寝息が聞こえてくる。
少年は優しい笑みを浮かべると、少女が目を覚ましてしまわないようにゆっくりとした足取りで向かい始めた。自分と、少女を含めた大事な弟子達の住む場所へと。




