ミーアの戦い
あの日のように少女は駆けていた。背後からは化け物の足音が付いてくる。しかしあの時とは違ってミーアの息はそれほど乱れてはいなかった。セレスによって課せられていた毎日の修行が、少女の体をいつの間にか大いに鍛え上げていたのだ。
そのことに気付いたミーアの心中に余裕が生まれた。あの魔物を迎え撃つという発想が起きるだけの余裕が。
――そう。あたしはもう魔法が使えるんだ……。大丈夫、きっと上手くいく。
それにこれ以上この方向に逃げ続けたら、以前迷い込んだ時よりももっと深い森の奥地へと進んでしまうことになる。
かつて師であるセレスが言っていた。森の奥にはコボルドやゴブリンなど比較にもならないような恐ろしい魔物が潜んでいると。
ミーアはやがて立ち止まり、自分を追いかけてきているその魔物を振り返る。観念したらしき獲物にコボルドも立ち止まり、ゆっくりと近付き始めた。そんな相手に、ミーアは手をかざす。
予想もしていなかった少女の行動にコボルドは一瞬驚き、以前自分の同類が倒された、彼らコボルドには用いることが出来ない不思議な力を思い出して恐怖におののいた。
ミーアは詠唱を始め……ようとしたその時になってやっと、自分が何を操る魔法使いであったかということに気付いた。
――あ、あたし……炎の魔法しか使えないんだった!!
こんな深い森の中で《火炎弾》を撃ったらどうなる? 生み出された炎がこの森を焼き尽くす種火になることは明らかだった。
魔法は万能ではない……師の言葉がミーアの脳裏で繰り返される。
――ど、どうしよう……。
手をこちらに向けたまま固まった少女にコボルドは不審な表情を浮かべていたが、理由はともあれ少女が行動を起こせない何がしかの事情を悟ったのか、犬歯を見せつけながら棒きれを手に少しずつ歩を進める。
ミーアは構えを解いて後ずさりを始めた。もはやその顔は蒼白だ。
――いったいどうすればいいの? どうすれば? どうすれば?
これ以上後ろに逃げることは出来ない。しかし前に進めばこの犬頭の化け物がその手に持つ棍棒で容赦のない一撃を加えてくるだろう。ミーアは思考の渦へと落ちた。
そしてその目がコボルドの持つ武器を捉えた時、ミーアは己の師匠が魔法以外のことも色々と教えてくれたことを思い出す。決してリルドラ魔法学校では教わらなかった、魔法使いに相応しくない戦いの仕方。
ミーアの右手が己の腰をまさぐり、やがてそれに触れる。母親が授けてくれた、魔法の掛かった短剣に。
ミーアの五指が柄を握り、白刃をすばやく引き抜いた。予想外の行動に驚いたコボルドだったが、自分の目の前にいるのは小柄な少女に過ぎない。やがてその顔に余裕が戻ってきた。
ミーアはそんな魔物に負けるまいと小さな、しかし気迫の篭った声をあげ、ついに犬頭の化け物と対峙する。
「か、かかってきなさい!!」
コボルドが手に持つ棍棒を振るう。もし当たれば少女の体は軽く吹き飛ばされ、おそらく二度と起き上がることはできないであろう。ミーアは慎重に、しかし余裕をもってその攻撃を回避していた。
自分にこの武器の使い方を教えてくれた師であるセレス。そして学校にいた頃からずっと側にいてくれたルナルナ。そして最近になって新たなルームメイトとなった異国の少女クナイ。
ミーアはこの三人のいずれかとほぼ毎日武術の訓練を行っていた。体のサイズも、戦い方も、そして操る得物も全然違うその三者との戦いの練習が、いつの間にかミーアに下級の魔物には負けない実力を身につけさせていたのだ。
ミーアはその中でダガーを持って組み手をしてくれた少女との戦闘訓練を思い出す。ミーアはルナルナ以外との訓練では勝者となったことはない。そのルナルナもスタッフを持つ時はミーアに土をつけられたことはなかったが、ダガーを手にしたルナルナの動きに比べると、今目の前にいる魔物のそれはあまりに緩慢だった。
攻撃があたらないことに業を煮やしたのか、コボルドの腕の振りが大きくなる。その時、今まで回避に徹していたミーアがついに動いた。すばやく魔物の懐へと飛び込んだのだ。
――コボルドやゴブリンなんかの弱点は僕達と同じ……喉、もしくは心臓に眉間。君はまだ非力だ。狙うなら連中の骨格や粗末な鎧に守られていない喉だね。
「やあああああーーーーーーっ!!」
少女の叫びが静かな森に響き渡る。コボルドの背はミーアのそれより少し高い。頭上に構えられたダガーが勢い良く、犬の頭を支えている細い首筋へと突き立てられた。手ごたえを感じたのも束の間、ミーアは素早くその懐から飛び出した。師であるセレスが教えてくれた、攻撃をしかけ終わったらすぐに間合いを取れ、という言葉を守って。
地面を転がって受身を取りながらミーアは即座に相手の方を向き直る。その視線の先には、自分が何をされたのか未だに理解できていないようなぼんやりとした顔があり。
そして、その体躯がやがて傾ぎ、草が生い茂る土へと倒れ伏した。ミーアもまだ動かず、目をその姿から逸らせない。
命を失った魔物はやがて小さな光の粒子と共に消滅する。
あの時セレスが魔法と剣を使ってミーアの目の前で見せたその光景が、今この場で再現され始めた時、ようやくミーアは実感できた。
――あ、あたし……勝ったの? あのコボルドを一人でやっつけたの?
ミーアの疑問に答えるかのように、無数に生まれる光の粒が魔物の姿を覆っていき、それらが消失していくと同時に魔物の体も消え失せた。後にはなにも残らない。
「あ、あ、ああ……」
ミーアの口からかすれた声が漏れ始めた。
「す、凄い、あたし……やったんだ」
ミーアのその呟きに答えるかのように、草が何かに踏み潰されるような耳障りな音が背後から聞こえた。ミーアはびくりとなり、恐る恐る振り返る。
そこには……先ほど倒した奴と同じような格好をしたコボルドがいた。しかし、数は数え切れないほど。それぞれが手に手に粗末な棍棒やさび付いた刃物を持って、一人の少女を睥睨している。いや、よく見てみると犬頭の化け物だけではない、ミーアがまだ見たこともなかった数多の異形の者達が、彼女をじっと見つめていた。
「き、き……」
ミーアの唇からかすれるような声が漏れ始め。
「きゃあああああああーーーーーっ!!」
ついに溢れた悲鳴と共にミーアは駆け出し、そしてその後を無数の足音が追い掛け回し始めた。




